O型男を落とす方法♡
下北沢。
駅から少し離れた裏通りに、その事務所はひっそりと建っている。
看板にはこう書かれていた。
『チルスペース 女性専用・人間関係相談所』
木製の扉には観葉植物が絡み、どこか温室のようなぬくもりがある。
ガラスの向こうには柔らかな間接照明と、整理されたカウンター。
その朝、一番に店に入ったのは宮下小夜だ。
扉を開けるなり、彼女は目の端でスリッパの位置を確認し、 玄関脇の棚に手を伸ばしてミストスプレーの向きを直した。
何も言わずに、静かに。
それが彼女の毎朝のルーティン。
小夜は無駄な音を立てない。
カップを並べる音も、イスを引く音も、呼吸のリズムに溶けるように整っていた。
それらが乱れていると、自分の中のバランスも狂う。
事務所の裏でスカーフを締め直したとき、入り口のベルが鳴った。
「おはようございます。」
声の主は雪野鈴だった。
「おはよう、小夜さん」
小夜は振り返り、穏やかに返す。
鈴は無表情に見えるが、その一言一言に必要なだけの気遣いがある。
彼女は気を遣うのではなく、場を測って調整しているのだ。
「コーヒー、いれますね。」
「ありがとう。今日の予約、後で確認しましょうか。」
それだけの会話で十分だった。
無理に話さないことが、かえって心地いい空気を作る。
10時2分前。
「うわ、ギリセーフ!」
仁が入ってきた。
ファイルを片手に、髪を無造作にセットし、スニーカーの紐はほどけかけていた。
「あっ。一応、資料は出来てるよ。ちゃんと仕上げたから、褒めて〜。」
「資料の評価は後です。靴、ちゃんと履いてくださいね。」
小夜の声は静かだが鋭い。
仁は「はいはい」と言いながら、ソファに投げるように荷物を置いた。
「さゆりさん、まだ?」
「あと数分で来るはずですけどね。」
鈴が時計を見ながら答える。
その手元にはすでに今日の予約リストが並んでいた。
10時ちょうど。
ドアのベルがふたたび鳴る。
「おはよう。」
その声は、空気の温度を少しだけ変えた。
柊木さゆり。
ラベンダー色のシャツにベージュのパンツ。
飾り気はないが、その姿勢はいつも揺らがない。
「準備は順調?」
「はい。相談者は三名、全員初回です」
鈴が手早く応じる。
「来客前に、少し全体で打ち合わせをしましょ。」
さゆりはゆっくりと歩きながら事務所の中へ。
誰に対しても声を荒らげず、言葉の選び方も淡々としている。
だが、その一言ひとことに目線と意図が通っている。
そして、いつものようにミーティングが始まる。
―――
扉の外には、まだ何も知らない相談者達が訪れようとしていた。
その日、最初の扉が開くまで、あとわずか。
午前11時。 最初の予約時間。
入り口のベルが、小さく鳴った。
「いらっしゃいませ。」
小夜がゆっくりと立ち上がる。
続いて鈴が立ち上がり、後ろからさゆりが静かに様子をうかがった。
ドアの外に立っていたのは、20代半ばの女性だ。
ワンピースの裾を握る手が震えている。
目元には、マスク越しにもわかるほどの緊張がにじんでいた。
「予約していた藤沢です。」
「どうぞこちらへ。」
鈴が先導し、応接スペースのソファへ案内する。
彼女が腰を下ろすまで、さゆりは一歩も動かず、じっと彼女の様子を見ていた。
薄い口紅、化粧は丁寧なのに、瞳の奥だけが乾いている。
「あの、私…。相談っていうか…ちょっと、変な話なんですけど、それでもいいですか?」
さゆりは黙ってうなずいた。
藤沢は、言葉を選ぶように、ゆっくり話し始めた。
「私、付き合ってる人が…実は、結婚してたんです。最近になって、それを知ったんです。」
一瞬、空気が止まった。
小夜がわずかに眉を動かし、鈴は視線を手元に落とす。
仁がいれば、なにか軽口のひとつでも挟んだだろう。
今は誰も喋らない。
「彼は、すごく優しくて。最初は本当に、独身だと思ってて…でも、なんとなく怪しいなって思ったとき、彼のスマホに子どもの写真が出てきたんです。」
さゆりは、微動だにせず聞いていた。
その姿勢は、まるで言葉を拾うのではなく、感情を吸い上げるかのよう。
「ショックでした。でも、彼に怒れないんです。だって、私がちゃんと確認しなかったから。 私が責めたら、きっと彼は離れていくって、そう思ったら何も言えなくて。」
その言葉に、さゆりのまぶたがわずかに震えた。
似ている。
その話し方、相手に対しての罪悪感、 そして、なにより怒れない女。
あの頃の私に、そっくり。
「彼の血液型、わかりますか?」
唐突にさゆりが問いかけた。
藤沢は驚いた顔をしたが、すぐに答えた。
「O型です。」
その瞬間、さゆりの中で過去の記憶がはじけた。
O型。
あの男も、そう。
自信に満ちていて、言葉がうまくて、少しだけ寂しさを匂わせて。けれど、怒らせてはいけないという不安だけを相手に残す人だった。計算したものでは無いと思う。O型なだけに。
「わかりました。ではまず、藤沢さんが何を許してしまったかを整理しましょう。」
さゆりは藤沢をカウンセリングしていく。
そこに、血液型という言葉は出てこない。
その背後にある血液型の習性でさゆりは診断する。
さゆりは静かに立ち上がると、奥の棚から一冊のノートを手に取った。
そこには彼女が十年以上前から綴ってきた、ある記録がある。
「少しだけ私の話もさせてください。」
藤沢が小さくうなずく。
「私は藤沢さんと似た経験が過去にありました。なので、気持ちは理解できます。でも、私と同じ結末は歩んでほしくないので、藤澤さんを全力でサポートしたいと思います。」
その言葉に、藤沢の目がかすかに潤んだ。
小夜はお湯を沸かしながら黙って頷き、鈴はペンを置いた。
言葉がなくても、伝わる空気がそこにはあった。
「私は当時の彼を許せなかった。でも忘れられなかった。憎んだはずなのに、心のどこかではずっと愛していたんです。」
藤沢のまぶたがかすかに揺れる。
「それでね。彼に復讐したんです。彼の家庭にも、職場にも、全部伝えました。これまでついてきた彼の嘘も私から借りたお金もすべて晒しました。そして、彼の職を失わせて、お金も取り戻しました。」
「すごい...。それで、すっきりしたんですか?」
小さな声で、藤沢が尋ねる。
さゆりは少しだけ笑った。
「そうきますよね。愛から憎しみに変わった心は和らいで消えていきました。だけど、憎しみが消えたら、愛は残り続けたんです。2年は彼を忘れるのに苦労しましたね。」
藤沢の目が、また潤む。
「馬鹿みたいでしょう?でも、それが女なのかもしれませんね。一途だった愛は簡単には消えないんです。」
さゆりはテーブルに両手を軽く置き、藤田に目を合わせた。
「今、藤沢さんの中では恋愛ホルモンが麻薬みたいに身体中に流れてるの。だから心が苦しいと思うの。」
「恋愛ホルモン?」
「ドーパミン。セロトニン。オキシトシン。恋をして幸せを感じたときに脳内で分泌される物質のことです。」
「どうしたら、この悪循環から抜けられるんでしょうか?」
「それは我慢するしかないとしか言えません。けれど、終わりは来る。 だいたい1年から2年で、その苦しみは霧のように薄れていきます。 その間、藤沢さんに必要なのは、失ったものを取り戻すことが大事です。」
「失ったもの?」
「誇り、信頼、自分を大切にする感覚。彼に奪われた大事な心を別の人たちとの関わりの中で取り戻していかなければなりません。 すぐに、他の誰かと恋をしろって話じゃありませんよ。まずは人と関わって視野を広げて、男を見る目を育てること。 そうすれば、二度と同じ傷を負わずにすむと思います。」
藤沢の顔に、わずかに光が差したように見えた。
「私でも戻れるんでしょうか?」
「ええ、戻れます。時間はかかるけれど、ちゃんと戻れます。 そのために、ここがあるんです。
藤沢は、しばらく何も言えなかった。
視線を落とし、唇をかみしめ、それでも涙は流さなかった。
「ありがとうございました。」
彼女がようやく言葉をこぼしたとき、その声にはわずかな芯が宿っていた。
さゆりは、それ以上多くを語らなかった。
ただ、ゆっくりと頷いた。
ソファの脇で小夜が控えめに、2度目のお茶を差し出す。
鈴は資料をまとめながら、目線だけで藤沢にエールを送る。
「今日ここに来たこと、それが藤沢さんの幸せの第一歩です。」
小夜の言葉に、藤沢はほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、まだ脆いけれど、確かに前を向いていた。
藤沢はそれでも立ち上がれずにいた。
「でも、やっぱり、奪いたいんです。彼を。奥さんから。」
さゆりは一瞬だけ目を細めた。
「そうですか。それなら、ここからは戦略の話になりますね。藤沢さん、恋愛には駆け引きが必要になります。それを私の指示通り実行する根性と勇気がありますか?」
藤沢が顔を上げる。
「私、やります!彼が好きなんです!」
「わかりました。それでは今から藤沢さんに愛の駆け引きをお教え致します。」
「血液型の習性を把握することで、簡単に藤沢さんの男性を振り向かせることは可能です。それでは始めます。ノートに忘れないように必ず書いて、実行すること。わかりましたね?」
「はい!」
「それでは始めます。」
「O型の人間は、やれと言われたことはやらなくて、やるなと言われたことは、やりたくて仕方なくなる習性なんです。」
「ああ…。彼そんな感じです!」
「まずは、藤沢さんが彼にしてもらいたいことの逆を言えばいいだけです。帰って欲しくなければ、かえって!って厳しく言うことが大事です。」
「そんなこと言って、嫌われたりしませんか?」
「大事なのは、駆け引きです。恋愛で駆け引きができるのは女だけです。そしてO型ははっきり言わないと何も伝わらない生き物なんです。なので、怒る時は、まわりくどいと伝わらないんです。ゼロ100の感情を示すことを心がけてください。」
さゆりの目が、まっすぐに藤沢を捉えていた。
「もう一度お伺いします。藤沢さんにその覚悟はありますか?」
沈黙が落ちる。
藤沢の喉が、ごくりと動いた。
「あります!」
さゆりはゆっくりと頷いた。
「いいですか?次に第2弾。」
藤沢は緊張したまま、まっすぐさゆりの目を見ている。
「LINEは、すべて彼の言葉で終わらせてください。」
「え?」
「たとえば藤沢さんが好きな色は?って聞いて、彼が青かなって返してきたとします。そこで既読無視をします。もしくは最低でも3時間以上は未読のままにしてくださいね。」
藤沢が戸惑う。
「でも…それって、無視してるって思われませんか?」
「O型は、すぐ返信が来ると安心してしまいます。そうなると、あとで返そうって思って、返信するのを忘れてしまいます。 しかし、藤沢さんから返信がすぐ来ないと、なんで返ってこないんだ?ってそわそわして、藤沢さんのことが返信が返ってくるまで頭から離れなくなるんです。 それが駆け引きということですね。」
さゆりは、冷静に断言する。
「次に返信してこない彼は不安に思い電話をしてくるはずです。電話が来たら1回目は出ないことが大事です。2回目がかかってきたら出てください。 でもそのときは、少し元気のない声で。相手が何を言っても自分の話はしない。 うんうんと聞くだけ。そして、向こうが話し終わったら、『そっか、じゃあね』で切ってくださいね。」
藤沢は、ごくりと唾を飲んだ。
「そんな駆け引き、私にできるでしょうか?」
「できるようにならないといけません。」
さゆりの目はやわらかく、はっきりとした芯を持っていた。
「彼にとってみたら、藤沢さんが自分を追ってこなくなることは、何より不安になるんです。それを起こすには、藤沢さんが追うのをやめる駆け引きを本気でする必要があるということです。」
藤沢はゆっくりと頷いた。
「LINEの返信をどうしたらいいかわからない時は、私にすぐメールで連絡してください。私が考えます。」
その言葉は駆け引きの方法であると同時に、救いのようにも聞こえた。
「ただし、忘れないでください。これはあくまで藤沢さんが主導権を取り戻すための手段です。 主導権を握れば必ず彼は藤沢さんに恋に落ちます。その時に、本当に藤沢さんが欲しいのは愛情なのか?それとも過去への決着なのか?それを、これから一緒に見極めていきましょう。」
藤沢はそっと頷いた。
手の中にあるスマホを強く握りしめる。
画面は暗く、通知はまだ届かない。
しかし、藤沢の中には確かに動き出した何かが確かにあった。
―――
その後、藤沢はさゆりのアドバイスを忠実に守った。
LINEでは、必ず彼の言葉で終わらせる。返事は焦らず、時には未読無視。電話も一度目は出ず、二度目にだけ元気のない声で対応。
「そっか、じゃあね。」
それだけ言って、あとは何も言わずに電話を切る。
―――
数日後、彼からの連絡頻度は明らかに増えた。
スタンプだけのLINEが深夜に届いたり、着信が数回鳴って切れることもあった。
藤沢は困惑しながらも、どこかで「前の彼が戻ってきた」という実感を感じていた。
―――
「さゆりさん!すごいです!こんなにすぐ反応があるなんて!!ありがとうございます!!」
「それはおめでとうございます。今、藤沢さんは彼の心の中心に入りかけてる証拠です。」
さゆりは静かに微笑んだ。
「それでは、次の段階に進みましょうか?」
藤沢が息を呑む。
「第3弾のミッションです。彼の知り合いに接触してください。」
「え?知り合い、ですか?」
「ええ。ただし、彼との関係はあくまでも友達として会ってください。愛人としてではなく、仲の良い子という距離感を保ってください。O型男性はあまり友達を紹介してくれないと思うので...、そうですね、合コンを提案してみてください。 彼に『友達誘ってよ』って、軽く楽しそうに言ってみてくださいね。」
藤沢は思わずメモを取り始めた。
「彼の友人を知ること。それがこの恋愛の鍵になります。 藤沢さんがその友人と会話してるとします。何か彼にとって都合の悪いことを相談してるのかもと、彼は思うはずです。彼はそれを見てどう思いますか?」
「間に割って入り、止めようとします。」
「そうです。藤沢さんに何か不安を持たせたら、友人になにか相談するかもしれないという恐怖を植え付けるんです。そうすれば、藤沢さんが聞いたことは、常に本音を話すようになり、行動を正し始めるはず。 彼が周囲の友人に知られたくない弱さを意識し始めた時点で、藤沢さんは優位に立てるんです。」
「なるほど…。」
「そして、彼との写メを沢山、撮っておくことです。キスしてる写真、仲良く笑ってる写真、思い出になるような写真をたくさん残してくださいね。」
「証拠ですね。」
「それもそうですが、何よりも藤沢さんの良い思い出になるはずです。また、O型の男は、空腹時に食べ物を差し出されたり、料理を振る舞われると、尊敬に近い感謝をするようになります。 なので藤沢さんは手料理を振る舞える機会を作るといいですね。忘れないでください。空腹すぎる状態でないと効果はありません。」
藤沢は目を見開いて頷いた。
「LINEや電話ではつつましく。感情的な話や不安は会ったときにだけ伝えるのも大事です。 大袈裟に褒めるのも大事ですね。まさにゼロ100の感情です。」
「褒める...。」
「そうです。O型はヒーローって言葉に弱いんです。何かにつけてあなたは私にとってのヒーローという言葉やニュアンスを使うと効果的です。そうすると、彼は藤沢さんを離したくなくなると思いますよ。」
藤沢は顔を赤らめながら、真剣に聞いていた。
さゆりはそこで、一呼吸置いた。
「最後に大事なことを言っておきますね。」
「はい。」
「略奪愛というのは、刺激がある分、感情が過熱しやすいんです。 ですが、実際に彼を手に入れてしまったあと、多くの女性は冷めてしまう現実もあるということをおぼえておいてください。」
「冷める…?」
「 手に入れた途端。特別だと思っていた彼は藤沢さんが以前にお付き合いされてきた男性達と同じに彼も見えてくるはずです。 男性は表面だけ強く見せてますが、本当はとても脆くて情けない生き物です。」
藤沢は少し驚いたように息を飲んだ。
「この駆け引きは必ず上手くいきます。そうなると、いつか藤沢さん自身の目で、彼の本当の姿を見極められるようになります。 そのとき、彼に振り回されることもなく、きっと静かに、自分の選んだ選択の道に進んでいけるはずなんです。」
「そんな未来が、私にあるんですか?」
「あります。自信があります。そういう女性を、何人も見てきましたから。」
さゆりの声は穏やかだった。
「藤沢さんは、彼の心に火を灯し続ける存在になる目前です。 あとは、ゆっくりと確実に炎を育てていける、地に足をつけた藤沢さんであり続けて欲しいと願っています。」
藤沢の手の中でスマホが震えた。
画面には彼の名前が点滅していた。
「さあ。扉はもう開いています。 ここから先は、藤沢さんが女の武器をどう使うかにかかっています。」
その言葉で藤沢はゆっくりと立ち上がった。
作戦は、もう始まっている。
そして彼女は、もう引き返せない程の情熱を燃やしていた。
―――
藤沢は、さゆりの指導通りに駆け引きを続けた。
次の段階の駆け引きも開始。
藤沢は彼に自然な形で提案し、彼の友人たちを交えた場を用意した。
その日彼の隣に座り、適度な距離感で場を盛り上げた。
そして彼の友達の連絡先を貰い交友を深める。
―――
藤沢はわざと彼の肩に触れ、何気ないスキンシップを取った。
そして思い出の写メをたくさん撮る。
次は手料理。
藤沢は空腹の彼にハンバーグをふるまった。
さゆりのアドバイスで、O型はお子様が好むメニューが好きなのをきいていた。。
「うま!」
「よかった〜。料理得意なんだよね。」
そして、さゆりの最後のアドバイス。
褒めること。
彼が仕事の愚痴を漏らした日、藤沢は言った。
「でも私はあなたがヒーローだって思ってるよ。」
彼の目がはっきりと潤んでいた。
―――
さゆりからのLINEが藤沢にきた。
『奥さんと話合う時期に来ました。それはO型が最も大好きな略奪愛です。でも、起こす前にもう一度よく考えて実行することをオススメします。藤沢さんの中で本当に欲しかったのが彼なのか?心の中で自問自答してください。本当に彼にその価値があるのか。』
藤沢はスマホを伏せて、空を見上げた。
手のひらの中に炎があるようだった。
消えかけていた自信が確かに灯っていた。
―――
彼との関係はたしかに、確実に近づいていた。
LINEの返事は早くなり、週に一度だった連絡がほぼ毎日になった。
彼はささいなことでも藤沢に話すようになった。
「カミさんと最近話してなくてさ、帰っても空気が冷たいんだ。君とずっと一緒にいると心が落ち着くんだ。ずっとそばにいたいな。」
多分、それは現状を引き止めるための嘘だと藤沢はわかっていた。
その言葉に藤沢はわざと何も言わなかった。
沈黙の余白は彼にとって一番堪える答えだからだ。
―――
ある日、彼から言われた。
「ちゃんと妻に話すよ。そろそろ決着つけないとな。」
その瞬間、藤沢の時間が止まった。
ずっと求めていた言葉。
略奪愛の扉が開いた。
しかし、藤沢の鼓動は高鳴らなかった。
彼の顔が少しずつ過去の男たちの記憶と重なっていく。
昔付き合った誰か。
名前も忘れた人。
優しいけど曖昧で芯がない。
さゆりの言葉がよぎった。
私が欲しかったのは、この人じゃない。
欲しかったのは、愛された記憶だ。
―――
藤沢はさゆりのもとを訪れた。
「私...。彼とは別れてきました。ときめかなくなったんです。」
さゆりはうなずく。
「後悔してませんか?」
「してませんね。目が覚めました。」
「それなら正しい選択だと思います。」
窓の外、陽が落ちかけていた。
夕焼けがチルスペースの壁を優しく染める。
藤沢は席を立ちドアの前で振り返った。
「さゆりさん。ありがとうございました!」
「藤沢さんが、自分の価値を信じられるように感じます。またなにかあったら相談しにいらしてくださいね。」
扉が静かに閉まる。
彼女の足取りは軽かった。
スマホの通知が鳴っても、もう気にしていない。
その背中を窓から見送る。
さゆりは机の上のノートを閉じた。
その様子を、少し離れた所の影から、スタッフ達が見守る。
「あれが、解放の顔か〜。」
「あの人、強かったよね。最後の最後まで、泣かなかったもん。」
小夜は手にした湯呑をそっと置いた。
仁はソファに深くもたれながら、腕を組んだまま天井を見上げた。
「藤沢さん、自分自身の戦いに勝ったんだな。恋にも、過去にも。」
誰もさゆりの言葉を待っていたわけではなかった。
けれど彼女は背を向けたまま窓の外に目をやりながら、言った。
「勝ち負けじゃないと思うの。自分を信じられるようになった瞬間、人はもう恋には縛られなくなるんだと思うの。」
―――
次の扉が、また開こうとしてる。
誰かの心の迷いが、またここに辿り着く。
チルスペース。
それは人を救う場所じゃない。
自分で選ぶ力を思い出すための場所。