第十八話
スモーカーの急激な加速、綺羅星の竜は挑発するように逃げる。
その速度は生物とはとても思えない。しかもジェット推進の噴気も見えず、風に乗っているわけでもない。
その周囲に三角錐の雲。
「!?」
数秒後に銅羅を大砲で打つような轟音。全方位モニターが衝撃で揺れる。
今のは衝撃波。生物が音速を超えたというのか。
「あれは、まさか煌星竜では」
「煌星竜……?」
「まばたきの間に夜をまたぎ超えると言われる竜です。ですが、実際に見たことがあるという話は聞いたことがありません。架空の存在だとも言われています」
シールの声は畏れを帯びている。実在しないものに言及する畏怖だろうか。
そんな竜が実在するなら。
音の壁をぶち破り、白い傘を出現せしめる竜が実在するなら。
「堕ちろ!!」
スモーカーが吠える。肩から打ち出される有線誘導弾。青旗連合の高速無人機すら撃ち落とすベーシックの切り札。
望遠でそれを追う。極細の炭素ワイヤーが絡み合い、2つのミサイルが竜に迫る。
それが星に食らいつかんとする刹那。竜の影が急上昇。
真上に打ち上がる稲妻。完全な90度ターンで上方に回避。
そして――あろうことか誘導弾の背後に回る。幾何学的な、黄金色の雷撃のような軌跡。誘導弾のワイヤーを断ち切って弾頭が制御を失う。縦回転となって雪だまりに衝突。爆炎と轟音。山肌の一角が吹き飛ぶ。
「なっ……何だ今のは!? あれは間違いなく誰かが乗っている。あんな軌道で飛んだとしたらブラックアウトどころか体が砕けるぞ!」
だが背に乗った人物は微動だにしない。風すら吹いていないかに見える。
まさか、ベーシックの慣性レジストのようなもの? 生物がそれを使うというのか。
「ぐっ……誘導弾の速度を超えるだと、ふざけんなよトカゲごときが」
スモーカーの機体も速度を増す。
山肌に沿って下降していく。コックピットが破損しているために低圧環境に耐えられないのか。スモーカーはかなり消耗していたはず。ベーシックを動かせるのか。
それを追う金色の影。地形すれすれを、雪を波のように打ち上げながら飛ぶ。
「くらえ!」
やや水平な地形に達したところで、スモーカーが雪原に突っ込む。スラスターを全開にして雪を巻き上げる。
あれはかなりの離れ業。積雪量をレーダーにより把握し、センチ単位で高度を調整している。
輝く竜が、雪の壁の前で動きを止めるかに見え。
「よし、今――!」
構えんとした25ミリチェーンガンが。
その腕だけが、空間に停止するように見える。肩の部分が消滅したのだ。
まだ大量の雪が舞っている。その雪の切片すべてが固定されて見える。僕の目が見開かれる。
次の瞬間、ベーシックの足が吹き飛ぶ。いや消滅する。
回転しかける2.4トンの巨人、その左半身も消滅。鮮血が空中に舞う。粘性すら感じるほどスローに見える。
そしてベーシックの内部にある弾薬と、様々な可燃性の液体が火花に引火、爆発を起こすまで一秒にも満たない。極小時間の地獄絵図。
「な……」
あの一瞬、煌星竜は動きを止めたかに見えた。
だがそれは目の錯覚。現実にはあの瞬間、前に向かってさらに加速をかけたのだ。その場に残像だけを残すほどの急加速。
あれが伝説の竜。
竜使いの王が統べる竜なのか。
かつて竜を滅ぼしたという巨人は、どうやってあんな怪物を――。
「ナオ様、逃げましょう」
シールの声、僕の意識がふいに引き戻される。
「……逃げる」
「煌星竜が伝説の竜といっても、今は背中に誰かを乗せています。この機体の力で空気の薄い場所まで翔べば逃げ切れるかもしれません」
「……ダメだ。あれが竜使いたちの王、竜皇だと言うならここで討つ。それで全てにケリがつくはず。今が最大のチャンスなんだ」
「ですが……」
「あいつが全ての元凶だ。シール、君から光を奪い、徴兵との名目で男手を奪っている。社会が維持できないほどの数をだ。これが悪でなくて何だ。それにやつはスモーカーを殺した。僕はあいつを放置できない」
あいつは近接攻撃しかしていない。この剣で斬りつけるチャンスはあるはずだ。
「無理です。お分かりのはずです。ベーシックの速度では煌星竜の攻撃に対応できない。まともには戦えません」
「シール、しっかり掴まってて、すべてのスラスターをふかして最大戦速を引き出す」
「ナオ様、スラスターは何本も失っているはずです。それに相手の機動力を把握しきれていません」
僕はシールの言葉をほとんど聞いていなかった。全方位モニターに各イオンスラスターの出力を表示させる。推進力を振り絞るためのプログラムを組んでいく。
「……ナオ様」
「シール、僕は戦うために生まれた。だから最後まで戦い続ける。けして敵を背にして逃げたりしない。それが軍人である僕の生き方なんだ」
「いいえ、いいえ違います。戦士であっても時には逃げるべきです。最終的な勝利のために行動すべきなのです。今のナオ様は判断を放棄しています。ここで逃げてしまったら、その後に何をすればいいのか分からないから、命令してくれる人がいないから……」
シールの声は虫の羽音のように小さくなっている。僕はCエナジーの残量をすべて推力に振り向けるように導通路を組む。これからの数十秒で、イオンスラスターの大半が壊れても構いはしない。
「……ナオ様。ベーシックは心を持っています。しかしそれは感情とか愛情ではない、もっと冷徹な判断です。ナオ様のためではなく、戦闘機械として生きるために作られた心なのです」
「……? シール?」
彼女は何の話をしている? ベーシックという名詞に意識が惹きつけられる。
「その判断基準はきわめて厳格です。もし仮に、パイロット適正を持つ二人の人間がコックピットにいて、大きく意見が分かれたらどうなるでしょうか。ベーシックはどちらの人物を残すでしょうか。階級の高い方? 搭乗時間が長い方? 練度の優れたる方でしょうか?」
「シール? なんの話をしているんだ? 君がパイロット適性について知ってるはずが……」
「選ぶ基準はすなわち、ベーシック自身がより長く戦い続けられる方。自己の維持に必要不可欠な方です。私という、Cエナジーを供給できる存在が不可欠なのです」
「何を言って」
シールが。
僕に覆いかぶさり、唇が重なる。
世界が停止したかのような、すべての音が遠ざかるような感覚。シールの銀色の髪が僕の顔にかかり、彼女の熱が流れ込んでくる。
彼女がゆっくりと離れた時、僕の顔に水滴が落ちる。彼女は泣いていた。
「ナオ様、私はかつて無垢でした。あの村で巫女として生きていた。何も分からず、不条理にただ従うしかなかった。あなたが私を救い出してくれた。私に光を与えてくれた」
「シール……シール何を言ってるんだよ、一体どうしたんだ」
「でも今は違う。もう知ってしまったから。世界のことも、この機械のことも。私はもう無垢でいられない。戦士として世界に堕ちてきたのです」
なぜ泣いているんだ。何を言おうとしているんだ。
わからない。何も考えられない。体の中に彼女の熱が残っていて。
彼女はコックピットの天井を振り仰ぎ、その先にあるものに、ベーシックの頭部に呼びかけるように言う。
「ベーシックE-2876、緊急コマンド000。パイロット間で意見が分かれています。選別及び排除を、緊急脱出を」
何を――。
胸部ハッチが開く。冷気が肌を打つ。
次の瞬間。僕は宙に投げ出されている。
「え――」
何が起きた。
パイロットスーツとシートとの間に斥力が。
慣性レジストを逆に作用させ。
「ナオ様、どうか人としての幸せを……」
シールが着座する。
胸部ハッチが閉じる。
強烈な回転のままに雪だまりに突っ込む。
体が一メートル近くも沈む。粉雪が巻き上げられる。
「まさか――!」
なぜシールが緊急コマンドを知っている。
パイロットスーツからベーシックに呼びかけようとする。
だが応答がない、回線がダウンしている。
機体へのアクセス権が消滅している。
僕は仰向けの姿勢で雪に沈む。視界の先でベーシックが飛行している。
イオンスラスターの噴気音。光の竜を背に加速し、高度を上げんとする。
その姿はどこか神々しかった。僕には手の届かないものになりつつあるという感覚が地の底から這い上がってくる。祈りたいような感情が。
――祈り。
そうだ、シールは一日に何時間もベーシックのそばで祈っていた。
そしてベーシックには操作マニュアルを投射する機能がある。
「勉強、したっていうのか、そんなことが」
そんな馬鹿な、ありえない、そればかりが思考を埋める。
基本操作だけで百時間の学習が必要なはず。動作機序を理解し、高度な電磁気学を知らねばならない。大統一理論に肉薄しなければ慣性レジストを使いこなせない。
ありえない。ありえない。
思いつくのは現実を打ち消そうとする言葉だけ。だが夢でも錯覚でもない。ベーシックは間違いなく飛んでいる。僕を残して。
ベーシックは雲の向こうに消える。僕は墜ちた際の衝撃で指も動かせない。
視界に煌めく竜が見える。ゆっくりと旋回し、ベーシックが消えた方向を見たような気もしたが、ある瞬間に東の方向、中央へと飛び去っていった。
残されたのは、僕だけ。
生身のまま天より堕ち、何一つ持っていない僕だけ。
「シール……」
意識を失う直前。
最後に思ったのは、彼女の美しい顔。
彼女の流した、涙の記憶だけだった。
ここまでが第一部完となります
次の章からはまた雰囲気が変わっていくかと思います、今後ともお付きあいいただければ幸いです
果たして主人公の運命やいかに……




