魔法天使戦士の闘い!すべての戦いを瞠目せよ!VOL1
マジック
エンジェル
ほたる
~JUST NOW 2050~ほたる、魔法のような出会いで覚醒
-MAGIC ANGEL"hotaru-
…”The future is not a gift;
It is an achievement”…
”封印”のお札で戦う戦士たち!
魔物たちを倒せばひとつだけ”願い”が
叶うというが……!
total-produced and presented and written by
NAGAO Kagetora
長尾 景虎
美少女戦記マジックエンジェルほたる あらすじ
物語は西暦2250年、近未来都市東京の隣県の埼玉県青山町から始まる。主人公は少し頭の悪い、アニメおたくの女子高生の螢だ。(螢とその親友の由香は、テストでわるい点ばかりとっている。)螢たちの学校では今度、テストがあるという。彼女らはカンニングを考える。そんな時、妖精が異世界からやってくる。そして、地上を支配しようと企む魔界の人間から地上を救うようにと螢たちに”変身”のペンダントを渡す。しかし、螢は妖精セーラを利用して、カンニングをしていい点をとってヤニあがるだけ。そんな中、親友の由香が魔界の人間に襲われる。それを救けたのが、マジックエンジェルに変身した螢だった。ノートにある魔物たちを倒せば何でもひとつだけ”願い”を叶えてくれると…
たすかった由香の夢は画家になること。そこで彼女は絵画制作に没頭する。そんな中、由香の尊敬する父(画家)が個展をひらくことに。彼女は螢や仲間たちとともに個展にいく。しかし、そこでも魔界の人間が現れ、ついに由香もマジックエンジェルに変身。敵を倒す。ふたりは戦士として、魔物たちと闘うが苦戦する。
学校ではいつものようにふたりは”出来そこない”。そんな時、秀才の黒野有紀と出会う。彼女は、学校一の頭のよさだが、友達がいない。そこで螢たちは有紀と友達になる。 ある時、彼女は捨て犬をひろう。そこで家に帰っていくと、母親に叱られる。学校の成績も落ち、絶望して家出する有紀。そんな彼女に、魔界の敵が襲いかかる。ついに有紀もマジックエンジェルに変身。敵を倒す。三人になったMA。それから第四の戦士、不良娘の美里も登場して、戦士に覚醒する。そして四人は、いままでのように自分のためでなく、地上のため全宇宙の人類のために戦うことになるのだ。
天才的頭脳を持つけど人とうまく話せない有紀、友達のいない不良の美里、”出来そこない”の螢と由香たちの、ヒューマン・ファンタジー。
では、ハッピー・リーディング!
原作/脚本キャラクターデザイン(原案)/音楽hg/企画/総合プロデュース
………上杉 景虎
………大谷 幸氏、hyper groove(オープニング・テーマ曲)
主人公および脇役の声優
1)主人公 青沢 螢 ……………… 横山 智佐
2) 赤井 由香 ……………… 富沢美智恵
3) 黒野 有紀 ……………… 井上喜久子
4) 黄江 美里 ……………… 折笠 愛
5) セーラ ……………… 美山 加恋
6)作家/TP緑川 鷲羽 ……………… 緒方 恵美
7)医者 Dr.中山 ……………… 天野ひろゆき
8) 鈴木先輩 ……………… 山口 勝平
9)アイドル 鈴 春麗 ……………… 上戸 彩
物語の内容
物語は西暦2050年近未来都市東京の隣、埼玉から始まる。ある日、妖精セーラが天界から地上にやってきてケガをする。それを救ったのが主人公の高一の美少女青沢蛍だった。彼女は美人だが頭が悪い。セーラは伝説の戦士「マジックエンジェル」を探していた。そこで蛍や友人の由香らに目をつけることになる。いろいろあってセーラは蛍たちを伝説の戦士に覚醒させるのに成功。地上の支配を謀る魔界の敵と魔物封印のお札で戦うのだった。(変身などしない)それは一見簡単なことのように思えたのだが…。
”封印”のお札で戦う戦士たち!魔物たちを倒せばひとつだけ願いが叶うというが……
第一章 マジック・エンジェル
VOL.1 蛍とセーラの出会い
マジックエンジェル・ブルー覚醒
青沢螢は、親戚の叔父さんに買ってもらった宝クジで3億当たって、狂喜乱舞した。 蛍は夢をふくらませた。大金を手にして、興奮し、それから螢は強烈なフラッシュの光を眉間に食らった気がした。螢は目を覚まし、息を呑んだ。見覚えのある担任の神保の怒り顔があった。間違いない。螢は授業中に居眠りしていたのだ。宝クジ当選は夢だったのだ。今は、西暦2050年の近未来都市・東京の隣県、その学校の授業中である。
螢は頭頂から爪先まで、冷気が走るのを感じた。そして、がつん、神保に殴られた。螢はレイジー(怠け者)で努力もしない。で、アニメ番組や少女コミックを読みあさる。まったくの”出来そこない”。
だけども、その分、螢は可愛らしい顔をしている。丸い顔、長くてさらさらした髪、大きな瞳、全身が細くて肌が白い。胸はけしておおきくないけれども、それは少女らしさを現しているともいえなくもない。そして、これがチャーム(魅力)だ、といえばいいのか、性格が明るいのだ。極めて社交的であり、オプチュミストだ。百六十センチで、制服姿だ。 螢という少女に負けず劣らずの”出来そこない”もいる。しかも、蛍のすぐ近くに、同じクラスにいる。それは蛍と同じ埼玉県青山町学園一年の、赤井由香という少女である。 この螢の同級生であり、親友でもある由香も、やはり「お勉強」ができない。性格はどうかといえば、ひたすら明るい元気印の少女である。これは救いか(?)。そして、蛍に負けないくらいルックスはいいのである。螢と同じ、百六十センチで、制服姿だ。
由香は蛍のような童顔ではないけれど、大人の魅力があるわけでもない。ある意味では「小悪魔」的な美少女である。髪の毛はセミロングで、後ろ髪がピンとはねている。瞳は猫のようだ。全身が細くて肌が白く、腕も脚もスラリと長い。彼女はナイーヴだ。
英語のナイーヴには、天真爛漫、素朴な、という意味がある。この言葉こそ由香にはふさわしいのかも知れない。青山町学園の女の子の制服は、黒色のセーラー・スカートに、純白のワイシャツ、胸元には赤いリボンをアクセントにつける。冬にはベストを着るわけだがあえて触れない。平凡な日々。…平凡な学校。緑の蔦と苔に覆われた壁はやや古ぼけてもみえる。いまはけだるい午後だ。
学校は、期末テストの前日をむかえていた。
蛍はニヤニヤと笑いながら、それでいて少し困った顔で、机に腰かけて、向かいあっている由香に、顔を真っ赤にして興奮して、それで抑圧のある声で、
「もおっ。なんでテストなんてもんが、この世の中に存在する訳?なにが期末テストよっ…そんなものどっかへ飛んでっちゃえ!ってなもんっしょ!」
と、オーバーなジェスチャーで蛍はいった。さすがに「お馬鹿さん」である。話しに品がない。
「本当よねっ。テストで人間のなにがわかるっていうの?!お勉強なんて出来なくたって、成功したひとはいっぱいいるじゃないの!」
由香は少し声を荒げて、少し早口で言った。そして続けて「例えば、エジソンとかアインシュタインとかホーキング博士…それから…それから…えーと、…エジソンとか……エジソンとか…」 声がしぼんだ。その瞬間、由香は心臓に杭を打たれたような感覚に襲われ、言葉を呑んだ。
知性のない由香にとってはご立派な言葉ではある。確かに、エジソンもアインシュタインもホーキング博士も勉強は出来なかった。エジソンが幼少のときに「出来が悪い」ので学校を追い出されたのは有名な話しだ。しかし、天才とはそこからが違う。ちゃんと努力をしたのである。「発明とは一%の霊感と99%の努力である」
エジソンの有名な言葉だ。天才の彼でさえ、努力を続けたのである。そういった意味でいえば、努力もしないで「将来はお金持ちになりたい」などという輩は、ただの怠惰であり、限りなくアグリーなのである。
「もぉ、いっそのことさぁ…」
蛍は小悪魔のような可愛らしい微笑みを浮かべた。そして「やっぱさぁ…」と小声でいった。なにか火照ってくるような感情の高鳴りに、心臓の鼓動を早めた。
「やっぱ…何よ?」由香は皮肉っぽくきいた。
「カンニングでもしちゃおうよ!」
「えぇ…っ??」
「私たちが救われる道はただひとつ、よ。カンニングっきゃないっしょ?やっぱ、さぁ」「でも…ねぇ。あんたはプライドってもんがないからいいけどさぁ。私の…芸術家としてのプライドが許さないのよねぇっ」
蛍は嫌味ったらしく笑って、「あははは…由香ちゃんってばっ!!この前のテストで6点とっといてさあ。ブラインドウもなにもないじゃんよ!!」
「ブラインドウ?馬鹿じゃないの?!…そ、それに、あんたは0点だったでしょ!!」
由香は真っ赤になって怒鳴った。蛍は、カラカラと笑っている。はっきりいってどっちもどっちであり、ふたりとも低レベルである。
「蛍ちゃん、由香ちゃん、カンニングなんてダメよっ!」
「そうよ、そうよ!」
友達のあやと、良子、奈美がやってきて口をそろえた。この意見は至言である。しかし、この三人の女の子のルックスとかはあえて触れない。単なる脇役だからだ。
夕方となり、辺りはオレンジ色に染まっていった。淡い黄昏…そんな雰囲気ではある。辺りがしんと光り輝くような。
「じゃあ、由香ちゃん、また明日ね!」
蛍は校門で由香と別れて、元気よく駆け出していった。別に何をするわけでもない。ただ、好きな少女コミックとアニメ番組をみるのが蛍の習慣になっているのだ。
チャンスはある意味では突然やってくる。突然、何のまえぶれもなく、いきなり目の前に訪れる。しかも、ほとんどの場合、人生において一度だけ訪れる。極言すれば、千載一遇の好機はたった一度きり、ともいえる。掴まなければ、暗い闇だ。
平凡な少し頭の足りない美少女、青沢蛍にとってもやはりそうであった。
彼女にとってのチャンスとは、妖精セーラとの運命的な出会い、であった。妖精…とは甚だコミカルだが、実は、この物語はファンタジーなので仕方がない。
ひと気のない住宅街の路地を悠々とかっ歩していた蛍は、フト、何かの微かな音をきいて足をとめた。落ちつかなければと焦れば焦るほど動揺し、足の力が抜けて、もつれた。「なんの音かなぁ?…もしかして大川なんとかみたいにキリストの声とかがきけるのかなぁ?そうしたら本でも出版してお金をガッポリいただいちゃうっていうのもいいなぁ。でも……なんだろうなぁ?」
左右に目を配っても何もみつからない。風を切る微かな音。何かの迫る気配!でも、何っしょ?!
「い、痛いぃぃっ!」
蛍は顔面に直撃をうけて、少しよろけてしまった。突然に、何かが、彼女の頭上から降ってきて顔にぶち当たったのだ。螢は一瞬、棍棒で頭を殴られたような感覚に驚いた。
「な、なんだっていうのっ…もぉっ!」
蛍は顔に手をあてて情なく叫んだ。
そして、アスファルトの路上に横たわって動かない「あるもの」に気付いて動きをとめた。彼女はたいして驚かなかったけど、しばらく冷水を頭から浴びせかけられたように立ち尽くしてしまった。呼吸が荒くなり、心臓が早鐘ように高鳴った。
「な、な?!まさか、これって…」
やっとのことで声がでた。そして、「これってば、妖精じゃないのさぁ!」
そうだった。路上に横たわって動かないものとは、天空から降ってきた(墜ちてきた))妖精セーラだったのだ。死んだのか?それとも気を失っているのか?妖精はピクリとも動かない。
妖精というくらいだから、身長は25センチもない。顔も全身も手も何もかも細く白く、睫がやけに長い。髪の毛は「栗色」でロングであり、ソヴァージュがかかっていて、可愛らしいリボンまでつけてある。洋服はフリルつきのもので背中に羽根がついている。とにかく、可憐でピュアな妖精だった。
「…死んじゃってるのかなぁ?」
蛍は妖精に近ずき、顔を覗きこみながら囁くように心配していった。妖精セーラは傷だらけでボロボロだった。透明にちかい羽根にも愛らしい顔にも傷がついていて痛々しい。 とにかく、ここに放って置くわけにはいかないわ!蛍は、そっと、優しく妖精を両手で包み込むと胸元にだいてバッ!と駆け出した。
自宅へ!
夜もどっぷりふけていた。蛍は夕食を素早く済ませると、すぐに自分の部屋へと戻った。ー乙女チックな部屋である。カーテンもベットもどこもかしこもピンク色の「少女らしい」部屋だ。彼女は、そうしたてきらきらとした空間を命がけで愛した。
蛍は、心配そうにベットに近付いた。彼女は、あの「妖精」を誰にもみつからずに部屋まで運ぶのに成功していた。ピンク色のベットに、妖精は寝かされていた。一応、水タオルらしきものを額に当ててもらっている。これは蛍の「博愛」の証しだ。彼女には、こういう人間性もある。それは、しんと光るようなものだ。大事な、愛の証し。
「人間にとって忘れてはならないのは人間性だ。血も涙もない人間に誰がついてくるか!人間性とは何か?それはすなわち「愛」にほかならない。愛とは何か?それはけして見返りを求めることなく与え続けること」
鉄の女、マーガレット・サッチャーの言葉だ。この言葉は尊敬に値する。
「…う…う……うん」
妖精セーラは、そううなるように声をあげた。そしてセーラは少し頭を軽く振った。なんだか視点がぼやけたが、それはあまり気にしなかった。しかし、次の瞬間、セーラは思いっきり驚いた。なぜって?それは、
「あのぉ。妖精さん、お体は大丈夫かしら?」
と、目の前で覗きこんでいた少女がオドオドと尋ねてきたからだった。まさか…そんな!「…妖精さん…お名前は…?喋れるの…?」
蛍はオドオドと、微笑を浮かべてさらにいった。セーラは唖然としながらも「あ、あなた…私の姿がみえる…の?」とやっとのことで声を出した。とても可愛らしい声である。「妖精の姿は、普通のひとには絶対に見れないものなのよ。みえるのは、赤ちゃんかもしくはある種のパワーをもったような…」
「パワーって何っ?白い粉状の?」
「いいえ。…それは、つまりその……」そう説明しながらも、セーラはハッと気付いた。 まさか!この娘が?!…でも、まさか、ね。
セーラはオドオドと「あなた…まさか…」といって、フト、言葉をにごした。この可愛らしいが、見るからに頭の悪そうな少女が、自分の探していた「戦士」だなんて、とても思えなかった。
「でも…まさかねぇ。伝説のマジックエンジェルが…まさか、こんな娘だなんて」
セーラは顔をプイっと横に向けて、ニガ笑いして独り言をボソボソと言った。
「マジックエンジェルって、何っ?」
蛍は元気いっぱいに明るくきいた。この少女はほとんど人の話をきかない。いや、それを理解するだけのメンタリティがないのだ。コギャルだかマゴギャルだとかみたいなのと同じだ。つまり、頭が悪いのだ。しかし、どうでもいいことだけは耳にする。そして、たまに傷ついたりもする。極めてナーバスなのだ。
おかしな話だ。この青沢蛍という少女のどこにも「恋の悩み」だとか「生きていく苦悩」だとか「死への恐怖」「心の葛藤」といった心理が感じられないのに…。
セーラは少し戸惑って、目を丸くした。あまりのことに動悸を覚え、手足が震えた。
「あ、あのねぇ。…そういえば!まだ、あなたの「お名前」をきいてなかったわよねぇ?」「私のお名前?!私は蛍!青沢蛍よ。齢は十六才、キャピキャピの高校一年生で、趣味は少女マンガとアニメをみることかなぁ」
蛍は嬉しそうに愛らしい微笑みを浮かべながら「それとただいまボーイフレンド募集中なのよっ!ビルゲイツみたいな億万長者。…そうだ!…妖精さん…あなたのお名前は?!」
「え?別にいいでしょう、そんなの」
「いいじゃんよ、別に…」
セーラは「うーん。わかったわ。私は、セーラよ」と言った。
「セーラ?なんかきいたことあるわねぇ。えーと、アニメかなにかで…」
「別にそんなマニアックなこといわなくてもいいわよ」
セーラは冷静にいった。
「え?え?マニ…ニ…マニ…って何?」
「マニアック!専門的な、とか、趣味的な…とかいう意味の英語ね」
「へぇーっ、セーラってば妖精のくせに、そんな難しい英語しってるんだあっ」
「…別に難しくなんてないわね」
「でもさぁ、私なんかさぁ。ハロー、サンキュー、グッバイ、ギブ・ミー・チョコレート、とかしか知らないもの」
「そ…それは、あなたが「お馬鹿さん」だからじゃないの…?」
「ヘヘヘ…っ。そうかなぁ?」
「…そうね、多分」
セーラは冷たいラプテフ海のような言葉を彼女に言った。蛍は反発して顔をあげて声を荒げ、
「ち、ちょっと!何よ、何よ、そんな言い方しなくてもいいっしょ?!…もおっ。あたしだってねぇ、いっぱいいっぱい…いい所あるんだから。…そりゃあ、あんまり頭はよくないかも知んないけどさぁ。顔だって、スタイルだってものすごくいいんだから!」蛍は続けようとして、フイ、に下を向いた。そして、「それに…それに…」と震える声でいったっきり、沈黙した。こぶしをぎゅっとこわれそうなくらい握った。震えた。
涙が目を刺激した。蛍はなんとか両手で止めようとしたが無駄だった。みるみるうちに大粒のきらきらとした透明な涙が頬をつたわって、ゆっくりゆっくりフローリングにポタポタと落ちていった。全身が悲しさで小刻みに震えた。単にルックスだけ。…なんとなく顔やスタイルがいいけど頭はカラッポ…という「薄っぺら」な自分の存在。
何もかもが情なくって、そんな自分自身でいることが悔しい。…もう人間なんてやめちゃいたい!そんな風に、蛍はしんと心の奥底で感じた。螢は小学生のときにイジメられた記憶を思い出した。あの時自分は泣いた。でも、昔のことだ。しかし、その自分の”トラウマ”に螢はわれながら驚くのであった。
「あ…あの…蛍ちゃん…」
セーラは同情をこめて小声でいって、フウッと宙に浮いて、立ち尽くして泣いている蛍の顔まで近づいて、「ちょっと言い過ぎたわ。ごめんなさいね」と謝った。
「いいのよ…どうせ「頭の悪い」のは本当のことだから…私なんてさぁ…結局…あんまり生きている価値ないのよね…多分さ。…あぁ、こんなことなら生まれてくるんじゃなかったよ」
セーラはしばらく黙ってから、「それは違うわ」と声を高めて言った。
「生まれてはいけない人間なんて一人もいないのよ。人は生まれるときに、ある種の運命的な使命を与えられるものなのよ!…それは人によって違うけれどもね。ある人は、命を救う「お医者さん」だったり、国を動かす「政治家」だったり、そしてやさしいやさしい「お母さん」だったり…。
人間にはそれぞれ可能性ってものがあるのよ。それは誰だって…どんな国の人だって…例外はないのよ。蛍ちゃんには「生きる価値」がある!きっときっと…いいえ、ぜったいにあるのよ!」
「でも…」
セーラは魅力的な微笑を浮かべて、
「しっかりしなさい!泣いてたってなにも変わらないし、なんの変化もおこらないのよ!元気いっぱいに笑ってさぁ、明日という地図を手に駆け出すのよ!それっきゃないわ。さぁ、笑って!笑うのよ!」
蛍は少し不思議そうな狐につままれたような顔をしたが、しだいに口元に微笑みを浮かばせた。「そうね。私を馬鹿にした連中を見返してやるわ!」希望の笑み…それはほんの少しの希望…駆け足ではなく、ようやく生きていく程の希望ではあるけれども、セーラの言葉は蛍に実に好ましい影響を与えたようだった…。
しばらくして、セーラは少しだけ思い出したように、
「そうそう。蛍ちゃんにねぇ…話しておかなくてはならないことがあるのよ…」
「ーえっ?何?!なに?」
「…さっき伝説の戦士のことを尋ねたでしょう?マジックエンジェルのことを…」
「そうだっけ?アハハハ…」
セーラは無視して、真剣に続けた。
「マジックエンジェル…つまり魔術天使は、いわば地上を、そして地上にいる人類すべてを平和に導き、魔物を封印するため天界から舞い降りた伝説の戦士のことなの」
「伝説の戦士…?」
「そう。でも、戦士たちが地上に舞い降りたのは現在からもう数千年も前くらいになるわね。その頃、地上はケイオスにおおわれていて…」
「ケイオス…って?」
セーラは眉ひとつ動かさず続けた。「ケイオス。つまり「混沌」に包まれていた地上の世界…怪物達が人類の住むあらゆる町並みに出没して破壊をくりかえしていた時代。そうした地上へと舞い降りて、人類の平和のために戦士たちは闘ったの!
つらく苦しい闘いで、多くの戦士が倒されていったわ…。でも、最後には「最大の敵」を倒して、伝説の戦士たちは世界平和を達成したのよ」
蛍はきょとんとした顔をして「ううーん。なんか三流ファンタジー小説みたいねぇ」とほざいた。
セーラは目を剥いた。
「私は冗談をいっている訳じゃないのよ!全部、本当のことをいってるのよ!!」
「でもさぁ」蛍は皮肉っぽく「そういう話は、いまどきの幼稚園児でもしないってばさぁ」 セーラは深呼吸して、精神を落ち着かせてから、冷静な顔でゆっくりと話を続けた。
「…その後、マジックエンジェルの戦士たちは記憶をすべて失い、人間の姿となって地上で暮らし始めたの。でも…けして戦士としての誇りだったり闘争心を捨てたわけではなかった。ただ、神からのお告げを忠実に守った。「もし地上が再び悪の支配に犯されそうになったら、伝説のマジックエンジェルに覚醒して人類を救いなさい」っていう神とのホルコス(誓約)を」
「…ホ、ホルコス?!」
セーラは少し感情を押さえきれずに、
「そして、その伝説の戦士マジックエンジェルは、いまのこの時代…この地上に覚醒しなければならないの!なぜなら、魔の女王ダンカルトの魔の手が、今、この地上に迫ってきているからなのよ!!」
と、声を荒げて両手を広げた。ーそして、「魔の女王ダンカルトは、この地上を支配しようとしているのよ!私は、それを止めようと天界から来て、その道すがら…攻撃を受けてやられてしまったって訳…」
「ふーん。」
蛍はどうでもいいかのように感心した。
そして「頭の悪い人間」にしては珍しく、「それで、地上に墜ちてきたってわけね?…セーラはその伝説のマジッ…なんとかかんとかという戦士を探しに来たってのね?」
と尋ねた。
「そう。そうなのよ」セーラはうなづいた。
「ーでも…伝説の戦士が本当に探し出せるかは疑問ね。もう何千年も前の話だし…」
「ノー・プロブレムよ!」
蛍はなんと、英語で自慢気にいった。
「ノー・プロブレム?…問題ないわって意味ね。なんでそう思うの?なにか策でもあるの? 蛍はニコニコと大笑いして「わかんない。ただいってみただけですっ!」
「………あ、あのねぇ」セーラは呆れた。「でも、魔物たちを倒せば何でもひとつだけ願いが叶うのよ」「本当?! ラッキー! でも嘘っしょ?」
しばらく、パッション・ピンク色の乙女チックな蛍の部屋に静寂が流れた。かなりの沈黙。セーラは、蛍のきらきらと輝く大きな大きな瞳をじっとみつめた。そしてハッとした。この娘には…やっぱり、何かのパワーがあるように感じられるわ。
もしかしたら…この蛍ちゃんって…でも…まさかね?
「あ。あのさぁ」
ナイーヴ(無邪気)な蛍にとって、黙っている、もしくはジッとしている…ということは「あまり好き」じゃない。この少女にとっては黙ってひとの話に耳を傾けるとかは不可能に近い。
「あのさぁ。…月刊少女ジャンプでも読む?」
蛍は無邪気にほんわりと笑って、セーラにマンガ本を勧めた。英語で書けば、ホタル・リィコーミィンデッド・ザ・コミック・トゥ・セーラ…かしら?それはいいにしても、この青沢蛍のメンタリティは低すぎる。
セーラはニガ笑いして、
「いいわよ…マンガなんて」と断った。
「でも、けっこうオモシロイのよ!主人公とかが可愛くてさぁ。それになかなか笑えんのよ。それにさぁ」
「あなた、お年はいくつかしら?」
セーラは説教くさくいった。
「え?…さっきいったじゃん。十六才!美人の女子で…ボーイフレンド募集中!ビルゲイツやマークザッカーバーグみたいな億万長者!!」
「そんなことまできいてないでしょ!!」
セーラは少し怒鳴った。ーそして、
「まぁ、いいわ」と声のトーンをおとして、燐とした表情をして、右手を頭上にのばして、「ラマス・パパス・ドモス…アリアテス・エカリーナ・ティターナ!」
と、意味不明の呪文を、可愛らしい声で、それこそ大声で唱えた。ーと、次の瞬間、セーラの右手から青い閃光が四方八方に飛び散った。
「うあっ!」
蛍は思わず眩しくって瞳をぎゅっと閉じた。そして、しばらくしてから目を開けると、「蛍ちゃん。…このお札をもってみて」
と、セーラが微笑みながら、右手にもった青色の魔物封印用のお札を差し出した。
お札は占いのタロットカードみたいな感じだった。
「わあっ」
「さあっ、蛍ちゃん」
「なにこれっ?もらっていいの?」
蛍は、少女の瞳をいっそう輝かせながらセーラに問いかける。この物欲は凄まじい。
「へへへぇっ、ありがとう」
そういったとき、蛍の顔は紅潮していた。まるで幼児とかわりない。幼い子供というものは何かもらうと興奮するものだ。それが例えどんなものでも…。まぁ、判断力がないといえばそれまでだけど。
そして、
「それはねぇ、魔物を封印するためのお札なの。そのお札を天にかざして”お札よ魔物を封印せよ!”って叫ぶと、本物の魔術天使なら魔物を封印することができるのよ」「ふーん」蛍はなんとなく頷いた。セーラは、
「あの蛍ちゃん。ちょっとやってみてくれないかしら?」
「えーっ?嫌だよ」
「ど、どうして?別にいいじゃないの」
蛍はうーんと頭をひねって悩んでから、ハッと名案を巡らせた。名案というよりは、悪知恵だ。螢は興奮し、瞳孔を大きく開いた。
「へへへ…っ」蛍は、小悪魔のようにニヤニヤと微笑を浮かべてから「じゃあさぁ」といった。そして、セーラの耳元で囁いた。
「え?!…なんですって?!」
セーラは、蛍の囁く内容があまりにもバカバカしいので、思わず眉をひそめて唖然とした。怒りに声は震え、セーラは支離滅裂な言葉を発していた。
「あのねぇ……蛍ちゃん」
「へへへっ。私のいう通りにしないと、絶対に魔物…なんとかかんとかっていって封印したりとかしないもんね」
彼女はナマイキに、宣言をした。
セーラは呆れて何もいう気もうせて、しばらく宙に浮いていた。そして、まぁいいでしょう、という気持ちを込めてタメ息をついた。
どんな時にも、何かを悩んでいる時も、嬉しくって胸をわくわくさせている時も、絶対に夜は訪れる。しんと深い夜。そして人々を眠りに誘っていく。そして夢をみる。淡い夢。それはかけがえのないような、奇跡のような、なにげないような感じだ。螢はそうした気持ちを心にしまう。今やってきた夜も、朝も、すべてはいずれ夢になってしまうだろうから。
蛍もそんな人間のひとりだ。彼女はパジャマ姿で、ど派手なパッション・ピンクのベットで寝ていた。もう時計の針は、午前三時三十五分三十二秒をさしていた。
「うーんチョコレートパフェ、シュークリーム。ああん、食べましょうよ、タキシート仮面様!シンジン・ゴジラ!エヴァンゲリオム!「そちの名は。?」「……魂が……いれかわっている。」♪君の全全全…」
青沢蛍は「彼女らしい」寝言をいいながら眠っている。この娘は、バカか?
悦にひたる蛍の横のベットの端で、身体を横にしていたセーラは呆れ顔で眉をピクピク動かしながら、
「この娘ってば…ほんとうに伝説の戦士なのかしら?」と呟いた。そして、もおっ、と頬杖をついてプイっと顔をよこに向けていた。
まったくなんて娘なの!!
次の朝。蛍たちの通う青山町学園の期末テストの日だ。ドジな蛍は、いつものように寝坊すると、大慌てで学校にむかって駆け出していった。
「あ、待ってよ!蛍ちゃん!」
セーラは蛍の後を追ってフワッと飛んだ。
テストはいたって難しかった。いや、蛍にとって由香にとっては、とてつもなく難しかった。彼女たちにとっては「ルート」とか「645年大化の改新」とかいうのは暗号のようにでも思えるのだろう。まぁ、はっきりいって「そうした知識」は社会では何の役にもたたないけど…。それでも、知らないより知っていたほうがマシではある。
「…よし、いくのよ、セーラ!」
机に座って答案用紙に顔をむけていた蛍は真剣な表情で、顔の近くに浮いていたセーラに囁くように小声で命令した。
「……でも…ねぇ。」
「さっさと行くのよっ。私のテストの成績がかかっているんだから!!」
「…だって……さぁ…」
「あんた、私がテストでまた0点とかとってもいいっていうのっ?!」
セーラは眉をひそめて、おそるおそる、
「…そんなに頭が悪い…の?」と尋ねた。
「…そういう見方もあるかしらねぇ。でも、それもチャーム・ポイントのひとつよ。ほら、女の子は少し馬鹿な方が可愛い、って男の人がよくいうじゃないの」
「…そんなこときいたこともないわよ」
「ええっ?!でもさぁ、女性雑誌の『ティーンズ・エイジ』っていうのの占いコーナーにのってたもん!」
セーラはやたら呆れてしまった。ひどく虚しくもあった。
「…あのねえ、蛍ちゃん。占いだとかオマジナイとかはほとんど嘘なの。デマでしかないのよ。だいたい少し考えればわかるでしょ?”牡羊座のO型の今月の運勢は?”とかいうのだって”牡羊座でO型の人間”なんて何百万人もいるのよ。その何百人もの人間がすべて”恋はちょっとダメ”だったり”勉強はまぁまあ”だったりとかすると思ってるの?
そんなわけないわよね?それと…頭の悪い女の子の方が可愛い…なんていうのもデマね。誰だって「頭のいい女の子」の方が魅力的だとおもうんじゃないかしら?蛍ちゃんみたいに考えている女の子がいるとしたら、それはただの怠惰っていえるわね」
「タイダ…ってどういう意味っ?また英語っ?」
セーラは首を少し振って、
「怠惰…。つまり怠けて努力しない。あなたは、お勉強をする努力をなまけているだけなのよ!」
「へん」蛍は癪にさわった感じで顔をそむけて、次の瞬間、セーラをキッと睨んで、
「…もおっ。いいからさっさと行くのよ!」
と低い声で、もう一度、命令した。「そうしないと…封印なんて絶対にしないからね!」 セーラは「……う」としばし絶句して、それから「…わかったわよ」と情ない声でいった。本当に情なかった…。というより少しだけ腹立たしくもあった。なにも命令されたからではなく、蛍という少女のメンタリティの低さが情なく、また悲しかったのだ。
どうして蛍ちゃんって、こうなのかしら?
妖精セーラの姿は、答案用紙に目を通している同級生たちには絶対にみえない。それをいいことに、蛍は、セーラに「同級生たちの答案を覗き見て自分に教えるように」命令したのだ。恥知らずなオポーチェニズム…いやたんなるシェイムレスネス(恥知らず)もここまでくると絶賛に値する。…限りなく低レベル…だ。
もぉ、なんで私がこんなことしなくちゃならない訳…?妖精セーラは愚痴を呟きながらも、「お馬鹿さん」に答えを伝えまくった。
「……なにかしら?あれっ」
由香は、フト、妖精の姿や存在に少し気付いて独り言を呟いた。
こうしてテストもすべて終了した。
狡猾で老獪な蛍(この瞬間だけ)は、あまりに旨くいったので嬉しさが胸元から沸き上がってきて、笑顔になっていた。なにかすばらしいものが口から飛び出してそうな錯覚にも襲われた。とにかくハッピーだった。その表情は「お馬鹿さん」そのものだ。
場所は、午後の体育館の裏であり、蛍とセーラは白い壁にもたれかかって話をしていたのだった。陽射しが辺りを真っ白にしていた。しんと光ってた。
「いやあ、それにしても…うまくいったねえ」蛍はニヤニヤして続けて「ごくろうさん、セーラ。あんたはよくやったよ!」
「…あのねぇ。」妖精は苦笑してから、気を取り直して熱心に言った。「そうそう、蛍ちゃん!ちゃんということきいてやったんだから…「封印」してくれるんでしょうね?そうよね?」
その言葉の次の瞬間、蛍は
「嫌よ!」とカラカラ笑った。
「な?!なによっ。ひどいじゃないのっ!」
セーラは激しく抗議した。「約束やぶるなんて最低っ!最低の人間のすることだわ!」「約束なんてやぶる為にあんのよ」
「そういうのを「身勝手」とか「恥知らず」とかいうのよっ!どっちにしてもレベルが低いわね!!」
「どうせノヴェルが低いですよ」
「ノヴェルなんて言ってないでしょ!レベルよ、レベル!ノヴェルなんていうのは小説のことよ」
セーラは息を荒くして怒鳴った。…いやはや疲れる。この蛍という「出来そこない」には何をいってもわからない。馬鹿につける薬はない…とはこのことだ!
「蛍っ!」
フト、気付かないうちに、赤井由香が近付いていて、そんな風に明るく声をかけてきた。由香はいつものように、可愛らしい猫のような瞳をきらきらと輝かせてとても眩しい。
わっ、とセーラは驚いて素早く蛍の背の陰へとかくれた。なんとか見付からなかったらしい…。でも、まてよ!そういえば普通の人間には妖精に姿はみえないんだったわ。セーラは苦笑した。
「あら、由香ちゃん。何か用?」
「…あんた。」由香は皮肉たっぷりに微笑して、前髪を右手でかきあげながら、「あんた、カンニングしたでしょう?!」
と、冗談めかしに尋ねた。ー確かに…。
「な?!な、な、な、な……何いってんのっ?!馬鹿じゃないのっ?!」
「ほらっ、そうやって慌てる所が怪しいのよ!」
「べ、別にっ、慌ててなんてないもん!!」
「慌ててるじゃないのっ。…もおっ、馬鹿なんだからさぁ。あたしはあんたとは幼稚園の時から一緒だったんだから…。そういう私に見えすいた嘘が通用すると思ってんの?!」
蛍は少し黙ってから、苦しい声で「別に…嘘なんてついてないわよ!」と叫んだ。
「……」由香は、怪しいなぁ、という視線を蛍にむけてから、可愛らしい猫目をきらきらと輝かせて、
「…そういえばさぁ。話はかわるけど…あんたの瞳はいつもと違うわね。きらきらと輝いてるっていうかさぁ。何か特別なことでもあったんじゃない?」
「……え?なんでわかるの?」
「そりゃあ、ねぇ。」
「そりゃあ、ねえ……?まあ、いいや。じゃあ、何があったと思う?!」
「うーん」由香は足りない頭を回転させてから、ニヤリと笑って、「わかった!カラー・コンタクトにしたのね?」と真剣に言った。
「つまんない」蛍はつまらなくてズッコケてしまった。やっぱり由香も低レベルだ。
螢は息を呑み、心臓が二回打ってから、「つまんないこといわないでよ」といった。 しばらくしてから由香は、
「そうだ!早いとこ『ムーン・ライト』に行きましょうよ!」と無邪気な笑みでいった。「うん。そうだね!!」
”お馬鹿さん”コンビはそういうと駆け出していった。ちなみに『ムーン・ライト』とは英語で「月明り」の意味だが、まさかふたりが月面にいった訳ではない。『ムーン・ライト』とは蛍たちの住む青山町にある喫茶店の名前のことである。
「うーん。やっぱり、勉強のあとに飲むオレンジジュースって最高よねっ」
「いやいや。やっぱ、さぁ…コーラで決まりっしょ!」
蛍と由香の二人は、喫茶店『ムーン・ライト』のテーブルに座って顔を見合わせて、くだらない話をしていた。
「やあ、蛍ちゃん、由香ちゃん」
喫茶店『ムーン・ライト』でアルバイトをしている蛍たちの一年先輩の鈴木直樹が笑顔で声をかけてきた。この男の子は、けっこうイケメンだ。だが、いかんせん男の「ダンディズム」だとか黒人男性にありがちな「セクシーさ」だとかは微塵もみられない。何処にでもいるような普通の男の子。誰もが「優しそうだね」と感じてしまうような少年だ。
彼は確かに不思議な印象を与える人物だった。年は螢たちと同じように見える。すらりと細い身体に、がっちりとした肩や首がクールな感じにみえる。ちょっと見には彼の制服はぴったりなのだが、唯一、瞳だけはきらきら光ってみえる。
鈴木先輩…っ。蛍は鈴木直樹と、フト、目が合って、ポッと頬を赤くした。恥ずかしかった。じつは蛍は鈴木先輩のことが好きだった…いや憧れていたのだ。惚れていた…のだ。 ラブ・アット・ファースト・サイト(一目惚れ)。
いやいや、ファースト・サイトではない!なぜなら以前から存在は知っていたのだから…。
愛や恋とは、ある種、突発的なものであるのかもしれない。「恋愛のおまじない」に毒されると「理性」や「知性」があっても逃げることは出来ないのかも知れない。…愛には「エロス(愛欲)」「クピード(欲望)」そして「アガーペ(神の愛)」などがある。
エロス、クピード…などというとなんとなく俗欲的な…下半身的な…というニュアンスがしないでもない。だが、それらはある種の意味あいがあるのだ。エロスとは人間関係ノなかで芽生える愛であり、クピードは欲望…言い換えれば「自分はこうありたい!」というハングリー精神ともいえる。…アガーペは、
レイモンド・チャンドラー著「長いお別れ」の主人公フィリップ・マローウの有名な台詞「タフでなければ生きていけない。…優しくなければ生きる資格はない」という優しさと同意語だ。他人を思いやる優しさ、博愛「他人の痛みを自分の痛みのように考えて、時にはともに涙を流し、そして神のような心で他人を愛していく」
たとえば、マザー・テレサのように…。ああいう聖なる愛こそがアガーペなのだ。
ところが日本ではどうか?
遊ぶ金欲しさ、ブランド品欲しさに「援助交際」などと称して売春し、「オヤジ狩り」などと称して強盗する。陰湿なイジメを繰りかえして自殺に追いこんでもなお反省もなにもしない。平気で他人に罵声を浴びせ掛けたり投石するメンタリティー。
こういう連中には「愛」を語る資格などない!といえなくないだろうか?
…話しを元に戻そう。
「…あたしさぁっ。今度のテスト…けっこう自信あんだ。もしかしたらクラスで一番かもしんないよぉっ」
鈴木が立ち去って、しばらくしてから、蛍は甘ったるい声で由香にそう言った。
「ああ、わかってるわよ。…クラスで一番の最下位ってことでしょう?…いつものことじゃないの」
「…ち、違うわよ!!その逆!」蛍は反発して、オーバ・ジェスチャーで明るく宣言した。「今度のテストで、あたしは「クラスで一番のトップ」になってやるんだからぁっ!」
由香は呆れて眉を少しだけ動かして「そりゃあ無理だわね。…例え地球が滅んだって、宇宙人が攻めてきたって…ありえないわよ!阪神タイガースがリーグ優勝する確率くらいに無理な話ね。ーいわば、そんなことをいうのは、クレイッ……クレイターよ」
「クレイター?何よ、それっ?!どういう意味なのよぉっ」蛍は皮肉っぽく尋ねた。
「……クレッターだったかしら…?クリッター?クラッター?クラッカー……?」由香は足りない頭をひねったが答えが出ずに、ついに、そんな自分自身に癇癪を起こした。「もおっ!!なんで私ってば…いつもいつもこんななのよオ!」
「そりゃあ由香ちゃんが、「お馬鹿さん」だからじゃないのかなぁ」
蛍は堂々と熱意をこめて皮肉をいった。
「な、な、なんですって?!あんたねぇ!あんたみたいな本物の「お馬鹿さん」にそんなこといわれたくないわねぇっ」目を火のようにぎらつかせて、由香はいった。
「あんたはいつもいつも、ほとんど、毎日、テストで5点とか0点とかとってるじゃないのよぉ!そんな人に「お馬鹿さん」なんて言われたくないですよぉだ!この馬鹿蛍!」
蛍はきっと由香を見た。「ち、ちょっとさぁ!それってば言い過ぎなんじゃないの?!」”憤慨して叫んだ。「由香ちゃんだってさぁっ、テストで6点とか1点とかばっかじゃんよぉっ!!ほとんど私と変わらないじゃんよ!!」
「じゃあねぇ」由香は切り返した。「じゃあ、一+一は?」
「…え?」蛍は少し考えてから、自信あり気に「そりゃあ決まってるっしょ?!もちろん漢字の”田”よ」
「はっ?」由香はそう声を出してから、馬鹿馬鹿しい、という顔でニヤリと笑って、
「そりゃあ、あんた。トンチじゃないのっ。金太郎じゃあるまいしさあっ」
「…違うよ。トンチで有名なのは…花咲か爺さんだよぉ」
「ええっ!そうだっけ?でも確か…牛若丸だったような気もするけどぉ…」
”出来そこない”のふたりは頭をひねった。冗談でいってるのではなく本当に知らないところは甚だ滑稽だ。(ちなみにトンチで有名なのはキッチョムさんだったり一休さんなどだ)
フト、蛍と由香はじっと顔をのぞきこんだ。そして、何もかも忘れたかのようにほんわりとして、
「まぁ、いいか!そんなことどうだって!!」
と声をそろえて笑いあっていた。
魔界とは、文字通り「魔物の住む世界」のことである。ギリシア神話でいえばハデスが支配する冥界に似ている。石灰岩質の岩山ま多い地域に薄暗い鍾乳洞があって、そうした巨大な空間が冥界である。ハデスはその冥界の王だ。そして魔界をいま支配するのは魔の女王ダンカルトだった。ダンカルトは石造りの魔物のような大きな化物だ。
薄暗い空間。長い支柱…。魔界の「三騎士」とよばれる人間らはゆっくりと魔の女王の前へと進んだ。この「三騎士」と呼ばれた人間たち…いや、正確には人間の姿をした魔物の名は、アラカン、フィーロス、ダビデ、であり、アラカンとは「魔天使」アルカンのことだ。アラカン、ダビデは男性の姿をした魔物で、フィーロスは美貌と知性と残忍性をかねそなえた女性の姿をしている。スマートな体躯、細長い顔に足首、きらきらした髪、鷹のような鋭い目、肌は青白く透明に近い。服装はまるでナチスのゲシュタポが着ていたような「道徳上好ましくない」ものでもある。腰には重そうなベルト、突撃隊のようなアグレッシヴなロング・ブーツ…。
まさに人類にとって、ペルソナ・ノン・グラータ(好ましくない人物)たちである。
フィーロスはダビデとピッタリとくっついて立ち、魔の女王ダンカルトと向き合った。忠僕アラカン、ダビデ、フィーロスは尊敬的で丁重な言葉で、
「御機嫌うるわしゆう、ダンカルトさま」と挨拶をして頭をさげた。魔の女王ダンカルトはスペインのガウディの塔くらいに巨大で凄まじい存在感がある。
「地上の侵略の具合はどうか?」
ダンカルトは低く響く声で、穏やかな口調のままいった。
「はっ。」アラカンの太い眉がピクリと動いた。
「誠にこのましい状態にあるといえます。ですが…地上を支配するためには、伝説の「トゥインクル・ストーン」という輝石が必要となるのです!」ここぞとばかりに、アラカンは「輝石」のことについて熱心に説明した。しかし、ダンカルトは表情ひとつかえなかった。
「トゥインクル・ストーンがなければ、我々魔界の者は…地上でわずか数時間しか行動することが出来ません。そして、その「輝石」はピュアな心を持った人間だけが身体の中に持っているものなのです!」
「ならば…なぜ、その石を奪ってこないのだ!」魔の女王の顔がゆがんだ。しかし、すぐに態度を和らげた。
「ダンカルト様!すでにピュアな心をもっていると考えられる人間の娘をみつけております」
ダビデはいった。絶妙のコンビネーションだった。
「ほぉ……それは誰だ?」
「この娘です」と、ダビデは熱っぽい口調で答えた。そしてその次の瞬間、ダビデの指差す空間にホロ・グラム(立体映像)がゆっくりと浮かびあがった。その映像は、とてもはかない硝子細工のように輝いていた。そして少しだけ幻想的でもあった。
だが、そうしたメランコリックな気分には浸ってられないのが現実というものだ。
それはそうだろう。なんせ、その立体映像に浮かび上がった人物とは、何と、赤井由香だったからだ…。蛍の親友…。主人公のかけがえもない友…。そして「小悪魔」的な美少女、由香だ。どことなく、ジョディー・フォスターを憎ったらしくしたようなコケテッシュな魅力を持つ少女…。
喫茶店で、思いっきり「馬鹿話」に花を咲かせた蛍は、「じゃあ!また明日ねっ、由香ちゃん」と明るく言って由香と別れた。もう、陽も暮れようとしている頃で、蛍はそんなどことなく寂しげな街路道を一人で歩いていた。淡いセピアが辺りを包む。うすい雲がオレンジに染まり、早足で流れていく。それは、幻想、だ。
だが、けして「黄昏て」ではない。むしろウキウキとした気分で歩いていた。
「明日の、テスト結果が楽しみだわ」
と、嬉しさでヤニ上がっていたのだ。非常に低いメンタリティだ。自分の実力でテストを受けたわけでもないのに……。この少女には恥を知る心…というものがどこにも存在していないのだ。
「ねぇ、ねえ、蛍ちゃん!蛍ちゃん!蛍ちゃんってば!」
いままで、どこかへ消えてて姿を現さなかった妖精セーラがフイに飛んできて、そう声をかけた。ひさしぶりのことであった。螢は思わず息を呑んだ。
「なによ、セーラ。あんたいままでどこにいってたのよ?」
「…うーん、ちょっとね。それよりさぁ…」セーラは少し微笑んで、丁重に言葉を選んで、「あの、蛍ちゃん。そろそろ封印とかしてみちゃったりしてくれないかしら?」
その言葉をさえぎるように、蛍は、
「嫌です!!」と言って、プイっと横を向いた。
「なによっ、もお。そんな言い方ってないでしょ!!」
セーラは反発して言った。「そんな性格だからダメなのよ!少しは正直になって「わかったわ」っとか言えないの?!」
「もぉっ、うるさいのよ。黙っててよ!だいたい、妖精のくせに人間様に文句を言うなんて、百年早いのよ!!」
セーラは、蛍のナマイキで傲慢な態度に対して、あまり感情的にはならなかった。ただ、「…あのねぇ、百年たったら、蛍ちゃんはもう生きてないでしょう?だから…いまいってるのよ」
と、控え目な言葉で母親のようにいった。
しかし、「お馬鹿さん」は、すでに遥か彼方へと遠ざかっていたので、何も答えなかった。セーラは頭痛がして、氷の杭を心臓に突き刺された感じの無力感と痛みを覚えた。
「…はぁ」セーラはなんだか疲れてしまい、そんな風にタメ息をついてから、「…本当に、あの蛍ちゃんが伝説の戦士なのかしら?もしかしたら私…勘違いしているだけだったりして…」と、心の底から呟いていた。
由香の家は、さほど広くない。でもまぁ、日本という島国で「豪邸」などというのはまず無理な話しだ。地方ならまだしも、蛍や由香たちの住む青山町は埼玉という首都圏の東京に近い場所にあるからだ。
「……こんなもんかしらねぇ!」
夜もだいぶ過ぎた頃、赤井由香は自分の部屋で、机にむかって真剣な表情でいった。そして、自信ありげにニヤリと微笑んだ。興奮し、頬が火照ってきた。
別に「お勉強」をしている訳ではない。この少女の特技ともいえる「絵」を描いていたのである。「絵」とひとことでいってもいろいろある。古典、写実、印象、抽象、シュールレアリズム…。その中で由香という美少女は「印象派が好き」なのであり「印象派のなかでも「やっぱりルノワールが最高よっ!」
と、いつも考えているのである。
とにかく、そう思っている由香はよく少女画を描いている。それは別に悪いことではない。可愛らしい少女にはアーティスティック・チャームがあるからだ。広告的にいえば、「美女と子供と動物」は注目を集める三大要素だ。そういう意味からいっても、美少女画は注目を集めるのには理想的ともいえる。
そして、今夜も、由香はスケッチブックに少女画をスラスラと描いたのである。それがうまく描けたので、
「…こんなもんかしらねぇ」
と、思わずニヤリとしたのである。それは、きらきらと輝く表情。由香は、命がけで絵画を愛した。
しかし、才能溢れる(かは知らないが)由香をジッと睨んでいる人間がいた。いや、人間ではなく魔物の「三騎士」のひとり、ダビデである。
「あの娘か……?」
ダビデは夜空にフワリと浮きながら、窓からみえる由香の横顔を遠くから観察して、恐ろしいくらい低い声でいった。……
「よし。ー次、青沢っ、青沢蛍!」
次の日の教室で、テスト用紙が返されていたる担任の神保先生に呼ばれて、蛍は冷静さを保ちながら教壇の前まで歩いていった。そして…、
「…あのぁん」
と、意味不明の言葉を呟きつつ、先生の手からテスト用紙を掴みとった。
いつも「冷酷で無慈悲な機械」と呼ばれて恐れられていた神保先生は、驚愕するほどにほんわりと微笑んだ。
「ほ、蛍っ!!すごいじゃないか!!先生、びっくりしたよ。…お前もやれば出来るんじゃないか!」
神保先生はとても魅力的な表情で、蛍を褒めて、鋭い歯をきらきらと見せて笑った。
「えっ?」蛍は弾かれたように、右手に握っていたテスト用紙をバッと開いて慌てて覗き見た。そして、次の瞬間、
「う、嘘つ!!」と驚きの声を上げた。なんと、九十点だったのだ。蛍は感動して、
「…九十点なんて、いままでとったことないよ。…夢じゃないのかなぁ…?!」
と、呟いた。いや、夢ではない!しかし、夢のほうがよかったのではないかと思う。自分の実力でテストをうけた訳ではないし、こうした嘘やズルはすぐにバレるものだからだ。「みんな、蛍がこのクラスのトップだ!なんとこの難しいテストで九十点(カンニングしたなら百点とれるのでは?)という成績だ!みんなも青沢を見習って、勉強をしっかりやるんだぞ!」
神保先生は堂々と、そして青沢蛍を誇らし気にアピールして大声で宣言した。
「青沢蛍はバカではなかった!!やれば出来る人間だったのだ!」
クラスの同級生たちの驚き、センセーションは凄まじいものがあった。驚愕、狂喜乱舞、喚声と拍手。とにかく、”出来そこない”の変貌はクラスの話題となったのであった。
通路の掲示板に張り出された成績表の順位をジッと見て、ニヤニヤしているのはもちろん蛍だった。そんなにたいした順位ではない。しかし「お馬鹿さん」にとっては奇跡的な順位でもあった。ー学年で82位だ。
「へへへへへへ…っ」「やっぱり、さあっ。あんた絶対にカンニングしたでしょう?」
となりでジッと順位表を見ていた由香が、そう嫌味っぽく尋ねた。「あんたが学年で82位だなんてさぁ…、まさに、ミラ……ミラージュ…ねっ!」
「もおっ、何をいってんだかぁっ。そういうのを負け惜しみっていうのよォーっだ!」
蛍はニヤリと言った。由香は癪にさわって、「だ、誰がっ?!誰があんたなんかに!!」
と、顔を赤くして怒鳴った。
フト、ほとんど何の存在感もなく、一人のちいさな美少女が歩いてきて、順位表の前で立ち止まった。この女の子は、いつでも学年トップの成績をとっている「知的レベルの高い」お嬢さん、だ。…蛍たちとは人間が違う。
知性と教養と才能にあふれ、しかも美貌をも身につけたチャーミングな美少女だ。男の子なら誰もが好きになるような、可愛らしくておとなしい文学美少女…である。いや、秀才少女である。知性的というと、どこか「冷酷な人間」のようにも考えられるが、そんなことは微塵もない。この美少女は、他人の痛みを知る…博愛に満ちた性格なのである。だけど、その分、おとなし過ぎていつもチャンスを逃してしまうほどナーバスでもある。
しかし、彼女には素晴らしいチャームがある。
なんといってもインテリジェンスに裏付けされたルックスだ。丸い顔、長くてさらさらした黒髪は両肩でおさげにしている。そして、おおきくピュアな瞳はこの少女のおとなしさを現し、全身は細くて肌は真っ白だ。胸はやっぱり大きくないけれど、それも少女らしさをあらわしている。ぴしっと制服を着て、背は低く、それも可愛い。
その愛らしい唇から発せられる声は「薔薇色の声」、というより「よくききとれない声」でもある。あまりにも「か弱い」ので響かないのだ。
その少女は掲示板を上目使いでみて、何の表情もみせずに、そのうち歩き去った。
「…あの子だれ?ずい分とおとなしそうなこじゃないの」
「あんた知らないのっ?まったく「お馬鹿さん」なんだからっ。一年A組の秀才少女、黒野有紀ちゃんよ。いつもいつも学年トップの成績をとるんで有名なこよ」
由香はインテリのように蛍に教えた。そして「あんたとは頭の出来がちがうって訳ね!」と続けた。
「ひとのこと言えないでしょ!」
蛍は思わず由香に飛び蹴りをくらわした。
夕方。あらゆるものがオレンジ色に染まる時刻…そして空間。可憐な夕日とほんわりほんわりと揺れる雲たち。きらきらと光るファンタジック・ビジョン。それは永遠のように胸を締め付ける。なんともいえない景色だ。こういうものを大事にすべきだ。二人は思う。そして、螢と由香はそれを愛した。
何ともいえないそんなしんと夕暮れの街路地を蛍と由香は歩いていた。ーそして、
「じゃあ由香ちゃん、また明日ね」といってふたりは別れた。しばらく歩いた由香は「ミッド・ナイト・ピース・ラブ・フォーエバー…」「ぬしの名は。?♪君の全全全…」と上機嫌でなにかのアニメソングを口ずさみ、スキップした。もう蛍は、曲がり角を進んでいたので、姿は、見えなくなっていた。しかし、由香にとっては「そんなことはどうでもいい」ことであった。彼女の性格は、蛍のような「寂しがりやの甘えん坊」ではなくて「孤高を守る芸術家タイプ」なのだ。それが由香のパーソナリティだ。そして、それが彼女の強さだ。何が彼女をそこまで運んでしまったのだろう?しかし、そんな平凡で幸福な気分も、長続きはしなかった。おの残忍な「三騎士」のひとり、ダビデが由香に襲いかかったからだ。
「きゃああぁぁーっ!!」
由香の激しい悲鳴を耳にした蛍は、ハッとして駆け出した。由香ちゃんが危ない!
ダビデは「おとなしくしろ!」と、暴れる由香を押さえ込んで、左手を彼女の胸元にあてた。赤井由香の可憐な胸元から赤色の閃光が飛び放たれていく。と、由香は、
「ううっ…」と小さくうなって気絶してしまった。だが、ダビデの期待していた通りにはならなかった。ダビデは怒りで声も震え、支離滅裂な言葉を発していた。
「くそっ。この娘は、トゥインクル・ストーンの持ち主ではない!」
ダビデは顔をしかめて吐き捨てるようにいった。やがて由香の胸元から放たれていた閃光は輝きを失い、そしてフウッと音もなく消えた。次の瞬間、ダビデは、
「死んでしまえ!」と、ドスのきいた越えで叫ぶと由香の首根っこを締め始めた。このままでは赤井由香は死んでしまう!
「ゆ、由香ちゃん!!」
やっと駆け付けた蛍はそう叫ぶと、頭から冷水をかけられたかのように驚愕して立ち尽くしてしまった。いったいどうしたらいいの?!あまりの恐ろしさで全身が小刻みに震えた。両脚がガタガタと鳴る。長くさらさらとした髪の毛が逆立つ。戦慄と恐怖で、体の力が抜けて、足はもつれる。「何やってるのっ?!蛍ちゃん、封印よ!封印するのよ!」
いままで何処かに姿を消していた妖精セーラが猛スピードで飛んできて、慌てた口調で叫んだ。
「で、でも…」蛍は躊躇しながらも震える声で「…へ…封印ってどうするんだっけ…?!」「お札よ、魔物を封印せよ、よ!もってる赤いお札をかざして、いうの!叫ぶの!」
セーラは熱意を込めて、祈るようにいった。もうやるしかないのよ!封印よ、蛍ちゃん! 蛍は大きく息を吐くと決心したように眉をキッとつりあげて、お札に手をかけた。そして、おもいっきり前にかざして、
「お札よ、魔物を封印せよ!」
と、燐とした声で叫んだ。ー次の瞬間、カッ、と前にかざしていたお札から青色に輝く閃光が四方八方へと飛び散り、しだいに蛍の身体をつつみこんだ。
そして、ついに、「封印」しようと光の塊が魔物に向かった。魔物はよけたが、あの蛍が、伝説の戦士マジック・エンジェルになったのだ。
魔物を封印する、マジック・エンジェルに…。
螢は魔法のお札に驚き、
「なに…これっ?どうなってんのっ?!」
と、やっとのことで声を出した。息がするのもやっとで、心臓が止まりそうだ。
「あなたは伝説の戦士「マジック・エンジェル」に覚醒したのよ!人類を救うために地上に舞い降りた戦士…その戦士へと覚醒したのよ!」セーラは嬉しそうに熱っぽく続けた。「蛍ちゃん……あなたは伝説の戦士「マジック・エンジェル」!…そのリーダーのマジック・エンジェル・ブルーよ!!」
「え……っ?!」蛍は少し疑問を浮かばせて「でも…リーダーって、ひとりっきゃいないじゃんよぉつ」と皮肉をいった。
「…うーん。」妖精は少し言葉をつまらせてから「そのことは後で詳しく話すから、……とにかく、戦うのよ!!」と大声でいった。
「…うん。わかった!」
蛍はそううなづくとなんとなくだが戦闘体制に入った。
ダビデはほんの一瞬、伝説の戦士の覚醒に対して驚いて立ち尽くした。が、すぐに顔をギラリと鋭くして、由香をまるでゴミクズのように路面に投げ捨てると、蛍と対峙し、
「くらえっ!」
と、両手を前方にかざして、手から光矢を何度も放って攻撃してきた。蛍はなんとかその攻撃を間一髪「うああぁっつ!!」と悲鳴をあげてかわした。その瞬間、彼女の立っていたアスファルトの路面が激しく爆発した。
ダビデは手から光矢を放つ。間一髪、蛍はよけた。
何度も攻撃をかわす。だが、攻撃をかわしよけるだけでは敵に勝てない。
「うわ!きゃあ!」攻撃は多岐にわたり、ダビデは“負け犬”のように逃げてばかりの戦士に苛立つ。「おの負け犬の魔術戦士め!死ねー!」
「蛍ちゃん、必殺技を使うのよ!!」
「え?!…必殺技って……どうすんのっ?!」
セーラは大慌てで敵の攻撃から逃げ回る蛍に大声で教えた。「レインボー・アタックよっ!!そう叫んで、両手をこうして前に突き出してポーズをとるの!」
「…えっ?!え?レイン……なにっ?!…うあっ」
「レインボー!」セーラは戸惑う蛍に少し感情的になって叫んだ。「レインボー・アタックっ!!」
わかった!わかった!わかった!!…わかったわよ!やればいいんでしょう!!いいえ、やらなくちゃあ!ーよし!
蛍はキッと目を鋭く輝かせると、両手を前方に突き出して、
「レインボーっ…」と叫び、続けて「…アターック!!」と大声で全身の力を込めて叫んだ。ビュウウ…ッ。あらゆる精霊たちのオーラが彼女の手のお札に吸い寄せられるかのように集まった。そして、次の瞬間、蛍の両手に輝かしい剣が出現し、まさにレインボー(虹)がダビデに向かってめまぐるしいスピードで放たれた。…七色に輝きつつ、ダビデにむかって空間を走る稲妻・ステロペスと雷鳴・ブロンテス、そして虹色の閃光・アルゲス!
「うああぁぁっ!」
レインボー・アタックの直撃をなんとかかわしたダビデは衝撃でかなり後方に吹き飛ばされた。そして、倒れ込んだ。掌に血が滲み、激痛で意識を失いそうになった。
「や、やったわ!」
「はやく、封印して!」
蛍もセーラも声をあげた。強敵を倒した?!だが、そうではなかった。倒れ込んでいたダビデは起き上がった。そして、「覚えてろよ、マジックエンジェル!」と捨て台詞をはくと激しい風とともに魔界へと姿を消していったのだった。しかし、とにかく…たすかった。「これで馬鹿にした連中を見返せる?」「もちろん!」螢に、セーラはいった。
赤井由香は気を失ったまま道路に仰向けに横たわっていた。ジッとして動かないが、死んだ訳ではない。
「ゆ、由香ちゃん!!」蛍は大急ぎで由香のもとへと駆け寄った。彼女は体裁などぜんぜん気にしなかった。そんなことよりも由香の体のことの方が心配だったのだ。
蛍はそっと由香の上半身を抱き上げて、
「由香ちゃん…しっかりして…!!」
と、少し泣きそうになりながら呼び掛けた。そして、ジッと由香の顔を覗きこんだ。とても素晴らしい表情をしている。由香ちゃん!…由香ちゃん!
「うう…ん」しばらくして、赤井由香はそう微かにうなってから、静かにゆっくりゆっくりと瞳を少しずつ開け始めた。
「ゆ、由香ちゃん! だいしょうぶ?!」
「…ほ、蛍…。あなたが…たすけてくれたの?」
由香は魅力的な微笑みを浮かべて、しぼり出すような声を発した。そして「ありがとう」 と、優しい笑顔で覗き込んでいる親友にいった。
「ううん。いいのよ…へへへっ」
「あ。」フト、そんな風に嬉しさで涙を流している蛍の肩越しにいた妖精の姿を見付けて、由香は控え目な口調で、囁くように
「あなたは妖精?…蛍…の…お友達なの…?」
と尋ねた。「ーえっ?!」蛍とセーラのふたりは驚いて顔を見合わせた。どういうこと?!普通の人間には妖精の姿は絶対にみえないはずじゃなかったの!?なんで…?
「あ、あの由香ちゃん?!」
ふたりは由香のほうへ顔をむけたが、彼女は何も答えなかった。疲れと安堵感からか、可憐な笑みを浮かべながら静かに眠りについていたからだ。
「………由香ちゃん」
蛍とセーラはほっと安堵のタメ息を洩らして、ほんわりと微笑んでいた。
VOL・2 アーティスト由香、画壇デビューか?!
マジックエンジェル・レッド覚醒
夜。月がきらきら輝いて、グレーの雲がゆっくり流れてふわふわ浮いていた。しんと光る月は、もの悲しくさえあった。
蛍の部屋のド派手なパッション・ピンク色のベットに由香は安らかに眠っていた。蛍は、赤井由香を自分の部屋に誰にもみられずにそっと運ぶのに成功していた。
蛍は優しい表情のまま、そっと由香の額にあてていた水タオルをとりかえた。そして、「…由香ちゃんって生意気なところもいっぱいあるけど、こうして眠っている顔をじっとみると…なんか可愛らしい顔をしてるわねっ」
と、ほんわりと控え目な口調で微笑して呟いた。同じように顔を覗き込んでいたセーラも「ほんとよね」となぜか頷いていた。
不思議な現実と空間と時間の流れが、三人(もしくは二人と一種)を包み込んでいた。 しばらくすると、由香の睫が少し動いた。
「ううん…」由香はやがて、瞳をゆっくりゆっくりと開けて目を覚まし、上半身を起こした。だけど、なんとなく「アタタ…」と頭が少し痛くなって両手でコメカミを押さえた。 いけない!セーラ弾かれたように蛍の背中のうしろへ隠れようと大慌てで飛んだ。
「あっ、いいのよ。隠れなくても…」
由香がそんなふうに丁重な言葉で妖精に声をかけた。ーえ?なんで?!
「……あ、あのぉ。」
「蛍ちゃん、いるんでしょ?!お風呂冷めちゃうといけないから…早くはいっちゃいなさいね」
妖精のオドオドとした呟きをさえぎるように、部屋の外の廊下から、蛍の母親「雅子ママ」の透き通る声がきこえた。雅子ママこと、青沢雅子は現在、四十才ではあるがけして「ブヨブヨの醜いオバハン」ではない。その美貌たるや、いまは亡きオードリー・ヘプバーンを日本風にしたくらい素晴らしい。
細身で長身、長い睫に手足…。蛍はこの母親の血を受け継いだのかも知れない。
「あ、うん!わかったわ、雅子ママ」
蛍は廊下の雅子ママに元気にいった。ちなみに、雅子ママは「蛍のような」馬鹿ではない。青沢蛍の頭の悪さは後天的なものである。
「あ、いけない!」
由香は何かを思い出したらしく、そう大声で叫んだ。そして、ベットからバッと飛び起きて、
「じゃあ、蛍!私、急いでるから帰るね!!」といって駆け出した。
「あ、ちょっと、由香ちゃん!」
由香は、蛍の声を無視するように扉を開けて、フト、振り返ってウインクをして微笑んで「じゃあ、蛍。妖精さん。またね!」
と、駆け去ってしまった。
「妖精さん…だってさぁ」ふたりはそう呟くしかなかった。
きらきら…。きらきらとした夜。まるで降ってくるような星座…夜空のパノラマだ。その星座の中で、一番輝かしい光を放つ赤い星が、由香の「お気に入り」の星だ。
「今夜も、ルノワールの赤い瞳、が眩しいわ」
フト、由香は誰もいない道路で立ち止まって、夜空を見上げて呟いた。そして、なんとなく遠くを見るような寂しげな目になった。「ルノワールの赤い瞳」とは由香のオリジナル・ネーミングであって、そんな名前の星は存在しない。だが、「赤い瞳」とは、この少女にとっての「夢」「目標」「希望」そのものだ。赤色だから「情熱」でもある。
しかし、夢みるのも一瞬で、
「いけないっ!こんなことしてられなかったんだわっ!早いとこ絵を描き上げなくちゃあ!…サロンの締切りに間に合わなくなっちゃうよ!!」
由香はひとりごとを言ってから、弾かれたように駆け出した。サロン!サロン!サロン・デ・ラート!…締切りは後、数週間後なのよ!!
由香が帰宅すると、平凡な母親が台所から、「あら、由香、おかえり」と声をかけた。そして「あなた…いったい今、何時だと思ってるの?少しは早く帰って勉強するとか…」 と、小言を言った。「もぉっ、ほっといてよ!」由香は冗談めかしにそう答えるだけだった。それから、彼女は、フト、リビングでテレビを観ている父親の存在に気付いて足をとめ、「パパ、いつスケッチ旅行から帰ったの?!」と、明るい笑顔になった。
…そう、由香は、「凡人」の母親は嫌いだったが、「天才画家」の父親は大好きだったのだ。
「あぁ、ついさっき火星のコロニー(宇宙空間に浮かぶ人口衛星巨大都市)からスペースシャトルで、ネオ成田空港に着いて帰ってきたばかりだよ」
由香の父親。少女の誇り。憧れの父は、もの静かな口調でそう答えた。この父親の名前は赤井宝林という。ルックスは由香の大好きなルノワールのようにも見える。細身、パリジャンのようなスーツ、片手にもったパイプ、そしておだやかな瞳の五十才。 宝林とは、実はペンネームだ。本当は、赤井大という。だい…じゃない。まさる…だ。日本を代表する洋画家であり「天才」と呼ばれているくらい凄いひとだ。
「じゃあ、パパ」
由香は魅力的な笑顔を父親にみせると、自分の部屋へと駆け出した。
ちなみに、宝林は、お馬鹿の蛍のように「アニメ番組」をみていた訳でも、アイドル歌手がよく出没する「ミュージックS」という音楽番組をみていた訳でもないし、ましてや低レベルのワイドショーをみていた訳でもない。
「週刊美術」というNHHKの教養番組をジックリみていただけである。…
由香の部屋は、お馬鹿の蛍のような少女趣味系の部屋ではない。というよりほとんど何もない。あるのは、おおきなキャンバスの山。絵の具箱にパレット…筆…。スケッチ・ブック…それと素朴なベットだけだ。それが彼女らしい。ほんわりした空間だ。
どこにも教科書や哲学書・参考書などないのはこの少女のイグノランス(無知)さの現れでもある。でも…本は山のようにある。しかし、それらは美術雑誌である。ルノワール特集、ドガ、マネ、アングル、シャガール、ゴヤ、ダリ…著名な作家の名前が並んでいる。「…とにかく、頑張らなくちゃ!パパに負けてられないわ」
由香は懸命に五十号の大作に取り掛かっていた。かなりにピッチで筆がキャンバス上を踊り狂う。繊細なタッチ、表現力、絵の具の塗り方…。それは、なにか少女らしい可憐さが漂っていて印象的なきらきらと光るような絵だ。
絵のテーマは、やはり少女である。可愛らしいパリ・ジェンヌの日常の生活と喜び・幸福と夢…。なんのことはない……ルノワール風の絵である!!
しかし、そんな自信満々の由香も、
「……ううん」と、筆をとめてから少し不安気に瞳を閉じていた。心の中での葛藤。
「サロンで入選できるかなぁ。でも…落ちたら…どうしよう。……私には絵しか…ないのに…さぁ」
由香は珍しく落ち込んだ口調で呟いていた。
一方、お馬鹿さんの部屋では、なにやら怪しげな二人組(蛍とセーラ)が真剣な表情で座って話をしていた。セーラが口火をきる。
「やっぱりおかしいわよ!私の姿がみえるなんてさぁ」
「でも…あたしにだって見えたんだから…」
「それは、蛍ちゃんが伝説の戦士だったからでしょう?!」
「…ううん」蛍はそわそわと立ち上がった。そして「あのさぁ。……テレビ観たいんだけどぉ。はやくしないと『セーラ・ムフーン』や『エヴァンゲリオム』や『カンタム・オリジン』映画『ぬしの名は。』『シンジン・ゴジラ』『銅魂』『進撃の阪神』(アニメ)が始まっちゃうのよねぇ」
と、馬鹿らしい主張をした。
「………え?」セーラは何とも情なくなった。なんでいつもいつも蛍ちゃんってばこうなのかしら?妖精は深く溜め息をついてから、
「あの蛍ちゃん。あの由香ちゃんって子、気をつけた方がいいわね。もしかしたら……魔界の手先かも知れないわよ」
「あはは…まさかぁ!」蛍はふりかえりもせずに一笑すると、リビングのTVでアニメ番組を観に部屋を出ていった。…なんとも低レベルな女の子である。…
次の日の朝。由香の自宅の玄関先。
由香は、元気いっぱいに学校に向かって
「いってきまぁーす!」
と駆け出した。そんな由香を呼び止めるため、「あ、待って由香」と宝林は声を出した。そして、ニコリと笑って振り返った愛娘に、
「実は、今週の金曜日に、東京銀座四丁目にある画廊で個展を開くんだ。よかったら、友達もつれてみにおいで!」と、告げた。もちろん由香は、
「はーい!」と明るく返事をしたのだった。
誰にでもなんらかの特技があるものだ。どんな人間にだって平等にチャンスは与えられる。そうしたチャンスを生かせないのは努力をしないからだろう。タレント(才能)などというものはダイヤの原石と同じで、磨かなくては光らないものだ。…そうした努力を、まがりなりにも、赤井由香はしているように思う。…レイジー(怠け者)の蛍とは大違いだ!
由香は、午後の部活の時間に、学校の美術室で静物をなにやらニヤニヤとしながらスケッチしていた。もちろん椅子に座ってだ。だけど、広い室内には誰もいなかった。
別に美術部員が赤井由香だだひとり…という訳ではない。単に、他の部員は「無気力」なだけであり、また由香ほどの才能もないだけ。だからサボってるのだ。
別に美術部員というものは、日本中の学校でもそうであるように五人くらいいればマシな方である。蛍と由香の学校と有紀の通う青山町学園では六人なのでかなりいい方なのだ。そしてどこでもそうなように、担任は「画家になれなかった」美術の先生であり、例によってこの先生もサボッているっていう訳である。
孤高のアーティスト由香はたった一人で……などと書いても仕方がない。
いつのまにか蛍が美術室に忍び込んでいて、真剣な表情で由香の背後から「絵」を覗き込んで、
「いやぁ、さすがは、天才画家”赤井たからばやし”の娘だねぇ。上手なもんだわ!」
と、感心してほめた。
「たからばやし…じゃなくて宝林よ!宝林!」
由香は少し呆れ顔でいった。蛍は、
「…そ、そんなことわかってるわよ。ジョークよ、ジョーク!」なんて言ってる。
ちなみに蛍は部活動はなにもやってない。幼稚さを生かして「マンガ部」にでも入部すればいいのかも知れない…。
「ねぇ、蛍」由香は、フト、筆を止めて、素直な顔で横にいる親友に「あんたも描いてみる?」と笑顔をみせた。
「うん、いいよ」蛍は自信たっぷりに返事をして「まあー…みててよっ。この蛍ちゃんの才能、才能ってもんをお見せするっしょ!!」
と、いってサラサラと何かを描きあげた。
「ーどう?」
「どれっ?」由香は絵を覗きみて、思わずズッコケてしまった。…蛍の描いたのは、何と、”トラエモン”というアニメの主人公だったからだ。しかも、随分とヘタクソである。
ひたすら蛍という女の子は低レベルだ!トラエモンなどくそっくらえだ!!
やがて夕暮れになって、蛍と由香はオレンジ色に染まる誰もいない下校道を、自宅にむかってトボトボと歩いていた。仲良しの二人…。オレンジの雲がゆっくりと流れていた。やがて、暗い夜がくる。二人はそれを待ちたい気にもなった。
「…そうだ。今度さぁ、うちのパパの個展があんだけどさぁ。どう?みんなと一緒に行かない?!」
「…あぁ。赤井たから…じゃなくて宝林さんのこてん…?こてん…っていうと古い話の?」「それは古典っ!」由香は静かに「個展っていうのは「個人が開催する展覧会」ってところかしらね」
「へぇーっ…」蛍はなんとなく感心した。そして、「もち(ろん)、その個展にいくっしょ!」と、明るくいった。ちなみに蛍に北海道系の訛りらしきものがあるのは別に北海道に住んでいたからではなくて、『北の故郷から…94初恋』とかいうテレビドラマの再放送を熱心に観ていたら口グセになっただけである。
「でもさぁ。」蛍は少し上目遣いで甘ったるい声で「私は、由香ちゃんが羨ましいよ。だってさぁ、絵の才能ってもんがあるんだもの…」と呟くようにいった。
「あんただって才能くらいあるわよ。例えば、あんたはアニメ・ソングを二百曲暗記しててカラオケで歌えるじゃないの」
「…でも、そんなの才能じゃないもん」
「……まぁ、ね」由香は冗談めかしにうなづいた。そして「まぁ、私の才能…いいえ、天才ってもんを見ててよね!絶対にサロン…つまり官展に入選して…いつかイタリアのパリに旅立つんだからっ!!」
「…かんてん…っていうとあのブヨブヨした…」
「ーそれは食べ物の寒天っ!」由香は感情的になって続けた。「私はパリに行ってさぁ。いつかは、日本の天才描家…もしくは日本の女ルノワールって呼ばれちゃったりする訳よ!」と夢を語った。いや、叫んだ。
「……ル、ルノワール……?」蛍はきょとんとして足りない頭で考えてから、「あぁっ!」と考えが浮かんだ。なんだ!ルノワールか!!
「へえーっ、由香ちやん…喫茶店始めるんだぁっ」
「…へっ?」
「だってルノワールって喫茶店の名前のことでしょ?よく、街にあるじゃん」
「なにいってんのよ!ルノワールってのはフランス人の印象派の画家の名前のことよ!!」
由香は思わず蛍に飛び蹴りをくらわした。
「……なんか、羨ましいなぁ。由香ちゃんには大きな夢があってさぁ。…私なんて何もないもんなぁっ。」
由香と別れた蛍は、ひとりっきりの黄昏た街路地を歩きながらそう呟いた。そして、少しだけ遠くをみるような寂しげな瞳になった。確かに、蛍には「大きな夢」はない。「小さな夢」もない。何もないのだ!
かなりの、自分に対しての失望感、諦めの気持ち、臆病者の気持ち、自分の無能さに対しての嫌悪感……それらは蛍のちいさなちいさな胸をえぐるには十分な程の大きさだった。「…はぁあ。」
なんとなく蛍は、大きく溜め息をつくしかなかった……。
赤井宝林の「個展」の準備はなんとかうまくいっていた。彼は、少し楽しそうな気分で、「絵」をどこに置くのかなどをアシスタントに指示していた。
「…あれがターゲットの男か……」
壁にもたれかかって、遠くから宝林の姿を覗きみていたフィーロスは冷酷な瞳のまま低い声でそう呟いていた。あれが「輝石」の持ち主…?!
「ねぇ、いこうよ個展っ!」
「ーこてんっていうと古い話しの…?」
「まぁ、いいからいいから!」由香は蛍の二度目のギャグをさえぎるように言うと、続けて、「さぁ、早く行きましょうよ!」
と、元気よく、蛍とあや、良子、奈美にいった。ちなみに、ここは学校の教室だ。そして、もう下校の時間である。
赤井宝林こと、由香のパパの個展開催の日になっていた。もう、金曜日だ。
こうして、お馬鹿さんと仲間たちは、教室を抜けて廊下をかっ歩して出した。…すると、 あの「可愛らしくておとなしい文学美少女」こと黒野有紀が、そんな五人とすれ違った。有紀はいつものようにうつ向き加減で、肌は病人のように青白い。しかし、可憐でもある。「お友達がひとりもいないのよ」という噂はじつは本当であって、秀才の美少女「黒野有紀」はいつも孤独だった。誰とも話せない。ダイアローグ(対話)ができない。いや、したくっても「お友達」がいない。
そんな影響だろうか?有紀の可愛らしい大きなおとなしそうな瞳の置くにはどこか「影」がある。ちいさな淡い桃色の唇は「暗さ」をあらわしているかのように、少しだけキュと閉じている。
彼女は「お勉強が出来る」「可愛らしい」そして「やさしい性格」……それだけの女の子なのかも知れない。それはそれで素晴らしいのだけれど、自分自身でパフォーマンスできない、もしくは表現できない…という性格はマイナス面が多すぎる。
誰だって「神」じゃないから、話しをしたり何かを見たりしなければ「そのひとの良さ」などわからないものだ。だから…黒野有紀という少女は他人からは「頭はいいかもしんないけど、なんかあの子暗いのよね。一緒にいるのも嫌って感じよね」といつも思われるのである。
でも、蛍や由香は違った。彼女らは、
「あ。あのぉ、有紀ちゃん」
と、少し遠慮気味ではあるけれど、ふりかえって、有紀の後ろ姿にそう声をかけた。
「……。」有紀は少し驚いた様子で、静かに立ち止まって蛍たちのほうへ振り向いた。有紀はちょっとドキドキしていた。なぜなら、そんな風に親しい口調で話しかけられたことがいままでなかったからだ。…私のこと…?
しかし、有紀はほとんど何の感情も顔に現さなかった。いや、その大きな瞳は、どこか恐怖心と嬉しさが混じったようにきらきらと輝いても見えた。
「……。」有紀は人見知りのはげしい性格を現すかのように、ジッと上目遣いの不安気な視線を蛍たちに向けていた。なんとなく有紀の手足や肩が微かにふるえても見える。
「……あ、あの…」有紀はやっとのことで、微かな声らしきものを発した。と、同時に気の弱い子供がよくやるように細長い両手首を胸元にオドオドと持ってきて…ギュッと両手をにぎりながら、また静かに黙りこんでしまった。……なんとも弱々しい女の子だ…。
有紀は確かに声を発した。しかし、それは蚊の鳴くように微かで、あまりにも繊細な声であったため、誰も発言したことには気付かなかった。
「あのさぁ、有紀ちゃん。私たち、これから…「絵」をみにいくことになってんのよ。」蛍に続いて由香が「そう。…それでさぁ。どう?一緒にいかない?楽しいかどうかはわからないけど、けっこうボンジョビ……じゃなくてエンジョイできるかもよ」
と、魅力的な笑顔でいった。
「……」有紀は微かに、ほとんど誰も気付かないくらいに、微かに口元に笑みを浮かべた。しかし、それも一瞬で、すぐに不安な顔になり、
「……あの、その……ごめんなさい…。私、これから塾にいかなくちゃならない…の。だから…そのぉ…」
と、オドオドと、蚊が囁くように呟いた。
だけども、やっぱり誰にも聞こえなかった。
「…え?有紀ちゃん、今、何かいった?」
「まさか!幻覚…じゃなくて幻惑…じゃなくて幻想…じやなくて幻々?!…ね」
「ちょっと。何、ゲンゲンゲンゲンいってんのよ。由香ちゃんってぱさぁ、頭悪いんだから…あんまり難しい『英語』使わないほうがいいよっ。「ぬしの名は。」?♪君の全全全…」
「な、なに言ってんだか、この馬鹿蛍!」
由香は少しムッときて怒鳴った。そして、気分を落ち着かせてから、おだやかな口調で、「あの、有紀ちゃん。一緒にいくわよね?」
「……あぁ。だから…その…私…」
やっぱり有紀の声はきこえない。
「ねぇ、いこうよぉ。一緒にさあっ。たいした絵じゃないけどさぁ」蛍は失礼なことをいった。由香は呆れて「ぁんたねぇ…いっていいことと悪いことがあんでしょ…?!」
「…あの…ごめんなさい。その…」
「……え?」
ほんの微かではあるが蛍と由香の二人組は有紀の弱々しい声を聞いた…ような気がした。「……え?え?え?」ふたりはオドオドと立ち尽くしている黒野有紀の口元に、静かに耳を近付けた。そして…、
「…あのっ。ごめんなさいね。もう一度、いってくれるかしら?」と明るくお願いした。「…あの…」有紀はやっと動揺した声で囁いた。「…だから……ごめんなさい。私…いけないわ」
「…?!何?」
「………いけないの」
「……あ?あぁ。いけない……え?行けないの?!」
「…えぇ。それじゃあ、私、これで……」有紀はそういうと、身を翻した。
「え?何っ?なんていったの?」
「……。」有紀は何も答えずに、そのまま可憐な足取りでゆっくりゆっくり歩き去った。 蛍と由香は、うーん、と頭をひねって「なんていったのかしら…ねぇ?」と思わず呟くしかなかった。
東京銀座四丁目の画廊「ギャレット・ラ・パームズ」の室内はさほど広くはない。
広くもない室内にはついたて板が並んでいて、絵は額に入れて吊されていた。その絵とはもちろん赤井宝林の洋画のことである。
蛍たちは個展会場へ向かって明るく、やはり「無駄話しながら」並んで歩いていた。
「あのねぇ。蛍ちゃん、蛍ちゃん!そんなことしている場合じゃないでしょっ」
突然、空からひらりととんできたセーラが蛍に近付いてきて、そんな風に呟いた。ほとんど、誰もがその存在を忘れるほどに、この妖精はどこかに姿を消していた。そんなこともあって…、
「…誰?あんたは誰かしら?あんまり姿がみえないんで私忘れちゃったよ」
と、蛍は冗談めかしにいった。
「あの…ねぇ。もおっ」妖精は少し言葉をつまらせてから。熱っぽい口調で「そんなことより…魔の女王「ダンカルト」の魔の手がこの地上に刻一刻と迫ってきているのよ。特訓とかしてさぁ…戦士としての自覚をもってもらわなくちゃ困るのよねぇ。それに…」
「まぁ、まぁ!」蛍はカラカラと笑っていった。「いいじゃん、今が楽しけりゃ!」
「…あのねぇ」セーラはやたらと呆れてしまった。まったく蛍ちゃんってば…。
「そういう考えだから…!!…あ、ちょっと待ってよ!」セーラは「お説教」を呟き出したが、それは無駄だった。蛍が、何も聞きもせずにスタスタと遠くまで歩いていったからだ。 そして、そんな蛍に付き合って呆れた時に口ずさむセリフ、口癖になってしまったロゴス(言葉)「…あのねぇ。もおっ、知らない!蛍ちゃんなんて大っ嫌い!」を溜め息まじりに妖精セーラはあもわず言ってしまうのである。そして、
「……なによ、何よ、もおっ!妖精だとおもって馬鹿にしちゃってさぁ!蛍ちゃんなんて……馬に蹴られて死んじゃえーっ!!」と可愛らしく癇癪を起こしてしまうのであった。
画廊「ギャレット・ラ・パームズ」の人気のない会場内の一角にたっていた赤井宝林は戦慄した。冷酷で無慈悲な魔物・フィーロスが襲いかかってきたからだ。
「…うっ」
フィーロスは「静かにしなさい」と、暴れる宝林を押さえ込んで、左手を宝林の胸元にあてた。宝林の胸元から白い閃光が四方八方に飛び散って放たれていくと、芸術家は「…ぐうっ」といって気を失って気絶してしまった。だが、フィーロスの期待どおりにはならなかった。フィーロスの望んでいたものは手に入らなかった。
「…なによ。もぉ。この男…トゥインクル・ストーンの持ち主ではないじゃないの!!」
フィーロスは怒りを顔に現して吐き捨てるようにそう言った。そして、しばらくして、「…そうだわ。この男を操って…例のマジックエンジェルをおびきだせば…」
フィーロスはそう呟いてニヤリと悪魔の笑みをうっすら浮かべると、鷹のような鋭い目をギラリと光らせた。そう、魔術をつかったのだ。
「…ーヴうっ」赤井宝林は悪魔のパペット(操り人形)と化して、控え目な瞳を曇らせ手、ギラリと眼光を赤色に輝かせていた。つまり、エクソシスト(悪魔払い師)の造語でいう「悪魔付き」になったのである…。
蛍たちは個展会場である画廊「ギャレット・ラ・パームズ」になんとか辿り着いていた。なんとか…とは、着くまでに、例によって「より道」を何度も繰り返したからである。個展会場はけっこう人込みがすごかった。そんな芸術の熱にすこしだけ押される感じで、蛍たちは会場をかっ歩していった。
「…あの…蛍ちゃん…蛍ちゃんってば……」
妖精はこりもせず「出来そこない」の耳元の近くをひらひらと舞い飛びながら呟いた。「蛍ちゃん…!ちょっと…無視しないでよ!!」
次の瞬間、蛍はセーラの顔をキッと睨んで「う、騒さいのよ!もおっ」と、なぜかポケットから殺虫スプレーを取りだして、噴射した。
「…ごほっ、ごほっ」セーラは煙りにむせかえってから、
「ち、ちょっと!ちょっと!なにするのよぉ。私はハエじゃないのよっ!!」
と、激しく憤慨して叫んだ。いや、怒鳴った。もおっ、何を考えてるのよ蛍ちゃんは?
「こんなことするなんて最低っ!!最低の人間のすることだわ!!動物虐待でWWFに訴えてやるんだからっ!!」
「WWFって…女子プロレスの団体か何か?!」
「…何いってんのよ!もおっ。……世界的な野生動物の保護基金のことよ!!なにが、女子プロレス団体よっ、馬鹿じゃないの?!」
蛍はセーラの言葉が癪に障った。「な、なによ!ちょっと!ちょっと!ちょっと!言い過ぎじゃないの?!それに、あんたいつから”野生動物”になったっていうの?!あんたこそ馬鹿じゃないの!」
「なんですって!」
「なによっ!」
こうして低レベルな「言い争い」が続くのだが、話しが長いのでカットする。…
由香は招待客らに挨拶をしていた父親に、「パパっ、パパっ!」と声をかけた。
「やぁ、由香」宝林はとても優しく笑顔のままで愛娘にいった。しかし、そうした幸福も一瞬で、宝林は急に、
「うぐあぁ…」と苦しそうにうなって頭をかかえてガクリと両膝を床につけてしまった。激痛で全身が小刻みに震えた。
由香は「パパっ、大丈夫?!しっかりして!」と声を出して父親にもとに駆け寄り、背中を擦った。…どうしちゃったの?!パパ!
「……あ」宝林の両目がギラリと鷹のようにあやしく光ったことに驚いて、由香はゆっくりと後ず去った。だが、パペットと化した父親は、そんな由香を見逃さなかった。次の瞬間、由香は「きゃあぁっ!」と悲鳴をあげて背後のかなり遠くの壁に激突して倒れこんだ。パペットと化した父親に殴り飛ばされたのだ!このままでは由香が危ない!
「ゆ、由香ちゃん!」
立ち尽くしていた蛍は驚愕して叫ぶと、不安気な表情をセーラのほうに向けた。
セーラは力強く勇気をもって「さぁ。蛍ちゃん、封印よ!戦うのよ!」と命じた。
「うん」蛍は両手をバッと大きく開いてから、決心したように眉をキッとツリ上げて、そしてお札に手をかけ、頭上へと振り上げた。
「お札よ、魔物を封印せよ!」
燐とした声が響いた。
しばらくして、フィーロスの、
「皆、殺してしまうのよ!」という冷酷な声がどこからか会場内に響き渡った。そしてそのフィーロスはパペットの宝林の横に姿をあらわして、もう一度「粛清」を命じた。
そんな時、いやその命令を遮るように、
「やめなさい!」
という、少女の可憐だが勇ましい声が響き渡った。その声の主は「伝説の戦士」青沢蛍だ。フィーロスらは、その声のした方角へ視線を向けた。そして、戦士と対峙して攻撃を開始した。
ドオォ・ンという爆風に吹き飛ばされ「うあっ!」っと蛍は床に激しく転がった。うつぶせに倒れた蛍は、
「あ、痛たたた…っ」と、身を起こして腰に手をあてて、そう情ない声を発した。まるで負け犬だ…。
何度も攻撃をよける。だが、攻撃をよけていても勝てはしない。光剣の乱射で、蛍の足元や壁はボロボロに破壊される!!!まともに当たったら……たぶん死ぬ!!
「わああ!きゃああ!」必死によける。「当たったら………死ぬ!!!!」
突然、由香が弾かれたように蛍の元に駆け寄って「蛍、だいじょうぶ!?」と心配して大声で言葉をかけた。「ゆ、由香ちゃん……」
次の瞬間…悲劇はおこった。フィーロスの放った光剣が鋭く目の前に迫ってきて、蛍はよける間もなくなって恐怖で身を震わせた。ギュッ!と絶望で目を閉じた。絶対絶命!
「ーぐうっ!」しかし、光剣の直撃を受けて、激痛に顔をゆがめたのは蛍ではなかった。それは、由香だった。彼女が、自分の身をなげうって、蛍という「親友」を守ったのだ。「ーゆ、由香ちゃん!」
蛍は思わず涙声で叫んだ。由香は、蛍の知っている「生意気」で「少し傲慢」な顔とは違っていた。激痛で表情はゆがんでいたけど、その美しく真っ白な肌も顔もセミ・ロングの髪の毛も、とてもきらきらと魅力的に輝いてみえた。まるで、マリア様のようだわ…。一瞬、蛍はそう思った。
「…ほ、蛍っ、怪我はない…?」
由香は激痛をがまんして微笑した。
「…あ、うん。でも……由香ちゃん」
「…そう、よかった…わ」
しかし、その微笑みも、次の瞬間、凍りついてしまった。
「由香ちゃん……私のために…こんな目に……」
「いいの…よ。私たち…親友…で……しょ?…」
由香はもう一度だけ微笑してから、静かに床に倒れ込んだ。蛍は悲しみのあまり言葉を失った。そして、顔を凍りつかせた。ビュウウ…ッ、という音に気付いて振り向いたとたん光剣が迫ってくるのを知ったからだ。彼女はちいさな悲鳴をあげて飛びのいた。
「うわっ!」
なんとか光剣をかわした。だが、今度は、フィーロスの両手から炎の剣が矢継ぎ早に放たれた。……直撃はなかった。が、蛍の近くの床面や壁にぶつかり、亀裂が走るとバウッ!と大爆発を起こした。なおも攻撃してくるフィーロスに底知れぬ恐怖を感じた蛍は、必死に、逃げ出した。ほんとに負け犬だ。
だが、次の瞬間、恐怖は頂点に達した。「うあぁっ!」蛍は何十という炎の剣に周りを取り囲まれ、行く手を遮られてしまったのだ。悲鳴すら掠れ、足をひっかけて転んだ蛍に、容赦なく炎の剣が迫る。くそう!必殺技レインボーアタックが効かない!!なんで??!!「レインボーアタック!」駄目だ!!なんで?!!!
「いやだぁーっ!誰かぁ、なんとかして!」
彼女は思わず涙声で絶叫した。
「痛っ!」蛍は手首に軽い傷を負った。と、その後、パペットと化した宝林が「ブアァッ!」とわけのわからない叫びをあげながら彼女に襲いかかった。由香の苦悩の表情や自分の人生で楽しかったことなどが蛍の頭の中に走馬燈のように駆け巡った。…殺される!私……死んじゃうの?!
「由香ちゃん、大丈夫?!しっかりするのよ!」
セーラは倒れ込んでいる由香に近付いて、少し泣きそうになりながら呼び掛けた。そして、じっと由香の顔を覗きこんだ。とてもきらきらとした表情をしている。
「う……痛たた…」しばらくして、由香は微かにうなって、全身を小刻みに震わせ、荒い息を何度もついた。…生きてるわ!
妖精は「ま、待っててね、由香ちゃん。いま、楽にしてあげるから……!!」と同情を込めた口調でいった。そして、「タターナ…」と声のトーンをおとして、燐とした表情をして左手の人差し指を天にかざして、
「タターナ・ラーマヴァーナ・アンダージュ・パ・ダクシオン!!」
と、”慈愛の神タターナそして天空の神ラーマヴァーナよ…癒しの風を与え給え”という意味の呪文を可愛らしい声で唱えた。すると、セーラの人差し指からきらきらと輝く癒しの風が吹いて由香の体を包み込んだ。やがて由香は瞳を開けて、
「…ううん。う……あ、あれっ?!」そんな風に驚いて、ゆっくりと起き上がった。そして、不思議そうに自分のからだを舐めまわすように視線を走らせた。「…な、なんで?!どこも痛くないし、傷もない。血もでてないわ!」
「由香ちゃん!」セーラは不思議そうに立ち尽くしている由香に熱心な口調でいった。
「あなたに出来るかどうかわからないけど…封印用のお札を渡すわ!」
「…?封印って何?!」
妖精は質問には答えずに燐とした顔で右手を頭上に伸ばして、「ラマス・ハパス…」と呪文を可憐な声でとなえた。すると、次の瞬間、セーラの右手から赤い閃光が四方八方に飛び散った。
「な、なんなの?!」
由香は思わず眩しくって瞳をぎゅっと閉じた。そして、しばらくしから目を開けると、「さぁ、由香ちゃん。…このお札を手にもってみて」と、セーラが微笑みながら右手に持った赤色のお札を差し出した。
「…なにこれ?…オモチャ…?」
「…あのねえ。…まぁ、いいから!もってみてよ!!」
由香はオドオドとお札を手にもって、
こんな安っぽいオモチャみたいなものがなんになるっていうの?」と、素直に尋ねた。「や、安っぽいオモチャ?!……あのねぇ。このぉ。……まぁねいいや。…それで「封印」するのよ!そのお札を天にかざして”魔物を封印せよ!”って叫ぶの!!」
「…え?」由香は呆れ顔で皮肉たっぷりな声で「なによそれ?オカルトアニメかなにかの観過ぎなんじゃないの?」
「…あのねぇ。もおっ!!」妖精は激しく反発して叫んだ。「ちょっと、ちょっと、ちょっと!蛍ちゃんじゃあるまいし、このセーラちゃんが「オカルトアニメ」なんてみると思ってる訳?馬鹿じゃないの?!」
「な、なによぉ!その言い方…頭くるわねぇ!この妖精ごときが!!だいたいあんたなんて空想の生き物じゃないのさぁ!」
「…なによっ、なによっ、なによっ!もぉっ!馬鹿にしてもらっちゃあ困るってもんよ!私たち妖精はあなたがたより偉いのよ。ビックで、ゴージャスで、スペシャルで、スーパーで、ハイパーな存在なのよ!…なにさぁ、由香ちゃんなんてぇ…馬に蹴られて死んじゃえーっ!!」と、妖精セーラは可愛らしい癇癪をおこした。
「馬なんて…いったいどこにいるっていうの?!」
「馬じゃなきゃ……カンガルーに蹴られてっ!」
「ここはオーストラリアかしら?」
「…じゃあ……ジャッキー・チェンにでも蹴られて死んじゃえーっ!」
「あんた香港映画の観すぎよ」
「…まぁね」セーラはそううなづいてから、熱意をこめて祈るようにいった。「…とにかく、やるしかないのよ!封印よ、由香ちゃん!!」
「…え?でも…さぁ」
由香は躊躇しながらも赤色のお札に手をかけた。そして、ゆっくりゆっくり頭上へと振り上げた。…もおっ、やりゃあいいんでしょう!
「えぇーと」
あ!そうだ!
「…お札よ間男を封印せよ!」
「……あのねぇ。間男じゃなくて魔物!お札よ、魔物を封印せよ!」
セーラは呆れて、抑圧のある声で叫んだ。
「馬鹿じゃないの?!」
「………もおっ、わかってるわよ。今のはギャグよ、ギャグ!やりゃあいいんでしょ?!」 由香は大きく息を吸いってから、
「お札よ、魔物を封印せよ!」
と、燐とした声で叫んだ。次の瞬間、カッと頭上にかざしたお札から赤色に輝く閃光が四方八方に飛び散り、しだいに由香の身体を包み込んだ。そして、赤色の光が消えると、フィーロスめがけて光が飛んだ。あの由香が伝説の戦士マジックエンジェルの仲間となったのだ。由香は、心臓が早鐘のように高鳴るのを感じた。
セーラは由香に伝説の戦士のことなどを耳打ちした。そして、
「とにかく、あの通り…蛍ちゃんが危ないわ!はやくいって闘うのよ!」と、大声で命令した。
あの通り…の蛍は、パペットと化した宝林から必死に逃げまわっていた。が、その姿はあまりにも滑稽である。まるで負け犬…いや三流コメディアンのようだ。
「もおっ!やだ、やだ、やだ、やだ、来ないでってばさぁっ!!」
蛍はそう涙声で叫ぶと「アタッ」と転んだ。…なによっ、なんで私だけこんな目に…?!「あははは…はやいとこそこの「お馬鹿さん」を殺しちゃいなさい!」フィーロスは笑った。
そんな時、
「スットップッよ!」
という、ちょっとイントネーションの間違った英語(STOP)が響いた。少女の猛々しい声。…もちろん声の主は、赤井由香だ。フィーロスとパペットは動きをとめ、声のした方角へ振り返った。
マジックエンジェルの由香は悠然とプリマ・ドンナのようにたって、
「ドント・ストップ!……じゃなくて…ストップ・アクション!もしくは…フリーズよ!この私が来たからには…もう悪いことをすることは許さないわよ!!罪を認めて私の前で堂々と謝罪しなさい!」と、正義の味方らしい口調で宣言した。
そして、戦闘体制に入った。
フィーロスはほんの一瞬、何がフリーズよ!何が謝罪よ!また”お馬鹿さん”が一匹増えたみたいね…と立ち尽くした。まぁ、いいわ…二匹とも殺してやるから!
フィーロスはニヤリと笑って由香と対峙し、
「地獄へ落ちなさい!お馬鹿さん」
と、両手から炎剣を矢継ぎ早に放って攻撃を開始した。由香はその攻撃を間一髪かわして、「うあぁっ!」と悲鳴をあげて転んだ。グアァッ、と近くの床や壁が爆発する。
「あ、由香ちゃん!由香ちゃん!」
負け犬の蛍は、心配して叫んだ。
急いでセーラが由香の元へと飛んで、
「由香ちゃん、必殺技を使うのよ!」
「必殺技って、コブラ・ツイストとかエンズイギリとか十六文キックとか?!」
妖精は大慌てで逃げ回る由香に怒鳴るように教えた。「レッド・ハリケーンよ!レッド・ハリケーンって叫んで、右手を弓のように頭上から降り下ろすのよ!!」
「……わかったわ!」
由香は、キッと目を鋭く輝かせると、右手をゆらゆらと蛇のように頭上にかかげて、
「レッド!…」と叫び、続けて「…ハリケーン!」と大声で全身の力を込めて右手を弓のように降り下ろして叫んだ。ビュウウ…ッ。右手のお札から輝かしく荒々しい「赤いハリケーン」が吹き荒れ、目にもとまらぬ速さできらきらと赤色に光りつつ、フィーロスに向かって放たれた。空間を走るハリケーン!!
「きゃあぁーっ!」
ハリケーンの直撃をうけて、フィーロスは悲鳴を上げた。そして、そのままどこかへ姿を消していった。次の瞬間、パペットと化していた宝林が人間の姿へともどって、気を失って床に倒れこんだ。
「ゆ、由香ちゃーん!!」
蛍は喜んで涙を流しながら由香のもとへ駆け寄った。「ほ、蛍!」そして、ふたりは感動的に強く強く抱き合った。
「どう?蛍。私の闘い方は……?」彼女は魅力的な表情で尋ねた。「とってもカッコよかったでしょう?」
蛍があっけにとられて目をやると、彼女は視線を受け止めてニコリとさりげなくいった。「負け犬のあんたよりは」
蛍は笑顔をみせた。さすがだ!さすが由香ちゃん……嫌味ったらしい。
「まぁ、そうね」蛍は明るい口調で答えた。
やがて、気絶していた宝林が起き上がって「うう…ん」と頭を軽く振った。由香は弾かれたように父親のもとへ駆け寄った。「パパっ!」
「ははは…。由香、そんなにビックリしたような顔しないで」
「じゃあ、ぶん殴られたって顔はどう?」
「なら、やってみせて」
由香はその表情をつくり、ふたりはぷっと笑いあった。そしてふたりは見つめ合い強く強く抱き合った。ほんわりほんわりとした抱擁。優しい優しいきらきらした時間が流れては過ぎていった。
そんな眩しい一瞬……それは平和の瞬間だ。
次の週の月曜日の昼間。さっさとお弁当をたいらげた蛍と由香は、だれもいない青山町学園の屋上で「フェンス」にもたれかかって話をしていた。
「……いろいろあったわね」と由香。
「そうね。いろいろ…♪人生いろいろ…ってな感じかなぁ。あははは…」
ふたりは、もうんなにもかも終わった(エンディング)とでもいいたげな雰囲気で空の青を遠い目付きで眺めながらしばらく黙りこんだ。
どこまでも透き通るような青い空、ゆらゆらふわふわと浮かぶ雲たち。ほんわりほんわりとした昼間のとき…。ソレハ青春の鼓動だ。
「そうそう、由香ちゃん。そういえばさぁ……かんてーん?!のほうはどうなった?」
「うーん」由香は少し残念な表情になって「…ダメだったわ。…落選しちゃった」と言って、しばらくして魅力的な笑顔を無理してみせた。
「…そう。そりゃあ残念だったわね。でも…まぁ、気にしないで。明日にや明日の雨が吹くっていうっしょ?」
「雨が吹く訳ないでしよ。風よ風!」
「……風邪?あのセキのでる病気の…?」
「バーカね」由香はそう冗談めかしに明るくいってから、もう一度、空の青を見上げた。「まぁ、みてらっしゃいよ。私の絵をおとした連中にも世界中の人々にも……この由香ちゃんのアーティステックなタレントってもんをみせつけてやるんだから!」
由香は傲慢にではなく、素直に可憐な微笑みを口元に浮かべながら宣言した。
「タレント…って?由香ちゃんってば…いつから芸能人になったっていうのさぁ。…歌でも出したっけ?」
「……馬鹿じゃないの!!」由香はナイーヴ(無邪気)な皮肉屋らしい口調で蛍にいった。「タレントっていうのは才能って意味なの。これはフランス語ね」
彼女はそういって不思議そうな蛍の肩にそっとふれて笑った。
…ちなみに、タレントというのは、フランス語でもドイツ語でもなく「英語」である。
VOL・3 ”秀才少女”有紀に、蛍が、お勉強で挑戦?!
マジックエンジェルブラック覚醒
蛍が一人でトボトボと暗い夜道を歩いていると、突然、ガラスがガシャアンと激しく割れる音と「ほ…蛍ちゃん、食べておくれよ!!」という叫び声が辺りに響き渡った。彼女が驚いて振り返った瞬間、草原がブウウァッリッと『カスタード・クリーム』の海と化した。「なによ?!」トランプの兵隊たちに連行されていく大勢の『イチゴ・ケーキたち』が断末魔の悲鳴を上げながらラビュリンス(迷宮)の扉の中へと消えていく。それは蛍がかつてアニメでみた”不思議の国のアリンス”にも似ていた。
…皆、私に食べてもらいたいと願ってるのにっ……きっと悪い奴らの所に連れていかれてパクパクやられちゃうんだわ!!もおっ、そうはさせるもんですか!!苺ケーキちゃん達!「あああっ!」彼女は小さな悲鳴を上げて飛びのいた。彼女の大好物の『カレー・コロッケ・パン』君が家畜のように引きずられていくのを目撃したからだ。カレー・コロッケ・パン君は何度かパクつかれたのか、顔中が穴だらけだった。これじゃあ、食べれないよ! 愕然と立ち尽くしていた蛍は、キッとした表情になり、
「ま、まって!待ってよ!カレー・コロッケ・パン君は私のものなのよ!私が…この蛍ちゃんがパクつくものなのよ!!」
と叫びながら必死に駆け出した。しかし、走っても走っても、まるっきり追い付けなかったし、それどころか距離はどんどん広がっていった。カレー・コロッケ・パン君の悲しげな横顔が遠ざかっていく。と、次の瞬間、ほわほわのホイップ・アイスの波が襲いかかってきて彼女はギュッと目をつぶった。
しばらくして蛍はふたたびビックリしてしまった。瑠璃色の光の中で、草原に呆然と立ち尽くしている自分を発見したからだ。
ーどうしたんだろう?彼は?!カレー・コロッケ・パン君は?!ー
天からの陽差しがきらきらきらきらと辺りを照らしていた。誰もいない。
「……あっ、これは!!」
蛍の目の前に、サビついて誇りに覆われて蔦まではいまわっているようなスクラップ寸前の『エヴァンゲリオム』があった。カンターム…それは蛍が小学生の頃に熱心にみていたアニメ番組『銀河戦士・エヴァンゲリオム』の中でヒーローのミーシャ・ゴルビーという美少年が乗って宇宙を飛び回るコンバット・マシーンだ!いわば、ロボットの主役だ。ちなみにM・ゴルビーのライバルは、ミハエル・プーチーンという薄髪のシルバー大佐と呼ばれた敵のグレムリン軍のエースだ。
「エヴァンゲリオムだわ!本物のエヴァだわ!あの憧れのヒーロー、ミーシャ・ゴルビーの乗っていたマシーンよ!!なつかしいなぁ……よく小学生のときに熱中して観ていたもんなぁっ『銀河戦士・エヴァンゲリオム』!」
なんともアーティステックな光景だった。蛍は茫然と立尽くしてまざまざとエヴァンゲリオムをみつめほわっとした表情になった。ー「よし!」
サビついた機銃座にすわると、なんだかどうしようもない衝動にかられるのを感じた。 妖精セーラが低く、大地をかすめるように飛んでいる。蛍はそれをおおらかな気持ちで眺めてから、いささか興奮した気分で銃口を妖精セーラにあわせて、狙いを定めた。
「死になさい、セーラっ!!」
「ダダ・ダ・ダ・ダダダッ!」
もちろん弾は一発も発射されなかった。彼女が自分の口でいっただけだ。だが、それでも蛍はなぜだかとても興奮してうれしくなって微笑んだ。「やったわ!やっつけたわよ!地獄に落ちちゃえっ、セーラ!!」
しかし、その微笑みも、次の瞬間、凍りついてしまった。キャタピラのキュルキュルという音に気付いて振り向いたとたん、数百メートル前方からトランプ軍の戦車・大勢のトランプ兵隊が迫ってくるのを知ったからだ。しかも、蛍の大嫌いな「タコヤキ」を手に持っている!彼女は小さな悲鳴をあげて飛びのいた。
トランプ軍の戦車の砲台が、矢継ぎ早にピーマン弾を噴いたからだ。
「や、やだっ!私、ピーマン大嫌いなのよっ!!」
直撃はなかったが、蛍の近くの地面や樹木にぶつかり亀裂が走るとポワン!と大爆発をおこした。そして、緑色のソース状のものが飛び散った。なおも攻撃してくるトランプ軍に底知れぬ恐怖を感じた蛍は、戦慄し、そして、
「やだよぉっ、やだよぉっ!!ピーマンとタコヤキなんて大嫌いだあーっ!来ないで、来ないで、来ないでよぉ!」
と、必死に逃げ出した。
だが、その次の瞬間、恐怖は絶頂に達した。蛍は何万人という「タコヤキ」を手にしたトランプ兵たちに辺りを取り囲まれ、行手を遮られてしまったのだ。悲鳴すら掠れ、足を引っ掛けて転んだ蛍に、殺気だったトランプ兵たちが容赦なく迫る。
「なによぉ!!もおっ…」
彼女は思わず涙声でいった。トランプ兵の狂気の叫びが聞こえる。
「さぁ、蛍ちゃん!たこやきを食べんだよ!」
「食べなさい!タコヤキ!大阪名物のタコヤキっ!!おいしいよ!!」
「い、いやよっ!誰がタコヤキなんて食べるもんですか!わあっ、待って!待って……話せばわかるってばさぁ!」
彼女は手首をつかまれた。と、トランプ兵達は「食べぇにゃちゃい!」といってタコヤキを手に襲いかかった。…腐ったタコヤキを知らずに食べてお腹を壊した小学生時代やピーマンを食べて肌に赤いブツブツができて困った幼稚園の頃の苦悩な表情が、一瞬、走馬燈のように蛍の脳裏をかすめた。…「タコヤキ」が口に近付く!
………ーいやだぁーっ!……
蛍は悲鳴を上げながらガバッとテーブルから飛び起きた。そこは自分の部屋だった。テーブルにうつぶして眠っていたのだ。額は汗びっしょりになって、窓からは午後のだらだらした眩しい陽差しがみえている。夢だったのか…?!びっくりしたよ…もおっ!
「…ちょっと、あんた!いい加減にしてよね」
床に置いた座布団上の由香が呆れまくった顔でそんな蛍に嫌味ったらしくいった。そして右手で前髪をかきあげた。
「なにが、カレー・コロッケ・パン君よ!!なにが苺ケーキちゃん達よ!なに寝言いってんのよ!」
横にいた妖精も黙っていない。「そうよ、そうよ、聞いたわよ!なにが、”死になさいセーラ!”よっ!!…なにが、”地獄に落ちちゃえ、セーラ!”よ!!……もおっ、知らない!蛍ちゃんなんて大っ嫌いよ!!」
もおっ。なんにを考えてるのよ、蛍ちゃんってば。「今は作戦会議中だったんでしょ?!」「さくせんかいぎちゅう…?何よそれっ?!どういう意味よ?ネズミの名前?」
「バーカね、蛍は…」由香は無視するように言ってから、タメ息をついて珍しく『ことわざの本』のページをパラパラめくってから蛍に見せて、
「じゃあねぇ、…これっ、何て読む?」
「どれよっ?」蛍は、ジッとページに踊る文字、由香の白く細い指先がしめす『ことわざ』を覗きこんだ。ーえ?えーと……。
窮鼠、猫を噛む。…と書いてある。蛍は、足りない頭をひねってから、明るい口調で、「そりゃあ、由香ちゃん。キューチュー、タヌキ(狸)をムシバムっよ」
由香は「なにいってんだがか、この馬鹿蛍!何が、キューチューよ!」とニヤリと皮肉屋らしく馬鹿にした笑いを口元に浮かべた。
「でもさぁ、蛍ちゃんらしいわね。……確かに、鼠って…チューチュー鳴くものね。猫と狸って漢字が似てるし、同じ動物さんな訳だし……。噛むと蝕むは、まったく違うけど…でもお口の中で「甘いもの」を噛んでたらいつかムシ歯になっちゃったりするわけだもんねえ」
セーラは呆れ顔で、それでも優しい優しいお母さんのような笑顔を浮かべてそういった。「まったく情ないなぁ、こんな漢字も読めないなんてさぁ」
蛍は由香の言葉にムッときて、「じゃあ、さぁ。何て読むのよ!由香ちゃん読めんの?!」「当然でしょ」由香はニヤニヤと自信あり気に笑っていった。「そりゃあ、あんた。このことわざは…………キュー?キュー?キュー……?…キューネズミ、キツネ(狐)をカーム!よ」
セーラは「……あのねぇ、由香ちゃん。まったくとはいわないけど…九匹のネズミさんがキツネさんを噛んでいるみたいで…ちょっと意味が通じないわね」とズッコケて、呆れ顔で呟いた。そして、ちょっとインテリ風に、「キューソ、ネコをかむ…ね。意味は、弱いもの(ネズミさん)でもあまりにいたぶられて追い詰められれば頭にきちゃって強いもの(ネコさん)に反撃しちゃうっていうことね。だから弱者を甘くみちゃいけないのよ。つまり…弱いものの必死の反撃って意味ね」
「ふーん。」二人の”出来そこない”蛍と由香は少しだけ関心してうなづいた。しかし、意味は理解してなかった。……
「それよりさぁ。なんであの時の闘いでレインボー・アタックが効かなかったのかなぁ?」「レインボー・アタックって何?洗剤?」
「まぁ、いいから由香ちゃん…黙っててよ。ねぇ、セーラ…なぜかなぁ?」
セーラは少し考えてから「わからないわ……でも敵もそんなに馬鹿じゃないってことね。きっと、蛍ちゃんの技を研究してるのよ」
「レインボー・アタックって何?洗剤?」
「まぁ、いいから由香ちゃん…黙っててよ。そうか…研究してるのかあっ」
「あの…レインボー・アタックって…?」
「黙ってて、っていってるっしょ!」蛍の冷たい言葉に由香は反発して「な、なによっ!何よ、なんなのよっ!!頭にくるわね、その言い方!なにがレインボー・アタックよ。スポーツ少女アニメ、例えば『アタック・ナンバーズONE』とかの観過ぎなんじゃないの?! と、皮肉たっぷりに怒鳴った。
「なによ、由香ちゃんってば…そんな古いアニメ番組名なんてだしちゃってさぁ。もっと新しい、『ちびまことちゃん』『エヴァンゲリオム』『エンピツしんちゃん』とか『トラコンポールGT』とか『セーラ・ムフーン』『シンジン・ゴジラ』とか『トラエモン』とか『ぬしの名は。』『銅魂』『進撃の阪神』『お前はどう生きるか?』『膵臓も叫びたがってるんだ!』……そういうアニメ番組名いってよね」
「なにいってんだかわからないわ。そんなことばかりいってると…あんたの大嫌いなタコヤキとピーマンを口の中に押し込んじゃうわよ!」
「う…」蛍は顔をゆがめて、「やめてっ!!」
と両手で頭をかかえて叫んだ。
妖精は、敵がなぜすぐに地上に攻めてこないのか、敵がトゥインクル・ストーンという輝石を狙っていること、そして敵と闘うためには特訓とかして技を磨かなくてはならないことなどを”念仏”のように語った。
しかし、例のふたりはその”念仏”をきいている内に、ぐっすりと眠り込んでしまった。 さすがに低レベルな二人組だ。……
「…あのねぇ。もおっ」
妖精セーラはいつものように呆れてタメ息をついた。
次の日は、水曜日というなんともあまり意味あいのない曜日のほんわりと晴れた一日だった。蛍と由香はいつものように学校の通路をかっ歩しながら「無駄話し」をしていた。 そこへ、あの「冷酷で無慈悲な機械」と噂されている神保先生が蛍の背後から声をかけてきた。
「おい、蛍!おい、この馬鹿蛍!」…と。
「……ちょっと、呼んでるよ蛍。神保が」
「………なんだろう?カンニング……じゃなくて神保の靴にガビョウいれたのバレたのかなぁ?それとも神保の椅子にカミソリ忍ばせたのが…バレたのかなあ?」
「あんた、あの「冷酷で無慈悲な機械」にそんなことした訳?怖いものしらずね」
「…ちょっと、本気にとらないでよっ。冗談に決まってるっしょ?!」
「……でも、カンニングっていうのはマジでしょ?」
「…うっ」
ふたりがボソボソと囁きあってると、神保はツカツカと背後から歩み寄って、蛍の肩に手をかけた。「おい、この馬鹿!ちょっと、職員室までこい!」
「先生っ!そんないいかたないっしょ?!」蛍はいったが、神保先生は何の表情もみせずに、ただ「いいから、来い!」と蛍を連行していった。
「…やだっ!ちょっと…はなしてよっ」
「……ありゃりゃ」
由香は、唖然と立尽くしてしまった。
職員室はたいして広いわけではない。机がかなり並んでいて、机の上には書類などが山積みされていて汚らしい。新型のパソコンやタブレットペーパー端末もある。だが、とてもインテリジェンスとかノウレッジだとかが存在したり生み出されたりする空間とは思えない。ホーリー・エリアとは恥ずかしくていえない所だ。
蛍は神保先生の机の前に立ち尽くし、たっぷりと「お説教」をうけてシボラれていた。「ほ、蛍、青沢蛍!なんだ?昨日の数学の抜き打ちテストの成績は?!0点ではないかっ」「……あの、ちょっと頭が痛くって……」蛍は泣きそうな顔で下をむいたまま呟いた。
「……ほんとうは簡単にできるんですよ、数学なんて。ピーター・ブランクルとかみたいに」
神保先生は鋭い歯を見せて、眼をギラリとして、「馬鹿もの!おまえは外人か?!そんなみえすいた嘘いってるんじゃんない!」と怒鳴った。
蛍は、神保の「怒り」に触れて、全身を恐怖で小刻みに震わせた。
「やだよぉ、誰か助けて!」
そして、次の瞬間、ゲンコツが飛んだ!
職員室を出て扉をピシャッと閉めた蛍は「イタタタ…」と頭を押さえて情ない声を出してから、眉をキッとツリ上げて、
「く、くそっ!!神保め!いまにみてらっしゃい。絶対に殴り殺してやるんだからっ!!」
と、聞こえないように呟いた。そして、ガツン!と壁に飛び蹴りをくらわした。すると、 あの「可愛らしくておとなしい文学美少女」こと黒野有紀がそっと歩いてきてすれ違った。
有紀はいつものようにうつむき加減で、肌はいっそう青白い。孤独さ、可憐さ、繊細さ、幼さ、可愛らしさ、優しさ、暗さ……そんな色々なオーラが黒野有紀という美少女をこの世に存在させているのかも知れない。
「お勉強」は出来るが「お話し」ができない美少女…。秀才の黒野有紀の可愛らしい大きなおとなしそうな瞳の奥には、いっそう「暗い闇」が見え隠れしていて、ちいさなちいさなピュア(純粋)な唇にも、白くて細長い手首足首にも全身にも、少し童顔の顔にも「性格の暗さ」を発見できる。…でも、彼女は暗い訳ではなくて、「友達がいないから」こうなるのだ。
そして、有紀はいつもこう思っている。「お友達がほしい。そして、いっぱいいっぱい遊んでみたい。楽しく「お話し」がしたい。でも…」
蛍はフト、有紀の行手を遮って、
「あ。あのぉ、有紀ちゃん!ひさしぶりね」
と、少し遠慮ぎみに明るく声をかけた。
「……」有紀は少し驚いた様子で、静かに蛍の手をみつめた。そして、ドキドキとして胸を押さえた。彼女は、一度ならず二度までもそんな風に親しく声をかけられたことに興奮していた。ーこの子は…あら?お名前は…?!
だが、有紀はほとんど何の感情も顔には現さなかった。いや、その大きな大きな瞳には、嬉しさと興奮と恐れが混じったようなきらきらした光が輝いてもみえる。
「……。」有紀は上目遣いで不安気な表情のまま、視線を蛍の顔瞳へとゆっくりと動かした。なんとなく有紀の可愛らしい肩や手足が少しだけ震えてもみえた。
「……あのぉ。あなたはどなた…?どんな、お名前でしたかしら?」有紀は微かな声を発した。しかし、やはり蚊の鳴くような微かな声であったため、蛍にはきこえなかった。
「へへへぇ、有紀ちゃんもテストで悪い点とって…先生に呼び出されたんでしょう!?」
蛍は魅力的な笑顔で冗談をいった。
「…くすっ。」有紀は微かに、口元に笑みを浮かべた。そして、「あの、その……あなたの「お名前」を教えていただけないかしら?」
と、オドオドと囁くようにいった。
「……え?何?今、なにかいった?」
ほんの微かではあるが、蛍は有紀の声をきいた…ような気がした。
「……え?え?え?」蛍はふらふらと立尽くしている黒野有紀の口元に、静かに耳を近付けた。そして、「……あの有紀ちゃん。悪いんだけどさぁ、もう一度、大きな声でいってくれる?」と明るくお願いした。
「……だから…そのぉ。」有紀はやっと声をささやいた。「……あなたのお名前を教えて頂けるかしら?」
「……あぁ。名前っ!私の名前か?!」ほたるはニヤニヤと笑ってから、「私の名前は、青沢蛍よ!年は有紀ちゃんと同じ。趣味は、少女マンガとアニメをみること。そして、好きな食べ物はコロッケとエビフライと苺ケーキとカレー・コロッケ・パン!嫌いな食べ物はタコヤキとピーマンね!でっ…只今、ボーイフレンド募集中なのよっ。ビルゲイツや海賊ルフースみたいなのっ!!」
「…そう、蛍ちゃんっていうの。いいお名前ね。……でも……海賊ルフースって誰かしら?」
「……え?なんていったの?悪いけど…もっと大きな声で……」
「……あ、いいのよ。別に……ルフースってひとがどういうひとなのかはあんまり関係ないことだから。…それじゃあ…私はこれで…」
有紀は微かに微笑んで、そのまま可憐な足取りでゆっくりと職員室の中へと入っていった。…何ていったの?有紀ちゃんの声ってよく聞こえないんだよなぁ…。
しばらくすると、「蛍ちゃん、蛍ちゃん」といいながら妖精セーラが飛んできて蛍の肩にフワリととまった。
「……なに?セーラ、わざわざ学校まで来なくたっていいっていったでしょ?いいこでお留守番してないと……エサあげないわよ」
蛍は冗談めかしに言った。
「あの…ねぇ。私は犬や猫じゃないのよ」妖精はニガ笑いしてから、「それよりさぁ…いまのこ…なんか怪しい気がするわ。気をつけたほうがいいわよ。もしかしたら、魔界の手先かも…」
「まっさかぁ、あんな可愛いこが?!」蛍はカラカラと笑っていった。「だいたい怪しいのはあんたでしょ。妖精って「座敷童子」とか「ヌラリピョン」とか「ヌリガベ」とか「目玉焼きのおやじ」とか「大泣きじじい」とかいうのと同じもんじゃんよぉ」
「……蛍ちゃん…妖怪・アニメの観過ぎよ」セーラは呆れまくっていった。…
昼間の学校の図書館はほとんど誰の姿もなかった。皆、知的探求心が無いのだ。しかし、そうした連中とは「可愛らしくておとなしい文学美少女」の黒野有紀は違っていた。 有紀ちゃんは、おおきなテーブルの隅っこの方に陣取ってぶ厚いフランス語の哲学書を熱心に読み耽っていた。…そう、有紀はフランス語と英語とドイツ語ができる。しかし、外国には一度もいったことはない。……
有紀は大きな瞳をきらきらさせて哲学書を読み耽っていた。この知的探求心は凄まじい。本とのダイアローグ(対話)。活字という死んだ世界の言葉を生きた言葉としてエッセンスをとらえ、人生哲学を学ぶ訳だ。教養を身につけるとはまさにこのことであってねけしてアニメ番組やマンガ本では学べないし理解できない世界だ。
そして、例の二人組”お馬鹿さんコンビ”も、有紀ちゃんのそんな「知的レベルの高さ」を理解などこれっぽっちも出来なかった。有紀の姿を、遠くの物陰からじっと覗きみていた蛍と由香は、
「すごいぶ厚いもの熱心に読んでるわねぇ」
「……きっと電話帳みてんだよ」
などと囁いているレベルだ。さすが、”出来そこない”の二人組である。
「……あのねぇ。電話帳を読み耽っている訳ないでしょ!」ふたりの横にふわりと浮いていたセーラは呆れた声をだした。そして、
「しかし、さすがよねぇ。あなた達とはちがって、あの子には知性が感じられるものね。あ・な・た・達・とは違って…」
「ちょっと、しつっこいのよ!」由香が小声で妖精に注意した。蛍も「そうよ、そうよ、私だってあれ位ぶ厚いマンガ本読むことあんのよっ!!」と小声でいった。
「マンガ本を……あの子が読んでるってでもいう訳?!」セーラは顔をしかめた。
しばらくして由香が、
「でも、あの黒野有紀ちゃんが頭がいいのも、うなづける訳があんのよねぇ。…有紀ちゃんのお母さんはあの有名な東京帝都大学の助教授なんだもの。……いわばあれは(頭の良さのこと)遺伝ね、多分」
とニヤリと言った。
「東京帝都っ?!」蛍はビックリした顔で続けた。「東帝大っていえばさぁ……うんとうんと頭が良くないと入学できないっていう日本一ラベルの高い大学じゃんよぉ!」
「そうよ。そのラベルの高い大学よ。ラベル的には、イギリスのオックスフォード、ケンブリッジ…アメリカのイェール、ハーバード、MIT…フランスのソルボンヌくらいにっラベルが高い大学なのよっ!」
「ラベル(封印紙)じゃなくて……レベル(次元)ね。」妖精は呆れつつも素直に教えた。「そんなことどっちだっていいのよ」と、ふたり。
「……あのねぇ。」妖精は口癖を呟いてから、「”この地上で大学ほど美しいものはない。なぜならそこには無知を憎むものが心理の探求のために集まり、心理を知ったものがそれを広めようと努力しているからだ”っていったのは英国の教育者ジョン・メイスフィールドね。大学っていうのは本当は素晴らしい場所な訳…」
「ジョン……ジョン・トラボルタ?」
「……だから……MITにしてもイェール、ハーバード、ソルボンヌにしても素晴らしく輝いている訳。でも、日本の大学ってばダメね。日本の大学、学歴社会の象徴である東帝大にしても、単に一流会社や省庁に就職するためのステッピング・ストーンでしか過ぎないんだもの」
セーラは語った。が、二人組は何も聞いてなくて、顔を向き合って『恋のおまじない』の話しをしていた。「…あのねぇ。」妖精はため息をつくしかなかった。
もう放課後になっていた。なんとも時間の流れが早いものだ。「少年(物語の主人公が女の子だから少女でもいい)老いやすく学なりがたし。一寸の光陰軽んずべからず」という孔子の言葉が響くようだ。
たしかに歳をとりやすいし、なかなか学べないものだ。人間とは嵐の中の塵でしかないのかも知れない。…しかも、そうした思考を理解できるのは黒野有紀ただひとりかも知れない。例のふたり組(蛍と由香)には死んでもわかるまい。……
学校の校門ちかくの通路は帰宅する学生たちでいっぱいだった。当然ながら、皆には、「お友達」がいてワイワイと並んで楽しく話しながら歩いている。「お友達」がいないのはやっぱり黒野有紀ただひとりである。
この有紀という人物のような存在は、ある意味では、日本中のどこにでもいるかも知れない(頭や美貌の違いはあるだろうけど…)。自分の意見を堂々といえない。もしくは意見などない。自分だけの殻に閉じ籠って、やがて、精神病で入院したりする。そして、自殺したりする。まったく弱々しい。女々しい。人生のレースから逃げてる。
もっとも有紀には、そうした「連中」とは違って、知性があり美貌がある。「可愛らしくっておとなしい文学美少女」の黒野有紀には、人生哲学がある。…が、孔子が「必ずしも書物を読むことだけが学問ではない」というように学問と実生活には少しも区別がない。その意味からいえば、黒野有紀の頭脳と実生活はかなりのギャップがある。
つまり、彼女は”学問バカ”なのだ…。
有紀はいつものようにしんとうつ向き気味で、一人、孤独に歩いていた。そして、可愛らしい大きな大きなおとなしそうな瞳をうらやましそうに下校する学生達に向けた。
ちいさなちいさな純粋な唇も、白く細長い手足も全身も、おさげ髪も、なにもかもが孤独などんよりとした光に溢れているかのようだ。それはぼんやりとした光の殻だ。
有紀は心の中で、フイに、「いいなぁ。私も…お友達がほしいなぁ。…あんな風に楽しくお喋りをしたり、遊んだり、並んで歩いたり……お勉強したり…図書館にいったり……心の悩みだとか夢や哲学なんかを一緒になって「お話し」できたら…どんなに素敵頭。でも…私には……」
と寂しく呟いて、瞳を曇らせた。…でも、私にはムリ。だって…”ひととお話しする能力”が生まれつきないんだもの……。
そんな暗くトボトボと歩く有紀の背後、かなり遠くの道路に蛍と由香がいた。ふたりは、そんな有紀の後ろ姿をジッと同情をこめた瞳でながめてから、しばらくして、
「有紀ちゃんってさぁ。…本当に、噂どおり”お友達”がひとりもいないのかなあ?」
「うーん、なんか…そうみたいねぇ。………可哀相な有紀ちゃん。まるで…シンデレラみたい」
由香の呟きに、蛍は「でもさぁ。シンデレラってさぁ…。魔法使いのオバアさんに魔法をかけられて、お城にいって王子様と踊って…幸せになるってお寓話よねぇ?」「まあね。…ちょっと”硝子の靴をおとしたり””カボチャの馬車に乗ったり””靴があうかどうかためされたり”っていうエピソードが抜けてるけれど……そうよ」
「へへへ…・じゃあさぁ。あたしたちが”魔法使いのオバアさん”になっちゃうっていうのは?!」
「魔法使いの”お馬鹿さん”じゃないの?あんたは」蛍は由香の皮肉を無視して、「私たちが魔法使いのオバアさんになって、孤独なシンデレラこと黒野有紀ちゃんにパッパッって魔法をかけてさぁ…明るく幸せにしてあげんのよぉ!!」
「まさか、レインボーなんとかで有紀ちゃんを攻撃するとか?」
「(無視して)…さぁ、いこう!有紀ちゃんを幸せにしてあげようよっ」
蛍はそう宣言して元気よく駆け出した。
「ちょっと、無視しないでよぉ!」由香も続いた。間もなく、ふたりは有紀に追いついた。「あのさぁ、有紀ちゃん!!一緒に帰らない?」
と蛍が明るく声をかける。由香も、「うん、うん、一緒に!!ムーン・ライトにいってオレンジ・ジュースでも飲み明かそうよっ!」と口元に笑みを浮かべて明るく声をかけた。 二人はオドオドと立ち止まった有紀の前にフワリと踊るように足った。そして、
「さぁ、いこう!ムーン・ライトへ!」と、元気よく笑顔で迫った。
「……え?ムーン・ライト……月明りに行く?どういう意味かしら?月面にいくのかしら……?」有紀は少しどぎまぎした様子で蛍たちの足首を見つめた。そして、大きな大きな瞳をきらきらさせて、上目遣いで二人の首を見つめた。少しだけ微笑んで、
「誘っていただいてありがとう。とっても嬉しいわ。でも……ごめんなさい。私これから塾なのよ。…だから行けないわ。月面には」
と、有紀は蚊が囁くようにいった。
「……え?なんていったの?」ふたりは可憐に立尽くす有紀の口元に耳を近付けた。
「……あ。あの……いいです」
有紀は微かに瞳をくもらせてから、そのまま歩き去ろうとした。ー何ていったの?有紀ちゃんの声って…まるで聞こえないんだよなぁ。
しかし、二人組は呆然と有紀のうしろ姿を見送る…ということはしなかった。…そうはさせないわよ、シンデレラっ!…
ふたり組は顔を見合わせてニヤリと不敵で魅力的な笑みを浮かべると、バッと有紀の両腕に強引に抱きついた。
「ーあ、え?!」そして、ビックリする有紀の表情を覗きこんでからもう一度、ニヤリと笑うと、
「さぁ、有紀ちゃん…行くのよ!絶対に逃がさないんだからぁ」
蛍と由香の二人組は明るい表情で、ほとんど強引に、唖然とする有紀を「ひとさらい」同然に連れ去った。
場所は喫茶店「ムーン・ライト」。
この喫茶店は、蛍と由香の「お気に入り」の店だ。なぜ気にいっているのかというと、その店内の雰囲気だ。ほんわりと白い壁やきらきらと輝くインテリアや、カシニョールの”庭の薔薇”の壁絵やちいさな愛らしい窓辺のモミの木やアール・デコ風の椅子やテーブルがオシャレだからだ。なにか、パリのシャンゼリゼ通りの喫茶店ともイメージが似てなくもない。店内に、いつもポップス音楽が流れているのも二人にとっては「好ましい」ことでもある。
しかし、蛍にとっては「アニメ音楽」、由香にとっては「ビートルズ」、有紀ちゃんにっては甘美で優雅な「クラッシック」のほうがよかったかも知れない。しかし、アニメ音楽はさすがに流すまい…。
三人はたいして広くもないほんわりほんわりした店内の奥にあるテーブルに向かい合って座っていた。なんとも幸せな雰囲気だ。
「さぁ、有紀ちゃん……コカインどうぞ!!」
戸惑う有紀にかまわず蛍は笑顔で可愛らしい真っ白なカップを手に持って『コーヒー』をそっと有紀のテーブルの前へ差し出した。由香はすかさず、
「カフェインでしょ!馬鹿ね、コカインなんていうのは麻薬…覚醒剤のことよ!」
と思わず呆れて注意した。「うるっさいのよ!」と蛍。
由香は蛍の言葉を「なにさぁ。(セーラのマネで)蛍ちゃんなんてぇ……馬に蹴られて死んじゃえーっ!!」
と明るい笑顔の冗談でかわした。
「なにぉ、セーラのマネしてんのよぉ!」
「けっこう似てんでしょ?あとねタレントの広瀬銅の「すいとうと。」とか、ニュース番組の評論家の三浦瑠璃色の「そうですねえ。この問題はいろいろな要素をふくんでいまして。要するにこの問題のカギは官僚が政治家に忖度をしたか?もしくは政治家の圧力が働いたか…」とか「ぬしの名は。?」「魂がいれかわってる??!!」「♪君の全全全…」とかいろいろできんのよっ」
蛍はニヤリと不敵な笑いを浮かべて「…でも、ちょっと甘いわね」と告げた。
「え?なんでよぉ」
「いま一番流行っている2・5次元ミュージカル『セーラームフーン』の主人公うさうさちゃんのセリフ『地球にかわってオシリぺんぺんよ!』っていうのをやらなくちゃあ。それと『エヴァンゲリオム』の「わかんないよ!サードインパクトってなんだよ?!!ぼくには関係ないよ!!!!ぼくは綾波をたすけただけだよ!!!」って。」
「…なによそれっ?!もぉ…アニメのことばっかりいってるとぉ…あんたの「大っ嫌い」なタコヤキとピーマンを頭からザザッて振り掛けちゃうわよ」
「うわっ…」蛍は顔をゆがめて「や、やだよぉ!」と、両手で頭をかかえて叫んだ。
「…くすっ。」有紀はそんなコミカルな二人を眺めていて、微かに口元に笑みを浮かべた。このひとたちってオカシイわね。
「やぁ、蛍ちゃん、由香ちゃん」
バイト中の鈴木先輩がウェイター姿のまま三人に近付いてきて、明るく声をかけた。
「あ、鈴木先輩。」蛍は鈴木先輩と目があって頬をポッと赤くした。しかし、憧れの先輩は蛍のことなど相手にしなかった。いや、別に無視した訳ではなく、蛍の気持ちを気付かなかっただけだ。それは、透明なきらきらした気持ちだ。恋だ。
鈴木先輩は「…君は…そうか!君かい?学年まん年トップの秀才美少女…黒野有紀ちゃんっていう女の子は?」
と優しいお父さんのように、もしくは優しい恋人のように魅力的な微笑みをたたえて尋ねた。ので、蛍は少しだけ癪に障って眉をピクピク動かした。…私だけの先輩なのに!…私だけのっ、私だけの鈴木先輩なのに!!
「ちょっと、あんた。そういうあからさまな嫉妬言葉は…心の中だけで叫んでよね」
蛍が口にした言葉を耳できいて、呆れまくって由香が隣の席からなぐるように注意した。「あ?え?私、いま、何かいった?!」全員の冷たい視線が自分に集まっていることに蛍は恥ずかしさを感じ、目を点にして表情を凍らせた。
「………き……君が秀才の美少女、黒野有紀ちゃんだね?」
有紀は大きな瞳をきらきらさせて鈴木先輩の顔を上目遣いでみつめて、恥ずかしさで頬を赤くして微かに微笑しながら、
「……いいえ。そんな、美少女なんてとんでもありません。私なんかよりずうっとずうっと可愛らしい女の子がいっぱいいますもの。例えば…蛍ちゃんとか由香ちゃんとか…」
と軽く首をふって笑顔でいった。
「…え?いま何かいった?」
有紀の声がかぼそくってあまり聞こえない為、鈴木は不思議な顔で尋ねた。
有紀は少しだけ瞳を曇らせて、「あ、いえ」と誰でもわかるように首を可愛らしく左右に大きく振った。そして、いつもの不安気な表情になってオドオドとか弱い態度に戻った。また、自分の殻に閉じ籠った訳だ。…
鈴木は狐につままれたかのような顔をしてしばし茫然と立ち尽くしてから、優しく笑顔で、
「じゃあ、有紀ちゃん、蛍ちゃん、由香ちゃん。まだ、仕事残ってるから…」
といってカウンターの方へ歩き去った。
しばらくしてから由香が、
「あのねぇ、有紀ちゃん……。もっとさぁ、明るく元気な態度でいなきゃダメよ。頭だけよくたってさぁ、人とお話し出来なくては”有紀ちゃんの良さ”を誰も理解できないでしょ?……有紀ちゃん、学校の生徒達になんていわれてるか知ってる?「あの子は頭や顔はいいかもしんないけど…暗くって大っ嫌い!あんな子…ぜったい中間にいれたくないわ」とか言われてんのよ」と優しい表情をしながら、同情をこめて有紀にいった。
有紀は不安気な表情をいっそう曇らせて、泣きそうな瞳になった。
蛍は魅力的な笑顔で「あのさぁ、有紀ちゃん。もっともっと大きな声を出してみるっていうのはどうかなぁ?大きな大きな声で話せば…自分に自信がついて性格だって明るくなるってもんっしょ?」
「うん。うん。うん!そうね、そりゃあグッディ(グッド)アイデアね!」
そう笑顔でいったのはもちろん有紀じゃない。赤井由香である。そして、「ではっ」といった由香は皮肉屋らしい笑みを浮かべて、
「わあああぁーつ!」
と、他人の迷惑も考えずに絶叫した。その次の瞬間、じっと有紀の顔を見て、大声を出すように促した。
もちろん有紀はビックリした顔で由香の方をみつめて何も発声しなかった。
「さぁ、有紀ちゃん。叫ぶのよ!」
「そうそう、わあーでもきゃーでもうおーっでもいいからさぁ」
それで有紀は、多少慌てながら「あーっ。」っと可憐な声を出した。でも、まだ弱々しい!
「もっとおおきな声で!」
「そうそう。もっとお腹に力をこめるっしょ!」
有紀はちょっと顔を赤くして恥ずかしがってから、決心したような顔をして、目をつぶって必死に声をしぼりだして「あーっ!」と叫んだ。その声はやはり繊細で可憐で弱々しかったが、それでも今までの声よりはずっとずっとマシだった。なんせ、二人にも聞き取れたからである。
由香はニッコリと笑って握手を求めた。蛍もニコニコと微笑して有紀をみつめた。
「よっしゃ。その調子よ、有紀ちゃん」
ふたりはとても魅力的な顔をした。握手をオドオドと交わした有紀も微かに口元に笑みを浮かべていた。…
「よしっ、つぎはギルガメッシュに直行よっ!」
ふたり組は元気いっぱいに席からバッと立ち上がってほんわりほんわり明るい声で叫んだ。
「…え?ギルガメッシュ……って?!」
蛍と由香は有紀の質問には答えずに、またしても彼女を強引に連行して、金も払わずに喫茶店から飛び出していった。それに対して鈴木先輩は、
「おいおい、お金……」
と呟いて立ち尽くすしかなかった。
今度は、「ギルガメッシュ」という場所だ。ギルガメッシュ…というくらいだから『クラブ・ディスコ』とか『ライブハウス』というような雰囲気がある。でも、ぜんぜん違う。はっきりいって単なる安っぽい『ゲーム・センター』…そのゲーセンの名前でしかない。
午後四時二十六分くらいの時刻。だらだらとした春の一日と空間。そんなどうでもいいような場所に「可愛らしくておとなしい文学美少女」こと黒野有紀は、なかば強引に二人組によって連れてこられてしまっていた。そう、あの蛍と由香に。
「あ、あのっ。こういう場所には出入りしてはダメだって、生徒手帳の5ページの校則第十二項にちゃんと記されている…のよ」
有紀は二人組に腕をひっぱられながら、微かな声を発した。以前と変わらない繊細で弱々しい蚊の鳴くような声…。しかし、努力して声をふりしぼってもう一度いったので青沢蛍も赤井由香も発言したことには気付いた。
「え?何?……あの、有紀ちゃん。さっき、声を出す練習をやったばかりでしょう?」
「そうだよっ。もっと”お腹”に力を込めて声をだしてっていったっしょ?!」
蛍も由香も彼女の腕を放して、そう少し説教くさく語った。でも、そうしたネガティヴな感じもあまり続くことはなかった。
すべに蛍と由香はニコニコとちょっと変な笑みを顔中に浮かべて『お気に入り』のゲーム機の前まで駆け寄って、
「有紀ちゃん、有紀ちゃん。さぁ、おいで!!」
「そうそう。これってば……すごく面白いんだよ!!」
有紀は「え?で、でも…」としばらく不安気に立ち尽くしてから、もおっ、という感じで可憐にゆっくりゆっくりと二人の元へ歩いていった。そして、きらきらと輝く大きな瞳をゲーム機のディスプレイ(画面)に向けた。…なにかしら?これって、私の知っているチェスやオセロとどう違うのかしら…?
「ヒヒヒ…」蛍はニヤニヤ笑って続けた。「これってば、”バーチャル・バトルⅥ”っていう…いま若者の間で流行っているファイテング・ゲームな訳よ!」
「え?バーチャルのバトルのⅥ(6)…?」
戸惑う有紀を無視して、由香は「そうそう。こうして、このファイターを操って…」などとニヤニヤと呟きながら、素早く百円玉を投入して、座席について熱心に操作レバーとボタンに手をかけた。そして、画面を真剣にみつめた。…けして、お勉強の時にはみれない真剣な顔…。蛍はカラカラ笑い、
「けけけ…。どうかなぁ?由香ちゃんってばバーチャあんまりうまくないからなぁ。千五百点くらいがベスト・スコアって所っしょっ」といった。
由香は眉をつりあげて、ディスプレイから目を離しもしないで「うるっさいのよ、この馬鹿蛍!みてらっしゃいよ、この由香ちゃんの天才的なテクってもんをみせつけてやるわ!ははは…」
と反発して傲慢に笑った。蛍と有紀はジッとバーチャというゲーム機の画面を由香の肩越しから覗いた。ーどうかなぁ、由香ちゃん。
♪ビュロロロ…っ。ゲームが開始される。どういうゲームかというと、画面上のファイターを操って敵を殴ったり蹴ったりして倒していく遊びだ。仮想の世界でファイターを操って闘わせる……なるほどバーチャルのバトルだ!」
「ようっし、殺せ!」
戦士を操作する由香は品のない言葉を叫んで、画面をギリリッと睨みつけた。しかし、蛍のいうように、由香はバーチャはあんまりうまくはなかった。ードオ・ン!
あっという間にやられてゲーム・オーバーとなってしまったのである。得点は二千点ちょっと…。
「く、くそっ!な、なによっ、もおっ」
蛍は馬鹿にして「けけけ…。下手っくそ!やっぱ、由香ちゃんってば、バーチャのやり方ってもんを知らないってことねっ!!」
とカラカラ笑った。ーので、由香は癪に障って「な、何っ!?この馬鹿蛍っ!ナマイキいってんじゃないわよ。じゃあ…あんた、やってみなさいよぉ!」と怒鳴った。
蛍は「うん。いいっしょ」と胸を張って宣言してバーチャを開始した。が、青沢蛍は赤井由香の倍くらい下手くそだった。なんとたった七百点でゲーム・オーバーだったのである。
由香は「なぁーに、よ。あんたさぁーっ、…たった七百点じゃないの、情ない。そういうのを飛んで火にいる夏の虫っていうのよ」と呆れた。
「なによ、それ?たしかに蛍って夏の虫の名前だけどさぁ。ジャンプして火で炒めてどうしようっていうのさぁ?」
「馬鹿じゃないの!?」
ふたりのヨタ話しを耳にしながら、有紀は、「飛んで火にいる夏の虫じゃなくて、羊頭狗肉(見掛けだおし)ね」と心の中で思わず呟いていた。そして、「え?」と言った。
「ほらほら、次は有紀ちゃんの番よっ」
などと二人組に強引にゲーム機の座席に座らされた黒野有紀はオドオドとふたりの顔をみつめた。そして、「私はいいわ」と声を出すわけでなく、首を可愛らしく左右に三回振った。ー私には、多分できないわ。
「さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁっ!」
有紀は、そんな二人の瞳を見つめてニコッと魅力的な笑みを無理に浮かべた。そして、ポケットから小さな小さなお財布を取り出して、可愛らしい指先で中から百円玉をつまみ出した。(由香や蛍はけして奢ったりはしない。いや、お金を出したりはしない。なぜなら、ケチだからだ)ー有紀は、きらきらとした百円玉を投入した。…ガシャン!
次の瞬間、バーチャル・バトルのゲームが開始された。有紀はほとんど何の表情も変えずに華麗に操作レバーを動かし、ボタンを連打していった。はっきりいって蛍にも由香にも有紀の「ゲームのうまさ」は『意外』と映った。ふたりとも「有紀ちゃんは多分…百点もとれないでやられちゃうんじゃない?」と鷹をくくってたからだ。
だから有紀の肩越しで画面を覗いていたふたり組は「う、嘘?!すごいじゃないの、有紀ちゃん!」と驚いて越えをあげた訳である。
ド・スン!バキ・ッ!可愛らしくおとなしい文学美少女こと黒野有紀の操るファイターはすばやい動きで敵を倒していく。
画面をくいいるようにみていた有紀の無表情の顔もしだいに明るいなにかで輝いてみえた。そしておおきな可愛らしい瞳も、嬉しさと興奮とトキメキできらきらと輝いてもみえた。有紀はどきどきしてから、
「このゲームってねけっこうオモシロイわね」
と、いつものように微かな声ではなく誰でもききとれる程に大きく魅力的な「薔薇色の声」で二人組にいった。小さな小さな桃色のピュアな唇も、白くて細長い手足も全身も、何もかもが輝いてきらきらしているように感じる。
蛍と由香は一瞬、呆然とした顔をしてから、
「え?何?いま有紀ちゃん、今、あなたは…」
と、やっとのことで声をだした。別にまた有紀ちゃんの声がきこえなかった訳ではない。あの有紀ちゃんが普通の声で微笑んだのでビックリしたのだ。
有紀は可愛らしい笑みを口元に浮かべて、呆然と立ち尽くす二人組に顔を向けて、
「このゲームって、最高よ!」ともう一度、可憐に発言した。
ーえ?最高?蛍と由香は不思議そうな狐につままれたような表情で顔を見合わせてからニッコリと笑って有紀に向かって、
「でしょ、有紀ちゃん。このバーチャってば最高っしょっ?!」
といってとても魅力的なきらきらとした顔をしていた。しんとした輝きだ。
「…ところでさぁ。有紀ちゃんってば、どうして「お勉強」そんなに熱心にやっているって訳?何か理由でもあんの?」
そう素直に尋ねたのは由香だ。ちなみに三人はいまだにギルガメッシュにいた。
「えぇ。理由はあるのよ。…私の夢はお母さんみたいな大学教授になることなの。そして、
知的探求心のおおせいな学生たちに哲学だとか文学だとか歴史なんかを教えて…世の中を変えてしまうほどの立派な教育者になりたいのよ。もちろん、そのためにはうんとうんとお勉強をして、誰にも負けない知識を養わなくてはダメでしょう?英語、フランス語、ドイツ語だけじゃなくて…もっといろいろな言語をマスターしなくちゃならないし…。とにかく、そういうことでお勉強をしてるって訳なのよ」
有紀はスラスラと微笑して言った。二人組は目を点にして、やっと尋ねた。
「英語、フランス語、ドイツ語だけじゃなく…?!」
「もちろん、お勉強だけが人間のすべてではないわ。今の日本のように、いい大学にはいるためにはいい高校に、いい高校にはいるためにはいい中学に、中学にはいるためにはいい小学校に、いい小学校にはいるためにはいい幼稚園に…っていう学歴社会・偏差値社会は正気の沙汰とは思えない。そういう閉鎖的な社会からは決して天才は生まれないもの。だから、私はおふたりに日本の大学にいくことは勧めない。でも……お勉強は大事よ。教養を高めるって意味でね。だから…蛍ちゃんも由香ちゃんも、きちんとお勉強してみたらいかがかしら?」
蛍も由香も彼女の素直な言葉に「あ、はぁ…まぁ…」と茫然と答えるしかなかった。
もうだいぶ日も暮れかかって、青山町という平凡な町並みも黄昏た感じだった。
蛍と由香と有紀の三人は、青山町南原にある”栄光塾”という建物の前にポツンと立っていた。ちなみに”栄光塾”とは超一流の進学塾であり、エリートだけが入塾できるようなポジションにある。そして蛍や由香にとっては無縁の場所…である。
「へぇーっ、栄光塾じゃないの。あのエリートしか入れないっていうさぁ。ここの卒業生はだいたい東帝大とか京帝大とか応早大とかに合格しちゃったりしなかったり…するっていう」
「そうそう。そしてここのOLとかは財務省や三井戸、四菱とかっていう会社や役所とかに就職してさぁ…偉い訳よ」
蛍と由香は建物をぼうっと見上げながら呟いた。白い壁の同道としたビルだ。さすがそこいらの安っぽい塾とは雰囲気が違う。
「あの。…東帝大に入学したからとか、四菱に就職したからとか…そんなことで偉いなんて判断するのは間違いじゃないかしら」
有紀ちゃんは横にいるふたりに真剣な顔付きで、優しい優しいお母さんのような顔つきでいった。蛍と由香は不思議そうな顔をして、
「えぇっ。でもさぁ…やっぱりそういうとこに就職したりしたらさぁ、お金とかいっぱいもらって権力もって尊敬されたりしてさぁ…偉いっしょ?」
有紀は瞳をくもらせてから、「いいえ、偉くないわ。人間として尊敬されるひとは、困っているひとのために役にたったり、ボランティア活動をしたりっていう社会的活動をしているひとね。それと、ただお金をもってれば偉い…なんていうのは拝金思考ともいえるわ」
と悲しい口調で蛍たちに教えた。そして、「あの。じゃあ、私…塾の教室にいくわね。……今日はありがとう。とっても楽しかったわ」
有紀は優しい表情に戻って、二人に頭を下げると可憐な足取りのまま建物の中へと姿を消した。蛍たちは、その後をつけて中にはっていった。そして、教室の中を覗いた。
ー教室の中。鬼のような顔をした塾の講師は、
「あの、すいません。遅れました…あの……」
と頭をさげて謝罪の態度をとった黒野有紀をキッと睨んだかとおもうと、次の瞬間、無慈悲に、有紀の可愛らしい頬に平手打ちをくらわした。彼女ははげしくよろけた。
そして、その講師は、冷たい視線のまま手で頬をおさえて驚愕している黒野有紀に、
「さっさと席につけ!」
と命令した。
有紀は恐ろしくなって全身を小刻みに震わせた。涙が目を刺激したがなんとか堪えてトボトボと席のほうにあるいていった。そして当然のことのように他の生徒達は何ごともなかったように机に向かっているだけだった。
「な、な、な、何よっ。あの野郎!私たちの大事な有紀ちゃんになんてことすんのよっ!」 ふたりは怒りと驚きで眉をツリあげて、
「そうよ、そうよ、そうよ!女の子にとってお顔は大事なもんじゃんよぉ。あんなに強くビンタして、青痣でもできたらどうしてくれるっていうの?!」
蛍と由香は激しく誰にもきこえないように怒鳴った。
時間はだいぶ過ぎ、もう夜になっていた。蛍と由香は”ヒマ人”らしく、塾の建物の外の物陰に隠れるようにして建物から出てくる生徒達をぼうっと眺めていた。何をしているのか?まさか、お勉強に目覚めて入塾するのか?はたまた「あの野郎」こと塾の講師を襲撃するのか……?
「あ!出てきたよ。有紀ちゃんが…」
由香は声を上げた。そう、ふたりは単に、有紀がでてくるのを待っていたのだ。
彼女はいつものようにトボトボとうつ向き下限で歩いていた。ーあ、マズイ!ふたりはハッとして、有紀の後ろ姿を追った。
だが、このふたり。…正義の味方と呼ぶにはあまりにもオソマツな少女らは、薄暗い遠くの夜空に浮遊してギッと有紀の後ろ姿を睨んでいる魔物・アラカンの存在には気付きもしなかった。アラカンの口元に冷酷な笑みが浮かぶ。
「あれが今度のターゲット、黒野有紀という少女か…」
冷たく低い声が暗闇に微かに響いた。……
夜遅くなって、黒野有紀はちっぽけなアパートに帰ってきた。
有紀のご自慢の母親「黒野静」は珍しく台所で夜食をつくっていた。静は有名な東帝大の助教授で、知性と美貌を兼ね備えた中年女性だ。細い体格、黒色の瞳、白い肌、きらきらした髪は、明らかに有紀に受け継がれたようだ。だけど、有紀ちゃんの方が痩せていて可愛らしく魅力的で、母親にくらべて手も足も驚くほどすらりと細い。
「有紀、おかえりなさい」
台所の壁を通して、静の少し疲れた声が薄っ暗い玄関に微かに響いた。
「あら、お母さん。今日はお仕事は?」
有紀は少し驚いた声を出して台所に歩いていった。そして、「珍しいこともあるわね。お母さんがこんなに早く帰ってきて…しかもお食事を作っているなんて」
静は娘の可愛らしい魅力的な笑顔を眺めてから、「まぁ、そうね」とうなずいた。
「あ。もう、危なっかしいわねぇ。お母さん…ほとんどお料理なんてした事ないんだから…指でも切ったら大変よ。いつものように私がやるわ」
有紀は幸せそうにニコニコと笑ってから、手際よく母親の手から包丁を取ると「お料理」しだした。静は少しだけ呆気にとられたように立ち尽くして、娘の包丁さばきに見とれてから、インテリらしい顔をした。
「ねぇ、有紀。お勉強の方はどうかしら?きちんと学年トップのポジションをキープしているんでしょうね?」
「……え、えぇ。まぁ……はい」
「私はねぇ、有紀。あなただけが頼りなのよ。お父さんが数年前に交通事故で死んじゃってから、いままでずうっと、あなたのことだけ考えて暮らしてきたといっても過言ではないわ。あなたが、誰にも負けない頭のいい人間になること、そして、大学教授になること、…それらは私の夢でもあり有紀の夢でもある。そうよね?」
静はまぶしそうな目で冷たい口調でいった。
「……は、はい。まぁ…えぇ。お母さんの期待はぜったいに裏切らないわ」と、有紀はうなづいた。
「そう、それはよかったわ。私にはあなただけが頼りなのよ。ぜったいにお母さんのことを裏切ったりしないで、勉強に打ち込みなとさい!…人間にとって必要なもの、手にいれなくてはならないものは知識だけよ。無学なもの怠惰なものでは誰にも相手にされないのよ。わかるわね、有紀」
有紀は「でも……あの。えぇ」とうなづいてから少し寂しそうな表情をした。…知識も大事だけど、互いが互いを愛し合う精神や、それを理解できる知恵も大事なのに。心の中でそう呟きながら有紀は続けて、うれしそうな笑顔で、
「あの。あのねっ、お母さん。私……お友達ができたの!とっても明るい楽しい女の子でね。名前は蛍ちゃんと由香ちゃんっていって…今日はなんとふたりにゲームセンターや喫茶店に初めて連れていってもらって…とても楽しい時を過ごしたの。やっぱりお友達って最高…」
「有紀!うかれるのはよしなさい。そんなどうでもいい友達ならいない方がマシ!もっと気合いをいれてお勉強だけに集中しなさい。そんな蛍だか由香だかという人間とそんな所にいくなんて…あなたはもう少し「頭の働く子」だと思っていたのに…まったく。とにかく、もうそんな子たちとは付き合ってはいけませんよ」静はけしからんと言った感じで娘に冷酷な視線を投げ掛けてから、そのまま場を立ち去った。残された有紀は、ただ悩むばかりだった。………まるで暗闇にぽんと投げ込まれた気持ちだった。
有紀のお部屋は、お馬鹿の蛍の部屋のような少女趣味的なものではない。また、皮肉屋で絵画おたくの由香の部屋みたいにキャンバスだけが並んで置いてある訳でもない。ただ、哲学書や歴史書などが本棚に並んでいる。本と水色のベットとクローゼットと机があるだけの部屋。しんと光る部屋。静かな空間。すべてが有紀らしい。
机の上にポータブル・CDラジカセがあり、チャイコフスキーやモーツアルトといったCDがあるが、それはクラッシック・マニアらしい。
有紀にはまるで「赤毛のアン」のアン・シャーリーのような一面もある。本だなに置いてあるピエロの人形を手にもって話しかけるのだ。しかも、熱心に情熱的に、少し寂し気に、
「ねぇ。あのねっ……私に…初めてお友達が出来たのよ。今まで、小さい頃からお友達なんて一人も出来なかったのに…。すごいでしょ?奇跡的よね?」
「それで?そのお友達は何て名前?」ピエロの声で、寝ぼけ気味に有紀はいった。
「うん。お名前は蛍ちゃんと由香ちゃんよ」
「それで?いっぱいいっぱい遊んだ?」
「えぇ。もちろんよ。いっぱいね」
「そう。お母さんはなんて?」
「………よかったね、お友達が出来て…って」
「…もう寝たらいいんじゃない?明日はお母さんのお弁当をつくったり朝食をつくったり…いろいろある訳だからね」ピエロは優しくいった。
「ねぇ、神様なんていないって思ってたけど、神様は本当にいるのかなぁ。神様が蛍ちゃんたちをつれてきてくれたのかなぁ」
「そうかもね。神様ってばやるわね」
「そうね。かなりやるわね」
ピエロの頬にキスをしてから、有紀は優しくきらきらと微笑んだ。
次の日、学校の図書館はほとんど誰の姿もなかった。時刻は正午過ぎの昼休み。
有紀ちゃんはいつものように、大きなテーブルの隅っこの方に陣取って分厚い哲学書を熱心に読み耽っていた。
「ねぇ、ねぇ、有紀ちゃん」
有紀が大きな瞳をきらきら輝かせて哲学書を読みふけっていると。背後からそんな声がした。彼女は振り返って、背後の二人組に、
「あらっ、蛍ちゃん、由香ちゃん、ごきげんよう」
とニコリと微笑した。蛍はニヤリと、
「ねぇ、有紀ちゃん、探していた電話番号みつかった?」
「……え?この本は電話帳では…」
「相手にしなくていいわよ、有紀ちゃん。馬鹿蛍のつまんないギャグだから…」
由香は真顔でいった。
「(無視して)…あのさぁ、有紀ちゃん。お願いがあるんだけどさぁ…」
「『お金貸してちょうだい』とかいうお願いかしら?」蛍は由香の皮肉を無視して、「あ…あのねぇ。お勉強を教えてもらいたいのよ」
「え?!何っ?お弁当を…ちょっと苦しい……お勉強って誰に?あんたんとこのセーラに?」「(無視して)…ダメかなぁ?少しは20点とか30点とかさぁ、テストで取ってみたいのよぉ」
蛍は有紀にそういって、元気いっぱいに笑った。そして、「もち(ろん)、由香ちゃんも一緒に!」
とお願いをした。ので、由香は、「え?え?えっ?!ちょっと、私も?!」と驚いた声をあげてしまった。
「…くすっ」有紀はそんな五流コメディアンのような二人組をジッと眺めて、魅力的な笑顔ですぐにいった。「えぇ、もちろんいいわよ。お勉強をお教えいたしますわ」
しばらくして、例のふたり組は「……あぁ。全然わからないわっ!」と弱音を吐くことになる。当然、有紀という頭の良い女の子に優しく教えてもらっても、この二人には理解できるわけないからだ。
「……あの。二人とも…あきらめないで頑張りましょう。千里の道も一歩から、よ」
有紀ちゃんは優しい優しいお母さんのように笑顔を見せた。横に座っていた二人は、
「え?千里眼美子(日本の女優)?!」と尋ねた。
「…………ローマは一日にして成らず……よ」
有紀は少し言葉をつまらせてから、言い直して教えた。そして、はぁ、っと思わずタメ息を洩らした。……
もう午後になっていて、有紀と由香と蛍の三人は仲良く下校時を並んで歩いていた。 時刻は何時なのかはっきりしない。どよどよと薄暗い雲が天空をつつむように漂ってきて、何かしら怪しげにも見える。怪しげ…というより、雨がふってきそうな天気であり雲行きである。そして、次の瞬間、当然のことのようにポツリポツリと雨粒が静かに落ちてきて、やがてざあざあと激しく降出してきた。しんとした冷たさだった。
「うわぁ。ちょっと、雨だなんて。お天気お姉さんの嘘つき!今日は雨降らないっていったじゃんよっ」当然、こんな品のない言葉を叫んだのは例の二人だ。
最悪の筋書きが現実の運びとなってしまっていた。でもたいして「最悪」ではない。単に、
「…やだよ、傘っ忘れちゃったよ!!」……だからだ。二人組はテレビのお天気お姉さんにひどく腹を立てていた。お天気お姉さんは約束したのだ。「とにかく、走って帰ろ!」
三人は鞄を傘がわりに頭上にかざして、茫然とした顔のまま駆け出した。角を曲り、通りを二つ走って、公園の近くまでやって来た。途中で一度だけ足を止めて、
「じゃあ、有紀ちゃん、また明日ね」
と由香と蛍は有紀にいった。そうして、二人は角を曲がって言った。ふたりと有紀ちゃんは帰る方角がちょっと違うのだ。
それからしばらくして、有紀は驚愕に包まれたまま黙りこんで立ち尽くしてしまった。そして、道路の隅っこにまるでゴミのように捨ててある「ダンボールの中にいれられている一匹の子犬」を見た。こんな風に、動物が哀れに捨てられているのをダイレクトにみたのは初めてだった。冷たい雨に打たれ、くんくんと鳴いて誰かを必要とするような瞳をしたシバ犬の茶色い子犬。きっと誰かに可愛がられ、必要とされ、やがて忘れられて、ゴミのように捨てられてしまった子犬。
「…ひどいわ。可哀相じゃないの。…なんてこと?こんな可愛いワンちゃんを無責任に…ワンちゃんの気持ちなんて考えもしないで…こんなふうに捨てるなんて」
彼女はやっとのことで声を出した。そして、冷たい雨に全身をうたれながらね純粋な気持ちで子犬をジッと見つめた。
くんくんと子犬が彼女を見返し、有紀は一瞬、このワンちゃんをこのままにして置く訳にはいかないわ、きっと私が助けなくてはならないのね、と信じたが、少しだけ不安にもなった。彼女の可愛らしい大きな大きな瞳が不安気に曇っていった。
「ーどうしよう?お母さん……動物が嫌いなのよね。…でも、だけど……」
ざあざあと冷たい雨にうたれながら、黒野有紀は捨て犬を同情の瞳でながめながら呆然と立ち尽くすしかなかった。
”可愛らしくおとなしい文学美少女”こと黒野有紀という優しく少し内気な美少女はやっぱり子犬を見捨てるという残酷な行動は取れなかった。有紀ちゃんがそんなことする訳がない。彼女は動物をポイ捨てしたり虐待するやからとは違って、人間や動物の心の痛みや苦悩を知っているからだ。それが彼女の優しさだ。しんと光るような心だ。
日本では、捨て犬は保健所に隔離され、一週間たっても飼い主が訪所しない場合はガスで安楽死させられる。そして、当然のことのように飼い主などはまず現れはしない。
「しっ。…ダメよ。おとなしくしててね」
玄関に忍び入った有紀は、胸元に抱き抱えたズブ濡れの子犬に静かな口調で優しくいった。彼女のきれいな黒髪も制服も鞄もなにもかもが冷たい雨に濡れていた。
…でも、有紀はなにも気にせずに子犬に視線を向けて優しく微笑むとオドオドとお母さんがいないか見渡した。いない。
「ワンちゃん…待っててね。すぐに温かいミルクをあげるからね」
有紀はニコリとして呟き、子犬はくんくん鳴いた。たが、この有紀ちゃんはやたらとのろい。「運動なんてまるでダメ!らしいよ…」という噂も本当で、足が遅いのだ。だから、のろのろと台所に歩いていく間にお母さんに見付かってしまった。
「ゆ、有紀!なんです?その胸元に抱きかかえている汚らしい犬は!」
静の冷たい声が響いた。有紀の心臓が重く沈んだ。「あ、あの…お母さん……」
一瞬、沈黙が訪れ、有紀は息をとめた。もし、捨てきなさいなんて命令されたらどうしよう…。
「……あの、お母さん。このワンちゃんとっても可愛いでしょう?世話とかは全部私がやるから…飼ってもいい?」
歩きながら練習したように、おどおどと有紀はいった。「ほら、ワンちゃんって頭もいいし、可愛いからみてて心も安らぐし…とってもいいパートナーになるでしょう?縄文時代から人間のもっとも親しい友人と呼ばれてきたくらいだから…。ね?飼ってもいいでしょう?」
静は顔色ひとつ変えずに「ダメよ。すぐにその汚らしい犬を捨ててらっしゃい」と冷たく言った。
「でも…お母さん…可哀相でしょう?」
両手をきつく握り合わせ、目を遠くのあらぬところに泳がせ、すがるような表情で有紀はいった。そして、泣きそうになりながら、
「ねぇ、お願いよ、お母さん。……捨てるなんて嫌なのよ。だから」
「ダメよ!これは命令よ、捨ててらっしゃい」
静は限りない冷たさに満ちた顔でいった。有紀は何も反論できずに黙り込み、下を向いて涙を堪えて立ち尽くした。ひどく悲しい気持ちだった。こんなにも自分の母親が分からず屋だったなんて…。
まるで財務省のエリート役人みたい…。
有紀はしかたなく、子犬を元のダンボール箱の中へ戻した。そして、じっと立ち尽くして顔を曇らせて、泣きそうな視線を向けた。
くんくんと子犬は可愛らしく泣いて有紀を呼んでいる。ーどうしたらいいの…?
彼女は冷たい雨に打たれながら悲しみの中で黙り込むしかなかった。
「……ごほっ、ごほっ」
しばらくして、有紀はセキ込み、額に右手をあてて凍り付いた。ひどい無力感や哀れみに襲われて堪え切れなくもなった。私は無力だわ…彼女は自分をせめた。
そしてまた有紀は、じっと立ち尽くすだけだった…。