Thousands of tales : Ago ―赤き視界の猟犬―
火星コロニーの地平線から朝日がようやく起き始めたとき、通りには誰もいなかった。この街は夜行性だ。だからこそ、その法則から外れるものは注目に値する。スーツと同様、くたびれた茶色い山折り帽の鍔を少し下げ、ミロスはふらりと通りに面したカフェに入った。
「いらっしゃいませ〜」
カウンターに座ると、眠たそうな女性の声がする。少し前までは夜更ししたのか、とか朝に弱いのか、など思っていたが、これが彼女のいつも通りのようだ。直接聞いたわけではないので、そう思うことでそれ以上の思考を止めたのかもしれない。彼はいつものコーヒーとトーストを頼み、新聞に目を通す。ここは古い紙の新聞しかおいていない。
「いらっしゃいませ〜」
再び彼女の声が聞こえる。入ってきたのは二人分の足音。ひとりは杖をつき、ラゲイルの革靴を控えめに響かせる。もうひとりは安物のスニーカーで床を擦るように歩く。欠伸のような足運びだ。
「へへ、すみません。呼び出しがあまりに急だったもので」
新聞にはつまらない窃盗事件と吐き気のする猟奇殺人、火星コロニーの運営企業に対する揚げ足を取るような批判しか載っていない。舌を通るコーヒーは酸味が強かった。
「カイくん。ついでにこれで母さんに美味いものでも食べさせてあげなさい」
初老の男が青年に何かを手渡し、店を出ていく。おそらく取引に関する情報だろう。手の指についたパンくずとバターの残滓を吸い、コーヒーカップを傾ける。会計を済ませ、彼は白い後頭部と杖の音を追う。
通りをいくつ曲がった頃だろうか。不意に違和感に気がついた。先程まで表通りにいたはずだが、いつの間にか細い路地にいた。冷や汗が吹き出る。壁から何か鋭利なものが飛び出し、彼に襲いかかる。前から後ろから、一本だけでなく、時間差をつけて三本は見える。同じ側の壁から出てくるだけマシだろうか。前に転がりながら避ける。服のあちこちが避けるが、皮膚までは到達していない。進むほどに微かだったシトラスの匂いが強くなる。
人は慣れ始めた頃が一番恐ろしい。目の前に壁が現れたことに一瞬反応が遅れる。ミロスは動きを止め、勘に任せるままに上体を左に流す。右頬のすぐ横を鋭利な刃物が通り過ぎていった。視覚的には前からだが、後ろから突き出されたものだと直感が囁く。反射的に裏拳を振るうと、手応えがあった。手の甲にわずかについた血痕と、男の低いうめき声。視界が急に崩れ、杖をついた初老の男が血を拭っている姿が見える。
「私を尾けてきたからには覚悟はできていますね」
「目くらましに頼る老いぼれか。今度の仕事は楽でいいねぇ」
挑発に乗ることなく、杖から刃を抜き放つ。ミロスはジャケットの両方の裾から幅広のナイフを滑らせ、逆手に握る。地面を蹴り、刃を交える。苛烈な突きを弾き、距離を詰めるミロスに対し、男は鞘部分の打撃を加えて距離を離す。金属が光を反射し、打撃が手を痺れさせる。しかし老人は息が上がってきており、徐々にミロスの攻撃の手が激しさを増していく。彼は壁際まで追い込んだ男の前で構えを解き、嘲笑する。
「おい爺さん、このままじゃ死んじまうぜ?」
「この年まで生きてきたんだ。死に時など逃しているさ」
「面白いジョークだ。あんたのユーモアに免じてお前の飼い主の取引品目のリストを渡せば見逃してやる。たった一ヶ月分でいい」
ナイフを放り、弄ぶミロスは片方の口角を上げる。視線は老人から離さないが、もはや脅威だとは見做していないようだ。
「嗅ぎ回ることしか脳のない狗ごときにくれてやるものなどない」
返した視線は闘志を失っていなかった。いつの間にか顔の下半分を黒い面頬が覆っている。こちらを睨みつける碧い虹彩は輝いている。あたりに靄が漂い、視界が歪む。
「このクソジジイ! やりやがったな!」
自分の迂闊さを棚にあげ、両手のナイフを構える。目の前の得物さえ真っ直ぐには見えない。かすんだ視界の端で煌きが映る。次の瞬間、右足に異音、激痛と灼けた鉄の熱がはしり、身体が崩れ落ちる。ついた膝から溶けそうな勢いだ。帽子がずり落ち、彼の頭を離れていこうとする。動けない彼の急所へ閃光が襲いかかる。
「最期の言葉を聞かせてもらおう」
防御でかざしたナイフは砕け散り、老人は真一文字に結んでいた唇を曲げる。しかし落下する帽子の影から覗くミロスの目に翳りは見えない。歪んでいるはずの視界の中で彼の目は刃を突きさす男を認識している。
「誰の最期、だって?」
決定的な音が響き、勝利の笑みは瞬間的に驚愕へと変わった。切っ先は手のひらに進路を遮られ、剣は根元から折れ曲がっている。
「なぜそんなことが!」
「死に時を逃してきた、といったな、爺さん。それは違うね」
言葉を切り、左足に力をこめる。漸く晴れてきた視界の中、金属に覆われた右拳が顎をとらえ、吹き飛ばす。
「お前が逃げてきただけなんだよ!」
地面に倒れた老人は息はあるものの、完全に意識がない。ミロスは両腕で身体を引きずり、その耳の穴に人差し指を差し入れる。数秒その状態で静止し、彼はため息をついた。胸ポケットからペンを取り出し、振る。ホログラムで表示された画面が現れ、通信アプリを立ち上げる。
「報告する。目標との関連性を確認。目標の経路は確認できなかったが、担当者は見つけた。おそらくつながりのある運び屋だろう」
彼の報告を聞きながら、電話の向こうの声は次の行動に移るよう指示をする。
「それはもちろん。その前に右足を損傷しましたので、治療機関へのアクセスを許可してください。調査に支障が出る可能性が」
しかしその返事は彼の嘆願を遮り、同じことを繰り返した。彼は肩を落とし、かしこまりました、一言つぶやく。足元に転がっていた帽子を拾い上げ、かぶる。壁に手をつきながら立ち上がり、周囲を見渡すと一本の棒きれが転がっていた。仕込み杖の鞘部分だ。彼は倒れている男のシャツの裾を切り取り、それの持ち手となる部分に巻き付ける。太陽はいつの間にか中天に差し掛かっていた。
表通りに出ると、人通りは疎らであるものの、賑わいがあった。しかし細い路地から出てきた彼の汚い身なりを気にして顧みるものなどひとりも居ないようだった。彼はやや短い杖をつきながら中心市街地の摩天楼に向けて歩き始めた。
続き書きます