小説の半分は優しさでできている
半分以上かも知れませんが。
小説の半分は優しさでできている。
<優しさ> は <親切心> と言い換える事もできる。
一つ、情景や人物の描写を書く事。これは優しさだ。
別に、物語を進める上で丁寧で緻密な描写などは必要が無い。例えば、
“男が居る。”
と書くだけで要旨は述べる事ができる。男が居る。それだけだ。
しかしこの一文から伝わる情報は、せいぜい、人物が居て、その性別が男であるという事くらいだ。
ここで優しい作者なら「果たしてそれだけでいいだろうか?」と考える。読者に伝わる情報、伝えたい情報について思案する。それは読者という他人に思い遣りを持つという事だ。
そんな作者は描写を加える。
“猫背の男が佇んでいる。”
うん、ずっと良い。その男は姿勢が悪く、かつ、しばらく立っているのだ、と読者に伝える事ができる、とても親切な文章になった。
では話を続けてみよう。
“猫背の男が佇んでいる。
雨が降っている。
「煙草が吸いたいなぁ」
男は呟いた。”
優しさの足りない作者なら、これで満足してしまう。もしあなたが物書きで、この描写だけでは物足りないと感じたなら、あなたは本当に優しい。
いったいどんな雨が降っているのだろう? どんな気持ちで、どんな調子で呟いたんだろう? 考える余地はたくさんある。
沢山の情報を伝えるべく手を加えてみよう。
“猫背の男が佇んでいる。
立ち込める雷雲からバケツをひっくり返したような雨が降りしきり大地と雨宿りする男のズボンとを濡らし濁流となって側溝に流れ込んで行く。
「煙草が吸いたいなぁ」
その貧相で青白い肌をした目付きの悪い男は胸ポケットの中の煙草の空袋をまさぐりながらほんの二十分前に吸ったばかりの煙草を恋しがり薄い唇から溜息とともに呟いた。”
うーん……である。
いやこういう描写の仕方は決してナシではないと思う。文学としてはアリ寄りではあるとも思う。
けれども情報過多、描写のすし詰め状態になると、それはそれで読者にとって不都合があるのではなかろうか。読むのに疲れてしまわないだろうか。読者を労うのも作者の優しさなのではないか。私は訝しんだ。
ではこうしよう……という例文は、あえて割愛する。
これを読んでいるあなたが小説家なら、自分ならこうする、という文章を考えてみてもらいたい。それこそあなたの優しさの形であり、作家性だろうから。
(そして感想欄にでも書いて頂けると、私は感激するかも知れない)
読み専の方も考えてみると良いと思う。どのくらいの情報量、描写がしっくりくるかで、好みの文体またそれを書く作家が見えてくる。そんな観点を持ってみるのも面白いのではないだろうか。
表現を変えたり言葉を加えたり削ったりする作業を <添削> と言うが、これをしっかりする作者はとても優しい。添削を作業工程に含まずとも、執筆の過程でああでもないこうでもないと考える、それができるだけあなたはとてもとても優しい。
二つ、文章の構造を考える事。これも優しさだ。
構造というのは、段落や空行の付け方だったり、句読点の打ち方だったり、記号の使い方だったりの、文体とお作法を指している。
まずお作法について先に言いたい事があるのだが。
例えば段落の頭を一文字落とすとか、括弧などの一部記号から始まる文はその例外だとか、閉じ括弧の前に句点は付けないとか、感嘆符・疑問符の後は一字空けるとか、そういう基本的なお作法について。
「強調するが、基本中の基本だ! お風呂に入るために服を脱ぐのに等しいんだよ? それぐらい当たり前のものだと思ってほしい。なんでかって、それは <読みやすい基本形> だからだ」
これらのフォーマットが守られていない作品は、なろうを眺めているとかなり多い印象だ。正直もったいないと思う。それだけで読まれない可能性が生まれるからだ。
現に私は読まない。特に段落の一字下げがされていない文章は単に読みにくいし、上記のような基本中の基本が守られていないと、そちらに気が向いてしまって作品に集中できなくなるというのが理由だ。どうせプロの書いた本もあまり読んでないんでしょう? と見くびりもする。
公募やコンテストで作家や編集者に見られた場合、よっぽど……よっぽど優れた何かが無い限り……まず落とされる理由になる。残念ながらそこに優しさは無い。
さてお作法と言えばだが、このように空行(何も書かれていない空白の行)を多用する事も、一般に小説としてはよろしくなかったりする。
本来、小説においては空行にも意味がある。空間や時間の遷移を表現するのに使われる事が多い。シーンが移り変わる箇所や、時間が大きく進む場面で使う。あとは次に来る文章を強調したいときなどだろうか。
ところが。
ネット小説においては、読みやすさのために親切心から空行を挟む場合がある。
スマホやPCの画面で横書きの文章が長く続くと目が滑りやすい。それを緩和するのが主な目的だろう。
特別よく見掛けるのは。
「括弧付きのセリフの前後に挿入する」
こうする理由は、はっきり言ってよく分からない。別にあえてそうしなくても良いとは思うが、私も慣習にならってそう記述する事が多い。
「かと言ってセリフがあるたびいちいち空行を入れるのもどうか」
と私は思う。
「このようにセリフが連続するときは挟まない方が収まりが良い気がする」
「テンポ感も大事だしね」
この点は悩みどころで、試行錯誤している。私も優しくありたいものだ。
私はかつて、いやつい最近まで <お作法原理主義者> だったので、始めこういう文章スタイルには抵抗があったが、書いてみて一読すると、なるほど適度に空行があった方が読みやすい。これが優しさか! と思った。
かと言って一段落毎に空行を挟むのは、野暮ったいと言うか、何だか捻りが無いように思うので、適宜、ここで区切った方が読みやすいだろう、というところに挟んでゆく。それはどこかを見極めるのも親切心だろう。
似たような事が句読点(“。”と“、”)にも言える。
実は句読点は必ずしも必要ではないのだと言うと意外に思われるかも知れないが事実として句読点のほとんど存在しない小説やエッセイを書くプロの作家が少数ながら居て彼らはそれを作家性として昇華しているのだが実例として彼だ彼女だと挙げようとしたら名前を失念してしまったので句読点の少ない作家などのキーワードで検索して頂ければ幸いだ。
句読点を使う事、つまりセンテンスを区切る事も、読みやすさを配慮した、優しさなのだ。
あまりにも、読点が多い、作品は、それはそれで、読みにくいと、思うけれど。
バランスの問題なのだが、これが結構難しい。こんな難しいものをあなたが意識しながら書いているのだとしたら、それはとてつもない優しさのなせる業だと思う。
小説は作者の溢れ出る想像力からできている。それは当然だ。
しかしその半分、文章で記す表現は、読者への優しさでできている。
今日も優しさに満ちた小説が、沢山投稿されていることだろう。
お作法についてはちょっと愚痴っぽくなってしまいましたが本心です。
まず土俵に立ってほしいな、と思います。