表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

嵐の後のワンダーフォーゲル~大会終了後

 朝方、まだ暗いうちに野風高校はテントを撤収し、車に乗り込んだ。晴は助手席に乗り、後ろに三人が座る。勝利は無表情で、車に乗ってからもそっぽを向いている。

 皆、無言で、それは眠いからだけではないと、皆よくわかっていた。

 山道を運転しながら、佐藤先生が一人話し始めた。

「とにかく、無事で良かったよ」

 キャンプ場に来てから、佐藤先生が繰り返し言っている言葉だった。佐藤先生は話し始める。

「あれはもう十年以上前だっただろうか、一人の学生が入学してワタシはクラス担当になってね。とても目立たない生徒だったよ。まあ、そこまではいつも通りなんだけれどね。その生徒は成績も悪くないんだけれどね、なかなか努力が苦手みたいで、やる気がなく、成長しなかった。交友関係も、無難にこなしているように見えたけれど、なんとなく人に無関心で積極的に誰かと関わろうとはしなかったよ。君達と同じかな?最近の野風高校の生徒はどこか無気力で、頼りない子が増えたかもしれないな。

 その生徒が変わったのはワンダーフォーゲル部に入ってからだよ。友達が出来て、よく笑うようになった。青白かった顔は日に焼けて健康そうに見えたよ。学年が上がってからは、後輩の面倒を見ているのを見掛けたよ。少しずつ成績も上がって、教員の評判も良かった。僕もよく成長したものだと思ったよ。

 しかしその彼が、卒業して教育実習生として戻って来た時は流石にびっくりした。しかも彼の指導係はワタシだって言うんだからね。

 ワタシは彼に教えるはずが、沢山のことを教えてもらったよ。

 彼とワタシは少し年の離れた友人になった。山にも連れて行ってもらってね。全く、フラフラになりながら山頂に着いては酒を飲んだものさ。ははは」

 佐藤先生は思い出して、心底楽しそうに笑った。

「彼は教育実習の後、教員にはならずに、仕事を始めたり、辞めたりしながら、あちこちの山に登っていたみたいだ。社会人になる前にまだまだ冒険がしたかったんじゃないかな。

 ワンダーフォーゲル部の登山にもよく参加していたみたいだった。

 春香君とは、とても仲が良かった、本当にね。

 春香君が三年生の時、大会会場が神居尻だったみたいでね、彼もどうやら一緒に付いて行ったみたいだ。

 この辺りじゃ珍しく、温帯低気圧に変わらないまま台風が直進して来ていた。 彼は大会の人達が悪天候で山行を中止して、下って行くのと別れてね、山の深い所を歩いて行った。誰も通らない所、道なき道を進むのが彼の冒険スタイルだったからね。

 春香君や皆が彼を見たのは、それが最後だった。

 生徒達の悲しみ方と言ったらなかった……見ていられないほどでね。当時学校にはスクールカウンセラーがいたんだよ。それでも傷は癒されなかったのかもしれないね。特に春香君は。

 ワタシもね、彼とはもっと話しをしたかったし、酒を飲みたかった……」

 佐藤先生はそこで話を区切り、静かになった。喉仏が動き、唾を飲み込む音が聞こえたような気がした。晴は佐藤先生は泣いているのかもしれないと思った。

「彼がいたら、君達はもっとスムーズに山に登れていたかもしれないよ……彼には人を引き付ける不思議な魅力があったね」


 佐藤先生がそれぞれの家に送ってくれた。晴は熱を出した。母に「テストが近いでしょう」と言われ、布団の中でふらふらしながら勉強した。これではまるで中学生の時引き籠っていた晴だ。窓の外をぼーっと見ながら、なんだ、何も変わっていないじゃなかと晴は思う。

 二日後、学校に行ったら席替えが行われていて晴は窓際の席に移動。見ると勝利は教室の中央辺りにいた。話しかける機会はなく、晴は何となく勝利に近付きにくいと思った。

 勝利とは気まずい空気のまま放課後になり、隣の部室に寄るべきか迷いながら廊下に出た。部室前には勝利がいた。何か話し掛けようとすると、勝利は晴に気付き、どかどか歩いて去ってしまう。ドア窓から見た部室は暗く、誰もいない。ドアノブに手を掛けると鍵がかかっていた。そこに佐藤先生が近付いて来た。

「清田君にまだ知らせてなかったね……職員会議で議題として今回の問題が取り上げられてね。ワンダーフォーゲル部は暫く休部になったんだよ」

 晴は頭を抱えた。花が落ちた。OBではなく現役の学生に事故があったのだ。問題になるのは当然のことだ、と思った。すると佐藤先生は首を振る。

「野風さんとご両親は今回の事故は全て野風さん自身の引き起こしたことだとして謝っていてね。沢ノ宮君のことが問題だという話になってしまったんだよ……稲上高校から連絡が来ていたからね。

 彼は無理矢理、女性に触れたということで停学になりそうだったんだよ、それを春香君が自分が悪かったと言って止めたんだ。しかしワンダーフォーゲル部は顧問がいない状態で多々活動していたことが明るみに出てね、染田先生は顧問として不適格だという話になった。染田先生はワンダーフォーゲル部の顧問を辞退なさったんだよ」

 晴は頭の中に渦が巻いているのを感じて少し気持ち悪くなった。

「花さんは……」

「今は休んでいるようだ」

 晴は佐藤先生と別れ、二年生の教室に向かった。そこに花の姿はない。

 翌日も、学校中花の姿を探した。花は現れなかった。

 短い間に沢山のことが起きた。

 吐き気はしない。絶望感が喉元までやってくる。もう少しで無気力になってしまいそうだ。

 何だかんだで楽しかった日々、それはワンダーフォーゲル部のお蔭。全てを台無しにしたのは自分。折角良い方に向かっていた流れを、晴の一振りが花を墜落させ、全て叩き壊した。

 花は今どうしているのか。せめてワンダーフォーゲル部を続けてほしいと思うが、勝利がワンダーフォーゲル部に顔向け出来ない、晴も出す顔がない今、部員は花しかいない。顧問がいない。

 ワンダーフォーゲル部のない花は一人ぼっちだ。

 花に会いたい……会っても何を言ったらいいかわからないけれど、せめて謝りたい。自分は謝りたいのだと晴は自分の心に気付いた。

 晴は暗くなった部室から離れ、帰宅しようと思った。玄関に向かうと、演劇部の部員達が固まっているのが見える。活彦と目があった。しかし活彦は視線を逸らして走り始めた。

 演劇部部員達は一人、また一人と遠ざかっていった。走り去る人達を見て、晴は短かったワンダーフォーゲル部の季節を否応なく感じた。


 家に帰ると「お疲れ様、明日はテストじゃない?」と母に言われた。

テストのことを忘れていた晴は机に向かおうとして、天気図用紙が置きっぱなしになっていることに気付いた。天気図用紙を机の脇に避けて、教科書を広げるが、気がそがれ、集中出来ない。少し椅子に座るだけで体が縮こまった気がして伸びをした。

 何か足りない。体が走りたくなっていることに晴は気付いた。走ることは習慣としてしっかり身に付いていた。

「走って来る」

 晴は家を出た。

「大丈夫なの?」

 心配そうな母の声に晴は頷いた。黙って家を出る晴の背中に「いってらっしゃい、すぐ戻ってくるのよ」という母の言葉が響いた。

 走り始めは息苦しいが、風が当たって口から新鮮な空気が入って来た。

 怠さが消化されていく。晴はどこまでも走った。

 辺りは徐々に暗くなり、街灯りが点いて道路を照らす。その街灯りの遠退いた所に学校はある。

 野風高校と表札の付いた校門を潜った。見上げた校舎の窓は殆んど真っ暗だ。裏庭に回ると星空が瞬いて見えた。あの日、皆で見た星空がまるで遠い出来事のように感じられる。

 上を見上げていて、晴はふと気付いた。部室の灯りが点いている……。晴は職員玄関に向かいドアを開けた。警備室は誰もいない。こっそり静かに晴は校舎に入った。職員室から離れている階段を登って四階が部室だった。

 昼間暗かったドア窓がこうこうと橙色に輝いている。真っ暗な景色を前にして立つ後姿……花だった。

 部室のドアノブを押すと横開きのドアが開いた。振り返った花は、無表情だった。その顔は涙した後なのだろう、濡れていた。今、花の目から一粒涙が零れ落ちる。晴は花の顔から目を逸らせなかった。謝ろうと思っていた晴なのに、いざ花の顔を見ると何を言ったらいいかわからない。

「ワンダーフォーゲル部が……」

 花が口を開く。無表情のまま晴の顔を見つめる。それは、あの時、手を振り払った花の顔。

 闇のような色をした目から次々と涙が流れた。

「晴君……私から山を取らないで」

 晴はどうしたらいいかわからなかった。花を慰めたかったけれど、晴には何もできない。ただ、深くお辞儀をした。

「すみません……」

 他に何も言うことが出来なかった。晴は花の信頼を裏切った。一度握った手を振り払うという最悪な形で。

「私、山がなかったら……山があるから変わろうという気持ちになれたの……全部、山のお蔭なの……山がなくなったら、私……」

 花は両手に顔を埋めて泣いた。部室には古めかしい山の道具が色々あった。埃っぽいそれらはワンダーフォーゲル部が今まで続いて来た証だ。花がいて、そこに勝利と晴が加わって。自分達はまだ何もしていない気がした。

 まだ、ワンダーフォーゲル部で何もしていない。花が、変わるためにワンダーフォーゲル部を必要していたというなら、晴も花と同じなのだ。

 晴も必要だ、変わるために。ワンダーフォーゲル部と花が必要だった。

 晴は花に近付いた。目に当てられている手を持ち上げる。花の手もまた、涙で濡れていた。

 自分の手は汚い。花を裏切ったことでますます汚くなっている。晴の手が震えた。その手を握り返す温かさがあった。

「私、これからどうしたらいいの……」

 晴は気をしっかりと持った。そして、宝石を両手で持つように花の手を慎重に握った。

「晴君、ごめんね。私、あなたを利用していたの……ごめんね」

 謝られ、晴は動揺した。自分こそが謝らなければならないのに……自分だって……振り返れば、花がいればこそのワンダーフォーゲル部だった。花がいることで学校に通えた。毎日が充実していた。花を利用して心の安定を保っていた。花もワンダーフォーゲル部も晴にとってはつまらない汚れだらけの毎日を生きるため、洗浄剤でしかない。

 自分は、花とワンダーフォーゲル部を利用していたのだ。

「僕は……どうしたらいいんだろう、花さん、ごめんなさい、僕は花さんのために何一つしてあげられることがない」

 晴は花の手を両手で包み、ただお辞儀をした。涙が流れた気がしたが、申し訳なさで一杯でそれ以上何も考えることが出来なかった。

「晴君……山に連れてって」

「え?」

「山に行きたい」

 その声は、泣いてくしゃくしゃになりながらも真剣だとわかる声だった。

「お願い……」

 花は泣き崩れた。晴は決心した。頭の中が決定的な決断をして止められなかった。

 部室の古いザックを背負い、もう一個を花に背負わせた。花の肩をつかんで階段を降りた。校舎の外の駐輪場で花の自転車を探し、乗った。

「行こう」

 花は頷いたようだった。

 ザックを自転車の籠に入れ、後ろに花が乗る。晴はゆっくり自転車を走らせた。自転車のライトがぎゅいいんと低音を鳴らして地面を照らした。二人が乗った自転車の影が浮かび上がった。

 晴の腰の周りに花の腕がある。

「僕の汗、臭くないですか」

 思い切って晴れは聞いた。

「大丈夫」

 耳元で花の声がした。

 晴は花の手が離れないか心配で、時々自転車を止めては花の様子を見た。花はしっかりと意識を持って前を見ていた。目的地は一つ。何も話さないでも花はどこへ行こうとしているかを知っている。

「ここを右に曲がって」

 自転車はポツポツと灯りが広がる商店街を抜けて、線路の高架下を潜り、きらびやかな繁華街を走る。晴は足元が覚束なくなってきたが、必死で自転車に食らいついた。

 学校、家、教師、部活、全てのことが晴の頭から抜けて行く。全ては花のために。花の心を少しでも救うために、自転車は坂道を登って行った。

 坂道が辛くなって、晴は自転車を降りた。花も後から歩いて付いて来る。辺りを見回しながら、しばらく進むと看板があった。

『三角山登山口』

 自転車を押し進め、登山口の前に辿り着いた。晴は自転車を登山口の脇に止めた。

「行きましょう」

 晴は、そっと花の手に触れ、静かに握った。


 ザックから出したヘッドランプを首から提げた。スイッチを入れると辺りが黄色く光った。

「足元に気を付けて」

 後ろから山道をもう一つの灯りが灯す。花がヘッドランプを点灯させた。二人共スニーカーで頼りは揺れ動くヘッドランプの灯りだけ。慎重に、この前以上に足元に気を配って歩く。

 広場までは何とか来ることが出来た。広場を抜けると坂道が少しずつ急になり、時々分かれ道がある。迷わないように気を付けた。

 案内板が見えず、どこにいるのかわからない。おおよその位置を頭の中に思い描くが、山道はどこまでも続くように思え、このまま永遠に歩くことになるのではないかと夜の侵入者を不安にさせた。

「あっ」

 花が声を上げ、晴はつかんだ手に力を込めた。大丈夫、手から温かい花の温度が伝わって来る。

「滑っただけ。進んで」

 花が再び歩き始め、手の位置が前へと移動した。

 晴は山には何かいる、と感じた。それは山の支配者のような何かだと思った。

 熊みたいな生き物かもしれない。立派な古木かもしれいないし、誰かの魂かもしれない。それらのことを『山の神』と言えるのだ、と晴は緊張でぎりぎりしている頭の隅で思った。

 どうか、僕と花さんを山頂に連れて行ってください。

 闇の中、偉大な山に向けて晴は祈った。

 階段を登り、坂道を越え、石だらけの不安定な場所を進み、ヘッドランプの灯りが山頂を示す大きな看板を照らした。

 振り向くと、向こうに家々の灯りがまるで別世界のように輝き合って広がっていた。

 ここは、境界線だと晴は思った。偉大な力の及ぶ自然と、人間の造り出した世界の。人の造り出した灯りを見るとほっとする。

「私達の街が見えるよ」

 握っている花の手から薄っすら汗が流れる。

「私ね、よく考えた。晴君を見て酷いことも考えた。だから、晴君が私の手を取らなくても仕方ないと思ったの……」

 花は何かを振り切るように息を吐き、話し続けた。

「私ね、実は、晴君のことを、前から知っていたの」

 思いもよらない言葉だった。晴の頭は花の姿を探そうとしてこれまでの出来事を思い返した。晴が花と出会ったのは、合格発表の日、まるで妖精のような花が新入部員を勧誘する所。それより以前に花の姿を見たことはない。

 動悸がする。晴のそんな様子に気付いているように、花は一つ笑う。

「私と晴君は、出身中学が同じなの」

 晴にとっては中学校といえば、布団に被って部屋に籠るか、体が重いのを無理に引きずって学校に行ったか、そのどちらかだった。

「私、そのことにこの山を登った時、初めて気付いた。雨ですごく辛そうな顔をしていたでしょう。中学校時代の晴君は、雨の中で泥だらけになった時より、苦しそうな顔をしていた。苦しそうな顔しか私、見ていないの」


 中学校時代、花には友達がいなかった。

 唯一の楽しみは図書室に通うこと。図書室には毎回本を借りて行く本好きな人もいたけれど、時間を潰す友達のいない生徒も多い。

 花も、その中の一人だった。

 入学して友達作りにあぶれて以来、図書室に通って、本を読むフリをしてぼうっと過ごしていた。変化のない毎日を過ごしていた花に、ちょっとした出来事が起きたのは中学校の二年生の時だった。図書室で新入生の姿を見掛けるようになった時期くらい。

 始めは休み時間に勉強をする堅物の生徒くらいにしか思わなかった。『彼』はいつも椅子に座って勉強していたから、同じく椅子に座って本を片手にぼうっとする花にはその表情がよく見えた。すごく辛そうな顔をしていた。勉強が難しいのかな、と思っていたが、段々、そうではないことに花は気が付いた。

 『彼』はノートを開いているにも関わらず、教科書の一点をぼーっと眺め、ペンを動かすこともなかった。図書室で時間を潰しているんだ。『彼』の勉強はぼーっとしていることに対するカモフラージュだった。花は『彼』に興味を持った。

 『彼』は毎日来た。教科書は国語だったり数学だったりした。でも表情は変わらない。暗い瞳で、ぼーっとしている。それどころか、日々、少しずつ辛そうな皺が刻まれていく。

 花はほっとした。『彼』はきっと、自分より苦しんでいる。一人図書室に来る惨めな花を彼の苦しそうな顔が救い上げた。

 三年生になって、彼は図書室に来ることが少なくなった。どうしたのだろうと花は思った。

 花は卒業を迎えた。

 卒業式、花は図書室を覗いたがそこに『彼』の姿はなかった。二年間、見つめた苦しそうな顔を花は思い出していた。

 『彼』のことが気になったまま、花は野風高校に入学。ワンダーフォーゲル部に入部した。

 たった一人の新入部員。花はちやほやされ、優しくされ、毎日が生き返ったように楽しかった。時々、図書室の『彼』のことを思い出した。私は仲間がいて幸せなのに、『彼』は今も苦しんでいるのだろうか。苦しんでいてほしいという気持ちが花にはあった。彼には変わらないでいてほしい。そして、いつまでも自分を救ってほしい。

 花は毎日が楽しくてすぐに『彼』のことを忘れてしまった。

 大会で恋人だった先輩に振られた時、そして先輩が茜先輩と付き合い始めた時、花はなんでこんなに苦しまなくちゃならないのだろうと思った。答えはすぐ出た。

 図書室の『彼』が苦しむことで、花はほっとしていた。だから、これは自分だけが楽しければ良いと考えてしまった花に対する罰なのだ。

 花はなるべく笑顔でいることに決めた。皆を不幸にしないために、笑顔を振り撒いて、先輩達とワンダーフォーゲル部を守ることに決めた。図書室の『彼』がいつか笑える日が来ることを祈って。

 けれど、花は気が付いた。三角山で、花は笑えなくなった。晴が『彼』であることに気付いたから。辛い顔、吐きそうな顔。それは中学校時代の『彼』そのもの。花は晴が苦しむところを見たくなった。苦しむ顔も、笑い顔も全部。


「晴君の苦しんでいる顔を見ると、私、少しほっとしちゃうの。だからこれは罰なの。」

 花は俯いた。

「僕は……笑っている花さんが好きでした。まるで妖精みたいだって。今も気持ちは変わりません。花さんに、僕は笑っていてほしい。たまには泣いたっていいんだけれど、僕はやっぱり笑っている花さんが一番だと思います。花さんにはワンダーフォーゲル部が必要なんだとしたら、僕はワンダーフォーゲル部の部員でいたいです。僕みたいな、自分のことしか考えられない、汚い奴で良かったら、ですけど……」

 花は繋いだ手を強く握り返した、

「汚くなんかない。晴君は私の手を握り返してくれた。本当はとても優しいことを私は知っているから」

「優しくなんてない。僕は少し前まで笑っている花さんしか受け入れられなかった。でも、これからはもっと色んな気持ちを共有出来たらうれしいんです。もう、僕は、花さんの笑顔だけを好きになったりしませんから。一緒に、色んな気持ちを共有したいんです。苦しい時は笑顔でなくていいんです。一緒に、色んなことを経験しましょう……山に登りながら」

 晴は決意を固めた。花も同じことを決意していると晴は思った。

「うん」

 花は何度も頷いて、涙を流した。

「がんばりましょう、ワンダーフォーゲル部を続けるために」

 花は瞼を閉じ、また開いた。街灯よりも美しい黒く光る目をしている。涙は乾き、目には力がみなぎっていた。


 翌日、テストが終わったら、晴と花は職員室に行く予定だった。ワンダーフォーゲル部の存続を訴えるためだ。

 ところが、朝一番に晴は職員室に呼び出された。

「教頭先生と工藤先生が、話があるそうです」

 佐藤先生は深刻そうにいつぞやの教師の名前を出して言った。

 職員室の一番奥……教頭先生の机の前に花がいた。花が不安そうに晴を見た。晴は頷いた。

 教頭先生の横にいつぞやの背の低い先生が立っていた。工藤先生だろう。

「二人を呼び出したのは他でもありません。休部中のワンダーフォーゲル部のことです」

 教頭先生は大柄で頭の髪がない。柔和そうな顔だが、眉間に皺を寄せ、深刻そうな顔をしていた。

 工藤先生が教頭先生の話を続けた。

「今朝、ワンダーフォーゲル部の部室を確認した。休部中にも関わらずドアが開けっ放しになっていた。鍵を持っていることはわかっている。出すんだ」

 泡を飛ばし、工藤先生は怒りっていた。晴は花のことを横目で見た。花は制服のポケットから鍵を取り出した。

「休部中の部活の生徒が、部室で活動をすることは断じて許すことが出来ない。しかも、顧問に無断で活動をしていたという理由で休部になっているにも関わらず。二人共、厳罰に処す必要がある」

 晴は頭の中が真っ白になった。退学か良くて停学だろうか。花の顔は硬い表情で固まったままだ。

「ちょっと待ってください」

 後ろから佐藤先生が言った。

「清田君は大会終了後、風邪を引いて学校を休んでいました。大会で使った物を返却する必要があったのでしょう。ワタシの配慮が足りませんでした。二人には面倒なことをさせてしまったね。私の責任です。二人共、テストでしょうし、早く教室に帰って良いですよ」

 工藤先生は呆れ顔で佐藤先生を見上げた。

「まったく、佐藤先生は生徒に甘すぎます」

「まあ、二人共、大会が終わったばかりでまだ疲れが残っているでしょう。佐藤先生、事情はわかりました。二人共、帰ってよろしい」

「教頭先生!」

 声を抑えながら工藤先生が叫んだ。

 晴と花はお辞儀をして職員室を退室した。後ろから工藤先生が先生方に何か訴える声が聞こえて来た。

「佐藤先生がいてくれて良かった……」

 廊下まで来て晴は安堵した。大きく溜息を付いた。

「鍵のこと、忘れていた。ごめんね、晴君」

「大丈夫だよ」

 花は険しい顔をしながら「でもワンダーフォーゲル部を再開するのは難しそう」と言った。

 「作戦を考えましょう」と晴は言ったものの、どうしたらいいのかさっぱりわからなかった。

 花と別れ、教室に戻ると勝利がいた。テスト前だというのに机に俯せになって寝ている。

 勝利の机の前を通ると「お前、なんか呼び出されたんだって?」と呟き声が聞こえた。

「大丈夫、佐藤先生が助けてくれたから」

「良かったですねー、オレは全然良くないよ」

 そういえば、春香はどうなったのだろう。一応、あのキス事件は春香のせいになっているのだから、春香が学校にいるわけない。

「オレ、何も出来なかった……好きな女に守られるなんて、男として、情けねえ」

「春香先生は」

 勝利は首を振る。

「オレ、あいつの未来を奪ったんだな」

「そう思うなら二度とあんなことするなよ」

「オレはあいつを過去から助けたかったんだよ……でも頭がキレた。ダメだオレ……」

 勝利はがっくりうな垂れた。腕の中に頭を落とす。

「僕も時間が戻るなら絶対に花さんを落とさない……」

 晴と勝利は同時に溜息を付いた。

 チャイムが鳴り、晴は自分の席に戻った。

「礼、着席」

 佐藤先生が少し遅れて来たので、朝礼は素早く終わった。皆、テストの追い込みで忙しいのだ。

 晴も教科書を開く。すると佐藤先生がやって来た。さっきのことについて何か言われるのだろうか。晴は身構えた。

「君達が部活を必要としているのはわかっています……後で話しますが、ワンダーフォーゲル部は存続することになるでしょう。放課後、部室が解放されます」

 晴は目を丸くした。佐藤先生はまるで口笛を吹きそうな軽い足取りで、教室から出て行った。


 部室には花と晴、晴に無理矢理連れて来られた勝利が集まった。

 最後にドアを開けて佐藤先生が入って来た。

「皆さんに話したいことがあります。ワタシが今後、ワンダーフォーゲル部の一切の責任を負うことが認められました。

 もともと転勤なさった前任の先生から、後を継ぐように頼まれていたのです。しかし、登山経験が浅いので、と断っていました。しかし間野矢君が大切にして来たワンダーフォーゲル部をこのままなくすのは忍びない。初めからこうすれば良かったんです。皆さんには苦労を掛けて申し訳ない」

 にこにこと佐藤先生は笑いながら謝った。

「それと……」

 佐藤先生の顔が真面目になる。

「染田先生はずっとご家族の介護で忙しかった。最近は寝る暇もなかったと聞いています。染田先生も皆さんに申し訳なかったと言っていましたよ。特に野風さんが転落したと聞いた時は酷く落ち込んでいらっしゃいました」

 花は俯いた。晴は後で染田先生にそっと挨拶をしようと思った。

「染田先生がワンダーフォーゲル部を廃部にしたいと仰ったので、私が後を継ぐことに決めました」

 顔を机に突っ伏したままの勝利が声を上げた。

「ワンダーフォーゲル部が続くのは良いよ、春香もきっと続けて欲しいだろうからな。だけどよ、オレはもうここに来る理由がないよ」

 はて、と佐藤先生は首を傾げる。

「そういえば今日、春香君は荷物を取りに、ここに来たはずです」

「え!?」

 晴と花が驚く中、勝利はすぐに動いた。椅子から立ち上がり、窓辺に駆け寄る。そして、すぐにドアを開けて走って行った。

 晴と花が窓へ走ると、校庭を歩く春香の後姿が見えた。勝利がランニングのマイペースが嘘のように、春香に駆け寄った。

「春香~!」

 叫び声が風に乗って聞こえた。後は風の音だけがする。立ち話をする二人の姿があった。

 ただただ驚いて、晴と花は顔を見合わせた。

「青春だなあ」

 うんうん、と佐藤先生が頷いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ