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いざ大会練習!!~神居尻

 午後四時。ラジオで気象通報が始まる。天気図用紙を机に広げ、晴は花と共にラジオから流れるアナウンサーの声が正午の天気を知らせるのを待った。ペンを持つ手に汗が流れる。緊張でドキドキし、天気が読まれる瞬間を待つ。


 ラジオから流れる気象通報を天気図に書き込み、天気を予測するのは大会の審査対象の一つだ。初めは天気予測なんて簡単だと晴は思った。毎日テレビで見ているように、大型の雲が近付いたら雨だと言えば良いと思っていた。

 しかし、ラジオでは雲など出てこないのだ。気圧の位置が読まれる。

 各地の気圧の位置を天気図に書き込んだら、低気圧の大きさを書き出さなくてはならない。

 低気圧を作っているのが等圧線と言う気圧の線だ。等圧線は低気圧の周りだけではなく、天気図全体を覆う。それはまるで細長くうねった蛇のようだった。慣れていない人にはなかなか曲者の等圧線。等圧線を書くには鍛錬が必要だった。

 大雑把な天気予測は低気圧の位置と現在地の関係で出来る。

 例えば、明日は晴か雨か、くらいの予測だ。

 現在地の南に低気圧があれば、そのうち北上して来るから、雨になる、と考えることが出来る。


 しかし、それ以前の問題で晴は苦悩していた。

 ラジオでアナウンサーが休みなく読み上げる各地の天気……晴れとか雨とか……を聞き、天気図用紙に書くことが晴には苦行だった。

 アナウンサーが言葉を休めることは、口を噛まない限りない。今の所、晴の鉛筆はアナウンスに置いて行かれ、書き残しばかりだ。

 アナウンサーの言葉に合わせて速やかに覚えたての天気図記号を思い出し、書き込む。これが難しく、アナウンス通りに全部書けたら奇跡だ、と晴は思った。

 晴の目下の課題はアナウンサーの口に鉛筆が追い付くことだった。

 気象通報の最中、鉛筆で殴り書きをしていた晴は、花の天気図用紙を覗き、花の鉛筆が、一生懸命、アナウンサーの言葉を追いかけていることに驚いた。

 気象通報が終わっても、花は描き続けた。書き残した所を完成させ、30分後、完成した天気図はお世辞にも上手とは言えない物だったが、書くべき所が全て埋まり、等圧線が紙の淵まで四方八方に伸びていた。晴には花が遥か雲の上の人に見えた。


 放課後に天気図を晴と花が書くことになったのは、大会が再来週に迫っているからだ。「大会やることノート」の中身を消化しなくてはならないが、男子A隊の全員が「大会やることノート」を消化するのは無理だった。特に助っ人の二人には重荷になることをなかなか頼むことが出来ない。そのため、「大会やることノート」のうち時間のかかる内容は、晴と勝利が分担して行おうということになった。それは、昨日のミーティングで主に春香と花の話し合いで決まったことだった。

 勝利はと言うと、「えー面倒臭いな」と言って、いつも以上に、今日は遅れてやって来た。授業終了後、すぐラジオ放送が始まり、天気図は自動的に晴一人が行うことに決まった。まあ、天気図は担当者が各チーム一人と、大会要項で決まっているからそれでも良い訳だが。

 勝利は計画書を書くように、春香から指示されていた。計画書といっても、いつもの紙ペラ一枚とは違い、何枚にも亘って書かれる、要するに旅の栞みたいな代物だ。

「え! こんなに書くのかよ!」

「ふふ。遅れて来るから悪いのよ。大会要項と過去の栞を見て書いてね。よろしくね」

 春香は自分の用事を済ますため、部室を出て行く。勝利は春香に近寄ろうとしたが、ドアをピシャリと閉められ、拒絶された。

「うわ、ドアが開かねえ。鍵かけやがった」

 勝利がうるさく騒いでいる間に、晴は頭を抱えて天気図用紙に向き合う。アナウンスを書き取れなかった天気図で、予報をするのは無謀というものだ。

 天気図にしろ計画書にしろやることが多く、しかも難関で、前途多難だ。晴が不安な気持ちでもやもやしていると、花が「ふうっ」と溜息を付いた。やはり花も不安に思っているに違いない。

「出来た?」

 花が晴に聞いて来る。

 晴は自信を持って首を横に振る。花はわかっていたように頷いた。

「初めはわからないことだらけだよね。書けないのは皆一緒だよ。でも来週までには等圧線を書けるようになろうね」

 と言って、花は天気図を持ち、晴に付いて来るようにと言う。勝利が頭を抱えて座っている机と椅子の前を通り過ぎ、ドアまで来ると、花はポケットからジャラジャラした物を取り出した。鍵だった。くまのキーホルダー付き。

「勝利君、計画書、よろしくね」

 花が言うと、勝利は悔しそうな顔をした。晴はいい気味だと思いながら、花の後を付いて歩く。階段を降り、職員室の前に辿り着いた。

「晴君もちゃんと挨拶した方が良い先生がいるの」

 職員室で染田先生の席とは反対側に行くと、そこは一年生の教師陣の机がある所だった。晴が知っている先生が多くいる所だが、放課後の、部活動の時間帯であるためか、着席している先生はまばらだった。その中で、晴を見てニコニコした人物……それは、クラス担任の佐藤先生だった。

「やあ、やっと来ましたか」

 佐藤先生は言った。

「佐藤先生、ワンダーフォーゲル部の一年生、清田晴君です。今年は男子が大会に出るので、以前のように天気図を教えて頂けないでしょうか」

 花も顔がにっこりしている。佐藤先生はニコニコした顔のまま「いいですよ、待っていました」と言った。

 天気図を見せるように言われて、晴はさっき書いた天気図を佐藤先生に渡した。各地の天気は全部記入することが出来ず、そのため等圧線も当てずっぽう。絵の苦手な子どもが描いたいたずら書きみたいだ。晴は下手くそな天気図が恥ずかしくて俯いた。

「ふうむ。まず、線をもっと濃く書いた方がいいですね。それと、等圧線がカクカクしているので、もっと緩やかに書きましょう」

佐藤先生は下手くそな天気図でも親切にアドバイスをしてくれる。晴はほっとしてガチガチしていた肩から力を抜いた。

「まさか自分のクラスの生徒がまたワンダーフォーゲル部に入るなんてねえ」

「また?」

嬉しそうな佐藤先生に晴が聞き返すと「いやいや。大会は何時ですか」と聞かれたので「来週です」と答えた。

「いやいや、楽しみです」

佐藤先生は「いやいや」を繰り返し、終始笑顔で会話をする。結局以前ワンダーフォーゲル部に入った生徒の話は置いてきぼりになった。


 部室に戻ると、勝利は意外にも大人しく、計画書らしき物を書いていた。机と顔の距離が近い。

「さて、今日の天気図は終わったし、早速、走りましょう。勝利君も、手を止めて」

 花が言うと、勝利はあからさまに嫌そうな顔をした。それでもしぶしぶ花と晴に付いて来る。ランニングの時間が遅くなったので、この日、演劇部部員はいなかった。校舎の周りをいつも通り六キロ走った。

 一番最後にゴールした勝利を待ち、部室に戻る。筋肉トレーニング、通称筋トレをしようとする段になって「あ、オレ帰るわ」と言ったのは勝利だった。

「どうしてだよ。まだ計画書だってあるよ」

 晴が言う。大会前の忙しいこの時期、勝利に気まぐれを起こされると大変困る。

「山の勉強もあるだろ。筋トレは各自でいいんじゃねえの」

「計画書は完成してもらわなくちゃ困るよ」

「楽勝、楽勝。そのうち書き終わるから」

 勝利は鞄を肩に掛けて、ドアを開け「お疲れ様でしたー」と言うと、部室からするりといなくなった。

 女子と二人で筋トレと言うのも、気まずいので、結局この日は山の勉強をしようと、本を読んだり地形図を読んだりすることになった。

「勝利君、最近図書室で見掛けるの。多分、勉強したいんだと思う」

 花が言った。晴もテストが大会後、あと何日しかないとか言っていた勝利を思い出した。真面目なのか、不真面目なのか、よくわからない奴だと思った。

「でも、計画書は早く終わらせないと。多分、概念図とか断面図とか、山を登ったことがあまりない勝利君には難しいと思うの。私が手伝わなくちゃ……」

 ところが、勝利の計画書作りは、言葉通り一週間もかからずに終わった。木曜日だった。練習登山のミーティングを終えると、勝利は定規やらコンパスやらを使っていたが、その日の部活終了時間には「出来た!」と言って荷物を纏めると、急いで帰って行った。

「大丈夫かな……」

 机に置きっぱなしの計画書の原稿を見て、花は黙り込んだ。そして「明日には印刷しなくちゃ」と言う。晴も驚いて原稿を見た。山と山の位置関係を表す展望図、概念図、山の断面を細かに書き表した断面図、課題のレポート等、細かく詳細に書かれた計画書に、花も晴もしばし黙り込んだ。計画書作りにおいて、勝利は予想外の優秀さを発揮した。

 花の言葉通り、次の日、計画書は印刷され、栞のようにホチキス綴じして完成した。

 出来た計画書を改めて見て、晴は驚愕した。メンバー表に、晴の名前が書かれ、リーダーと記されている。因みに勝利はサブリーダーだった。

「リーダー?」

「そうだよ」

 呑気に勝利が言う。

「僕がリーダーなんて、出来る訳ないじゃないか」

「じゃ、助っ人にやらせるの?」

 うっ、と晴は言葉を詰まらせる。

「じゃ、じゃあ、勝利がやれば」

「オレ、やる気ないもん」

 確かに勝利がリーダーだと困る所も出てくるだろうが。晴は問題をどう解決したらいいか悩んだ。

「まあまあ、リーダーはリーダーらしく振る舞うことも大切だから。頼むわよ、リーダー」

 職員室から印刷した計画書を持って来た春香が言う。

「そんなわけだから、よろしくリーダー」

 勝利が晴の肩をポンと叩いた。

「がんばって!」

 花が瞳をうるうるさせて言った。

 晴は黙って頷くしかなかった。皆の期待を裏切ることが晴には難しかった。他に解決方法も見つからなかったし。


 土曜日、最初で最後の練習登山を行うことになった。

 今年の大会会場は神居尻という山だった。練習もそこで行う。

 練習登山の前日、食料品等の買物は済ませた。買い物の時、花はいつも以上に無邪気そうで、花を見ていると、大会前で少し緊張した晴の気持ちも和んだ。

 ちゃんと山に登れるのなんて、花にとっては久しぶりなのだ。ハイキングコースである円山、三角山とは違い、神居尻は936メートルあり、それなりに道のりも長い。

 早朝、部室に大会参加者全員が集まった。荷物を大きなザックに詰めるが、一年生は荷物が全部入らず、花と春香が荷物の詰め直しを行った。ザックが千切れそうなくらい引っ張られ、荷物がどんどん入っていく。花と春香に荷物をザックに詰めてもらいながら、この練習登山は無事に終わるのかと、晴は早速不安になった。何しろ三角山での失敗が晴の頭にはある。弱気になるな、荷物は全部新しく揃えたし、沢山ランニングや筋トレをした。頑張れ、自分はリーダーになったのだから。花のためにもこの大会練習は絶対に成功させなくては。晴は自分を鼓舞した。

「皆さん行きますよ」

 染田先生が待ちくたびれたように言った。染田先生は一人用テントを春香から持たされていた。大会に参加する教師はテント泊をするのが大会の慣習らしい。 染田先生は大きなザックを持たされ、いつも以上に老衰し、顔が青ざめて見える。

 ほとほと疲れたというような顔の染田先生に、なんとかザックの準備が整った生徒達と春香が付いて行く。大きなザックが満杯になって、結構重いが、花も同じくらいの重さのザックを背負っている。ザックの頭が花の頭より上に飛び出していたので、大丈夫かと晴は花を見守る。

 花はザックを背負う時、少しふらふらと足元が不安定になった。はらはらする。だが、歩き始めた花はすっかり安定し、危うい所もなくしっかりと歩いていたので流石だと晴は思った。

 いつもの白いワゴン車に乗り一路、神居尻へ……。

「あ、オレ、トイレ行きたい」

 勝利が車を止めた。土曜日の市内は混んでいた。

「あれ? ここはどこだか……」

 染田先生の方向音痴が発覚した。

 早朝出発したにも関わらず、市街を抜けた時には二時間が過ぎていた。

 そんなこんなで、到着した場所は神居尻の麓に広がるというキャンプ場だった。染田先生は総合案内所の前にある駐車場に車を止めた。一人で車から降りると、ふらふら案内所に入って行く。次に染田先生が現れた時には、全員が重たいザックを背負い、キャンプ場に向かうことになった。染田先生の骨が折れないかと晴は少し不安に思った。

 木の枠に囲まれた平らな砂場が、テントを張る場所だった。晴がザックからテントを出そうとすると、花が止める。

「大会練習だから、テント設営の時間を計るね」

 テントを立てる時間も、大会審査の対象になる。

「よーい、スタート」

 花の合図で男子A隊四名は、テントを設営するために動き出した。なるべく早くテントを完成させようと、皆で動くのだが、気付けばポールの奪い合いになるし、テントは、と、いうと、テント本体とカバーが絡み合い団子の状態だった。テント本体を広げるために勝利と友太が動いている間、ポールを持って待っている晴と活彦は手持ち無沙汰になった。ポールを本体の通しに、通して、テントを立ち上げたのは良いものの、今度はペグとハンマーが見つからない。小さなそれらは、ザックの中に埋没してしまったらしく、中を出し入れしているうちに、辺りが山の道具で散乱した。

 最後のペグを打ち、テントを張っている紐を確認した時、腕時計のストップウオッチがピッと音を鳴らし、続いて「二十五分」という、気落ちした花の声が晴の耳に届いた。

 一同に重々しい空気が流れた。

「簡単だと思っていたけれど、テントを立てるのって難しいなあ」

 活彦が言った。

「テントの設営練習、そういやオレはしてないな」

 と、勝利。

「女子用に、同じテントを持って来たから、もう一回やりましょう」

 花が言った。安堵、と疲労感が晴の身にやって来た。登山をする前から体がだるい。だが、仕方ない。

「登山する時間が遅れているから、皆、早くね」

 もたもた動く男子隊に春香が発破をかけた。

 男子が女子用テントを立てる間に、春香は染田先生の一人用テントを立てるのを手伝った。

「二十一分。さっきより、タイムは良いよ」

 空元気な花の声。テントをより速く立てるためには、お互いに気を配り、どうすれば効率良く進行出来るか考えなくてはならない。大会に向けての課題はあるが、何はともあれ、今日泊まるテントが無事に完成したことに晴はほっとした。


 大きなザックをテントに残して、小さなザックで山に登る。小さなザックは空のまま、大きなザックに入れていた。ザック小に必要な荷物を入れる。テントの中は物で溢れ返った。

「もう、行くわよ」

 春香が痺れを切らしたように言った。

 晴達、男子隊は慌ててザックに荷物を入れて、テントを飛び出した。山靴を履き、スパッツを装着する。勝利は皆にスパッツの付け方を教えながら自分のスパッツの紐を、輪ゴムのようにおもちゃにして飛ばしていた。暫くすると春香の眉間にイライラの皺が寄り、美人の顔に凄みが出た。

 花は荷物を背負って心配そうに待っていた。染田先生は一人用テントに籠って待っている。「さ、行きましょう」と言って花が歩き出す。男子隊が横一列に歩くのを見た花は、「あっ」と言って振り向いた。

「山に向かう時は縦一列になって歩くの。リーダーが一番後ろ」

 そして、サブリーダーは一番前らしい。勝利はしぶしぶ先頭を歩いた。

「春香がいないからつまらない」

 ボソッと呟く勝利。子どもか、晴は思う。

 心配なサブリーダーを先頭に、野風高校男子A隊は列を作った。大会練習、神居尻登山は始まった。


 普通のコンクリートの坂道を登る。キャンプ場だし、緑に囲まれてはいるが、ちょっと拍子抜けする登り始めだ。

 コンクリートの道をある程度登ると、道の途中で、遊歩道みたいな道が森の中にあるのを晴は見つけた。嫌な予感がするけど仕方ない。晴は隊列に付いて歩く。隊列の先頭の花は、遊歩道に入った。道は緑に囲まれ、緩やか。コンクリートの道とはここでお別れだ。

 花は後ろを見ながら登って行く。円山を登った時よりも大分スピードが遅い。

神居尻は936メートル、対して円山が225メートル、三角山が311.3メートルだ。三角山の三倍の時間山を登るのだから、ゆっくり登るのも当然かもしれないと晴はぼんやりと思った。

 リンリン、と山道に鈴の音が鳴り響く。晴達がザックに付けている熊避けの鈴だ。熊と人が鉢合わせしないように、人間の場所を熊に知らせる。熊は本来、人を怖がる生物らしい。

 山の中は静かだ。木々や植物の微かな葉擦れの音、枝が軋む音、時々鳥の鳴き声。これが登山ではなく散策ならヒーリング効果があるだろうと晴は残念だった。

 緩やかな道がいつの間にか急な山道になっている。登山を開始して大分時間が経っている。晴は男子の様子を見た。皆、それぞれ懸命に登っているし、先頭の花によく付いて行っている。助っ人の活彦と友太は体力があるようだ。晴は微かに息切れをしていた。演劇部、侮れない。勝利は汗にまみれ、疲れが出ているように見える。だが、まだ大丈夫そうだ。晴は首に巻いたタオルで薄っすらと体を覆う汗を拭き、快調な登りを喜んだ。

 春香が休憩の合図を出したら、皆ドカッと荷物を下ろし、飲み物を口にする。晴はさっさと飲み物を飲んで、メモ帳を取り出し、行動記録を取らなくてはならなかった。天気や風向き、現在地、メンバーの状態などを記録し、大会で最後に提出する。今回はその予行練習をしなくてはならない。

「現在地?」

 晴は持って来た地形図のコピーを見た。正直、高さを示す等高線が四方八方に伸びて、何が何だかわからない。春香に現在地を教えてもらうが「なんとなくわかった」気がするだけだった。

「いいのよ、すぐに理解するのは難しいわ。こういうのは経験」

 春香が晴を慰めた。勝利は計画書を一人で作っただけあって、今の場所がどこだか、地図を見れば大体わかるようだった。

「いやあ、場所がわかる! わかるよ! オレ、天才かも」

 勝利が声を裏返しながら喜ぶ姿を見て、晴はこいつはやっぱりバカだと思おうとした。少し悔しい。

 地図と睨めっこしながら、休憩を挟む、を繰り返しているうちに、見通しが良い所まで来た。木が低くなり、下の景色を一望出来る。田畑や森の広がる、田舎の景色が広がっていた。

 山道を進むと道が狭く、より高い所を歩くようになった。途中、最後列の春香が声を掛けた。

「皆、止まって。ここが、今回降りて行くコースよ」

 心なしか、春香の声が緊張で固い。

 晴も、春香が指さした場所を見て、目を丸くしたまま固まった。

 そこはまるで砂で出来た崖だった。知る人でなければ道だということもわからない。草と砂が下へ下へと続く場所。道なき道とはこういうことか、と晴思った。

「今日は私しかいなくて危険なので、この道を行くことは止めます。大会では、ここを下って、隣のピンネシリ山とのコルまで行き、戻って来ます」

コルとは稜線上のピークとピークの間にある低い所を指すらしい。晴はまだるっこしい説明が苦手なので、コルとは高い所の間にある低い所だと覚えていた。

「行きましょう」

 春香は固い顔のまま、体を神居尻山頂へ向けた。流石の春香もまるで崖にある獣道のような登山道を見て、緊張したのだろうか。

 春香に促され、花が先頭を歩き始めた。晴は後ろを付いて歩き、汗をかいた。動いたから出る汗ではない。冷や汗だった。あの道を進んだら、ただでは済まない。今は下りずにすむことに安堵する。

 尾根という、高く切り立った細い道を歩き避難小屋に着いた。山頂は目前だった。山頂にいる人が、小さく見えた。山頂に辿り着くと「こんにちは」と声がかかる。山で人に出会ったら「こんにちは」と挨拶することがルールだ。晴達も「こんにちは」と挨拶を返した。

 丸くて大きな石碑の周りに人が集まっている。

 まただ、と、晴は思う。同じ高校生くらいの年齢の集団だった。よく見れば、大柄な先生らしき人に見覚えがある。肌の白い少年にも見覚えがあった。多分、山岳専門店で会った、あの男子生徒だ。男子生徒は晴のことを見ると、手を振った。

「そろそろ下山するぞ」

 大柄な先生がよく通る低い声で叫んだ。ザックを背負い、続々と生徒達が、晴達が来た道とは反対の方向へ進んで行く。

「またね、後で」

 肌の白い男子生徒が叫んで、手を振った。

 慌ただしく生徒達は山を下りて行った。

 丸い石碑は、方角が刻まれていて、どの方向に何があるかを示していた。隣にはこの辺りの山……「樺戸山塊」の最高峰、ピンネシリがある。晴達が住む町も結構離れているはずだが、石碑に刻まれていた。その方向を見ても町はちらとも見えなかったが。

「やっと着いたな」

 活彦が言った。

「もうお腹空いちゃったよ」

 友太の笑顔が弾む。助っ人二人は、山頂から景色を堪能する余裕があるようだった。

「やっほう!」

 汗だくの勝利が叫んだ。すぐに顔に疲れの色が浮かぶ。空元気だ、と晴は思ったが、後は下るだけだし、なんとかなるだろう。

 晴は心配な人が一人いた。花だった。さっきから景色をぼーっと眺めている。景色を楽しんでいるのならそれでいいのだが、円山で、隣で景色を見た時のすっきりした表情と明らかに違う。どこか虚ろで、捉えどころのない目をしている。

何かあったのだろうか。

 花に笑顔はなく、晴は心配すると同時に、がっかりした。やっぱり晴には笑顔の花が一番なのだ。花の笑顔がなくては、山頂の展望も、魅力が半減してしまう。

 雲一つない天気……快晴だった。景色が空に突き当たるのが見える。景色を大体、一望した晴は、メモ帳の行動記録を殴り書きした。それが終わると行動食のチョコレートを幾粒かまとめて口に入れる。食べながら、さっき友太が、お腹が空いたと言っていたのを思い出す。

「春香先生、昼食を取って良いですか」

 晴は春香に質問した。その時、晴は春香が、下に避難小屋のある方……さっき、晴達が登って来た道の方、に一人でいることに気付いた。晴達には、背中を向けている。春香の近くにいる勝利と目が合った。

「弁当、食べていいってさ」

 既に春香に許可をもらっていたらしい勝利が言った。

「皆、昼食を取ろう」

 晴は一応リーダーなので、活彦と友太に声を掛けた。

 活彦と友太は、はしゃいでいた。彼らには山もちょっとした旅行気分なのだろう。「はーい」とそれぞれ返事をすると、ザックの蓋を開いて弁当を探した。花は勝利の隣にいて、春香の様子を窺がっている。心配そうな顔の花。晴は何だかむしゃくしゃして、思い切りザックの蓋を開いた。


 おにぎり三個を食べ終え、そろそろ出発かな、と晴が思った時。

 何か不穏な声がすると思う。勝利だった。春香に何事か話している。

 春香はまだ背中を向けている。景色を見ているだけでは、なさそうだった。

「なんで祈っているんだよ」

 勝利の声は静かに怒っていた。

 またか、と晴は思った。勝利は何をするかわからない。

 花が勝利を止めている。

「知っているでしょう、大会で人が亡くなった話。こういう時はそっとしておきましょう」

「そんなの知らねーよ。一人でコソコソ祈るんじゃねえ」

「何を言ってるんだよ」

 晴は勝利に呆れて言った。春香が大会で亡くなった人を知っているかもしれないと言ったのは、勝利だ。

「ここで、あの遭難があったのかもしれないよ」

 こそり、晴が呟く。

「春香がオレに黙って、一人で祈るなんて嫌だ」

 勝利が言う。我侭な奴だ。子どもか。

「とにかく、皆でお祈りしましょう。ね」

 花が勝利をなだめた。懸命に一人で祈る春香の後ろで、三人は手を合わせて祈った。

 晴は数年前に亡くなったという、天国にいる人を想像しながら、勝利のバカを謝りたい気持ちで祈った。どうか勝利が騒がしいことを許してください。それと、花の笑顔を見られますように。

「さ、帰りましょう」

 祈り終わると、春香が既に振り返っていた。いつもの、意志の強そうな春香だ。とても長い祈りだった。やはり、数年前の遭難死は、春香にとって忘れがたい出来事だったのだろう。

 もしかしたら、ここが数年前に人が死んだ所なのかもしれない、そんな予感がした。

 晴は遭難したという人を気の毒に思い、それでも自分達が生きていることにほっとした。

 活彦と友太が近付いて来る。

「何かあったの?」

 友太が言う。

 晴は首を振った。

「出発だってさ」

 大会の下山予定ルートは、登って来た道の反対側にあった。山頂を背に、尾根道が延々と続く道を降りて行く。やがて森の中に入る。長い尾根道とは大会までしばしの別れだった。

 森を抜ける時、晴はほっとした。円山で訓練していたものの、長時間急な坂道を下るのは初めてで緊張していたのだ。登山は山頂がゴールではない。下山するまでが登山だ。そんなこと考えなくても、高所を恐怖する気持ちがあれば、デコボコの多い道を下山するのは辛い。

 活彦と友太は長い階段やでこぼこ下り坂に臆することなくポンポン歩いていた。おそらく、晴よりも山に向いている性質なのだろう。この二人がワンダーフォーゲル部にいたら心強いのに、と晴は思わずにいられない。


 キャンプに戻ると勝利はテントの中に籠ってしまった。

「勝利?」

 晴は声を掛けたが、ちっとも反応を示さず、ただ、ムスッと仰向けに寝転がっている。声を掛けてもうんともすんとも言わない。チームワークがない。

 下山したら太陽は大分傾いていたので、早速炊事が始まっていた。友太を中心に、手際よく料理は進められる。コッヘルのカレーが丁度良い濃さになる。ご飯が炊けたら、カレーの完成。今度こそ美味しそうだ。

 食事の出来た頃合いになって、やっと勝利が出て来た。

「腹減った」

 勝利は能天気に呟いた。

「料理を手伝ってないくせに」

 晴が言う。活彦と友太も心なしか視線が冷たい。

「ごめん」

 勝利は素直に謝った。

 春香が染田先生を連れて来て、皆でカレーを食べた。夜の風はまだ冷たいので、花はカーデガンを羽織り、男子は雨具を着こんでいる。染田先生はガウン、春香はお洒落なジャケットを着ていた。

 食べ終えたコッヘルは晴と花が水場まで運んだ。助っ人は疲れて眠そうになっていたし、勝利はそもそもやる気がなく、テントの中でグータラしている。この即席チームは、チームワークがなかなか生まれない。

 花は溜息ばかりを付くようになっていた。晴は花に何も声を掛けてあげられなかった。そもそも自分にリーダーシップがないからいけない。

 水場に行く途中で同じ形のテントが並ぶ所を通った。テントには「稲上高校」と書いてある。なるほど、彼らもここで泊まるのか。晴がそう思った矢先、東屋の下の水場で、稲上高校の一人……肌の白い男子生徒に会った。名前は確か、何だっけと晴が思っていると「覚えていますか。稲上高校の一年生です。白路伸久といいます」と向こうから自己紹介をして来た。

「清田花です」

 花がニコニコと伸久に挨拶したので、晴はムッとして「清田晴です」と後から自己紹介をした。

「君達も食器を洗うのかい。ここは水しか出ないからすごく冷たいよ」

 と、伸久。

 確かに水は冷たい、でも晴は自分の気持ちの方が冷たいと思った。花の笑顔は自分だけのものではない。

「隣を失礼しますね」

 と、花は伸久の隣の蛇口をひねった。

「さっき山頂で会ったけれど、君達は随分人数が少ないんだね。僕らは人数が多くて、男子は二チームあるんです」

 へえ、と晴は思う。花が話し始める前に晴が相槌を打つ。

「羨ましい。こちらは、なんか、変な噂があるらしくて……なかなか人数が増えないんです。僕ともう一人と花さんの他は、助っ人です」

 伸久は「ああ」と何か思い当たることがあったという感じで言う。

「最近高校生の山岳部が存続するのに否定的な意見もありますね。けど、僕はルールを守れば山の安全は確保されると思いますね。まあ、お互い頑張りましょう」

 一年生のくせに偉そうな口ぶりだなあと晴は思った。伸久は手を振るとコッヘルを抱えて自分のテントに帰って行った。

「大会でまた会いましょう」

 大声で見送ったのは花だった。晴の心は何か不調を訴えていた。晴がはあ、と溜息を付く。花はそんな晴を見てちょっと笑って言った。

「ねえ、散歩に行かない。少し疲れたでしょう」


 「気分転換」と言う花の横に並んで、晴はコンクリートの道を登った。コッヘルは両腕に抱えたままだ。先へ進むにつれ、星がキレイに見える。緑の森は、今は黒く壁になっている。だが、その隙間から見える星は、学校で見た時よりも数が多い。

 どこまで歩くのだろう。道の先は暗くて花の顔が見えない。

「ここの夜空もキレイだなあ」

 晴はさっきから続く不思議ともやもやした気持ちを吹き飛ばそうとして喋った。

「花さん、何か話したいことがあるの? 花さんも疲れていると思うよ」

「あ、ごめんね。心配させちゃったかな」

「いいえ、さっきカレーを食べる時に静かだったから……」

 勿論、静かだったのは花だけではない。皆静かだった。疲れているのだ。

で も花のいつもの体力からすると、喋らなかったのは別の理由があるからではないかと晴は思ったのだ。準備の時、はしゃいでいた花が静かであるのは不自然だと思った。

「うーん、疲れてはいるかな。だって、ここは……」

 花は喋るのを止めた。静かな間が訪れた。次に花が言葉を繋いだ時、晴は頭が真っ白になった。

「去年、私が振られた場所だから」

 突然、星空が遠くなったように晴には思えた。黒くなった森が晴の心を飲み込む。なぜこんな気持ちになるのだろう。吐き気がして来た。汚れのないもの……花。ポツンと遠くにある街灯が花の顔をくっきりと照らし出す。

 「振られた」と言った花の顔は美しかった。振られてしまったことが不思議なくらいに。

「私ね、先輩と付き合っていたんだけれど、先輩は私と付き合うちょっと前まで、茜先輩っていう先輩と付き合っていたの。茜先輩、私が先輩とデートした話とかしても、ずっと笑って聞いていて……。私、知らなかった。先輩と茜先輩が付き合っていたこと。だけどね、きっと、罰が当たったんだと思う。私が二人の仲を引き裂いたから」

 晴は吐き気をぐっと押さえた。ここで、吐いてはいけない。絶対に、駄目だと思って、花の手をぎゅっと握ろうと思った。

 握ろうとして、晴は止めた。

 晴は自分が汚れていることを思い出した。

「私と別れてから、先輩と茜先輩はまた付き合い始めて……でもいいの、ちゃんと付き合っていたかって聞かれると、なんて答えたらいいかわからないくらいの付き合い方だったから……今は、もう良くなったの。晴君がいて、勝利君がいて、手伝ってくれる人達がいて、ワンダーフォーゲル部がある。私、ワンダーフォーゲル部が本当に好きなの」

 花は笑った。最後の言葉だけ、きっぱりとした言い方だった。ワンダーフォーゲル部を、花は大切にしている。どんなことがあっても、花がワンダーフォーゲル部を見捨てることはないだろう。晴は、花のそんなワンダーフォーゲル部に対する一途さを、美しいと思った。

 どんなことがあっても、花は汚れがないもの。ワンダーフォーゲル部は、花にとって神聖なものだ。ならば、と晴は思った。どんなことがあっても花とワンダーフォーゲル部を守ろうと。

「花さん、どんなことがあっても僕は花さんを守るよ」

 晴はそう言おうとしたが、急に気恥ずかしくなったので代わりにこう言った。

「頑張りましょう。僕は大会を成功させたいと思っています」

「ありがとう、晴君」

 花はポツリと呟いた。晴は花の頬が少し光った気がしたけれど、気のせいかもしれないと思った。

 二人で、テントに向かい、帰るのが遅いと春香に怒られ、晴と花はそれぞれのテントに戻った。

 静かに夜が更けていく。イビキくらいしか物音はしなかった。晴は花の話と、花が本当は泣いていたかどうかをじっくりと思い返していた。するといつの間にか眠り、花の笑顔が見えた。「優勝おめでとう」と花は言った。瞼を開けた。朝になっていた。テントの布越しに朝日を感じた。「夢か」と晴は思った。でも、大会本番まではもうすぐだった。

 汗をかいていた。冷や汗だ。気分が重い。晴はプレッシャーを感じていた。

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