1月3日(土):瞳守りの日/静火の三日間(3日目)
とある世界では今日は『光を追いかけてばかりの目を、いちど休ませる』日。 アルメリアでは『瞳守りの日/静火の三日間(3日目)』として、家の灯りの角を丸め、手元仕事を「見えるが痛くない」に寄せる日。
夕餉のあと、台所には鍋の余熱と湯気の名残が残っていた。冬の夜は冷える。けれどここだけは、家族の息が重なって、指が動く温度が保たれる。
ルミナは流しの前で、皿を拭きながら言った。 「静火の三日間の三日目。今日で、家の“目”を整えておきましょう」
アストルは布巾を畳み直しながら、わざと小声で返した。 「家の目、ね。うちの目は、だいたいルミナだ」 「私の目は二つしかないのよ」 ルミナは笑って、布巾の角を揃えた。
工房の卓は、今夜だけ台所へ引っ越しした。脚の位置を揃え、床に傷が付かないように敷布を入れる。フィオナが前、アストルが後ろ。二人の歩幅が自然に合う。
「昨日の札、乾いたかな」 アストルが棚をちらりと見た。 「触らないで」 フィオナが先に言い、言い方がきつかったのに気づいて、息を吐いた。 「……倒れると困るから。乾ききるまでは、風だけでいい」 「了解」 アストルは素直に手を引っ込めた。
台所の窓は、外の冷えで固く閉じたようだった。ガラスの向こう、灯路の淡い光が路地の奥で揺れている。昨日よりも少し落ち着いた色で、町全体が息を潜めているみたいだ。
梁の上では、スノーが片足で眠りの形を作りかけていた。片目だけ開けて、台所の動きを見下ろしている。
「今日は、これ。棚の奥で眠ってたやつ」 ルミナが取り出したのは、薄い琥珀色の板だった。灯りの枠に挟むための、瞳守り板。
レオンが顔を近づける。「きれい。あめみたい」 「舐めたら怒られるやつだよ」アストルが先に言い、ルミナに肘でつつかれた。 「言い方」 「いや、事実だろ」
クリスは板の端を指でなぞり、目をぱちぱちさせる。「これ、目、まもる?」 「守る。守るために、ちゃんと使う」 ルミナは板を高く掲げ、灯りに透かした。琥珀の中に、細い筋が一本だけ走っている。
グレゴールが椅子に腰を下ろし、眼鏡越しに見た。 「木の樹脂が固まった板だ。光を吸って、丸めて返す。つまり、眩しさの角を落とす」 「角……」 レオンが自分の肘を触り、納得した顔をする。
「作業灯が眩しくて、目が先に疲れるでしょ」 ルミナはそう言って、卓上灯の枠を外す。フィオナがねじを受け取り、小皿の上に順番に並べた。昨日の札書きで覚えた“整える手つき”が、そのまま出る。
「ねじは左から」 フィオナが言う。 「はいはい、整頓担当」 アストルが囁き、フィオナは返事をしなかった。返すと、声の温度が揺れそうだった。
板を挟み、枠を戻し、点ける。 灯りはやわらかくなるはずだった。
けれど、卓の上に落ちた光は、どこか粗く見えた。明るいのに、目の奥に痛みが走る。紙の白が、白すぎる。
「……これ、ちらつく」 フィオナが言う。自分の声が少し固いのが分かった。固い声は、家の中では目立つ。
クリスは両目を細めた。「みえない。まぶしい」 「ごめん、すぐ止める」ルミナが灯りを消す。
暗くなった瞬間、台所の音が戻ってきた。鍋の蓋の冷える音、布の擦れる気配、誰かの息。
グレゴールが板をつまみ、鼻先に寄せた。「冷えている。表面に膜が出たな」 「膜?」レオンが首をかしげる。 「薄い結露と、薄いマナの皮だ。冬は出る」
アストルは口を尖らせた。「瞳守り板なのに、目に悪いとか冗談きつい」 「冗談で済ませると、次も目がやられる」 グレゴールは淡々と返し、板の縁を指でなぞった。
フィオナは思い出す。玄関で止まった問答錠。札を書いた夜。家の中の合言葉。 「見え方を確かめてから直す」 口に出すと、アストルが少しだけ肩の力を抜いた。
「よし、やろう」 ルミナが布巾を二枚出し、乾いた方をフィオナへ渡す。「拭くね」
板の表面は一見つるつるだが、指先がわずかに滑る。湿気が冷えて、薄い白が乗っている。フィオナは乾いた布でそっと拭いた。布が滑るように走る。
アストルは灯りの首を持ち上げ、角度の目盛りを確かめた。 「昨日より、上向きだな。天井に跳ね返って、目に戻ってるかも」 「跳ね返りも眩しさになるのね」 ルミナは戸布の位置を確かめ、端をひとつ折って重ねた。布の重なりが、影を柔らかくする。
それでも、板を少し傾けると、光が目の方へ返ってくる感じが残る。
「まだ刺す」 フィオナが言うと、アストルが窓際を見た。「ここ、冷気が落ちてくる。板が冷えてると、また曇るぞ」
ルミナが頷き、卓を窓から半歩だけ離した。戸布を少しだけ重ね、灯りがガラスへ跳ね返らない角度に整える。 フィオナは板を両手で挟んで温度を馴染ませ、もう一度、乾いた布で丁寧に拭いた。
「手の温度って、ちゃんと道具に渡るのね」 ルミナが小さく言う。 「渡る。渡した分だけ落ち着く」 グレゴールが短く答えた。
「見え方、確認」 グレゴールが言う。 ルミナが一度だけ点ける。フィオナは手元の影を見て、すぐ消して首を振った。「まだ、少し」
「じゃあ、首」 アストルが灯りの首を指で示す。 ルミナが頷き、灯りの首をわずかに下げる。紙の白が“眩しい白”にならない位置で止める。
「この辺」 フィオナが言う。 「そこだな」 アストルが同じ小声で返し、ルミナが笑った。
ルミナが板の縁を布でぬぐい、最後に小さな乾かしを添えた。熱ではない。湿気だけを散らす程度の、控えめな魔法。
「向きも、確認しよう」 フィオナは板の角を見た。小さな刻印がある。誰かが目印に付けた、矢印みたいな傷。
「こっちが下」 彼女が言うと、グレゴールが頷いた。「光の逃げ道を下へ。目の方へ返すな」
「逃げ道、下」 レオンが小さく唱える。 クリスも真似して、口を尖らせた。「にげみち、した」
挟み直し、枠を締め、もう一度点ける。 今度は、卓の上の影がやさしくほどけた。紙の白が、まぶしさではなく静かな明るさになる。
クリスが顔を上げる。「みえる。いたくない」 「よし」ルミナが息を吐き、クリスの髪を撫でた。
レオンは嬉しそうに腕を伸ばす。「これで、ちいさいのも見える!」 「見えるからって、覗き込みすぎない」 フィオナが言い、口調がやわらかくなったのを自分で分かった。
作業を始める前に、ルミナは小さな皿をもう一つ出した。ねじ皿と、布巾皿。 「濡れた布と乾いた布、混ざるとまた曇るから」 「それは学んだ」 アストルが囁く。
棚の上に並んだ札が、瞳守り板の灯りに浮かんだ。昨日、裏返したままの一枚。
フィオナの胸が跳ねた。
「お姉ちゃん、目が泳いだ」 レオンが言う。声は軽いのに、指摘は当たってしまう。 「泳いでない。……灯りが、変わっただけ」 フィオナは札から目を外し、わざとねじの列を見た。列はまっすぐ。まっすぐなものを見ると、自分もまっすぐに戻れる。
ルミナは何も言わずに、棚の前へ行った。札を一枚ずつ指で押し、倒れないように整える。裏返しの札だけは、押さずにそのまま。
「乾いてる?」 ルミナが小さく聞く。 「……うん」 フィオナは短く答えた。言葉は足りないのに、家の中では通じてしまう。
グレゴールがぼそりと呟く。「乾いた札は、言葉が逃げない」 アストルが肩をすくめる。「父さん、それ、慰めか?」 「観察だ」
梁の上で、スノーが片方の翼を少しだけ持ち上げた。琥珀色の板に、目を細める。 「その板、ただの板じゃない匂いがするな」
アストルが顔を上げる。「匂い?」 「古い樹の……いや、言うと面倒が増える。今は目を守れ」 スノーはそう言って、嘴で羽づくろいを始めた。
フィオナは卓に戻り、薄い紙を一枚、作業灯の下へ滑らせた。影の輪郭を見るための、簡単な確認。 影は鋭くない。角が立っていない。
「今日は勝ちだね」 ルミナが言う。 「勝ちって言うなよ」アストルが囁き、すぐ笑った。「……でも、勝ちだ」
「外の冷え方が、昨日と違う」 スノーが窓の方へ首を向ける。「風が変わった。灯路も冷える。明日の夜は短く歩け」 「明日、歩く?」 レオンが聞く。 「うん。短くね」 ルミナが頷いた。
フィオナは手元に戻る。ねじの列はまっすぐ。灯りは刺さらない。見え方は整った。
それでも、棚の一枚が気になって、目だけが勝手にそちらへ行く。
フィオナは指先で、自分のまつげの根元を軽く押した。疲れたときの、癖。 “目を守る日”に、守るべきものが札に寄っているのが、少しだけ可笑しい。
「……明日に回す」 フィオナは小さく言った。 「うん。今夜はここまで」 ルミナは、それだけを返した。
布を畳み、ねじの列を小皿へ戻す。乾いた布は右、濡れた布は左。卓の上の小さな道具が、ひとつずつ定位置へ帰っていく。
アストルは戸布の端を整え、グレゴールは板の刻印の向きを確認し、ルミナは灯りの首の位置を記憶するみたいに一度だけ触った。 家の中の静けさは、片づけの順番でできている。
明日が「石の日」だと、家の中が先に知っているみたいだった。
スノーが低く言う。「だから先に守れ。……それと、守るなら、隠した札よりお前の目の方だ」




