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1月4日(日):撫で石の日

 とある世界では今日は『石に触れて、言えない願いを手の温度で形にする』日。 アルメリアでは『撫で石の日』として、通り角の願い石(撫で石)にひとつだけ願いを預け、足元と心の滑りを防ぐ日。


 夕餉の湯気が引いたころ、台所の戸布の向こうから冷気が忍び込んできた。 ルミナが外套を一枚、椅子の背へ掛ける。「今夜のうちに、願い石を撫でに行こうか」


「昨日まで動けなかったもんな」 アストルが頷き、レオンはすぐ反応した。 「ぼく、願い決めてる。転ばない靴がほしい」 「靴は買うものよ」 ルミナが笑い、クリスは胸の前で小さく手を合わせた。 「わたし、ねがい。あったかいの」


 フィオナは皿を拭く手を止めた。棚の上、昨日のままの札が目に入る。裏返した一枚。 願いを預ける日なのに、家の中に伏せた言葉がある。


「短く歩けって言ってたしな」 アストルが梁を見上げる。 白い鷹スノーは片目だけ開けて、羽を揺らした。 「歩くなら、手が空くようにしろ。滑るのは足だけじゃない」


 ルミナが頷く。「じゃあ、持ち物を整えてから」


 玄関で、ルミナは棚の上に籠を置いた。 中身は布、短い刷毛、小さな木べら、それから乾いた手拭い。 「願い石、昨日の風で砂が乗ってるかもしれないから」


「撫でる前に掃除か。うちらしいな」 アストルが言って、フィオナの方を見る。 フィオナは視線を逸らさずに頷いた。「汚れたままだと、手が冷えるから」


 レオンは自分の手袋を確認し、クリスは靴を左右そろえて置いた。 グレゴールは戸口の灯りを覗き込み、淡い首振りをした。 「灯路石は今夜、凍りの膜が薄い。足を急がせるな」


 扉を開けると、外気が一息で顔を撫でた。 灯路の石畳は、夜の光を抱えているのに冷たい。 ルミナは子ども二人の手をそれぞれ握り、フィオナは籠を持つ。 アストルが後ろで戸を閉め、鍵の刻印を指で確かめた。


 通り角の「願い石」は、助け鈴の柱の根元に埋め込まれている。 町の人が撫でる場所だから、角が丸く、手の形だけ光沢があった。


「……白い」 フィオナが言う。 石の上に霜が薄く張り、触れると指先が吸い付くように見える。


「先に拭く」 ルミナが手拭いを取り出し、石の表面をゆっくりこする。 布に白い粉が移る。霜と、風が運んだ砂だ。


 レオンが刷毛を受け取り、周りの溝を撫でるように掃く。 「ぼく、ヒーローみたいに守る。石も守る」 「守るなら、力じゃない」 グレゴールが言う。「順番だ」


 フィオナは木べらで石の縁を軽くなぞり、固い砂粒を外へ寄せた。 その手つきは、ねじを並べるときと同じだ。


「よし、これなら撫でても痛くない」 アストルが言い、言ったあとで口をつぐんだ。


 フィオナは、その沈黙が自分に向けた配慮だと分かった。 昨日、目の話をした夜から、家族の言葉が少しだけ柔らかい。 柔らかいぶん、胸の奥の札が重く感じる。


 ルミナが言った。 「願いは、上手に言えなくてもいい。撫でる手が真面目なら、石は受け取る」


 フィオナは籠の持ち手を握り直した。 家族が気づいている。 それでも押さない。


「じゃ、いくよ」 ルミナが先に石へ手を置く。 指先が一瞬だけ震え、次に落ち着く。 「家族が、無事で。灯りが、優しく」


 レオンは片手で撫でた。 「ぼくが、転んでも笑えるくらい強くなる」 二文で止めて、自分で得意そうに頷く。


 クリスは両手でそっと触れた。 「わたし、ねつ。あったかいの」 言い終えて、ルミナの上着の裾を掴む。


 アストルは一歩だけ前へ出て、石の角を指で撫でてから、掌をそっと当てた。 「家の段取りが、ちゃんと回るように。……それと、うちの子が、ひとりで滑らないように」 言い終えると、わざと咳払いをして、視線を夜道へ逃がした。


 グレゴールは掌を置かず、指で石の縁だけ撫でた。 「見落としを減らす。年寄りの願いは、それで十分だ」


 最後に、フィオナの番が来た。 石は冷たい。 冷たいのに、撫でたところだけ少しだけ温度が残る。


 フィオナは、願いを口にしようとして、喉の奥で止まった。 代わりに、石の表面に残った小さな砂粒を、指先で一つ拾い上げる。 拾い上げて、手袋の甲で払い落とす。


「……私も、滑らないようにする」 それだけ言って、石を撫でた。 滑らない。 足ではなく、言葉が。


 ふと、通りの奥から焼きたての匂いが流れてきた。 冬の夜なのに、甘い小麦と熱の匂い。


「ひつじ雲、明日から本気だな」 アストルが鼻を鳴らす。 レオンが目を丸くした。「テオ兄の店?」


 角を曲がった先の窓に、灯りがひとつ。 仕込みの灯りは、昨日の卓上灯みたいに刺さらず、低く落ち着いている。 窓の内側で、テオが布をたたんでいた。


 フィオナは立ち止まりそうになって、足を整えた。 ルミナが小さく手を振る。 テオが気づいて、戸口まで出てきた。


「こんばんは。もう撫でてきた?」 「うん。今」 レオンが先に答える。


 テオは笑って、フィオナの籠を見た。 「刷毛、助かる。明日の朝、店の前の灯路も掃いておく」


 フィオナの胸が、少しだけ軽くなる。 「……私も、手伝う。短い時間だけ」 言ってしまった。


 アストルが咳払いをして、わざと別の方向を見る。 グレゴールは何も言わない。 ルミナは、何も言わない顔で、しっかり見ている。


 テオは頷いた。 「じゃあ、明日。無理はしないで」


「無理はしない」 フィオナは二度言わずに、頷きだけで済ませた。


 帰り道、灯路の光がさっきより柔らかい。角を二つ曲がったところで、石畳の一部だけ光がまだらに薄い区画があった。フィオナは足を止めずに、目だけでその場所を覚えた。 願い石の表面は、もう白くない。 手の温度が、少しだけ町に残っている。


 玄関に戻ると、フィオナは籠の中の布を畳み直し、刷毛を乾いた場所へ移した。 昨日から続いている“整える手つき”が、今日も最後まで抜けない。


 棚の上の札を、彼女は見ない。 見ないまま、手だけがポケットへ行く。 布の感触の奥に、裏返した一枚がある。


 スノーが梁の上で言った。 「石に預けたなら、次は家だ。伏せたままじゃ言葉が湿る。……表にする瞬間は、俺が見張ってやる」

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