01 残業
夜の帳も深まり王城の回廊はどこも鎮まりかえっている。昼間からは想像できない静けさのなか、王城東棟のあかりだけが煌々と明るくその一角を照らしている。一番奥まった一画にバルトリ王国安全保障研究会研究室がある。
ーーーああああっっ!もうダメ!ストレスマックス!
カーチャはずれた眼鏡を直しながら前髪をガシガシとかきむしった。輪ゴムに絡みつく茶色の長い髪をもう一度束ね直し机の上の地図と報告書を睨む。こんな残業はここ毎日だ‥いや、永遠に続いているとも思えるくらいに研究室に勤めてから残業続きの気もする。
東棟の安全保障研究会研究室は機密情報も取り扱う場所であるためもとより人の出入りは少ない。研究室には20人ほどのスタッフと研究員がつとめているが今日もカーチャは一人で残っている。それもこれもバルトリの独立のためである。
各国に派遣している外交官の報告書に目を通しているのだが‥なにせ情報量も分析力も足りない。すでに新聞などで把握済みのような内容ばかりでこれでは正確な国際情勢を把握しようにもかなり無理がある。今は繊細な時期だ。
バルトリは先の大戦で大敗し、大陸のメルージェ-ビナエ帝国の属国から脱したい時期に突入している。もはやこれ以上属国となっていても帝国に国力を吸い上げられ衰退する一方で何のメリットもない。
20年という節目を前に王家はじめ政府全体が完全独立に向けて動き始めている。過激な独立運動をすれば、帝国に睨まれ叩かれるのは目に見えてる。うまくかわしながら独立へ…あと一歩だというのに。
ーーーどいつもこいつも使えない
カーチャは悔しさのあまりにギリっ歯を鳴らしてしまう。
王国のため、とか言って理想論だけで頭の固い政権のお偉方に独立を説得するにも限界がある…当たり前だがこの20年もの間、帝国の支配が政権に及び独立機運を排除してしまっている。
しかし国際情勢は刻々と移り変わっているものだ。
20年という歳月は国際勢力を塗り替えるのに充分な月日であった。かつて武力を誇ったメルージェ-ビナエ帝国は人口を抱え過ぎ疲弊してきて綻びが見え始めている。それまで征服してきた局地で小競り合いが活発化し、表面化してきている。もはや他国にも筒抜けなほどに戦闘も頻繁に、また規模も拡大してきている。今のところそれを収めるだけの武力は保持しているもののいつまでもつのかも時間の問題である。
帝国が弱体化する一方で、領土も狭く資源が限られていた南方のジャルーガと西方のシンは技術革新と金融に力を入れてきた成果が結びつつあった。友好国である二国が共闘すれば帝国をも凌ぐだけの経済力と軍事力にまで成長してしまった。
これを脅威と見るならば帝国の目は大陸に向いており、また後方にあるバルトリとは良好な関係を維持せざるを得ない。属国のままではバルトリは衰退する一方で帝国の支えにはならない。むしろ限界を迎え独立機運が高まり、三面で戦線を張らねばならないような状況は避けたいはずである。
帝国に提示出来る、見えるデータと実績がほしい。もはや属国でなく、バルトリが対等な同盟国としての方が有意義であるという事を証明できる何かを。
そしてそれを実行できる使える人材が欲しい。帝国を恐れず、それでいてうまく自国の意思を通せる要領の良さを持ち合わせた人。折しもメルージェ-ビナエ帝国の皇帝は入れ替わり新皇帝が戴冠したばかりだ。新皇帝カール・ビエナは計算高い…だからこそバルトリを手離すはずなのだ。
ーーーもう今日はやめた、やめ、やめ、やめ
重要な局面にあるにも関わらず緊迫感の無い上司にイライラさせられ、考えに耽りつい残業してしまった。しかし詳細な帝国の動向が把握出来ない限り机上の空論、頭の体操でしたかならない。
カーチャは敢えて深呼吸をして、肩の力を抜く。
ーーー遊びに出るか、大人しく帰るか
体力は有り余っている、正直身体を動かしたい。1日ずっと報告書との睨めっこだった。よし、今日は遊ぶ。決断するなりテンションが上がってくる。
ーーーやっぱり遊ぶの好きだ。やめられない
思わず口元が緩む。さっきまでのモヤモヤを途端に忘れてこれからのスケジュールを組み立てる。まずは研究室に借り上げてもらっている街中の部屋に戻って荷物を置いて中心街にある自身の部屋で着替えてから出かける。
ーーー明日も仕事があるから明け方には帰らないとなぁ
心なしか浮き足立つ。しかし、ふと、歩みを止め思考停止状態に陥る。
ーーー今日もいるのかな、あのこ
始まりました。よろしくお願いします。