4月26日(日):湯札わけの日
とある世界では今日は『湯につかる気持ちよさを、温まることだけで終わらせず、入る前と上がったあとまで気持ちよく整える』日。アルメリアでは『湯札わけの日』として、湯へ入る前に使うものと、上がってから戻すものを同じ棚へ重ねず、春の湿りと花粉で手が迷う前に、湯のまわりの順を先に分ける日。
日曜の昼、フレイメル家は湯屋『白陶の湯』へ向かう支度をしていた。昨日の見上げ橋の余韻がまだ家の中に残っていて、フィオナは朝から小さな札を二枚切っている。『湯前札』と『上がり札』。湯前札の切り欠きは細く長く、上がり札は丸く浅い。昨日、上り札と降り札を分けた手つきが、そのまま指に残っていた。
「今日は湯屋の札か」とアストルが笑う。 「うん。昨日、橋の帰りに白陶の湯の棚を見たの。桶と上がり籠が同じ段で寄ってたから」 ルミナは手拭いを畳みながら頷いた。「日曜は家族連れが増えるものね。急いでないのに、急いだ手つきになる」 レオンは札の切り欠きを指でなぞった。「湯に入る前と、上がったあとって、手の向きがちがうんだよな。そこが一緒だと、次の人の手まで迷う」 「今日はその考えで合ってる」とフィオナは答えた。 クリスは丸い切り欠きの上がり札を見て言う。「こっち、おわり。ふく」 「そう」とルミナが笑う。「終わりの場所が見えると、入る前も落ち着くのよ」
白陶の湯は昼の光を受けて、名のとおり白い壁がやわらかく光っていた。戸口の脇の戸鈴は静かで、中からは湯気と乾いた木の匂いが流れてくる。湯気抜き窓のあたりで春の花粉が細く回り、脱衣棚の前には手拭いと籠がいくつも寄り合っていた。
問題は、湯へ入る前の桶札と、上がってから使う籠札が同じ棚段に重なっていることだった。脱衣棚の上段には空の洗い桶と乾いた手拭い、下段には上がった人が戻した籠と濡れた布があるはずなのに、花粉で札の端が少し貼りつき、ひとつの紐へ寄っていた。しかも待たせた籠が棚の前に置かれ、次の人が半歩ずつよけながら手を伸ばしている。
「すみません、これ、まだ使っていい籠でしたっけ」 先に来ていた近所の母親が、困った顔で言った。 「こっちは上がりのほうだと思ってたけど……」と白陶の湯の番台係も札を見比べている。 誰かが怒っているわけではない。ただ、湯前の手と上がりの手が同じ棚へ入るせいで、皆が一拍ずつ止まっていた。静かな詰まり方だった。
フィオナはまず、棚の前を見た。壊れたところはない。木棚は乾いている。けれど段の端には薄く花粉が積もり、待たせた籠のせいで、立つ場所と棚へ寄る場所の境が曖昧になっている。橋のときと同じだ、とフィオナは思った。困りごとはいつも、壊れる前に置き方から始まる。
「いったん、棚の前を空けましょう」 フィオナがそう言うと、ルミナがすぐクリスを引き寄せて、棚から半歩下がったところへ立たせた。アストルは床に置かれていた待ち籠を持ち上げ、棚の脇の平たい腰掛けへ移す。レオンは上の紐を見上げて言った。 「湯前札は、入る前に見えるとこじゃないとだめだよ。上がり札は、湯から戻る手の側」 「うん」とフィオナは頷く。「同じ紐だと、めくった手がそのまま次まで連れていくから」
まず、短い刷毛で棚段の端の花粉を払った。薄い黄色が取れると、段の線が見えやすくなる。次に、湯前に使う空の桶と乾いた手拭いを上段の左へ寄せる。上がってから使う籠と濡れ布を下段の右へ移す。待ち籠は棚の正面へ戻さず、脇の腰掛けへ。そこへ短く『ここで待つ』の札を一枚だけ置く。待つものに席があると、通る手が慌てない。
それから、同じ紐に掛かっていた二枚の札を外した。『湯前札』は脱衣棚の手前柱へ。服を脱ぐ前に見える高さへ掛ける。『上がり札』は湯から戻る側の棚柱へ。手拭いと籠を取るときに見える位置へ結ぶ。同じ段にも、同じ紐にも置かない。役が入れ替わらないようにするためだ。
「湯前札は手前」とフィオナが言う。 「上がり札は戻る側」とレオンが続ける。 「まつ かご、よこ」とクリスが小さく真似た。 白陶の湯の番台係が、ほっとしたみたいに笑う。「それなら、お客さんに説明しやすいです」 近所の母親も頷いた。「これで、まだ乾いてる籠と、上がったあとの籠が分かるわ」
ルミナは濡れ布だけをまとめ、乾いた布と混ざらないように小棚へ離した。魔法は使わない。今日は棚の順と手の順を戻すだけで足りる。フィオナは最後に、上段と下段の端へ小さな刻みを揃えた札を添えた。見るだけでなく、指でも分かるようにするためだ。
最初に湯へ入った家族が上がってきたとき、上がり札の側へ自然に手が伸びた。棚の前で立ち止まる時間が短くなる。次に入る人は、手前の湯前札を見て空の桶を取る。誰も急いでいないのに、流れだけがするりと細くなるのが不思議だった。
「これ、橋のときと同じだね」とレオンが言った。「行く前と、戻ったあとを分けると、真ん中が詰まらない」 フィオナは小さく笑う。「うん。湯屋でも同じみたい」 アストルは腰掛けの待ち籠を見て肩をすくめた。「湯ってのは気持ちいいのに、その前後は案外忙しいんだな」 ルミナがやわらかく答える。「気持ちいい時間を守るのは、その前後の順番よ」
帰り道、クリスは髪の先をまだ少し湿らせたまま、得意そうに言った。「みんな、まちがえない」 「うん。置く場所が見えたからね」とフィオナは答える。 レオンはしばらく考えてから言う。「湯屋って、湯に入るより前のほうが、実は札がいるんだな」 「上がったあともね」とルミナが笑う。
家に戻ると、フィオナは使った札を受け箱の横へ立てかけた。湯前札と上がり札。そのあいだに、小さな待ち札。窓の外では白陶の湯の湯気が、夕方の空へ細く上がっていた。明日は濡れた布を干す前の札と、乾いて畳んだあとの札も、きっと同じ竿へ掛けないほうがいい。
梁の上でスノーが、湯前札と上がり札、それから脇へ寄った待ち籠の札を見比べて、静かに嘴を鳴らした。 「いい湯ってのは湯船の中だけで出来るもんじゃねえ。入る前と上がったあとに居場所を作っときゃ、家の手も町の手も、ちゃんと温かいままで回るんだ」




