鈍感天然系男女の無自覚イチャラブ婚約
某日、チュークライ王国王都にて。
由緒正しい伯爵家の一人娘カレンセーヌは、祖父の友人である壮年侯爵の三男フンゾリケルドと引き合わされていた。
端的に言えば、婿候補と見合い中といったところだろうか。
カレンセーヌは、真面目な性格で読書を趣味としており、物静かだが落ち着いて芯のある十七歳の女性だ。
一方、フンゾリケルドは何事にも秀でる有望株だが、それ故に自尊心が高く、また情操面に少々難のある二十歳の男性だった。
それなりの領地を所有する伯爵は跡取りとなり得る優秀な娘婿を探していたし、侯爵には性格の面で懸念はあるが多才な息子が手腕を発揮できるような将来をという親心を有していた。
つまるところ、両家の思惑が一致した形でこの縁談が持ち上がったのである。
とはいえ、家同士の繋がり強化という意味ではそう重視されていないので、あくまで相性次第というスタンスで、二人に婚姻を強要するものではなかった。
が、当人らの結婚観はかなりシビアで夢もなく、親の選別なら間違いはないだろうと、互いに婚約を結ぶ気満々の出席であったりする。
令嬢は、余程の人でなしでさえなければ、年齢も顔も身分や経歴にも興味はなかったし、どの様な性格であっても相手に合わせた受け答えが自身には可能だと考えていた。
令息もまた女性そのものに興味が薄く、たとえねじ曲がった性根の持ち主であっても、己が再教育を施せば矯正が可能であるものと信じていた。
軽い挨拶と紹介が終われば、後は若い二人でと常套句を述べ、伯爵と侯爵が席を立つ。
彼らが扉の向こうに姿を消すと、フンゾリケルドは途端に被っていた猫を捨て去った。
浮かべていた貴族的笑みを真顔に変え、腕と足をそれぞれ組み、尊大に言い放つ。
「さて、僕たちが婚約するにあたり最初にひとつ条件がある」
「条件、でございますか」
唐突な態度の変化に驚きつつも、カレンセーヌはそれを表情に出すことなく、白い頬に手を添え小首を傾げた。
「いいか、淑女として受けた教育は一度忘れろ。
我らは夫婦になろうというのだ。
僕の前で心にもないことを……偽りを述べることは許さない。
だが、黙秘権は認める。
逆もまた然りだ。僕は君にけして虚言を吐かない。
あとは、君が語る内容を理由に、僕が不当な離縁や暴力的行いに及ぶことはないと誓おう。
さぁ、どうだ。カレンセーヌ嬢、この条件を受け入れるか?」
淀みのない早口でまくし立てた令息は、目を細めて対面の椅子に腰掛ける令嬢へ可否を問う。
無作法極まりない試し行為だ。
これは明白な侮辱に該当し、淑女としては怒りを露わにしても許される場面である。
が、カレンセーヌは微笑みを湛えたまま数秒沈黙した後、静かだがハッキリとした声量でこう答えた。
「…………ただし、主に二人きりの場面に限る、と。
この追加条件を認めてくださるのなら」
もし、フンゾリケルドが単に嘘は止めろと一方的な主張だけを押し付けてくる男であれば、この時、彼女は領地を任せるには不足と判断し、見合いは破談になっていたかもしれない。
だが、彼は自身にも同様の枷を課した上で、要求を呑むことによる最大のデメリットを抑えるための誓いを立ててみせた。
ただ傲慢なだけではない。
それなりに現実的な視野と理論を持った青年なのだと推測し、令嬢の心に僅かな興味が宿る。
「もちろん、構わない。僕とて破滅願望があるわけではないからな。
衆人環境の中で貴族としての体面まで投げ捨てろとは言わんさ」
「であれば、私に否やはございません」
今の返答で、令息が己の言葉を違えぬ人物であるようだと確信して、カレンセーヌは微笑みを深くして頷いた。
口では調子の良いことを垂れ流しつつ、いざとなったら平然と真逆の行動を取る軽薄な人間が存在することを彼女は知っている。
しかし、この見合い相手については、少なくとも下と定めた相手に論を返されたとて、憤らず受け入れる程度の度量はあると証明されたのだ。
十分だ、とカレンセーヌは思った。
「……いいな。愚鈍より小賢しいぐらいの女の方が僕は好みだぞ」
「ありがとう存じます」
とても貴族令息らしからぬ、ニヤリと歪んだ笑みを見せるフンゾリケルド。
カレンセーヌという令嬢は、ここまでの人生経験により男性の『上から目線』を種族的特性だと認識しているので、彼の偉そうな物言いや態度にも特に思うところはなかった。
と、そこで、フンゾリケルドが姿勢を正して、少し真面目な顔に変わる。
「では、現在すでに条件が発動しているものとして尋ねるが……カレンセーヌ嬢」
「はい」
「君はなぜ、父にばかり熱心な視線を向けていた。
血筋と容姿と頭脳と武才に恵まれた世界一の男、このフンゾリケルドが目の前にいるというのに」
「……あら。居並ぶ長所に性格は入っておりませんの?」
痛いところを突かれた、という気持ちを隠して、令嬢は冗談交じりに質問を重ねて返す。
「これで性格まで優れてしまっては、もはやイヤミにしても過ぎるだろう。
自慢ではないが、僕の心はザロトドス島より狭い。
神に愛されすぎて早々召されたくもないしな。
必要なバランス調整だ」
「左様ですか」
言っていることは苦笑ものだが、下手な話題逸らしに敢えて乗り、丁寧な説明を施してくる辺り、存外に器の大きな人物であるかもしれない、と彼女は良いように解釈した。
「今日は君に一目惚れされる予定だったのだぞ。
計算が狂うじゃないか」
「ひ、一目惚れ……で、ございますか?」
深いため息と共にフンゾリケルドが愚痴を零せば、カレンセーヌはその予想外の内容に目を瞬かせる。
「ああ、愛ほど費用対効果比に優れるものはないからな。
惚れた相手のためならば、どんな要求をされたとしても懸命に叶えようとするし、笑顔ひとつで報われたと、幸福だと、感じようになる。
淑女というのは、ただでさえ金食い虫だ。
頼み事の報酬に高価な品を必要としなくなるなら、その方がいい」
仮にも婚約者候補を前に、夢も希望も常識もデリカシーもない発言だった。
あるのは貴族女性への偏見ぐらいだ。
「あの、失礼ながら、フンゾリケルド様?
共に伯爵家を支える者として可能な範囲のご要望であれば、私、特に報酬など求めませんが」
「それでは一方的な搾取となりかねんだろう。
短期的な関係ならまだしも、長期に渡ると瓦解は避けられんぞ。
人間関係を維持していく上で等価交換は不可欠だ。
ちなみに、この場合の等価とは金銭でのソレではなく、互いの個人的価値観を示し合わせたものをいう」
「……ううん。そう言われると、反論の余地もありませんけれど」
とはいえ、そこで導き出された最適解が『一目惚れされる予定』とは、あまりにブッ飛びすぎだろう。
いかに優秀とて、親である侯爵が持て余すのも頷ける話だ。
「よもや、僕を足掛かりに父の愛人の座を狙っているわけでもないだろう?
曲がりなりにも婚約を結ばんとするならば、未来の夫をもっと一心に愛し敬い給えよ」
ここで逸らしたはずの話題が戻ってくる。
二度目ともなれば、もはや誤魔化しは悪手と、伯爵令嬢は隠し続けていた己の恥を晒すべく覚悟を決めた。
「もちろん、未来の旦那様となる御方を妻として愛し敬い誠心誠意お仕えする所存でございます。
が、その、隠し立てによる無用な疑惑と不和を招かぬよう、率直に申し上げますと……私、生来より、年かさの男性に胸が高鳴ってしまう性質でございまして。
いえ、あくまで恋愛感情などではなく、そう、近頃に庶民の間で流行しております『萌え』と呼ばれる概念が近いのですけれども」
「そうか。気に食わん」
一刀両断。
ついに枯れ専であることを暴露してしまったカレンセーヌは、惨めさと居た堪れなさで、眉尻を深く下げ俯いてしまう。
そうした彼女の頭部に、フンゾリケルドは容赦なく次の文句を浴びせかけた。
「どの様な感情であれ、夫以外の男に熱い眼差しを向けるのは止めてもらうぞ。
理由はいくつかあるが、何より僕個人のプライドが許さないからだ」
「ま、誠に申し訳ないことなのですが、こればかりは本能のようなもので、自身でも如何ともし難く……」
「ふんっ、勘違いするな。
生まれついたものを矯正しろなどと無茶は言わん。
僕は頭脳にも恵まれた男だぞ、そこらの無知蒙昧な輩と違い道理ぐらい弁えている。
とどのつまり、君が他に何も見えないくらい僕に夢中になれば良いだけだろう?」
「えっ?」
有り得ない言葉が耳に届いて、瞬間、令嬢は思わず視線を上げていた。
「惚れさせてやるさ、このフンゾリケルドが。
君は黙って僕にときめいていればいい」
「ええ……?」
自信満々のドヤ顔で、侯爵令息はそう宣言する。
カレンセーヌは、ひたすら困惑していた。
だが、彼は軽いパニック状態にある令嬢を意に介さず、マイペースに話を進めていく。
「よし。まず古典的手法の一つとして、互いを愛称で呼び合おうではないか。
そうだな……君、僕のことはリケルドと呼び給え。
僕は君をセーヌと呼ぼう」
「は、はぁ。かしこまりました、リケルド様」
「待て、なぜ様を付けた。
僕はリケルドと呼べと言ったはずだ。
やり直しを要求する」
「あ。では、その……リケルド?」
「よし。いいぞ、セーヌ。その調子だ。
僕はこれでも褒めて伸ばせる男だぞ」
いったい何の茶番が始まってしまったのか。
「あとは、そちらの情報をもっと開示し給え。
人心を掴むには、対象をつぶさに知るのが最も近道だ。
どんな日常の些細なことでもいい、年寄り以外にセーヌが惹かれるものはあるか?」
「そ、そうですね……」
まぁ、そんなこんなで絶え間なく質疑応答を繰り返している内に、気が付けば彼女の精神は平静を取り戻していた。
そして、その事実を認めた時、カレンセーヌは『これ以上ない男性を夫と迎えようとしているのかもしれない』と、自然にそう考えていたのだそうだ。
が、その日、最後の別れ際。
「くくく……覚悟しておけよ、セーヌ。
すぐにこのフンゾリケルドに心底惚れ抜かせてやる」
「あの、お手柔らかにお願い致します」
令嬢は彼のうすら寒い笑みとセリフを間近で喰らい、比重でいくと余計な心労の方が多そうだと、ついつい遠い目になってしまうのだった。
以後、正式に婚約を結んだ二人は、伯爵家の領地経営を引き継ぐための婿教育ついでに、幾度となく顔を合わせることとなる。
そして、侯爵令息フンゾリケルドは宣言通り、令嬢を自らに惚れさせるべく、あの手この手と策を用意してくるようになった。
「形の上だけでも日常的に僕の容姿を褒めたたえるだとか、愛を囁いていれば、段々と脳に刷り込まれて、実際そう思っているような気になってくるんじゃないか?」
「なんだか、妙な催眠のようでございますね」
「結果が出るなら、多少正攻法を外れていても構わないだろう。
よし、試しに『格好良い』や『愛している』など適当に言ってみてくれ」
「キャー、リケルドー、ステキー、カッコイイー、アイシテルー」
「……この作戦は失敗だな」
「えっ、まだ始めたばかりですよ」
「どうやら自覚がないらしい。
まぁ、その、セーヌ。分かりやすいのは嫌いじゃないぞ、僕は」
「急に慰められていますわ……なぜ?」
初手から斜め上の発想を披露してくるリケルドもリケルドだが、平然と受け入れ協力するセーヌも大概である。
黙ってときめいていればいい、とは何だったのか。
その後も恋愛とは程遠い、洗脳でもしようとしているかのような手法ばかりをチョイスする奇人フンゾリケルド。
「そら、セーヌ。手乗りサイズの自画像をやろう。
これを常に携帯し、隙あらば眺めて、僕の存在を深く記憶に刻み込むといい」
「まぁ、すごい。こんなに小さいのに、とても精巧な絵だわ。
自画像ということは、リケルドがお描きになったの?」
「そうだ。
僕には芸術を解する才はないが、技術だけなら高水準で習得している。
今回は写実的でさえあれば良かったし、婚約者に贈る物であるから、僕自らが筆を取ったのだ」
「ええ? これだけ素晴らしい絵が描けて、才がないだなんて有り得るのですか?」
「古今東西、芸術とは己の精神を作品として昇華する一種の自己表現であるのだ。
だが、僕の作り出すものにはソレがない」
「ううん。難しいものなのですね。
私などは、この様に精密な肖像画が描けるだけで尊敬してしまいますけれど」
「その程度のものでも君の好感度が上がったのであれば何よりだ」
「はい。リケルド手ずからの絵画、大事に致しますわ」
「必要なら何枚でも同じものを描いてやるから、大事にはしなくていい。
とにかく常に携えていろ、一日中僕のことを考えているための補助具としてな」
ただし、最初に交わした条件上、彼らはよく二人きりになりたがったし、宣言を果たすため通常考えられぬ頻度で令息は令嬢を誘いたがったので、両家の使用人たちはすっかり睦まじい婚約者同士であると誤解していた。
「有名な劇団の公演チケットを入手して来たぞ。
もちろん色恋沙汰が主題のものだ。
コレで気分を盛り上げ恋愛そのものに対する関心が深まれば、君も僕の魅力を感じ取りやすくなるだろう」
「まあ。人気が過ぎて大変稀少と噂の『ムジカヴィッチ・マタカケールの半生』ではございませんか。
私のために、ありがとう存じます。
ただ……正直なところ、恋愛主軸のお話は身分差だの駆け落ちだのといった夢物語な展開が多く、むしろ主役お二人の立場やご家族の事情を推量して醒めた目で見てしまいがちで、なかなか高揚した試しがなく」
「そうか。言われてみれば、僕にも覚えがあるな。
とはいえ、薄暗い場所で隣り合って座るだけでも何か気持ちの変化があるかもしれない。
行くだけ行ってみるとしよう」
「かしこまりました」
プレゼントを渡したり、外出に誘ったり、字面的にはいかにもカップルらしい行動を取ってはいるが、本人たちの心境としては、むしろ、共同実験に近い。
「セーヌの誕生月が来週に迫っているな。
何か欲しいものはあるか?」
「……いただけるだけで嬉しいですから、特には」
「その様な淑女的模範解答が聞きたいわけではない。
知っているだろう、僕は僕のために君の満足する品を贈る必要があるのだ」
「申し訳ありません。これといった希望はございません」
「そうか。まあ、君は足るを知る稀有な女性であるからな。
では、最低限、要らぬものぐらい答え給え」
「ええと、それでしたら……」
まぁ、理由はどうでも、共に過ごす時間が長ければ、それだけ互いへの理解も深まっていくものだ。
「ピンポイントの正解がない以上、後腐れのない消耗品にしてみたぞ」
「まぁ、可愛らしい香水」
「マダム・カグスンの助言を受けつつ、僕が調香した物だ」
「あの王都一の調香師と名高いマダム・カグスンですか!?
しかも、リケルドの手作り!?」
「そんなことより、匂いはどうだ?
忌憚のない意見を述べてくれ」
「そうですね、えっと……あら、いい香り。
甘すぎず、落ち着いていて、爽やかで。私は好きです」
「ならばよし。
記憶を呼び覚ますに最も効果的なのは、実は嗅覚らしいと聞いてな。
この香水を使用するたびに僕のことを思い出すといい」
「なるほど、そのような意図が。
ふふ、リケルドらしい贈り物ですわね」
恋人としては未知数だが、時が流れると共に二人の距離は少しずつ、そして、確実に縮まっていた。
「ええん。えええん。
ゴーギャンちゃん、ゴーギャンちゃんがっ」
「まあ、可哀想に。木に登った子猫が降りられず震えておりますわ」
「ふむ?
君があの姦しい童女と畜生を一刻も早く救いたいと願っているなら、この僕が一肌脱いでやってもいいぞ」
「え? リケルド、いったい何をなさるおつもり?」
「六秒で戻る。セーヌはそこで見ていたまえ」
「っきゃ! す、すごい! あんなに軽々と木を駆け昇って……!
まるで伝説の軽業師トベルド・ソラモンのよう!」
「そら、リトルレディ。友人は無事だぞ」
「ゴーギャンちゃん!」
「もう逃げないよう、しっかりと捕まえておけ」
「うん! お兄ちゃん、ありがとう!」
「……と、まあ、こんなものだ。
侍従に言い付けるのが本来だが、アレらはハシゴが不可欠な愚鈍で、無用な時間を食うからな」
「リケルドは本当に多才な御方なのですねぇ」
「ああ、そうだ。
そのせいで幼い頃はよく他人の無能さに苛立っていたものだ。
が、単に僕自身が唯一無二の天才であったのだと気付いてからは、精神にも余裕ができ、ただ憐憫を抱くに留められるようになったがな」
「難儀なことですわ」
なんだかんだ両人の相性はけして悪くはなく、頻繁に顔を合わせている割に、二人は喧嘩どころか険悪なムードに陥ることすら皆無だったのである。
と言いつつ、主にリケルドが謎の不機嫌を発揮する場面もあるにはあったのだが。
「セーヌ、国立植物園に行くぞ。
ちょうど国花のレジオジウムが見頃らしい」
「あら、それは楽しみですわ」
「嗅覚と視覚を同時に刺激されれば印象にも残りやすいだろう。
これから毎年、花が咲くたび今日のことを思い出すといい」
変化が緩やかすぎて、いつの間にか、最初の外道的手段から随分と一般的な恋仲にある男女らしい作戦内容になっていることには、お互い気付いていない。
「一面に彩り豊かな花々が咲き乱れて……なんて素晴らしい光景かしら」
「あまり喜ばれると、それはそれで気に入らないな」
「え?」
「君のその恍惚とした微笑みを僕は向けられた経験がないぞ。
おかしいじゃないか、花より僕の方が確実に美しいのに。
まったくもって腑に落ちない」
「ええ?
さすがに花とリケルドの顔は比べるようなものではないと存じますが」
「いいや、絶対に花より僕の方が美しく見応えがあり芸術性に富んでいて観賞価値が高い。
セーヌ。今日はもう花には目をやらず、ずっと僕の方だけを見ていろ」
「まぁ。その場合、リケルドはどうなさいますの?」
「そんなもの決まっている。
僕の言いつけが原因で必然的に足元が不注意になるセーヌを全力で介助するだけだ」
「介助」
「うーむ。さすがに普段のエスコートの形では不安があるな。
よし、セーヌ。腰に腕を回すから、もっとしっかり体を寄せ給え」
「ひゃっ。は、はい、かしこまりました」
感情よりまず先に理屈でものを考えてしまう似た者同士の二人は、相手の気持ちにも自身の気持ちにも、とかく鈍かった。
「おい。いつになったら僕に惚れるんだ、セーヌ。
君が夢中になってくれないせいで、僕が毎日どれだけ君のことを考えねばならないと思っている」
「まあ、煩わせてしまっておりますのね。
申し訳ありません。
ただでさえ、引き継ぎ教育も佳境に入り、お忙しい中だというのに……」
「謝らなくていい、早く僕を愛せ」
「……リケルド」
「くそッ。分かっている、これは僕自身の不甲斐なさに対する愚痴だっ。
もうあと二ヶ月で挙式だというのに、未だ妻になる女性一人落とせないなんて、自慢の頭脳が聞いて呆れるだろうっ」
「まぁ、よしよし。どうか私のことで傷付かないでくださいな」
「まるで子ども扱いではないか。止め給え」
「あら、ごめんあそばせ」
「む、セーヌ。撫でるのまで止めろとは言っていないぞ」
「あらあらまぁまぁ」
「なぜ乳母のような目で僕を見るのだ」
「いいえ、リケルド。その様な」
恐ろしいことに、これだけイチャついておいて、彼ら、まるで無自覚なのである。
「セーヌ、今度少し手助けして欲しいことがある」
「あら、お珍しい」
「実は伯爵より最終課題を出されてな。
領内のとある揉め事を片付けるよう言いつけられたのだが……ソレに君を連れて行きたい」
「え、私を?」
「僕は正論や暴力で一方的に相手の精神を根本から叩きのめし従わせることは得意だが、君は人を丸め込んだり、そうと悟らせず意のままに動かしたりすることが得意だろう?」
「いやですわ、リケルド。人聞きの悪い」
「誰も聞いていないのだから許せ。
知っているんだぞ。
僕に横恋慕していたメイドを、セーヌ、君が自身の信者に変えてしまったのを」
「悪意のある言い方はお止しになって下さい。
私はただ、叶わぬ恋に苦悩する彼女の話を親身に聞いて慰めて差し上げただけです」
「分かった分かった。
とにかく、解決だけなら僕一人でも難しくはないのだが、誰もが納得する形を探るなら、君の力を借りるのが最良だと判断したのだ」
「左様ですか。
しかし、リケルドの課題に私が助勢して問題にならないのでしょうか?」
「別に構わんだろう、領地は夫婦で治めるものなのだから。
一人で事を成すのに拘って、後の遺恨を作る羽目に陥っては、その方が問題だ」
「確かに……そういうことなら、承りました」
「面倒だと思うか?」
「いいえ、光栄ですわ」
「ふっ。それでこそ僕の妻となる女性だ」
「まあ、リケルドったら」
お 前 ら も う 結 婚 し ろ。
ちなみに、存外律儀なリケルドは、セーヌの婚約者という立場でありながら、恋人らしい触れ合いをほとんどして来ていない。
宣言を果たせてもいないのに、肉体的な接触だけを求めるのは不誠実でありプライドが許さないと考えているのだ。
キスどころか、まともに抱きしめあうことすら皆無で、一応、手だけは人混みなどを理由に数回繋いだか、という有様である。
そんなジレジレな二人だが、結婚まで残り一ヶ月を切った頃合いに、ようやく進展の兆しとなる出来事が発生した。
「ねぇ、リケルド。ひとつ伺ってもよろしくて?」
「構わない。
僕は狭量だが、己の婚約者に質問すら許さないほど暗愚な男ではないからな」
いちいち余計なセリフを付け足さねば気の済まぬ尊大野郎である。
「では、あの、私が貴方を愛したと仮定して、その後の話が聞きたいのです」
「ふむ? 続けたまえ」
リケルドに先を促されるが、珍しく言い淀んだ様子を見せるセーヌ。
だが、それも数秒のことで、間もなく彼女は唇を小さく開いて吐息を零し始めた。
「リケルドが何くれと気を遣ってくださるのは、私に恋情を抱かせるためでしょう?
だとすれば、その前提が崩れた時、本気でお慕いし夢中になった時、貴方の態度がどの様に変化するのか…………私は、ソレを知りたい」
膝上で重ねた両手を強く握りしめ、揺れる瞳で彼女は問う。
対して、リケルドはゆっくりと顎に指を添え、沈黙。
僅かの後、何かに思い至ったかのように一度頷いてから、導き出した答えを口にした。
「……なるほど。要はセーヌ、君は不安なのだな。
僕が釣った魚に餌をやらず放置するような、遊猟のみに精を出す傾向の男ではないのかと、そう疑っているわけだ」
「っ申し訳ございません」
不興を買ったと思い込み、ほとんど反射の速度でセーヌは詫びの言葉を喉から吐き出す。
しかし、彼女の想像と裏腹に、リケルドは分かりやすく頬を緩ませながら、次のように告げた。
「謝罪はいらない、むしろ、非常に喜ばしいことだからな」
「え?」
意味が理解できず、困惑に固まってしまうセーヌ。
「何だ、自分で気が付いていないのか?
ソレは君が些少なりと僕に惹かれない限り、けして発現し得ない感情だぞ。
最低限、惚れそうだという自覚でもしない限り、その後にどうなるかなんて不安を抱くわけがないんだよ」
「……っあ」
「つまり、想いの大小はともかく、すでに君は僕に恋情的な意味合いの好意を持っているのだっ」
つい先ほどとは逆に、意味が理解できてしまったからこそ、改めて困惑し固まってしまうセーヌ。
じわじわと気恥ずかしさに侵され目尻を赤らめる令嬢へ、デリカシーを母の胎に忘れてきたと噂の男が容赦なく追い打ちをかけていく。
「はっはっは、そうかそうか。
セーヌがようやく僕を、な。
いや、愉快だ」
「く……っ」
「なぁに、種がやっと芽吹き始めたかという状況で、陽にもあてず水もやらぬような失態を演じはしない。
安心して、この世界一の男フンゾリケルドに魅了されてくれ給え。
そもそも、君のことを考えるのは、もはや日課の一部になっているのだ。
よって、現状以下にはなりようがない。
必要と言うならば神にも誓おうではないか。はっはっはっは」
「り、リケルドぉ……っ」
調子に乗った令息のウザさが天元突破寸前だ。
彼の回答に安心した部分も少なからずあっただろうが、それ以上に、彼女の羞恥心は臨界点近くまで煽られまくっていた。
「も、もう止め……っ」
「うむ。しかし、不可思議だな。
ここまで感情が昂るのは産まれ出でてより初めてのことだ。
まるで創世神話に登場する無限噴水ワークのごとく、留まることなく胸の内に歓喜が生じ続けているぞ。
源泉は何だ? なぜこの様な現象が起こる?」
「…………リケルド?」
しかし、そこで唐変木の代名詞のような男は、ブツブツと独り言を漏らしながら己の世界に入り込んでしまう。
淡い恋心を自覚したばかりの令嬢を相手に、怒涛の言葉責めからの完全放置プレイは、いささかレベルが高すぎるのではないだろうか。
しばしの時が経ち、やがて、セーヌが死んだ魚のような目をしかけたところで、ようやく思考の海から戻って来たらしいリケルド。
自然に彼女と視線を合わせた彼は、直後、とんでもなく大きな爆弾を放ってくる。
「あぁ、そうか……思えば、一目惚れをしていたのは僕の方かもしれない」
「えっ」
驚愕の事実が奇人の口から飛び出した。
「あの時、セーヌが父に向けていた、夜空の星を散りばめたように瞬き輝く瞳は、吸い込まれそうに美しかった。
だから、対象が僕でないことに嫉妬して、無意識に強く当て擦るような態度を取ってしまったのだろう」
「美っ、嫉っ、ええ!?」
「悪かった」
リケルドは、まるで人が変わったかのようなロマンあふれる語彙力を発揮し、その上、これまでにない穏やかな表情を浮かべ謝ってなどくるではないか。
「い、いえ、そんな、そんなことっ。
だって、その、失礼だったのは明らかに、わた、私の方で……っ」
セーヌは動揺している。
あまりの急展開で、彼女の困惑は今、最高潮に達していた。
「いいんだ、セーヌ。
君が僕を愛し始めてくれた今、そんなことは最早どうでもいい」
「え、あの、リ、りりリケルド?」
ふっ、と小さく笑んだかと思えば、令息はおもむろに椅子から立ち上がる。
彼はセーヌの眼前へと流れるように移動して、優雅な動作で彼女の手を取り、その場に恭しく跪いた。
「結婚してくれ」
「ひゃっ」
「親に決められた婚約者だからではない。
ただ、愛し合う一組の男女として、僕は君と婚姻を結びたい」
どうか、と、そう続けて乞いながら、フンゾリケルドは細く白い指先を持ち上げ軽く口付ける。
刹那、令嬢の顔面がボッと音を立てて朱に染まった。
声にならない叫びが、わななく唇から微かに漏れ出ている。
「セーヌ? 答えは貰えないのか?」
ここで、上目遣い。
あざとい。さすが三男あざとい。
リケルドは、もはや完全に別人だった。
カレンセーヌへの恋情を自覚した彼は、元より己の身を恥じるなどという概念が存在しない分、大仰な覚醒を果たしてしまったのだ。
ただし、令嬢の側も、日々逢瀬を積み重ねる内、実は想像以上にこの奇人にのめり込んでいたりする。
色々とアレな彼を相手に、こっそり内心で可愛いと思った瞬間は数知れず。
しかも、現在の覚醒リケルドに至っては、異性として意識せざるを得ない、パーフェクトイケメンオーラを放っている。
もちろん、カレンセーヌの錯覚だが。
しかし、絶賛盲目中の彼女にとって、これで胸を高鳴らせるなという方が土台無理な話であった。
「は……はい。
私、私も、その、気付いて、お、お慕いして、おり、ます。
えっと、他の誰でもなく、リケルド、あの、貴方を」
「……っセーヌ!」
ついに陥落した令嬢のたどたどしい告白は、感極まった令息が勢いよく彼女を腕の中に閉じ込めたことで途切れてしまう。
「瞳の美しさだけじゃない、君の全てを愛している」
「っ嬉しい、リケルド。私も……」
だが、想いが通じ合ったばかりの若い二人には全く些細なことで、今はただ、すぐ傍にある互いの体温を感じ分け与えることに夢中になっていた。
こうして、晴れて両想いとなった彼らは、間もなくの挙式を無事に遂げ、婚約期間以上のイチャラブバカップル夫婦ぶりを見せつけまくり家人らに呆れられながらも、伯爵家の領地を大いに盛り立てていったのだという。
やがて十年も経つ頃には、一男二女の子宝にも恵まれ、その後も小さな内から徹底的に波乱の芽を潰すことで、末永く幸福に暮らしていったそうだ。
うーん。物騒、物騒。