舞ノ神
幼い頃に見た母の舞いを、いまでも鮮明に思い出せる。
それをたとえるならば、深い森の中を静々と流れる清流。
風に吹かれる絹布のようにたおやかに、音もなく全身を揺らめかせる。しかし、雨が降れば小川がその流れを増すように、激しく情熱的な、燃え盛る炎にすら錯覚するほどの昂ぶりをみせる。
頭の天辺から指の先まで、僅かなぶれもなく研ぎ澄まされた舞踊。幼子ながら、その舞いが有り触れたものではないことだけはわかった。
どういうわけで見たのか覚えていないのに、何故かそのときの母の姿が、未だに脳裏に焼き付いて離れない。
***
サイカは踊っていた。
頭をぐわんと下げたかと思えば、腕を振りながら上体を反らすほどに持ち上げ、鹿が飛び跳ねるように木の床を蹴る。舞台を想定した長方形の線のうちを縦横無尽に駆け巡る。手脚が、いや、サイカの身体全てが鞭のようにしなる。
調子をとるのは門下生の手拍子だ。ぱんぱんぱんぱんと一定の間隔で鳴るその音に合わせて、サイカは四肢をしなやかに、かつ激しく動かす。
簡単に結わえていた髪はいつの間にか解けている。肩ほどまでの亜麻色の髪を振り乱し、全身からは汗が噴き出している。
この舞いが表現するのは、怒れる龍だ。
逆鱗に触れられ荒れ狂う龍。
もちろんサイカは、想像上の生物である龍を見たことなどない。だがそれは、この舞いを見る者も同じである。だから、想像するのは氾濫する河だ。この地に恵みをもたらす大河も、大雨が降れば一転して災厄となる。実際に氾濫したところを見たわけではないが、現実のものであるのだから表現はしやすい。
手拍子が鳴り終えるのと同時に、サイカはぴたりと静止した。
「良かったですよ、サイカさん」
ぱちぱちと拍手をしながら歩み寄ってくるのは、いままで拍子をとっていた門下生のうちのひとり、ナールだ。
日に焼けておらず不健康にすら思えるほど白い顔は、大病を患った後のようにげっそりと痩けている。細い四肢は叩けば簡単に折れてしまいそう。舞踊をする者にとって必要以上の筋肉は美しさを損なうだけだが、それを踏まえてもこの男は細すぎる。
しかし、彼の舞いは美しい。
体型のことなど気にならないくらい、観客は彼の舞いに没頭する。門下生の中では単純な舞いの技術では一番であろう。
ただ、それでも次期当主であるサイカの舞いの方が上回る。現当主である彼女の母親が踊れる身体ではない以上、いま、この流派の中で最も美しく舞うことができるのはサイカである。
それでも、そんな彼女にも悩みがある。
「どうぞ」
サイカが姿勢を崩すと、別の門下生が汗拭き布を手渡してきた。受け取り、顔、首筋、衣の中を簡単に拭う。
「どうだった?」
布を渡してきた門下生に、サイカは問う。
「どう、と言うと……」
彼女は困惑したようにちらりとナールの方を伺う。自分より圧倒的に上手い人間に訊ねられて、どう答えていいのか分からないのだろう。
そんな様子を見て、ナールは苦笑を浮かべた。
「それは、お母様と比べて、という意味ですか?」
「ええ」
サイカは頷く。
しかし、ナールは首を横に振った。
「全く及びません」
返ってきたのは、サイカが期待した言葉ではなかった。とはいえ、サイカ自身もそこまでの期待を持っていたわけではなかった。自分がどれほど踊れているのかは、自分自身がよく分かっている。
「そうよね」
だから、あっさりとその事実を受け止める。
サイカは汗拭き布をナールに押しつけて、
「踊り疲れちゃった、少し休むわ」
そう言って、稽古場をあとにする。稽古が始まる前から練習を続けていたため、身体がくたびれている。水汲み場で軽く顔を洗って、その足で母親のもとへ向かう。
サイカの母親、マイヤは当代一と謳われた舞い手だ。
いまは脚を悪くして舞うことはできないが、かつてはその身に神を宿した《舞ノ神》とまで呼ばれたと聞く。
マイヤの舞いを、サイカが鮮明に記憶しているのはただ一度のみだ。それまでにも何度か見たことはあるのだろうが、物心つく前のことであったせいか、まるで覚えていない。
唯一記憶に残る母の舞いは、それはもう、この世のものとは思えなかった。それは《舞ノ神》と称されるに相応しい。
美しさを評する言葉に天女のようだ、というものがある。だが、マイヤの舞いはその美しさとはまるで違う類いのものだ。
それを見た頃はまだ、何も知らない幼子だった。しかし、いまのサイカは踊れる。だからこそ母親の舞いがどれだけのものであるかを理解できる。
技術の上では、そう遠くない場所にいる。なのに何故か、あの舞いに辿り着くことができない。それは多分、自身の在り方に問題があるのだ。
サイカとマイヤでは、決定的に何かが違う。その差異が、そのまま舞いに表れているのだろう。
敷地内を少し歩くと、さほど大きくない木造の建物が見える。ここ二年ほどマイヤが暮らしている離れだ。母屋と比べて妙に小さいのは、その用途がただひとつに限られているためだ。
離れの戸を大きな音を立てないように慎重に開け、草履を脱いで中に入る。土間には最低限の衣類を納める箪笥と、
部屋の中央に敷かれた布団で眠っているのがマイヤだ。側には若い門下生がひとり座っている。マイヤの身の回りの世話を、若い弟子達が持ち回りにしているのだ。彼女はサイカが入ってきたことに気付くと、すっくと立ち上がってサイカを出迎えた。
「サイカ様、稽古は終わりましたか?」
「早抜けしてきたわ。ちょっと席外してもらえる?」
門下生ははいと返事を返して、そそくさと建物の外へ出ていった。サイカは先程まで彼女が座っていた場所に腰を下ろして、マイヤの顔を覗き込む。
「ああ、サイカ」
「お母様、お身体の具合はどうですか?」
「今日は調子がいいわ。いまなら少しは踊れそう」
冗談を言って、マイヤはやつれた頬をくっと引き上げて笑顔をみせた。サイカも微かに笑みをつくって返すが、心の内では笑えるはずなどなかった。
マイヤがこうして床に伏せるようになったのは、二年と半年ほど前のことだ。脚を痛めて舞いを舞えなくなってから体調は優れなかったものの、弟子達への稽古はおこなっていた。それが次第に弱っていき、遂には一日の大半をこうして寝たきりで過ごすようになった。医者に診せても原因は分からず、誰もが、マイヤがもう長くないであろうことを感じていた。
この離れというのもマイヤの希望があって建てられたもので、それ故にこの程度の大きさしかない。
「あなたはどう?」
サイカが俯いていると、マイヤがそう訊ねた。サイカは我に返ったように顔を上げる。
「どう……って?」
「大公さまがご覧になるの、もうすぐでしょう?」
「そう……ですね」
サイカは小さく頷いた。
この国を治める君主である大公が、サイカの流派の舞いをご鑑賞なさるというのが十日後のことである。マイヤが踊れる身体でないため、サイカはその鑑賞会で次期当主として掉尾を飾ることとなる。彼女の人生で最大の大舞台だ。ただ、失敗すればそれは流派の凋落につながりかねない。
マイヤは、サイカの稽古が順調であるかどうかを問うている。
「……いつも通りですよ、お母様」
いつも通り、ただ上手いだけの舞い。見た者の価値観を揺るがす《舞ノ神》のようには、決して踊れない。
そんな内心が表情に表れないように努めたつもりだったが、どうやら失敗していたらしい。マイヤは心配そうにサイカを見つめている。
その視線に耐えかねて、サイカは話を切り出した。
「お母様」
「なに?」
僅かな躊躇いのあと、言葉を続ける。
「……どうすれば、わたしはお母様のように舞えるのかしら」
いまでもサイカの記憶に残っているマイヤの舞踊。神の宿ったその舞いに少しでも近づきたいという本心を吐露する。いままで、一度もマイヤに対して口にすることのなかった感情だ。
「あなたは、わたしのように舞いたいの?」
マイヤの問いに、サイカは強く頷いてみせた。
「ええ」
「……そう」
サイカの返答に、マイヤは複雑そうな表情をみせた。それから、少しの逡巡を挟んで口を開く。
「……あなたはわたしみたいになる必要はないの」
「何故ですか?」
マイヤがぽつりと漏らした言葉に、サイカは疑問を投げかける。
彼女の舞いは、《舞ノ神》とは、舞踊を嗜む者ならば誰しもが憧れるそんな存在であった。にも関わらず、《舞ノ神》であった女はそれになることを否定する。
「《舞ノ神》は鬼神なの。あなたは道を外れる必要はないわ」
「鬼神……」
荒ぶる恐ろしき神。それは、天から舞い降りたかと思うような美しさの《舞ノ神》とはまるで正反対の存在である。
「それでも……」
鬼神になっても構わない。
思わず出かけた言葉を、サイカはすんでのところで飲み込んだ。
「いえ、ありがとうございました、お母様」
急くように立ち上がり、部屋をあとにしようとする。
「サイカ」
引き留めるようにマイヤが名を呼ぶが、サイカは立ち止まらない。彼女は娘に鬼神になって欲しくはないのだろうが、サイカの目指すものはそこにある。
母の想いを裏切ることになろうとも、幼い頃に見たあの舞いを舞いたいと、サイカは強く願う。
部屋を出る直前に、一度だけマイヤの方を振り返る。
「お大事になさってくださいね」
***
既に準備を終えたサイカは、舞台袖でふたつ前の演目を見ながら自分の出番を待っていた。
身に纏っているのは、祖母の代から使われている、金糸をあしらった碧色の衣だ。今回の演目でサイカが表現する龍を象っている。普段の稽古着よりも少し重く、その違いを調整するのには少し時間を要したが、もう問題はない。
身体の調子はいい。
前日も遅くまで稽古をしていた割には身体が軽いし、頭も冴えている感じがする。
鑑賞会の当日になったというのに、結局サイカは、マイヤの舞いに近づくことは叶わなかった。舞いが表現するものそのものにはなれず、模倣するばかり。
それでも大公さまは満足し、素晴らしい舞いを見たと賞賛の言葉を述べるだろう。だが、それでは《舞ノ神》という伝説になれはしない。
あれから毎日、マイヤの見舞いには赴いた。彼女の容態はどんどん悪化している。吹けば消えるほどにしか、命の灯火は残されていない。
あれ以来一度も《舞ノ神》については話題に上らなかった。マイヤがきっと何も教えてくらないであろうことはサイカにもわかっていた。かわりに、門下生のなかで最も古株であるナールに《舞ノ神》についての話を聞いた。
マイヤが《舞ノ神》と呼ばれるようになったのは、彼女の夫、すなわちサイカの父親が亡くなって間もなくのことだったそうだ。サイカが物心つく前のことだから、覚えていないのも無理はない。
彼女が《舞ノ神》であったのは、脚を壊すまでのたった二年程度のことである。神懸かり的な舞いが華奢な身体に負担をかけたのかもしれない。ただ、マイヤは自分が踊れなくなることを悟っていたのだろう。だからこそ、サイカに舞いを見せた。彼女が怪我をしたのは、サイカの記憶に残るあの舞いを見せた、その翌日の稽古でのことだったのだ。
サイカが《舞ノ神》になることを望まなかったマイヤが、何故そのときサイカに舞いを見せたのかはわからない。
音楽が鳴り止み、拍手が響いた。
前の演者が舞台袖に降りてきてから、隣に座っていたナールが立ち上がる。
「では、行ってきます」
サイカが頷くのを見て、ナールは舞台へと歩いて行った。
まもなくして、楽器の演奏が始まった。ナールが静かに、けれど情熱的に舞い始める。
ナールの舞いが終われば次はサイカの番だ。
緊張はない。己の舞いを神の領域まで持っていくことはならなかったが、今日は自分にできる限りの舞いを舞おう。そう思った。
「サイカ様!」
「本番前よ、静かにして」
突然、大きな声で門下生に名前を呼ばれて、集中に入り始めていたサイカは苛立ったように彼女を咎める。息を切らし取り乱した彼女の顔を見て、サイカは異変を感じとった。
その門下生はいま、マイヤの看病をしている筈だったのだから。
「お母様に、何か?」
「お母様が――マイヤ様が、亡くなられました!」
舞台袖にいた門下生達が騒然とする。
サイカははじめ、その言葉を理解することができなかった。
ようやく意味を飲み込めても、信じられなかった。もう長くはないことはわかっていたのに、覚悟はできていたのに。それでもどこかで、この舞台が終わるまでは生きていてくれると思っていた。
「サイカ様、マイヤ様のところへ!」
混乱する門下生が口々に言うが、この会場からすぐにマイヤのもとへ向かうのは現実的ではない。
母親を喪った悲しみはある。だが同時に、サイカのなかにもうひとつ、不思議な感情があらわれていた。
舞いたい。
この悲しみを、舞いに捧げたい。
音楽が止んだ。ナールの演目が終わったのだ。
舞台が待っている。
肩で息をしながら舞台袖にはけてきたナールが、舞台袖の様子を見て困惑している。そんな彼と、引き留める門下生をよそ目に、サイカは舞台へと向かっていく。
舞台に立ち、大公をはじめとした観客に一礼をして演奏が始めるのを待つ。
やがて、弦を弾く音が鳴り始める。一筋の涙が頬を伝うのを感じた。
母親を喪った。その悲しみがサイカの身体を突き動かす。
表現するのは、怒れる龍。
龍は人々へ恵みをもたらすが、同時に恐ろしい存在でもある。人々は龍を恐れながらも、与えられる恵みに感謝を捧げる。だがいつしか、そのことを忘れた愚かな人間が龍の逆鱗に触れてしまう。龍は怒り狂った。人々に豊穣をもたらす存在であったはずの龍は、途端に破壊を招く災厄そのものへと転じてしまったのだ。
龍は人間には到底鑑賞することのできない大いなる力で以て、目に見えるものを蹂躙し尽くす。やがて龍がその怒りを静める頃には、一帯は人が住んでいたかどうかさえわからないような惨状となっていた。そしてふたたび、人々は龍を恐れ敬う気持ちを思い出す。
いままで直接表現することのできなかったそれを、サイカはそのままに舞いこなしている。
幻獣である龍そのものになる。
それは、昨日までのサイカでは表現することのできなかった領域だ。
技術の面で、以前と違うことは何もない。ただ、マイヤを、母親を喪ったということだけが異なる。
稽古のときとは違い太鼓や笛といった楽器による囃子が奏でられている筈なのに、それが全く聞こえない。手脚が自分のものでないかのように自然に動く。己の身体に神が宿ったのではないかと錯覚する。
「《舞ノ神》」
観客の誰かが自ずから呟いたその言葉だけが認識できた。
肺ノ臓が空気を求めて、荒く呼吸を繰り返す。まともに空気を胸中に吸い込めていないにも関わらず、サイカはまるで苦しみを感じていなかった。昂揚が麻薬のように苦痛を散らしているらしい。
肩で息をしながらも、周囲の景色ははっきりと見えていた。
大公をはじめとした観客の喝采を浴びながら、サイカはマイヤの言葉を思い出していた。
《舞ノ神》になるために必要なことが愛する者の喪失であるならば、《舞ノ神》とは確かに鬼神だろう。そうなる必要はないとマイヤが憂いた鬼神に、サイカはなった。
だが、それでも。
己が舞いの鬼神になってしまったとしても。
母のように舞えたことが誇らしかった。
いまならわかる。
彼女が、どうして幼いサイカにあの舞いを見せたのか。どうして今日この日、息を引き取ったのか。
きっと、最上の舞いをこの世に残したかったのだ。《舞ノ神》になることが茨の道であるとわかっていても、本能がそうさせた。
結局、舞いに生きて舞いに死んだ彼女と、サイカも同じなのだろう。だからこそ《舞ノ神》になれた。
舞台の上で、神の住まう天へと召されたマイヤを想う。
これは、母に捧げる舞いだ。
年内に多少書き直します。