年上がいいんだってば。
「ワンコ系年下男子に壁ドン。ときめきませんか」
そう言ってせまってくる後輩との書類倉庫での攻防戦。
R15的行為はありませんが、R15的トークがあります。
「Don’t touch me.」(さわるんじゃない)
ゆっくりと、分かりやすいように、噛んで含めるように低い声で後輩に言った。
「先輩いつから英語圏の人間になったんですか」
チッ、一蹴しやがった。
「じゃあstay」
「犬じゃないんですから。それを言うならwaitとかじゃないですか」
目の前で、本当に目の前、鼻の先で後輩はおかしそうに笑った。
英会話の必要な会社に勤めているわけではない。
背後はスチール製の骨組みと棚板だけのキャビネット。
そこには余すところ無く書類が目いっぱい詰まった段ボールが並んでいる。
私の背より高いキャビネット。
一番上の棚の段ボールのラベルに探している物を見つけて、踏み台を探しに倉庫を出ようとしたところで通りがかった彼を引っ張りこんだ。
「おお、いい所に来たねー。ちょっと手伝って欲しいんだけど。踏み台、誰か使ってるみたいで見つからないんだよね」
そう、先輩の特権を乱用して。
その結果がこれ。
ああ、自分のまいた種だったか。
「まあ俺、事務所のお姉さま方にワンコ系って言われてますけどね」
親しみやすい、少し愛嬌のある顔。
倉庫の蛍光灯では分かりにくいけど、太陽の下で見たら少し色素の薄い茶色い瞳。
楽しそうに笑ってはいるけど、その瞳は真剣そのもの。
「ワンコ系年下男子に壁ドン。ときめきませんか」
うん、解説してくれなくても自分がどんな状況にあるか分かってるから。
あえて状況説明しないで。
背が高くて、がっしり系だからかなり迫力のある壁ドンになってるよ。
思わず怯んで膝を曲げてしまったから覆いかぶさる勢いだよね。
ごめん、最近ときめきとは無縁な生活してるから動揺しかないよ。
ていうかそんな単語に詳しいんだ。
さすが営業に配属されただけあるわ。
マーケティングってやつか?
勉強熱心なのは分かった。
でもって人事部で毎年、新人研修も担当してるからキミが頑張り屋さんな事はちゃんと知ってるとも。
ただね、うちは建築資材関係だからそんな知識、要らない気がするんだよね。
え、壁ドンにむいた壁材とか?
ちなみに「仕事の邪魔をするな」とか「またまたふざけて」といった抗議はとっくに申し立てている。
それらは見事なまでにスルーされた。
わたし、先輩社員なんだけど。
5年前の君の新入社員研修の時からの付き合いなんですけど。
今年で勤続10年の金一封もらったしね!
「先輩ここ3年彼氏いませんよね。もう俺で良くないですか」
「いや、キミ5歳下だし。キミのお姉さんよりわたしの方が年上だから」
可愛く首をかしげてもほだされないから、やめなさい。
「それは二番目の姉です。一番上の姉は透子さんと同い年ですよ」
うん、同い年でも言いたい事は変わらないから。
えーっと。
「うちの弟よりキミの方が若いんだよね。キミもさ、お姉さんが自分より若い彼氏連れて来たら複雑じゃない?」
ね?
これなら分かるでしょ?
「うちの姉が5つ下の彼氏捕まえて来たら、一家でお祝いですけど」
よそはよそ、うちはうち!
そう言いたいけど、確かに我が家も似たような状況になるかも!
ある意味つらいわ。
背後のキャビネットの向こうは通路があってテーブルだ。
これ以上後ろに下がったらキャビネットにかかる力が強すぎると思うんだよ。
箱いっぱいの伝票入り段ボールが20箱乗っているとはいえ、これ以上体重をかけるのは怖い。
わたしさ、去年の帳簿を確認に来ただけなんだよね。
一番上の段ボール箱を降ろしてもらって中を確認した。
データに入ってない手書きの記述を見つけて「やっぱりか」と思った。それが確認したかっただけ。
重い段ボールを出したり戻したりは結構な重労働。
頼めて本当に助かった!
キミはえらい、よくやったよ!
通りがかったのを引っ張りこんどいて言うのも何だけど、もう用は済んだから。
降ろしてもらったこの段ボール箱を棚に戻して行ってくれ。
さっさと事務所のデスクに帰りたいんで。
この倉庫には窓が無い。
スペースの3分の1ほどはテーブルとパイプ椅子があって、ちょっとしたミーティングなどが出来るようにもなっている。
誰かに来てほしいような、誰にも見られたくないような。
「3年したら俺が30、先輩35です。ちょうどよくないですか?もう少し俺が年下でもいいくらだと思いますけど」
「いや、わたし、年上が好みって知ってるよね?」
飲んで恋愛トークになるとたいていそう言って文句言ってるでしょ。
数か月に1回は飲み会をしてる仲。
同僚数名と集まる事が多いが、二人の時もある。
かわいい弟分と、姐御肌の先輩の関係だよね?
間違ってもこんな状態になるような仲じゃ無かったよね?
わたし弟いるからさ。
まさに弟みたいな感じだったんだけど。
「いつも『まともな年上は妻帯者か彼女持ちで、ろくなのが残ってない』って愚痴ってるじゃないですか。もういい加減諦めましょうよ」
「人間、諦めたらおしまいだって思ってるから気にしないで。大丈夫、やる気があるようには見えないかもしれないけど、諦めてるわけじゃないから」
うん、やる気は限りなく無いけど、微かな希望は抱いてる。
「そもそも透子さんが35の時、年上だと相手はもう枯れてる可能性ありますよ」
いや、それは失礼だろう。
最近は35歳以上でも若々しい人いっぱいいるよ?
なぜ35にこだわる、そう言いたいけども心当たりがあるとも。
女性は35歳からが性欲がピークらしい。
うん、この間わたしがそんな話したからだよね!
お互い夜は別件で飲みに行くと知ってたから、途中から合流したんだよね。
キミとその同期グループと盛り上がった時、そんな話になってノリで知識を披露しただけで。
酔ってたからね!
ていうか、いつもの「先輩」呼びはどこ行った?
「わたしが35になってからがピークと、なぜ決めつける」
「責任もってこれから開発させていただきます。透子さん好きな方じゃないって言ってたけど、それはこれまでの相手に自分勝手なセックスばっかりされてたからだと思うんですよね。俺、もともと開発部だし」
あけすけだな、おい!
会社だぞここ!
でもってそれは親父ギャグか。
酒でも入ってるのか。
「俺、尽くす方ですから誠心誠意、対応させていただきます」
営業トークも板についたね。
成長したもんだ。
いや、こんな全責任を負う言質取られそうなリスキーな営業トークするかな?
そんな事を考えてしまったのがまたいけなかった。
集中が途切れた隙に、首をかしげるように顔を覗き込まれる。
近いって!
「苦手だからって毛嫌いしないで、少しだけ頑張ってみろって言ったの透子さんでしたよね?」
それは、人材育成のマニュアルトークみたいなもんだから!
マニュアル人間が批判の対象にされる事が多いのは、こういう事になるからか。
いや違うな!
そもそも、なんでそこまで言ったんだ、自分。
出来る事なら飲んで年下相手にこんな赤裸々告白している自分の所に行って、水ぶっかけて殴って首根っこつかんで帰宅させてやりたい。
「これ、もうセクハラだから」
ヤバい。
ジリジリ追い詰められてる感がハンパない。
「セクハラは嫌いな相手にされた時がセクハラだと言ったのは透子さんですよね。同じことされても好意が有るか無いかで犯罪かどうか決まるって、力説してましたよね」
うん、力説したね!
たしかにキミは嫌いじゃないよ。
むしろ可愛いと思ってる。
なついてくれる可愛い弟分だって。
「好意あるでしょ?」
「好意、とは違う気がする。家族愛?」
「手っ取り早いです」
なにが?
いや、違うだろ。
家族とそんな関係にはならないだろ。
「生理的嫌悪は?」
生理的に無理な相手とはプライベートで飲まないでしょうが。
さすがに「ない」と正直に答えてしまう。
「じゃあ出来ます」
勝手な断言に戦慄が走った。
「いや、わたしそれだけじゃ出来ない。無理」
だからここ3年まともに彼氏いないんだって!
そんなに簡単に出来ないんだってば。
知ってるはずじゃん、キミ。
「知ってます。そういう透子さんだからいいんです。まずはお試しで昼間に、健全デートからでいいですよ」
年下の後輩から、上から目線って。
てかこれ、もう会話だよね?
このキャビネットの棚板についてる右腕、要らなくないか?
あ、これ正確には棚ドンだわ。
恋愛観が合うから深い話もしまくった。
それは下世話なまでに猥談も繰り広げた気がする。
シャベルだ。
でっかいシャベルを貸してくれ。
「穴があったら」、なんて受け身な事は言わない。
自ら入るべき穴を掘る。それはふっかい穴を掘ってやる。
「こんなに簡単に男と密室に二人っきりになる透子さんが非常に不安になりました。普段しっかり者なのに何やってんですか」
なぜ保護者の説教モードに。
いや、会社でこんな事なるなんて漫画の世界だけだと思ってたんで。
てか思わないでしょ、普通。
「いや、わたし32だしさ。ないと思うじゃん。社内でこんな事するのキミくらいだよ。そもそもそんな事言ってたら上司とのミーティングだって出来ないじゃん」
普段つぶらな瞳だと思っていた目が、すっと細められる。
そういう事じゃないって?
知るか。
凄んだって、もう怯まんぞ。
せめてもの年上の威厳だ。
「二番目の姉に言われるんですけど俺、シスコンらしいんで。同年代とかイマイチ合わないんで若い子に目移りする事はないです。透子さんこれから熟女街道まっしぐらでしょ?その辺の小娘なんて足下にも及ばなくなりますから心配いらないです」
うわ、ここで笑顔って、変態みたいだからやめた方がいいよ、キミ。
なんでわたしがそれを心配する想定になってるんだ。
そんでもっておまえ、わたしがエロエロになると決めつけてるな。
ていうかエロエロに育てる気満々な気がするんですけど。
年下なのにこえぇよ。
そして恐ろしい事に気付いたんだけど。
こいつ、飲んだ時わたしにばっかり話させて、自分の話ほとんどしてない!
こっちの手のうちは全部知られてるのに、こいつのその辺の話が分からない。
分かっているのはこいつが聞き上手で、励まし上手で恋愛観が合うと言うことくらい。
異性に対して気負った所がなくて、気安く話しかける割には意外と紳士的だったりするのは、お姉さんがいるからだろうと思っていた。
ああ、そうだわ。思い出した。
恋愛観が合うと言うか、こいつ「俺も年上派なんですよね」とか言ってたわ。
年上の魅力について盛り上がったわ。
年上好き×年上好き・・・えーと、この公式は・・・
いや、ダメだろ。
どう考えたって成り立たない事に気付いてくれ。
「でも年上だから透子さんがいいって言うワケじゃないですから」
ここに来てそう来るか!
「年金はどうなるか分からないけど、今の制度で言えば俺が60で定年退職したら、透子さん65だからちょうどが年金もらえるようになりますよ。合理的かつ理想的じゃないですか」
ああ、うん、年金は確かにどうなるか分からないけど、似たり寄ったりだろうなとは思うよ。
受給開始年齢が上がったとしても、雇用年齢も上げざるを得なくなってんじゃない?と思うし。
ていうか、そういうのでわたしがうなずくと思ってるんだ。
うん、わたしそういう打算とか計算するの好きだよ。
伊達に5年、飲んだわたしに絡まれ続けてないね、キミ。
ちくしょう。
「ちょっと、ホントこれ以上はもうムリ」
背後のキャビネットにもたれ過ぎないよう、耐え続けた体が痛い。
年なもんで。
うつむいて目の前の胸を両手で押せば、長身後輩は息を飲んだ。
ためらいがちに触れた白いワイシャツ越しに、硬い胸の感触。
その奥から鼓動が伝わる。
意外と、それは速かった。
「後ろの棚が倒れそうで怖い」
なんだか気を遣ってしまってそんなフォローを入れてしまうと、ふっと、相手の体から力が抜けた。
ああ、馬鹿なことした。
教育係とかやってるもんで、つい条件反射でフォローとかしちゃったじゃないか。
ああもう、そんなほっとした顔するんじゃない。
姉御肌はそういうのにちょっと弱いのも知っての事か。
そこで制服の胸ポケットに入れた社内端末のPHSが鳴る。
でかいのにワンコ系という、やや意味不明な生態の後輩は身を引いた。
あ、ゴールデン・レトリーバーとかいるか。
ああ、圧迫感が消えて久々の開放感。
息がしやすい。
慌てて通話ボタンを押せば、同じ人事課の後輩の女の子。
天の助けだ。
今度お礼にちょっとお高いおやつ持って来るよ。みんなで食べよう。
「うん、すぐ戻る」
そう言って通話を切り、頭上のワンコを睨む。
おら、仕事戻るぞ。
「残念。時間切れですね。ドアのプレートは『使用中』にしてますから。出る時ひっくり返しといてくださいね」
━━━なんだと!?
いつの間に!
どおりで誰も入って来ない筈だよ!
「キミ、手慣れ過ぎててお姉さんは怖いんだけど」
「そこは誤解しないでください。年下なりに必死なんです。そういうひいた顔もいいですけど」
困ったような顔をする後輩に、思いっきり疑いの目を向けてしまう。
「信じてくださいって。知ってるでしょ? じゃ、後でメールしますから。お仕事中失礼しました」
含みのある悪い笑みを浮かべて、後輩は足元に下ろしていた重たい段ボール箱を一番上の棚に戻して出て行った。
その辺は律儀でまじめでちゃんとしてる。
それは評価する。
でも!
ワンコはそんな顔しないって!
あれは狼か猛禽類だ。
ただ━━━
倉庫を出て「使用中」のプレートを「空室」に裏返しながら思う。
一度も触れて来なかった奴は、やはりわたしの事を理解しているとは思う。
でもってとりあえず、入社してから現在まででやつが遊び人だという話を聞いた事は、ない。
社内ではみんなに好かれて、評判のいい若手。
営業成績だっていい。
プライベートは飲み会くらいのやつしか知らないけど。
正確には恋愛感情2%、残りは家族愛と言うか、同僚愛と言うか、なついてくれる可愛い後輩に対すお気に入り感みたいなもんだ。
その2%は自覚しないよう努めてきた。
5歳差は大きいとしか思えないから。
次に顔を合わせる時はどうせまた、人畜無害のワンコ系な顔をしてるんだろうな。
最近の年下男子とはかくも恐ろしい物なのか。
これもネット社会の弊害というやつか。
調教されてたまるか。
Stayを教えてやる。
どうせ「そんなに余裕こいてる時間ないでしょ」とか言われるんだろうけどさ。
犬のコマンドには「stay」も「wait」も使われるそうです。
西日本在住なので「シャベル(大型)」としましたが、東日本では「スコップ」が大型だそうです。
うーん、ややこしい。