03 ディアナイト
カーチャは『ディアナイト』の重い木の扉を開けると、一瞬だけ酒とシガーの煙の匂いの混じった香りが流れてきて、クラッと酔ったように頭の芯が刺激される。ディアナイトを開店して3年。不思議とこの匂いに迎えられると夜の時間が始まったのだと、高揚感が湧いてくる。
入ってすぐの店内の六つのテーブル席はほぼ埋まっていた。そして真っ先に右奥のカウンター席の右端に目を向ける。
ーーーやっぱり。今日もいた
「アルフォンス=デヴロー」
名前を呼ばれて間接照明の光を受けた背中で纏めたダークブロンドの髪が揺れた。
「カーチャ」
振り向いて優しく笑った碧の目に射抜かれる。不覚にも一瞬ドキっとしてしまう。
「今日もきたの?」
「ダメ?…って言われてもくるけどね。かわいいカーチャに要らぬ虫がついても嫌だし監視しとかないと。タムスンにお願いされてるからね」
ハンサム顔がしれっという。アルフォンス、ことアルは4つ年下の弟タムスンの中等部以来の同級生だ。夏休みの度につるんでいるようだったから、親友だろう。
出会った当初はヒョロっとしたいかにも貴族の坊ちゃん風で、背丈もカーチャと同じか、むしろ低いくらいだった。あれから10年。いつのまにカーチャを見下ろす程に成長し、今では近衛騎士団団員の出世頭だ。
その上、顔面偏差値が高いとくれば言わずもがな、伴侶募集中の王城内の女性たちからは熱い視線が注がれているに違いない。違いない、と言うのはカーチャ自身が目撃した事はないからだ。
カーチャは仕事場に貼り付いていてあまり王城内を歩くこともないのと、関心もないので、女性に囲まれてチヤホヤされるアルの姿は想像の領域を出ない。ただ、噂というものだけは不思議と耳に入ってくる。アルは大変モテるらしい。
子爵家の三男坊ともなると自らの手で立身出世を図らないとどうにもならない今世である。あるいは後継ぎのいない金持ち貴族のご令嬢のハートを射止めて婿入りするか。最悪の場合には平民落ちして裕福な商家のお飾りのお婿さんになるか。俗に言う逆玉狙いである。
結婚の見込みのない三男坊は一家のお荷物にしかならない。しかしアルは見事に自らの手で将来勝ち組になったのだ。
上層部にも目をかけてもらっているからか、この春から同じ職場に武官として配属された。入団間もないのに異例ともいえる抜擢だ。それほどに有望視されているのであろう。
アルは私の前では決して口にしないが、タムスンの情報によると既に近衛団団長が一人娘の娘婿候補として子爵家に打診しているらしい。将来安泰だね、アル。
「かわいいなんて少しも思ってないくせに。それにここでは『ディアナ』だよ。ちゃんと呼んでくれないなら帰って」
アルは口を尖らせてわざと拗ねたフリをしてみせる。
「チェーっ。分かりました、おねえさまっ」
また碧の瞳がキラッと光りいたずら心を覗かせる。口調はともかく、目が笑いすぎている。
ーーー最近は何かと突っかかってきてばかりだ
「生意気になったもんだわ」
ワザとため息をついてみせる。
「…誰のせいだと思ってるんだ」
「へ?」なんか不穏な声音を耳にして思わず聞き返してしまった。
「なんでもない。『ディアナ』は相変わらず自分しか見えてないよね」
「…何それ?勝手に決めつけないでくれる?てか、自分しか見えてない、ってなに?私はいつでも周りをよく見てるし、時流も空気もよんでるけど。アルのくせに最近やたらと生意気じゃない?どうしたの?昔はかわいかったのにな〜。おねえさまは哀しいですよ」
「ちっ」
「今、舌打ちした?ねえねえ、今日おかしくない?嫌なことあった?なんでも話してごらん。相談ならいくらでものるよ?」
アルは一瞬俯いて表情が見えなくなった。間接照明もあって影が濃すぎて表情が読み取れない。でも次に見せてくれたのは貼り付いたような笑顔だった。
「今はおねえさまに相談する事は一つもありません。…いずれかね。」
口元は笑顔を作っているのに、目が笑っていない。なぜかご立腹のご様子だ。こうなると手のつけようがない。アルはそっとしておこう。触らぬ神に祟りなし。うん。
気を取り直してバーテンダーのジャスティンに一杯お願いすることにする。「ジャスティン、いつものノンアルのお願い」
「はい…て事は今日はこれから踊りに?」
「そそ。今日もここはジャスティンに任せたわ。疲れ気味だから直帰する」
見た目は眼鏡をかけた品のいい初老の小柄なおじさんだが、眼鏡の向こうには年齢に見合った渋みのある甘いマスク。柔らかい物腰と言葉遣いは疲れた骨身に染みるすばらしい癒しだ。
昔はさぞかしモテモテだっただろう。我ながらよくリクルートできたものだと思う。このバーの成功の裏にある大きな功労者だ。
「疲れているとおっしゃるわりにはも元気そうで何よりです」
滑らかにノンアルコールのカクテルを差し出される。ジャスティンはこの界隈ではきっと一番のバーテンだ。職人技ともいえる空気を読み取る術は逸品で、穏やかな雰囲気を作り出すことに長けている。それなのに何故が今日はトゲを感じる。
軽くいなされた気がする。そしてアルと目配せなんかして、通じ合っているようで落ち着かない。
ジャスティンと会話をしながらアルの隣に腰掛ける。少し年季の入った背の高い皮張りの椅子がギシっと軋んだ。
「今日も会議続きで仕事がんばってたもんな。今まで残ってたの?」
アルが心配そうにのぞき込んできた。よかった。さっきの怒りは治まったようだ。
「せっかく同じ職場になったのに『ディアナ』ってばほとんど声かけてくれないし」
「いや、仕事に行ってるわけだし、普通に仕事以外の会話ってしないよね?」少し言い訳してみる。そうだ。アルは全くもって変なところで構ってちゃんになる。図体がでかくなっても変わらず、昔からそうだ。明日はお昼に誘うくらいしてあげよう。
クイッと最後に一飲みして空にしたグラスをジャスティンに渡す。
「じゃ、今日はもう少し遊んでから帰る」席を立って銀髪に一回指を通す。今日もサラサラ。銀髪に生まれたかったなぁ、と思う。実際の髪は平凡すぎるほどの茶色。手入れも怠っているからか艶もあまりよくないし、よく絡まる。
「一緒にいくよ」同時にアルも席を立つ。
「いや、ダメでしょ。将来有望な子爵御令息様が夜遊びをされているのがバレると婚期逃すよ?」笑って軽く肩をおして座らせる。
「せいぜいバーで飲むくらいに留めておかないと…いま団長のご令嬢との婚約を打診されてるんでしょう?ちゃんとしていないと振られちゃうよ?」
アルの形のいい眉が動き軽いしかめ面になる。
「…タムスンから聞いたか。あいつ、喋りすぎ。シスコンだからしょうがないけど」
きれいな額にシワが寄るのがいたたまれなくてつい手を伸ばし、指でアルの眉間を撫でてしまった。アルは一瞬目を見開いて驚いた表情を作ったが直ぐに手首をとられた。
「そういう事しないでくれる?もう子どもじゃないんだから」
無意識にとっていた自分の行動に今更ながら気づいて恥ずかしくなった。
「ごめん!無意識だった」明らかに、なんだか気まずい空気が流れている。
謝るとすぐに手を離してくれたが、目線が痛い。落ち着かなくて早くその場から逃げたくなり早々に退散する事にした。せっかく機嫌が治ったと思ったのに再びアルの怒りスイッチを入れてしまったようだ。
「というわけで、また明日ね!」振り返らずそのままバーを後にした。背中で聞こえた「どういうわけだ」というツッコミは聞こえていないフリをして。
アルとジャスティンに見送られ今日も近場のクラブに踊りにいく。