いまを生きる
視界に映るのは何もない。6月に入り随分と暑くなってきたせいか、寝つきが悪い。結局今も、明かりを消して目を閉じてもなかなか寝れず、目を開けてぼーっとしている。困った。何を考えて気を紛らわそうか。
そうだ、人はなぜ寝るのだろうか。いや、これは疑問として正しくない。人はなぜ起きれるのだろうか。寝ている間に死なないという保証がどこにある?
不思議と僕たちは寝ることに慣れてしまってはいないだろうか。
「死にたくない。」
口から言葉が漏れる。答える者はいない。
そう思ったのはいつだったか。小学生の頃だろうか。
死というものが自我の消滅だとすれば、現実を“認識”できなくなるということだ。僕たちは皆、この日々が続くと無意識のうちに信じてしまっている。明日が来ないはずがないと。しかし本当にそうだろうか。
「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」(論語)
「死は人生の終末ではない 生涯の完成である」(マルティン・ルター)
「武士道というは、死ぬことと見付けたり」(葉隠)
「死に至る病とは、絶望のことである」(キェルケゴール)
「人は死ぬ。だが死は敗北ではない。」(ヘミングウェイ)
「戦士は死ぬ。だが、思想は死なない。」(フィデル・カストロ)
歴史上の偉人は誰もが死んでいる。死から逃れられた者はいない。
宗教では、人の死と魂の死を分けるものがほとんどだ。その点、宗教は死の恐怖から逃れる唯一の方法だと言えるだろう。
だが、誰もが気づいているのだ。死とは本質的な“無”だと。
僕たちは無限の中に生きている。死のことを忘れ、終わりない日常に没頭している。1日が終わればゲームセット。そんなところだ。
僕たちの人生は無から始まった。世界は変わらずそこにあったはずなのに。
そしてもし僕が今死んだとしても、誰も気づかずに今が続いていく。
そう。それはとても悲しいことだ。とても、虚しいことだ。
それでも僕は眠る。誰かが死んだ、明日を迎えることを知りながら。
僕だけの描ける夢や理想を、追い求めて。