プロローグ『死体』
「もう嫌だ――。助けてくれ。どこか遠くに――『ここではないどこか』に俺を逃がしてくれ」
男は天に向かって絶望を訴える。
――彼はいったい何に絶望したのか?
それは親兄弟――すなわち血縁者たち全員から、あらゆる面倒事を押しつけられた人生にだ。
(もう限界だ――)
男の精神はすり減り切っていた。
悲しい現実だが、押しつける側に、押しつけられる側の苦しみなど分かるはずもない。
そもそもそれが分かっていれば、その苦労を分かち合ったはずだ。
上っ面だけの無責任な者たちは、そんな犠牲者の上にあぐらをかいて安楽を貪る。
(クソッ、どうして俺ばかり)
そう思うのなら、いっそ見捨ててしまえばよかったのだ。
だがそれもできなかった。なぜなら肉親だからだ。
血の縁とは情の鎖だ。時として、これほどやっかいなものはない。
だから男は願ったのだ――俺を逃がしてくれと。
ここではない――どこかへと。
『いいだろう――』
男の耳に女の声が聞こえた。
いや、声じゃない。直接、脳に語りかけてくる感覚だ。
(心霊現象――⁉︎)
そうでも考えなければ、説明のつかない感覚に男は恐怖する。
次の瞬間、男の視界は真っ暗になり――気がつくと薄暗い部屋の中にいた。
(臭い――!)
鼻をつく、これまで嗅いだ事のない異臭に男はたじろぐ。
困惑する中、次第に暗がりに目が慣れてくると、さらに男を驚愕させる事態が発生する。
目の前に、何やら人が横たわっていたのだ。
(いったい……誰なんだ?)
恐る恐る手を伸ばしてみる。
だがその体から発せられる異様な雰囲気に、男の直感は警鐘を鳴らす。
そして男は気付いた。
(これは、まさか――死体⁉︎)
驚きのあまり、のけぞり尻もちをついてしまう。
この場から逃げ出したいが足が動かない。どうやら腰を抜かしてしまった様だ。
「おいおい、どこに行く気だい?」
女の声が聞こえた。さっき男の脳に直接語りかけてきた、あの声だ。
今度は声が、はっきりと耳に聞こえた。という事は、女が近くにいるという事だ。
「誰だ、お前は⁉︎」
「ああ、まず自己紹介からだね」
男の問いに、女は素直にそう答える。
だが姿が見えない。それが男の緊張をさらに高めていく。
「私はアース。――女神だよ」
そう言った瞬間、男の眼前に女が姿を現した。
「うわわわわーーーっ!」
男は無様なほどに絶叫した。
アースと名乗った女は、確かに何もない空間から、いきなり男の目の前に出てきた。
まるで魔法だ。驚かない方がおかしいというものだ。
しかもさらに驚いたのは、アースが宙に浮いていた事だ。
宙にフワフワと浮きながら、男の顔を面白そうに覗き込んでいる。
「君は……『逃がしてくれ』と願ったね?」
「――――⁉︎」
アースの問いに、男は絶句する。そしてある結論に辿り着く。
「まさか……お前が俺をここに連れて来たのか⁉︎」
「そうだよ」
アースは、何を今さらという顔をしている。
「さて本題に入ろうか――。ここはギルスフィア王国――地球じゃないよ。そうだな……君たちの世界でいうとこの『異世界』と言えば分かってくれるかな?」
いきなりアースは、とんでもない事を口にした。
(地球じゃない⁉︎ 異世界だって⁉︎)
男にも異世界というキーワードは理解できた。そしてそう言われると、妙に腑に落ちてしまうのが不思議であった。
(俺は、女神に異世界に連れてこられたのか……)
男が納得した事を感じ取ると、アースは話を次に進める。
「そこの死体だが――。彼はこのギルスフィア王国の第八王子……だった、エインという男だ」
アースが指をパチンと鳴らすと、辺りがわずかだが仄明るくなる。
石畳の部屋に、いくつもの棺が無造作に並んでいた。どうやらここは霊安室らしい事がようやく分かった。
そして目の前に横たわる死体を目の当たりにして、男はゾッとする。
死体だからではない。生気をなくしたその顔が――あまりに痩せこけていたからだ。
「エインはね、親兄弟からこのギルスフィア王国の面倒事を、すべて押し付けられていたんだよ」
アースは、淡々と死体の人生を語り始める。
「この大陸はギルスフィア家が『今のところ』征服している――。だけどいまだ各地に『竜族』『エルフ族』そして『魔族』が息を潜めて反撃の機会を伺っている」
男はアースの言葉に、この世界が戦乱の地である事を知る。そして竜やエルフが実在している事も。
だがそれよりも男の心を捉えたのは、エインという第八王子の人生だ。
「エインが治めていた南西の地、『セイト』はまさにそういった反乱分子の火薬庫だったのさ――。末弟だったエインは兄たちから、セイトを押し付けられて、その対応に一人で当たった末に……絶望して憤死してしまったのさ」
「――――!」
まるで自分の人生をなぞる様な内容に、男は息を呑む。
男もエインと同じ末っ子だった。
どうして逃げなかったのか――とは考えない。
男には分かる。エインは肉親の情という鎖から、逃げられなかったに違いない。
憤りのあまりに死んでしまう――。憤死など物語の中だけだと思っていた。
(もしかすると、俺もこうなっていたのかも……)
男は我が身を見る様に、エインの衰弱し切った顔を見つめ続ける。
(辛かったよな。苦しかったよな……)
思わずエインのこけた頬に手を伸ばす。
「――――っ⁉︎」
手が触れた瞬間、男の脳内に数多の映像が流れ込む――。
(――――⁉︎ なんだこれは⁉︎)
結託した兄たちが、エインをセイトの領主に推薦している。
軍隊が敗走し、兵たちが怨嗟の声を上げている。
さびれた街のあちらこちらで、民が道端で倒れ餓死している。
父王に窮状を訴えたが、耳を貸してもらえないでいる。
何も手を貸さない兄たちを非難すると、逆に父王から叱責を受けている。
頭がおかしくなりそうで、視界がぼやけると天井しか見えなくなっている。
そのまま――目の前が真っ暗になると、意識がなくなっている。
(これは、まさか――⁉︎)
「そうさ。エインの人生だよ」
アースが妖しく微笑みながら、そう言った。
男の胸に怒りが充満する。男はエインの苦しみを完全に共有できていた。
「君もあのまま生きていれば、いつかこうなってしまったかもしれない――」
アースの言う通りだった。だから男は『逃げたい』と思ったのだ。
「俺を……逃がしてくれるのか?」
「ああ。ただし――条件がある」
「条件?」
そういえばアースは女神だった。悪魔ではないのなら、魂をよこせなどとは言わないだろうが、それでも男は緊張してアースの次の言葉を待つ。
「君にはこれから――エインとして生きてほしい」
「――――⁉︎」
すぐには意味が分からない。影武者の様にでもなれというのだろうか。
「君をエインと同化させる。そうすれば君はエインの体で、この世界に受肉する」
そんな魔法の様な事が――。いやアースは女神だから、できるのだろう。
「君は新たなエインとして復活して、このギルスフィア王国を征服するんだ」
「せ、征服……」
それはすなわち反乱を起こすという事だ。そんな事ができるのだろうか。
戸惑う男に、アースは魅惑の提案をする。
「君は君の人生で、ついにできなかった家族への復讐を――この世界で成し遂げるんだ!」
「――――!」
男の体が雷に打たれた様に震えた。そして込み上げる笑いが抑えらなくなりそうなほど、胸の高鳴りを覚えた。
「俺は――」
熱に浮かされた様な男に、アースは畳みかける。
「さあエインの手を取れ。それで君はエインになれる」
迷いなく男はエインの手を握る。
そして、繋いだ手から男の体が霧の様に吸い込まれると、エインがカッと目を見開いた。
こうして、新たなエインとなった男の――『異世界征服』の幕が上がった。




