夏。わたしと影。
うだるような暑さの中で、彼らは一心に、泣き叫ぶ。みーん。みーん。後悔も迷いも疑問も葛藤も感情も、全てを忘れ、彼らは皆一心不乱に泣き喚く。
喧騒と日差しに身を刺され、対するわたしはというと、ハズレ棒を銜えて片手で目を覆いつつ、空を仰いで意識を拡散させているのだった。
「あー……。夏、だなぁ……」
縁側になんともなしに寝転がり、目的も無く流れる雲を眺めると、なるほど今季節は夏なのだと、流れ落ちる汗が知らせてくれる。僅かな不快感を伴って、塩分で湿った肌がぺたりと床を撫でると、時間すら忘れて寝そべる今の瞬間が、不思議と尊いもののように感じられた。
ただひたすらに暑い。だけど慈悲など忘れたかのように赤く照りつける太陽が、わたしは何故か好きだった。
「お昼なに食べよう……。……そーめんあったかなぁ……」
台所には何があったか? いまいち思い出せなかった。思い出せたとしても、いい加減頭も茹だったわたしには、昼ごはんを作る気力など到底ありはしなかった。
「このまま飢え死にしてしまおうか……。あぁ……でも、……やっぱり何か食べよう……」
よっこいせっと。声を出して気合をいれると、とうとうわたしは起き上がるべく両手に力をこめた。長時間日にさらされたためか、頭を起こした瞬間血の気がふっと引くのを感じた。だが飢え死にするよりましだ。それでもなお立ち上がろうと足に力を込めると、わたしはついに上体を起こすことに成功した……が。
「……っとと……」
急な立ち眩みに、わたしの身体はふらふらとバランスを失った。と、「からん」と、澄んだ音を出して、足元に何かが広がっていった。
「おぉ。つめた!」
誰が置いたか、そこには横倒しになったガラスのコップと、光を反射してきらきらと光る麦茶の水溜りが出来ていた。どうやら立ち上がった瞬間に、コップを蹴飛ばしてしまったようだった。
「あーあ、しまった、しまった」
だが、茶色い池に透明な氷が浮かぶ様は、なんとも幻想的だ。
「ふふ。でもまぁ、よいよい」
わたしはすっかり気に入って、氷が溶けるまで床も拭かずに眺めることにした。誰が置いたかわからない麦茶は、なんだかすっかり気分を良くして上機嫌に輝いた。
『へへ。どうだい。おれさまだって、飲まれるだけが取り柄じゃあないんだぜ!』
結局10分もしないうちに一滴残さず蒸発したが、お昼ごはんを食べ、渇いたのどを潤したいと思うには、全くもって十分な時間だった。
夏の喧騒は、街中のそれとはまた違う。特に緑薫る片田舎の夏ともなれば、そこに健康的な人間らしさは無い。得体の知れない虫達のわめき声。じりじりと耳を焦がす太陽の音。不愉快極まる湿り気を帯びた生臭い空気に乗って、私の意識も飛んで行ってしまいそうだ。
だが私は夏が嫌いなわけではない。
「日は長いし、プールは楽しいし、カキ氷はおいしいし、そして何より夏休み! だよね! これがあるから夏って好きなの」
「ふーん、そうかい。夏休みなんて、僕には暇を持て余した記憶しかないがね」
そう言ってコウダのお兄さんは、こっちを見ようともせずに掌で汗をぬぐった。
「もう。そんなことばっかり言ってるから、表情まで暗くなっちゃうんだよ」
コウダさんは目をくしくしと擦ると、充血した眼差しで睨み付けてきた。目の下の隈がまるでお化けのように広がって、不健康な生活がうかがい知れるようだ。
「僕は、見ての通り勉学に励んでいる。この暑い中で、クーラーも無しでだ。尊敬こそすれ、邪魔はしないでもらいたいね」
「……タイヘンなんだね。浪人生って。私なんて毎日何にもしてないもん」
コウダさんは一瞬泣きそうな顔をすると、吐き捨てるように言った。
「そうだ。わかっただろう。僕は忙しいんだ。暇を持て余した夏休み中の中学生と違ってね!」
「夏休みに暇を持て余していたから、毎日が夏休みになっちゃたんじゃないの? コウダさん、人のこと言えないと思うけどな」
そう言うとコウダさんはハッとしたように彼方を見据え、青白い顔を痙攣させた。それを横から見ていた私は、コウダさんの決して澄んでいるとは言い難い瞳に涙がたまり始めているのを見て取った。そしてその不吉な兆候が私に向けられる前に退散しなければと、そそくさと踵を返すのであった。
「ああ、そうそう、今日は夏祭りの日だね、コウダのお兄さん」
部屋を出る直前、ふと何をしにこの半学生の部屋を訪れたのか思い出した私は、ポンと思いついたように手を鳴らす。コウダさんは相変わらずぶつぶつと何かを呟いて小さな目を瞬かせていたが、私の声に興味などないことを誇示するかのようにふん、と鼻を鳴らすとノートに向かって鉛筆を走らせ始めた。
いかにも忙しそうにガリガリ音を鳴らすコウダさんに、私は少々イラついた。
私はわざとらしくため息をつき、やれやれと首を振った後、聞こえよがしに大声をあげた。
「わかりましたよーだ。お姉ちゃんにはコウダさんは高尚なお勉強で忙しくて、お祭りなんて行く暇ないって言ってたって伝えるから」
間髪いれずにドアを開け、外に飛び出す。薄いドアの向こうで「えっ!?」と困惑したような声が聞こえた気がしたが、気のせいだと心に決めた。
日のあたらない廊下は室内よりは幾分か涼しく、火照った身体を心地の良い冷気がなでる。
あぁ、やっぱり夏はいいものだ。そう思ってまもなく、お昼ご飯を食べていないことに気がついた私は、台所へ向けて歩き出した。
「あ、お姉ちゃん」
台所ではお姉ちゃんが氷の入った麦茶を片手に冷蔵庫を漁っていた。
「お、どうだった、こうちゃんは」
お姉ちゃんはそう言いながら、麦茶の入ったコップを差し出した。
「貰っていいの?」
「うん」
お姉ちゃんは冷蔵庫に顔を突っ込んだまま答える。どうやら食べ物を探しているというよりは、冷気に当たるのが目的らしい。私はそれを受け取り、一息に飲み干すと、コップを返しつつコウダさんの様子を報告した。
「脈ありだよ。あれは」
「へぇ。そう」
「うん。お姉ちゃんが直接言いに行けば、絶対一緒に行ってくれるよ」
私は感じたままを報告し、お姉ちゃんの脇から冷たく冷えたプリンを探し出した。
「……それ、まだある?」
「ないけど、分けてあげるよ」
「さんきゅ」
私とお姉ちゃんはダイニングに座る。スプーンを二個取り出し、あまり大きくないプリンを皿へ移した。
「で、コウダさん。どうするの?」
「んー」
お姉ちゃんはプリンを一掬い口に含むと、考え込むように首をひねった。
「正直、今すぐ会いに来てくれるの期待してた」
「それは残念」
「多分ねぇ……」
お姉ちゃんは目を閉じ、ふっくらとした頬を膨らませた。その横顔には、何故だかハッとするような色気が漂っていて、私はプリンを食べることも忘れて、お姉ちゃんの横顔に見入っていた。
「多分ね、こうちゃん、お祭りこないんじゃないかなぁ」
「えー? なんでよ」
「なんとなく」
お姉ちゃんは口調とは裏腹に、悲しそうに目を伏せた。私はお姉ちゃんがそういう理由もわからず、お姉ちゃんを悲しませているコウダさんがなんだか嫌な人のように思えてきて、もやもやと気分が晴れなかった。
「ありがとね。今から直接こうちゃんに言ってくるよ。お祭り行かない? って」
「うん。絶対大丈夫だよ。がんばって!」
「そうだね。じゃ、プリンありがと」
お姉ちゃんはもう一掬いプリンを飲み込むと、さっと台所から出て行った。
取り残された私は、プリンをつっつきながら、お姉ちゃんの帰りを待った。何故だか、形の崩れたプリンを食べる気にはならなかった。
うだるような暑さの中で、彼らは一心に、泣き叫ぶ。みーん。みーん。後悔も迷いも疑問も葛藤も感情も、全てを忘れ、彼らは皆一心不乱に泣き喚く。
「ーーだ」
みーん。みーん。うるさいなぁ。みーん。みーん。
「ーーことがーーだ」
私は何がしたいのだろう。
「ーーがーーきだ」
みーん。みーん。
思考が騒音で打ち消されていく。心地のいい雑音が、頭の中をぐちゃぐちゃに搔き回す。
あぁ、気持ちがいい。何もかもが、溶けていく。後悔も迷いも疑問も葛藤も感情も。
「ーーのことが好きだ」
「ダメだよ」
言葉に出すと、軽いものだ。その時の彼の顔は、私の晴れやかな気分とは真逆に、苦悶に歪んでいた。
「君のことが好きだ」
「ダメだよ」
壊れた機械のように、私も、彼も、同じ言葉を繰り返す。私の心にあなたはいない。言葉に出すと、軽いものだ。
「ダメだよ」
壊れた機械は、虚空に向けて呟いた。不思議と頬を伝う液体は、悲しみとは違うものなんだと。
「……ダメなんだよ……」
声にならない後悔は、締め付けられた嗚咽と共に、目から溢れるものなんだと、私はその時知ったのだ。
「ーーください」
声が聞こえる。
「ーーきてください」
だんだん大きく、はっきり聞こえるその声に、私の揺らいだ意識が目を覚ます。
「起きてください!」
ぼんやりと目を開けると、そこには見知った顔が私を覗き込んでいた。
「もう! やっと起きた」
「や、おはよう」
「おはようじゃないですよ! またこんな時間まで寝ちゃって! 家に帰ってくださいっていつも言ってるでしょ」
「はは、いや、すみません」
「次はないですからね。……あと」
そう言って彼女が顔を近づけてくる。
「顔、洗ってきてください。そんな顔じゃ、表出られませんよ。せっかくの美人が台無しです」
言われて頬に手をやると、少し腫れぼったいような、妙な違和感があった。流れ落ちた化粧が手について、どうやら泣いていたらしいことに気がついた。
「うーわ。まじか」
私は言われるがままに洗面台へと急いだ。
「何か辛いこと、あったんですか」
洗面台から戻ると、心配したような顔をする友人の姿があった。私はふっと笑いが漏れてきて、彼女は怒ったように頬を膨らませた。
「ちょ、笑うことないじゃないですか。こっちは真剣なのに」
「ああ、ごめんごめん。そうじゃないんだよ。心配させるようなことじゃない」
「そうですか? 詳しく聞いたら、流石に失礼ですかね」
「いや、大した話じゃないんだ。後悔って、意外と根が深いんだねって、そういう話」
「んん?」
「人間いくら取り繕うが、いくら成長したフリをしようが、心のどこかには小さい頃の自分だった何かが残ってて、それがたまに泣きだしちゃうこともあるんだなってこと」
「なんですかそれ」
「……久しぶりに実家帰ろうかな」
「それも意味わからないんですけど」
「それでいいじゃん。あ、そうだ、プリン食べいく? 近くに美味しいお店あるって聞いたんだよね」
「あ、いいですね! すぐ行くんで待っててください!」
「あいよー」
私は生きている。だからあの夏を背負って生きていることを、私は時たま忘れてしまう。
それが誰のせいではないにせよ、傷ついた人がいたことを、傷つけた人がいたことを、私が傷ついたことを、失くしてしまった私の少女は。こうして時々私を責め立てて、後悔へと突き落とす。
「あっつー!」
「そうだね」
「早く行きましょう!」
私のちっぽけな後悔は、私だけを罰し、消えていく。それはきっと誰にでもあるもので、誰にも理解されないもので、だからこそ、私の一部なのだと実感できるのだ。
「そういえば、今日夏祭りらしいですよ」
「へぇ、いいね。……一緒に行く?」
「残念でした! 私彼氏と行くんで」
「あ、そう」
うだるような暑さの中で、彼らは一心に、泣き叫ぶ。みーん。みーん。後悔も迷いも疑問も葛藤も感情も、全てを忘れ、彼らは皆一心不乱に泣き喚く。
「私も彼氏作ろうかなー!」
慈悲など忘れたかのように赤く照りつける太陽が、わたしは何故か好きだった。
「あ、いいですね! じゃあ今度ダブルデートしませんか?」
「お、言ったね? 覚悟しとけよ!」
夏は、私の影を延々と、遠くまで伸ばし続ける。
遠く、遠くまで。