ホント、雨の日ってロクなことない~大会当日
ずっとまずいぞと思っていたが、とうとう現実になってしまった。台風が北上、進路は神居尻に向かっている。
天気図の等圧線をようやっとカタカタしているものの引けるようになってきた晴は、台風が上陸するその前から荒天の影響を受けていた。台風が登場すると、その周りの等圧線が、非常に多くなり、書くのが大変面倒になるのだった。制限時間内に全ての等圧線を引けたら奇跡だ、と晴は思った。
それでも大会本番の天気図は完成させたい。晴は制限時間内の天気図完成を目指し、残り少ない気象通報の時間で、真面目に天気図に取り組んだ。
「大丈夫、台風は北上すると、温帯低気圧に変わりますから、大会は開催されるでしょう」
ニコニコと、佐藤先生は言ったが、晴は雨風に晒されることを思うと、むしろ大会自体は中止になってほしいという気持ちになった。
平日の午後、どでかいザックを背負った、高校生、各チームがぞくぞくと神居尻のキャンプ場に集まって来ていた。
普段別々に活動している山岳系の部活が一同に会するのは中々に刺激的だった。
勝利はそこそこ美人だと認めた女の子に声を掛けては戻って来て、「やっぱ春香が一番だよな」と言ったりしているし、活彦と友太はすぐに友達を作った。のほほんとして、晴が空を見上げると白っぽい曇り空で、まだ雨の気配はそんなにしない。このまま何事もなく一日を過ごしていたい……そんな気持ちで晴の胸は一杯になった。
開会式の時間が近付くと、そんな平和の雰囲気に緊張感が漂うようになった。 晴達は、車があるキャンプ場から開会式会場へ移動した。
十は高校が集まっただろうか。春香によると昔に比べたら大分少なくなったらしいが、それでも同じ山に登るという目的がある部活がこれだけあることに晴は感心した。
開会式会場は室内だった。各チームに別れて並ぶよう指示があったので、ここで花とは別行動だ。開会式直前、花が皆にミサンガを渡した。
「昨日作ったの。大会中、私はあまり側にいられないから」
花は一人一人にミサンガを渡し、自分もミサンガを付けた。ピンクのミサンガだった。
「ほら、野風さん、始まりますよ。特別参加の生徒はあっちですよ」
染田先生が珍しく注意をしたので、花はすぐに端の方に移動しなくてはならなかった。
ところがすぐに、花は戻って来て、晴の肩を叩いた。
「頑張ってね」
花の顔は真剣そのものだった。晴は頷いた。「頑張ります」と晴は言い、勝利は花に手を振った。後ろの方で、染田先生が苦々しい顔で晴達と花のやり取りを見ていたが、晴はちっとも気にならなかった。
勝利は男子だらけの列に並ばされて不機嫌そうだった。「春香がいたらなあ」とそればかり言う。さっきから女の子にばかり声を掛けていたのも、春香がいないからだ。
正式な教師ではない春香は、少し遅れて自分の車で大会に来ることになっている。野風高校では、春香以外の教育実習生を見掛けたことがない。教育実習の期間がどれくらいなのかもわからない。今日は平日で、普通ならば大学も通常営業のはずだった。春香がワンダーフォーゲル部のためにどれくらい自分の時間を割いているのか、晴は謎だと思い始めていた。
「春香はまだかな……」
「ちゃんと並べよ」
勝利がだらしなくしゃがみ込んだので、晴は注意した。
「はいはい」と言いながら勝利はだらだらと立ち上がった。
春香は他のチームに勝つことは、助っ人と一年生というチームの構成上、難しいと言っていた。「けれど、チームワークで負けてはいけない」と春香は強く言った。「山ではチームワークが大事」なのだと。
勝利のやる気を引き出し、助っ人の活彦と友太とも仲良くやる。そして、チームワークが乱れないように注意を払う。それは今回の自分の仕事だと晴は思った。
晴は自分のミサンガを見た。花の真剣な顔が思い浮かぶ。頑張らない訳にはいかなかった。
開会式が終わると計画書の提出があった。
そしてすぐ筆記試験だ。
晴は、実は、試験対策のため、活彦と友太には試験に出そうな所を書き出し、印刷して渡してあった。
せめて全くわからないということは無しにしようという作戦だった。
晴と勝利は、日頃から暇な時に山の資料を眺めていた。
その結果は、テスト用紙が配られてすぐに出た。
机の並んだ別室で、晴が空白の解答欄の多さに心の中で唸っていた時、隣では 鉛筆の音がぱたりと止んだ。あっちゃむいてホイという様子で鉛筆を回している勝利は、しかし、解答欄が埋まっているのだった。晴はカンニングにならないようにすぐ目を逸らしたが、そんなのアリか、と世の中の不公平を嘆いた。
「どれだけ書けた?」
テスト終了後、活彦が晴に聞いてきたので、仕方なく晴は「七割」と答えると、活彦は「うわあ、俺、六割くらいだよ」と言った。友太もうんうんと頷いている。勝利に負けても、部員としての威厳は保てそうで、晴はほっとした。
筆記試験の後は、天気図だった。筆記試験で疲弊した脳が、ちゃんと動いてくれるかが不安だった。
「頑張れ」
活彦と友太が笑顔で励ました。勝利は手を振って合図をした。晴は頷いて試験会場に残った。天気図用紙が配られる。晴は高校名と、自分の名前を書いて、ラジオから気象通報が流れるのを待った。
「どうだった?」
活彦が聞いて来た。
「明日は雨だってさ」
晴は答えた。
台風は順調に北上し、このまま行けば晴達の頭上を通過する。津軽海峡を越えたら温帯低気圧になり、明日は一日中雨が降る。それが、晴が頭から叩き出した精一杯の答えだった。
「明日、中止にならないかな」
友太が言う。心配そうに、と言うよりは、少し期待した気持ちで言ったのだろう。目がきらきらと輝いていた。
「中止になる時は、殆んどないって春香が言ってたぞ」
勝利の言葉に友太の目は曇った。誰だって雨の中、山を登ると思えばどんよりとするものだ。でも、ここで皆の士気が下がってはいけない。晴は「僕達は自分達がしなくちゃいけないことをするだけだよ。がんばろう」と言った。ちょっと臭いかな、と晴は思った。
既に外は薄暗くなりつつある。急いでテントの設営だった。
野風高校ワンダーフォーゲル部男子A隊は、審査員の先生にすぐ呼ばれた。テント設営の開始だ。
前以て立てた作戦通りに皆が動いた。作戦は、誰が何をするかを決めただけだった。
晴と友太がポールを組立て、その間に勝利と活彦が、テントを取り出し整える。晴と友太がテントにポールを通し、テントの本体を立てる。その間に勝利と友太がテントカバーを整え……というように、役割分担の通りに動けばスムーズにテントを立てられるのだった。
設営記録は十五分だった。
審査員の先生は何事かをクリップボードの上の紙に書きながら、野風高校のテントの周りを一周した。恐らくテントの出来栄えを審査しているのだろう。
審査員の先生が去り、張り詰めていた緊張感が一気に緩んだ。
「はあー」
活彦と友太がしゃがみ込んだ。疲れているのだろう。だったらテントに入るように言おうと晴は考えて、止めた。
「おい、あれ見ろよ」
「うん?」
晴達、野風高校男子A隊テントの隣で、別の学校のテント設営が始まった所だった。
皆、駆け足でテントを立てる。生徒の動きがスムーズだった。役割分担はまるでリレーのバトンを渡すように行われ、何度も練習しただろうと、その洗練された動きから予測することが出来た。テント設営が終わる。おそらく、時間は十分くらい。
「あ、そうだよなー練習しないと駄目だったなー」
そう言ったのは勝利だったが、勝利がどこかふらふらして、いなかったからテント練習は出来なかったのだと、晴は言いたかった。
周りをよく見ると、テントをこれから設営するところが多い。皆、十分くらいでテントを立てる。晴はテント設営を練習しなかったこと自体よりも、自分のリーダーシップのなさが情けなくなった。
「まあ、終わったことは仕方ない、ドンマイ、リーダー」
勝利が晴の肩をぽんぽん叩いて慰め、晴はガックリとした。
晴達がテント設営を見ていると、審査員の、先生の一人がやって来て「調理を開始するように」と言ったのでさっそく行動を開始した。お腹が空いた。早く休みたい。おまけに明日が登山の本番だと言うのだから、迅速に行動したいと誰もが思う。作るものはカレーで、もうお手のものだった。
カレーがぐつぐつ言う頃になると、辺りは暗くなってヘッドランプが欠かせなくなった。
「もう食べごろだよ」
友太が言うので、勝利は染田先生を呼びに行った。花は食事も別行動だった。
暫くして勝利の後から付いて来た染田先生は何だかぐったりとした様子で、いつもよりもさらに老けて見えた。
背を丸め青ざめた顔をした染田先生がいると、何だか場の雰囲気まで暗く萎んでいく。食事中、喋ったのは勝利と染田先生だけだった。
「春香、まだ来ないのかよ」
「春香君は近くのロッジに宿泊して、皆さんの様子を見に来てくれるそうです」
はあ、となぜか溜息を付いて「そろそろ着いている頃でしょう」と染田先生は言った。
「まだ会えないのかよ」
ボソッと勝利は呟く。晴はカレーを口に運び、明日のことを考えるので精一杯だった。活彦と友太も黙々とカレーを食べている。
沈黙を破るように染田先生が消え入りそうな声で喋り始めた。
「明日は、いよいよ登山ですね……私は着いて行けないのですが、くれぐれも怪我等ないようにお願いしますよ」
染田先生は珍しく教師らしいことを言って、ふらふらと帰って行った。
審査員をしている訳ではなく、やることもなかったらしいのに、染田先生は一番疲れの色が濃く見えた。
食事の後片付けをしていると、どこからともなく「もしもし、すみません」という声がした。
声のする方を振り向くと白い肌の少年、伸久がいた。
「これ、うちの高校の計画書なんですけれど、良かったら交換しませんか」
伸久は手のひらサイズの冊子を持っていた。
「ちょっと待って」
晴は勝利に相談した。
「予備の計画書って、あるの」
勝利はザックから計画書を取り出し、伸久に渡した。
「ありがとうございます!」
伸久は会釈をすると、自分のテントに戻って行った。なるほど、大会では、計画書の交換なんかを通じて他校と交流するんだな、と晴は思った。
「皆で見ようぜ」
全員がテントに入る。銀のマットの上で稲上高校の計画書を見た。
緻密で丁寧に書かれた計画書に感嘆の溜息が出た。自分達の計画書と比べるまでもないと晴は思った。
しかし活彦は自分達の計画書と稲上高校の計画書を並べて見比べている。そして「勝利の作った計画書もすごいよ」と言った。
晴は自分の計画書を取り出し、よく見返した。確かに丁寧さでは稲上高校に負けるものの、概念図や断面図が緻密であることはわかる。正直、稲上高校と比べて遜色がない。
晴はぽかんとした。勝利は頭が良いのか悪いのかよくわからない。すごく癖のある奴だということはわかるけれど。
活彦と友太は、勝利を褒めた。
「勝利すげー」
「計画書は点数もらえるかもよ」
テントの中がにわかに活気付いたその時。
「そろそろ静かにした方がいいわよ」
外から、春香の声がした。勝利がテントの入口にあるチャックを開けた。誰もいない。勝利の目が爛爛と輝いたので、晴は「行くなよ」と注意した。
テントの薄布ごしに聞こえていた喧噪も静かになり、就寝時間となった。晴達、野風高校男子A隊も寝袋にくるまった。やがてイビキがあちこちから響きはじめた。隣のテントのイビキまで聞こえてくる。晴はイビキがうるさくて、全く眠れそうになかった。だからモゾモゾと動き、テントの入口のチャックを開ける音も、晴の耳にちゃんと入った。
「おい」
眠い目を擦りながら、晴は勝利に呼び掛けたが、勝利は何も言わずに、テントから出て行ってしまった。
晴は仕方なく寝袋から這い出て、テントの入口に向かった。
外は街灯以外、照らすものはなかった。晴はヘッドランプを持って来れば良かったと思った。
勝利の居場所はすぐにわかった。ヘッドランプの灯りが、キャンプ場から出て行くのが見えたからだ。晴は勝利の後を追った。進む道は、練習の時、晴と花が歩いた暗い坂道だった。今日は曇りだからか星が見えない。登山道の入口辺りまで来て、晴は、ははんと思った。窓明りが見え、蛾が集まっている。春香が宿泊するというロッジだと気付いた。
ヘッドランプの灯りが止まった。晴はすぐ勝利に追い付いた。
「何してるんだよ」
勝利に言うと「静かにしろよ」と返事が返って来る。勝利はロッジの壁に張り付いて、何かを見ていた。晴が乗り出してすぐ横にある角の向こうを見ると、春香がいた。春香がしゃがんでいる後ろ姿が、窓のぼんやりとした灯りで見える。 晴はぶるっと身震いをした。風が強く吹いた。春香の着ているジャケットが旗みたいにはためく。その風は少し休んだかと思うと、絶え間なく吹き始めた。温帯低気圧が近付いているのかもしれないと晴は思った。
春香が後ろを向く。勝利の、ヘッドランプの灯りに気付いたようだった。近付いて来て、また怒られる、と思ったその瞬間、晴は見てしまった。春香が頬に流れた涙を拭き取った所を。
「泣いていたのか?」
勝利が春香に聞いた。
「大会中に……」
春香は言葉を区切り、大きく息を吐く。
「夜中に二人だけで歩くのは危険よ。テントに戻りなさい」
「嫌だ」
勝利の目があまりに真剣で、晴は少し怖いと思った。
「帰りたくない」
「温帯低気圧が近付いて風が強くなっている。帰りなさい」
晴は勝利を引っ張った。梃子でも動かない構えの勝利を、晴は無理矢理引っ張る。
「オレ、春香に言いたいことがある」
不味い、と晴は思った。今このタイミングで勝利は告白するのではないか。そして失恋。明日はやる気をなくして棄権。十分ありうるし、そうでなくても生徒が教育実習生に告白をするのは問題がありすぎる。
春香は今までにない冷たい声で話した。
「あなた達、リーダーとサブリーダーでしょう。テントに残っている二人に何かあったらどうするの。ちゃんと責任を果たしなさい」
晴はひどく真っ当なことを春香が言ったような気がした。
「行こう」
晴は勝利の服の裾を引っ張った。
「だって、春香が……」
「春香先生がここまで来てくれたのは、僕達が大会に出るためだろ。ここで何かあったらどうするんだよ」
晴が勝利の服の裾を引っ張ると、勝利はしぶしぶ付いて来た。
「オレ、何も出来ないのかな」
勝利が悔しそうに言った。春香がなぜ泣いていたか、晴も気になったが、自分達には口出しの出来ないことだと思った。
「明日、がんばることは出来るよ」
慰めになるのかわからないが、晴は勝利に言った。
「そうだよな、明日しか、もうないんだよな……」
春香がいつワンダーフォーゲル部に来なくなるのかはわからない。けれど今回の大会が最後ではないかという気が晴もしていた。勝利の呟きは暗い道の途中で、より一層寂しく響いた。
眠れないと思っていたらいつの間にか眠っていた晴が起きたのは、助っ人二人の「朝だよ」と言う言葉を耳にした時だった。寝袋から起き上がると、勝利もまだ欠伸をしながら、寝袋の中で起き上った所だった。
晴は寝る前に外していた腕時計を見た。起床時間を十五分過ぎていた。
晴は慌てて起き上がり、寝袋をしまって調理スペースを確保した。勝利も珍しく急いでいる。
朝食はインスタントラーメンに餅を入れるというシンプルなメニューだ。お湯を沸かすために水が必要だった。
テントを開けると、轟音と共に強い風と雨が入って来た。さっきからテントが揺れていたのだが、それは風のせいだとわかる。
代表して晴が水を汲むため外に出た。雨具をしっかり上下共着用して雨対策は万全だが、顔に当たる雨だけは避けようがなかった。
水汲み場には花がいた。晴と同じく雨具を着ている。
「おはよう」
お互いに言い合い水をそれぞれのコッヘルに汲むと、すぐに別れた。
別れ際、花は「がんばってね」とだけ言った。激しい雨の中では、花とろくに話も出来ない。
水を沸騰させ、コッヘルにインスタントラーメンと餅を入れて行く。勝利が呼んできた染田先生と一緒に、風雨の音がする中、ラーメンを啜った。朝食は昨夜に増して静かだった。それぞれが、これから訪れる試練を緊張した面持ちで待っている。
ラーメンを食べ終え、コッヘルや食器を片付けようと皆が動き出すと、外から声が掛かった。野太い男の人の声だ。
「風雨が酷いので、出発時間を遅らせます。出発は九時を予定しています」
ほっとした空気がテントの中に流れた。晴は心の中で酷く安堵したし、活彦と友太は「良かったー」と笑いながら言う。勝利もうんと伸びをした。染田先生は溜息を付いた。
朝食の片付けが終わり、小さなザックに必要な物を入れる。計画書の『個人装備』と『共同装備』が書かれたページを見て、念のため一つ一つ道具を確認した。
風雨は少しも弱くならないのに、九時が迫っていた。その間晴達は座って休んでいた。「体を横にしないように」と花がわざわざ言いに来たから眠くなっても座ったままでいた。花によると、眠った状態でいると、いざ体を動かす時に辛くなるから、ということだった。
ザックを雨避けのカバーで覆い、雨具を着てスパッツを装着し、晴達は集合場所へ移動した。既に何チームかが揃って並んでいた。
「おはよう」
隣から声がしたと思ったら、伸久がいた。
「ひどい雨ですね」
心なしか、そう言った声が震えている。晴も鳥肌が立つのを感じていた。このまま、風雨に晒され待ち続けるのなら、一刻も早く移動したいと思うくらいの寒さだった。
審査員の先生方が、生徒達の周りを取り囲んでいた。審査員の先生はトランシーバーを持っていて、何事かを連絡をしている先生もいた。
「出発!」
チームが全部揃っていることを確認すると、リーダー格の先生が叫んだ。
先頭の先生の後を、男子チームが続々と続いて行く。晴達、野風高校男子A達は後ろの方で列に加わった。女子チーム、特別参加の人は、男子の後に続くようだった。晴は花が手を振って見送ってくれているのを見た。晴の気合のスイッチが入ったような気がした。しっかりと正面を見て歩く。しっかりしよう、雨なんて吹き飛ばすくらい、山行に集中するんだ。
コンクリートの道路を通り、登山口まで来る。登山届を出すためにある小さな小屋の横を通り過ぎ、進む。
登山道を登り、しばらく行く。道の脇に先生らしき人と、男子チームが固まっていた。どうしたのだろうとすれ違いざまに見ると、チームの内、一人の呼吸の音が大きく聞こえていた。苦しそうに激しく息をしている。晴はこの症状を本で読んだことがあった。確か、過呼吸だ。晴は過呼吸になった人の横を通り過ぎた。自分にはどうすることも出来ない。でも何だか三角山で動けなくなった自分を見ている気がした。引率の先生がいたから、きっと大丈夫だろうと思いながら自分のことに集中する。晴は一歩一歩を確実にすることで、心を落ち着けた。
列の動きが止まった。
「これから行動テストを行う」
審査員の先生が叫ぶ。山行中にテストがあることは、花や春香から聞いていた。とうとう始まったようだ。
「三番の生徒は集まって」という声。野風高校男子A隊に付けられたメンバーの番号は、リーダーが一番、サブリーダーが二番、三番は友太だった。
友太の目が大きく開かれ、揺れた。突然に自分が当たって動揺しているのがわかる。
「落ち着いて、何でもいいから答えるんだ」
晴は友太を励ました。友太はペンを持ち、三番が集まっている列の前方に大きな体でふらふら歩いて行った。
三番がテストに行っている間、他のチームは水分を補給していた。
「僕達も水を飲もう」
晴が言う前に勝利は飲み物を取り出し飲んでいた。晴は自分にリーダーはやっぱり向いていないなと思いながらペットボトルの水を飲み、行動食として持って来たチョコレートを頬張った。
皆、雨で雨具を着ていたが、顔や髪が濡れていた。晴は首に巻いたタオルで雨と汗を拭き取った。スパッツは泥だらけになっていたが、ティッシュで拭いてもキリがないことはわかっていたので諦めた。
友太が戻って来て「どうだった?」と皆が聞いた。
「答えたつもだけれど……」
「何て答えたんだよ?」と、勝利。
「アサガオ……」
「え?」と晴。
「アサガオって山にあるの?」
活彦の疑問には「ないだろう」という気持ちが籠っていた。
「んな訳ないよな」
勝利も首を振る。晴はアサガオみたいな花って何だろうと思った。植物図鑑を眺めていたこともあったが、思い出すことは出来なかった。
すると隣のグループから明るい声が聞こえて来た。伸久と年上らしき生徒が話している。
「シラネアオイが出ました、先輩に教えてもらったお蔭で答えられました」
「そうか、よくやったなあ」
伸久の嬉しそうな顔を見ながら、晴は先輩がいるっていいなあと思った。花が先輩と言えば先輩だが、女子なので今はいないし、先輩としては少しふんわりとしている。勿論、晴にとっては花がいてこそのワンダーフォーゲル部だが、男子にも頼れる先輩がいたらこういう時に力になってくれただろう。
「出発!」
合図があり、再び一行は歩き始めた。
上へ進むにつれ、風雨は激しくなっていた。
次の行動テストでは四番の活彦が呼ばれたが、活彦は戻って来ると、首を傾げながら「『現在の天気を天気図記号で書け』だってさ」と言った。
「何て書いたんだよ」
「こんな感じ」
活彦は勝利の質問に、メモ帳を取り出し何かを描いた。
メモ帳の周りに集まって皆が見たのは、可愛らしい傘のマークだった。
「駄目だー」
勝利は両手を上げて叫んだ。
「駄目だとか言うなよ」
晴にしろ天気図記号は一週間ちょっと前に覚えたばかりだ。晴は行動記録用のメモ帳に『現在の天気』と書き、丸を黒く塗り潰した記号を書いた。
さらに上へ登る。
練習の時に見えた景色は、今は白く靄がかかり見ることが出来ない。風雨もかなり激しい。もうすぐ神居尻からピンネシリに向かう分かれ道に到着するが、目の前の道すら見えなくなってきていた。
次に休憩になると、審査員の先生方が一か所に集まって、何か話をしていた。
晴は「水を飲もう」と皆に言いながら、自分のペットボトルを取り出した。ペットボトルのスポーツドリンクを一気飲みし、ザックに戻す。ザックの中を覗いて、気付いた。あと一本しか飲み物がない。晴は共同装備の確認、チームメイトの荷物の確認はしたものの、自分の個人装備の確認は不十分だったことを思い知った。山を下って、再び登り、下山する。大会コース通りに行くと水分が足りなくなるかもしれない。
だから「荒天のため、本日はピンネシリに続く道には入りません。神居尻山頂を目指します!」という知らせを聞いた時、晴の早鐘のように鳴った心臓は一気に静かになった。反対に晴の周囲は安堵の声で騒がしくなった。晴は、ほっと、溜息を付きながら油断はならないと思った。残り一本の飲み物、少しずつ飲まなくては。
「やっと帰れるな」
勝利が言う。
「これ以上は、俺達には辛かったね」
「帰ったら炊き込みご飯だ」
活彦と友太の雨まみれの顔にも笑みが広がる。
晴は気を取り直して「気合を入れて、ラストまで頑張ろう」と皆を励ました。 キャンプ場に着くまでまだ1時間以上あるからだった。ここで気を緩めてはいけない。
尾根という山の高所に続く細い道を歩き、靄の中、避難小屋に着いた。ここまで来たら山頂までもう少しだ。避難小屋で休みたい所だが、人数が多すぎる。誰もが震えていた。一刻も早く下山するために山頂に行かなくてはならない。山頂から反対のコースは一番短時間で下山出来るコースだった。
「懐中電灯を出せ!」
靄で暗い中、審査員の先生から指示が飛ぶ。先生は既に頭にヘッドランプを付けて、列の最後尾まで「懐中電灯を!」と言いながら歩いていた。
晴は「ヘッドランプを」と改めて皆に指示を出す。ザックの奥にヘッドランプを入れていたため、晴はザックの底を泥で汚してしまった。ザックを背負うと背中まで汚れるのではと思う。汚れると思うと、苦しくなってくる。
三角山のことを思い出し、ここは落ち着くんだと晴は自分に言い聞かせた。ここで吐いたら今までのことが台無しだ。
皆が四苦八苦してヘッドランプを取り出した。晴が灯りを点けると、靄の中、前にいる友太の大きな背中と、背中に比べて小さなザックがはっきりと見えた。
靄の中、覚束ない足元に少し恐怖を感じながらも晴は一歩ずつしっかりと前に進んで行く。靄で先頭の勝利が見えない。多分大丈夫だろう。不安はあったが、山頂にはすぐ到着した。
「山頂だ!」
どこからともなく声が上がる。到着時刻は十二時四十分。行動記録のメモ帳に素早く晴は書き込んだ。
「十五分! 休憩!」
審査員の先生が叫んだので、晴は野風高校男子A隊で固まり、昼食を取ることにした。
雨で濡れた軍手を外し、ザックの中から袋を取り出す。この袋は密閉されていて、中にホットドックのパンと、まだ開封していないソーセージが入っている。その場でホットドックのパンにソーセージを挟める方法は、花が提案したものだった。
パンはパサパサしていて、正直美味しくなかった。食欲があまり涌かない。晴は飲み物を飲みたいと思ったが、残りの行程を考えて、我慢しなくてはと思い飲まなかった。なんだか体中が清い水を必要としているように思えた。顔を細目に拭いているが、体中の汗は拭き取れない。体の外の汚さばかりでなく、体内も気になって来た。水分で体内を洗い流したい。
『汚い』という思いで脳内が浸食されそうになる。晴は首を振って、『汚い』という観念を振り払った。
晴が冷たいホットドックを袋に戻そうとした時だった。
「お疲れさん」
男子四人が力なく振り返ると、雨の中でも目が元気に生き生きとした春香が立っていた。
「あら、残すの。しっかり食べないと後で動けなくなるわよ」
「どこにいたんだよ」
むすっと、勝利が言う。
「下山コースから登って来たの。審査の邪魔にならないようにね。ここで会うということはコースが変わってしまったのね。この天気だし、コルまで下らずに済んで良かったわ」
さて、と言いながら春香もザックからホットドックの袋を取り出した。花に持たされたのだろう。
「いただきます」
春香が勢い良くホットドックを食べるので、皆つられて袋からホットドックを出し食べた。晴は体内が汚いという考えをから逃げるように、ホットドックを口に入れ続けた。楽しい食事とはいうには程遠い、義務感からくる栄養摂取だったけれど、少し力が湧くのを感じる。
隣の隊は伸久のチームで、インスタントのご飯を食べていた。
「お湯だけ入れておけばご飯を食べられるなんて、僕、知りませんでした。さすが先輩ですね」
伸久はどうやら先輩を持ち上げるのが上手いようだ。先輩と呼ばれた人は「ははは」と笑い、満更でもなさそうだ。
しかしご飯は冷たいだろうな、と晴は思い直し、自分達の食事を考えてくれた花に感謝することにした。
考えてみれば、大雨の中ここまで来ることが出来たのだ。以前の晴だったら考えられない。全て、花と野風高校ワンダーフォーゲル部のお蔭だ。
晴がホットドックの袋を空にしてザックに戻し、辺りを見回すと、食事前に比べて靄が晴れていた。
「女子隊は避難小屋の辺りで休憩しているみたいね」
春香が示す方を見ると、道の途中にあった避難小屋を、靄の間から見ることが出来た。
そうこうする内に靄が晴れ、晴はほっとした。遠くに尾根道を走って来る人の姿が見えた。笑顔で手を振っている。ピンクの雨具を着ている。軍手を脱いで片手に持ち、山頂の晴に向けて手を振る姿。
「何をやっているの」
春香は横で頭を抱えたが、晴は手を振り返した。花だ。花が走って、男子チームに会いに来てくれたのだ。花の足は頑丈で、息を弾ませながらすぐ近くまで来た。
「大丈夫? 問題ない?」
花がそう言い終えた時、晴の目の前には息を弾ませた花がいた。少し無理をしたのだろう。荒い呼吸は暫くおさまらなかった。
「大会中に自分のパーティを離れては駄目よ。皆心配するし、全体のチームワークに関わることだわ」
春香が花を叱った。流石に、染田先生に言われるのとは違って花はしょげた顔をした。息を荒く吐きながら「ごめんなさい」と言って謝る。
花は膝に手を当て、前傾姿勢になり息を吐いた。
「僕達は大丈夫です。心配しないでください、花さん」
「そーそ、こいつ、今回は吐いたりしてないぜ」
晴の言葉に勝利が付け足した。その言葉に晴は申し訳ない気持ちになった。花は、晴のことを信用していない。今回の大会でも、三角山でのことがあって晴のことを一番心配に思っていたのだ。
「そうだよね、大丈夫だよね」
花は苦笑し、ショルダーバックからホットドックを入れていたのと同じ袋を取り出した。中には包装を解いたチョコレートやグミが入っている。
「皆にあげるね」
「ありがとうございます」
一人一人に花がお菓子を配った時、周りのチームが騒めき始める。荷物をしまい、ザックを背負う様子を見て、活彦が片手を上げて腕時計を覗き込む。
「もう休憩時間終わるよ」
晴は溜息を付きたくなった。活彦の方がほとほとワンダーフォーゲル部に向いている。友太は料理が出来るし、勝利は計画書を書くことが出来、テストの答案用紙を埋めることが出来る。自分は何もこれといって得意なことのない中途半端リーダーだという思いが脳裏を過る。
「もう一個あげる」
花がチョコレートを晴に差し出す。もしかして、落ち込んだことに花は気付いたのだろうか。
晴は気持ちを切り替え「出発準備をしよう」と言った。
「花も急いで自分のパーティに戻りなさい。それか、私も付いて行こうか?」
「えー春香、行くのか?」
すぐさま勝利が残念そうに声を上げた。
「いいからすぐ準備をしなさい」
「はいはい」
勝利は目を輝かせ、まだ体力に余裕がありそうに見えた。春香と会うことで元気を取り戻したのだろう。
「ごめんなさい、すぐに戻ります」
晴は一言、何か花に言いたくなった。
「じゃあ」
花は振り返り、妖精スマイルを見せた。
「じゃあね」
晴は微笑み返した。二人の目が合ったその時だった。
手を振る花の足元、後ろ向きで進む姿。その後ろにある尾根道。雨の泥道。「じゃあね」という決定的な一言。
「危ない!」
晴は叫んだ。
花が片足を滑らせる。それを支えようとしたもう片方の足も。晴は咄嗟に走った。滑りそうになって、必死で踏ん張る。まだザックを背負っていないのが幸いとなり、片手を速やかに動かせる。花の手が宙に浮いたままになっているのを握る。花の目がほっとゆるみ、花が手を握り返す、その一瞬。
『お前の手は汚い』
晴はぞっくと背中に悪寒が走るのを感じた。
『けがわらしい』
次に自分の内に響く声は、晴自身の声だった。
『僕は、花さんの手を汚してしまう』
雨が叩き付けていた。花が、自分の手が解かれるのをどんな思いで見たのかそれはわからない。ただ、目が宙を見ていた。晴は「信じられない」と、花の目が言っているような気がした。花の手がまるで爪を立てた猫みたいに、地面を掴もうとした。手首に巻かれたピンクのミサンガが見えた。
花の姿は地面の下に消えた。晴は立ち尽くした。
何が起きたのだと茫然とした。今、花の手は晴の手の中にあった。温かい温度が確かにしていた。花の笑顔を思い出した。さっき、見たばかりだった。「じゃあ」と言い、「じゃあね」と返された。それはほんのちょっと前の出来事。
「あああああああ!! あああああああ!?」
今まで聞いたことのないような大声が山の中に響いた。
後に続いたのは山びこではなく、大人の声だった。
「落ちたぞ!」
「ロープだ!」
「花! 花!」
女の人の叫び声がした。春香だった。
「花、どうして」
「春香、近付いちゃダメだ!」
勝利の声。
「ロープだ!」
「ハイマツだ!」
「誰かハーネスを持ってないか!」
「危ない!」
様々な声が響いた。
「ロープもハーネスもあります」
しゃくり上げながら喋ったのは春香だった。大人の男達が迅速に動いた。
「俺が行く」
教師の一人がロープを持って下に下りて行く。もう一人の教師が上でロープを持って支えていた。
慎重に緩やかな崖を降りた教師がロープで結び付けた花を背負い、崖の下から姿を現すのに、そう時間はかからなかった。
崖は切り立っているように見えて、足の踏み場があった。そして、下にはハイマツという低い木が何本か生え、花を受け止めていた。
しかし晴がそのことを知ることはなかった。泥の中で、一人手を突いて俯いていた。何も見えない。
「おい、しっかりしろよ」
活彦が晴を支えた。
「大丈夫?」
友太がおどおどと聞いてくる。
「女の子は背負われて下山した。これから下山するが、お前達はどうする?暫く休むか?」
誰か……教師が言う。
花が助かった。やっと、晴の頭の中は動き出した。
「大丈夫です」
晴は顔を上げた。視界が揺らいで見えた。涙が一筋流れたが、その上をすぐ雨粒が走った。
そこにいた誰もが晴のことを見ていた。晴は全身泥だらで立ち上がった。
活彦も友太も静かだった。周りの視線が痛い。
「後ろから付いて来なさい」
その教師が言う。
男子チームの列が騒めきながら動き始めた。
「今回は大会中止か?」
「あの子、大丈夫かな?」
「僕、見ました」
聞き覚えのある声がする。伸久だ。
「あの人が、女の子を振り払う所を」
「えっ、落としたのか」
「静かにしろ!」
教師が一喝し、騒ぎ声は収まる。
「皆、事故がないように! 足元滑るから気を付けて!」
しんと静かになった一行が下山し、キャンプに戻ったのは午後二時半過ぎだった。
下山時、勝利の姿がなかった。花と春香と一緒に下山したのだ。
野風高校男子A隊のテントの中には一人気怠そうに横になる勝利の姿があった。寝転がっていた勝利は少しも体を起こすことなく、テントの入口にいる三人を見ると低い声で言う。
「春香が花ちゃんを病院に連れて行った。怪我はなかったけれど、意識を失っていた」
晴は気が遠くなるのを感じた。花の意識がない。もし目を覚まさなかったら……。そのことを考えると喉の下から重たいものがこみ上げる。花は今無事なのか。晴の思考に暗い靄がかかり、思い出そうとしても、花の姿を思い描けない自分がいる。
活彦と友太は、晴を支えながら青白くなった顔を見合わせる。晴は二人に支えられるようにテントの中に入った。いつの間にか強風は止んでいた。
テントの中は静かだった。
晴は蹲り、勝利の横に倒れ込む。一秒一秒が遅く、喉元に刃を向けられたような緊張感がある。
勝利は口を開け「お前さ……」と言い、口をつぐんだ。活彦と友太は銀のマットの上に座った。顔は一様に暗い。
鉛のような沈黙の時間が過ぎた後、外から声がかかる。
「お前ら、車に乗せてやっから、温泉行くぞ」
「温泉?」
晴は少し体を持ち上げた。泥だらけの服は、晴の体と、テントの上の銀マットを汚していた。
体格の良い教師の車に乗り、車で長距離移動し温泉に行った。
シャワーを浴びると泥が体から落ちて行った。汚れなど簡単に落ちるものなのだ。それなのに手を振り払った。浴槽に浸かると晴の体と気持ちはずっと沈んでいった。
事態が動いたのは温泉の帰り道だった。運転していた教師の携帯電話が甲高く鳴って沈黙を破った。
「意識を取り戻しましたか。ああ、良かった」
教師のその一言で、晴の張り詰めた心は緊張を手放した。涙が一筋流れ、晴は自分が泣きたかったことに気付いた。眠りの世界へと誘われて、晴は全てから逃げるように目を閉じた。
教師と皆に休むよう言われた晴はキャンプ場に着いても、テントの中で眠っていた。
「飯、出来たぞー」
勝利が呑気に晴を呼んだ。炊き込みご飯と味噌汁を自分の食器によそった。静かな食事だった。勝利だけが御代わりをした。晴は染田先生がいないことに気付いたが、誰も気にしていなかった。
食事を終えて、暫くすると「春香!」と勝利が叫んだ。ジャケットを着た春香が、テントに向かって来るのが見えた。
「皆、遅くなってごめんね」
春香が謝った。晴は俯いた。春香が謝ることを申し訳なく思った。
「花は大丈夫。怪我もないし、意識を取り戻したから、ご両親と一緒に帰ったわ」
「良かったですね」と相槌を打つのは友太だけだった。しかし晴は安堵した。また涙が出そうになるのを必死で抑えた。目は真っ赤だろう。
「あとね」
春香の声のトーンが低くなる。
「染田先生はご家族に不幸があったので、朝の内にお帰りになりました。学校には代理の先生を呼んでいますが、到着が遅くなっているようです。もしも私で大丈夫なことでしたら、私が相談相手になります。何でも話してください」
「はいはい」
勝利が手を上げる。
「オレ、相談したいことがあるんだけれど」
へらへらと、勝利は笑っていた。
「何?」
「相談があるのは、春香の方じゃないの?」
「え?」
「お前、疲れてるだろ」
「気にしてくれてありがとう、でも私は大丈夫よ」
「花が死にそうになって、間野矢草哉のこと思い出して」
春香の顔が固まった。勝利の目がぎらりと怪しく光った。
「お前、間野矢草哉の恋人だっただろう」
突然何を出だすのだろうと思った。しかし春香の顔は青白いマネキンみたいに固まったままだった。
「オレ、山に向かって祈ったり、花が死にそうになって泣いたり、そんなお前を見るのが嫌なんだ」
「この話しは止めにしましょう」
春香は顔を背けた。まるで逃げるようだった。その仕草が勝利を苛立たせたようだ。
「これを見てくれよ」
勝利が春香の前に小さな紙みたいな物を付き出した。
それは写真だった。見覚えのある写真……学校でキャンプの練習をした時、落ちていた写真だった。後で、晴がアルバムに戻した写真。今より若い春香と……そして。
「お前の隣にいるのが、間野矢草哉だ」
「その写真返してくれる」
青ざめた顔を引きつりながら春香が言った。それは勝利の言ったことを肯定しているようだった。
「部室のアルバムに挟まっていた。これ、お前のだろう」
「返して」
春香は泣いてしまいそうだった。
「オレ、調べたんだ。図書館に行って。四年前遭難死した間野矢草哉の名前を。
最初におかしいと思ったのは、部室のアルバムから写真が何枚もなくなっているからだった。特に十年前辺りの写真がない。そして、なぜか在校中の春香の写真も少ないんだ。少し考えたらピンとくるものがあった。
図書館の新聞によると、遭難死した間野矢草哉は大会とは無関係の人物だった。けれど、当時の高校生との関係が深くて、心に傷を負った生徒が沢山いた。なぜだろうと思ったんだ。
学校の図書室に行った。卒業アルバムを見ていたら、間野矢草哉の写真を見つけることが出来た。多分、本人で間違いないだろうと思った。
そして、アルバムに挟まっていたこの写真。証拠は何もない、けれど、春香は間野矢草哉と付き合っていた。だから、間野矢草哉と一緒に写っていた春香の写真が外されて、ない」
春香は途中で顔を背けた。震えているように見える。
「でも、在校中、春香先生とその人は会っていないはずだよ。年が離れているみたいだし」
活彦が勝利を真っ直ぐ見て言う。
「多分、間野矢草哉はワンダーフォーゲル部のOBだ。よくはわからん、けどきっと遊びにでも来ていて、春香と知り合ったんじゃないか。あと、部室には、間野矢の写真はないが、計画書はあった。計画書に、名前が残っていた」
「その話はここまで。明日の帰る準備をして寝なさい」
春香はくるりと後ろを向いて、去ろうとした。
「待てよ! どこ行くんだよ! 間野矢の所じゃないよな!」
春香は振り返らない。
「言い過ぎだよ」
友太が止める。
「間野矢のことが好きなんだろ! 今でも! そいつは死んだんだ、オレじゃ間野矢の代わりにならないのかよ。オレ、お前のことが……オレがお前を守るよ」
歩いて行く春香を見て、勝利は一歩進もうとする。晴は咄嗟に「やめろ」と言っていた。
「お前……」
勝利は駆け出して春香の後ろ手をつかんだ。そして、勝利は、上から春香の顔と向き合う。春香の横顔が露わになった。意志の強そうな春香の目から涙が滴っていた。勝利は春香に口付けした。
やめろ、そう晴が叫ぶよりも先に声がした。
「何をしているんだ!」
体格の良い教師が叫び、間に入る。勝利の背中をつかみ、春香から離した。
「また野風高校か……」
教師が言った。後ろには伸久の姿もある。口を開けて唖然とした顔をしていた。
「おい、お前らも手伝え」
暴れる勝利を抑え、テントまで連れて行き、入り口から勝利を中に放り込む。なおも春香に近付こうとする勝利を、友太が大きな体で止めた。
春香は歩いてキャンプ場の外へと姿を消した。それを見て、勝利は動くのを止め、静かになった。
「お前もテントに戻りなさい」
教師は外で何も出来ずにいた晴にそう告げると、キャンプ場の外へ向かって歩いて行った。多分、教師が集まっている所だろうという気が晴にはした。
勝利は後ろを向いて、何も話さない。友太はそんな勝利に「いくら好きでも言って良いことと悪いことがあると思うよ」と諭した。
活彦は「もう寝よう」と言う。晴は頷いた。
暫くするとテントの中に寝袋が並び、誰も喋らなくなった。暗いテントの中で時間がゆっくりと止まっているように思えた。勝利は寝袋にくるまり座ったままだ。活彦と友太は、ワンダーフォーゲル部の事件に巻き込まれてしまっている。今は疲れたのだろう。二人共イビキをかいて眠っていた。
眠れない晴が、花の姿を思い出した。何を映しているのかわからない、花の真っ黒な目が、晴のことをぼんやり見つめている。その目が、足元のさらに下へ落ちて行く。
「うわああああああ」
晴は大声を上げた。
「大丈夫かい」
男の人の声がした。瞼を開ける。いつの間にか眠っていたようだ。テントの外からする声は、体格の良い教師の声ではなかった。のったりとして、優しく響く。
「もしもし、起きていますか」
晴は起き上がって、テントのチャックを開けた。屈み込んでそこに立っていたのは、佐藤先生だった。
「皆さん、遅くなってごめんなさい」
佐藤先生は心底申し訳なさそうな顔をしていた。