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濃厚カレーはいかが?~宿泊練習

「あら、少し顔色がいいですね」

 教室で、佐藤先生にそう言われて、晴は、ふふんそうだろう、と内心思いながら「そうですね」と遠慮がちに小声で答えてみた。

「良い、良い、それが青春です」

 と、よくわからないことを言いながら、佐藤先生はルンルン気分といったふうで職員室に帰って行った。

 晴は昨日の放課後、ランニングもそこそこにまた山岳専門店に買い物に行った。

 それはそれは大量の買い物で、部費だけでは賄いきれず、個人のお金を沢山使った。高額で、晴がそれまで経験したことのない買い物であった。

 勝利も買ったが、部室の装備で彼の場合何とかなったので、晴ほど高額の買い物ではない。

 勝利は、登山専用の雨具と、食器セット、コンパス、寝袋、小型のメモ帳、ホイッスルを買った。

 それに加えて、晴は登山用の服一セット、スパッツ、ザックと呼ばれる登山用リュックサックを大と小、ザックに雨天時被せるザックカバー、ヘッドランプ、インナーシーツと言う寝袋の中に装備するシーツと、シュラフカバーと言う寝袋の外を保護するカバーを買った。

 相当の値段がする物を大量に買いたいと両親に告げた時、彼らは戸惑った。

「ワンダーフォーゲル部? いつからそんな危険な部活に入ったの。それに晴にはそういうモノは駄目なんじゃ……」と、母。

「まあ、いいじゃないか、これで晴の病気が良くなるなら……。自然の中なら、きっと良い療養になる」

 という父の許しによって、十万円を渡された晴だった。

「何事も経験する方が良い」

 最終的には両親共に、同じ意見になり、高額な買い物にも、特に何か小言を言われず、許されたのだった。

 新品の道具が揃った。佐藤先生に負けないくらい晴の気分はルンルンしていた。

 装備はばっちりだ。これでこの間のようなことにはならないぞ。

 部室に行くと勝利がいて、既にジャージに着替えて待っていた。

 花はまだ来ていない。今のうちに、と、さっとジャージに着替えた晴。

 そこに花がドアを開けてやって来た。

「家庭科の補修があるから、少し遅くなります。先に走っていてね」

 と早口で言うなり、またドアを開けて去って行く。

 花の髪からシャンプーの匂いがしたのだろうか。何だかいい匂いがしと思ったら、すぐに消えた。

 家庭科に補修なんてあるんだろうか。晴は不思議に思った。

 勝利は「へえ、花ちゃんも補修を受けることがあるんだ」と言い、深く考えた様子もなしに「じゃ、ランニングに行こうぜ」と言った。

 正面玄関まで来ると小雨が降り始めた。

「おい晴、お前、小雨は大丈夫か」

「大丈夫だけれど、出来ることなら雨は避けたい」

「オレも、走るのは面倒臭い」

 晴と勝利は無言で頷き合い、部室に向かって歩いていた。

「鬼さんこちら!」

 何だか不思議に懐かしい言葉が聞こえたような気がして、晴と勝利はまた無言で顔を見合わせた。

 ダダダダダと、床から音が響いた。

 ばあん! という音がして、晴は腹と尻に痛みを感じた。

「わっ!!」

「イタタタタ……」

 尻餅を付いた晴の前で、同じく尻餅を付いていたのは……。

「うん? こいつは誰だ?」

 勝利は背の低い男子生徒の首根っこをつかんだ。目を回しているらしい。

 確か、男子生徒の名前は、活彦。いつも晴と競争をしている演劇部部員だ。

 勝利は活彦のジャージの襟を引っ張って、持ち上げたまま「お前、これはどういう訳なんだ?」と聞いた。

 活彦は、ハッと気づいて、反応を示すと「ごめん……イテテテ……」と言った。

「何していたんだよ?」

 顔の表情が怒っているが、晴は本当は勝利が怒ってなんかいないことを知っている。だって、口の片端がにやけている。

「あああ……いや、その」

 演劇部を騙す演技力で、勝利は活彦から「訳」を聞き取った。

 ホームルームが終わり、演劇部一年生が外に出ると小雨が降っていた。雨の中走るのは怠いし面倒臭い。しかし練習をさぼると先輩に怒られる。校内を走ることに変更したが、ただ漫然と走ることに飽き、どうせだったら楽しく走りたいと、鬼ごっこが始まった。

 「へえ、皆でさぼっていたってことか」と勝利。

 演劇部の一年生は男ばかりで現在五人いるらしい。活彦の周りに怯えた顔の演劇部一年生達が集まった。どうやら活彦は演劇部一年生の中で一番背が低く、一番精悍な顔つきをしているようだ、と晴は思った。

「どうぞ、このことは内密に……」

 集まった演劇部一年生が言った。

「へいへい、言うつもりなんてないね。ま、オレらもさぼろうとしていた所だし」

 勝利は活彦の襟をそっと離した。

 ふう、と演劇部一年生が溜息を付いた。

「あの……良かったらご一緒しませんか」

 一番大きな体の生徒が言った。人の良さそうな顔をしているな、と思う。

 晴と勝利は目を合わせ、即決した。

 鬼ごっこ! 何だか、わくわくするよね。

 かくしてワンダーフォーゲル部と演劇部一年生の『合同練習』、通称鬼ごっこは始まった。

 校舎の四階で放課後鬼ごっこをする「おバカ」等他にはいなかったし、生徒は皆帰っていたので、廊下は使い放題だった。

 じゃんけんをして負けたのは……。

「よし、オレが鬼な」

 勝利が声を上げた。

「十数えたら開始な。行くぞ、一、二、三……」

 一斉に散らばる烏合の集。

 誰かにタッチしたら、そいつが鬼。いつもそれぐらいスピードを出せよと思うくらい猛烈な勢いで駆けて来た勝利に晴は捕まり鬼になったが、後はずっと逃げる側だった。晴も勝利も結構すばしっこいのだった。

 一番鬼になることが多いのは体の大きな生徒で、友太という名前だった。

 鬼になっても「あ、捕まったよ」と笑って皆を追いかける。「はあー、疲れたなあ」と言って姿をくらましたと思ったら、角の向こうで待ち伏せをしていて、晴は体をひねってとっさに逃げた。

 ちなみに晴はタッチをされそうになったら、手を鬼から遠ざけて、素手と素手が当たらないよう注意していた。

 ジャージを着たまま走るのは辛いが、他人に触れられても、布越しで、一瞬であるなら、吐き気等も起きないらしい。

「捕まったー」

 勝利に鬼が回って来た時だった。

「こらー!」

 女子が叫んだ。花だった。

「もう、二人共、今日はランニングしててって、言ったのにっ!!」

 気付けば相当な時間が経過していた。

「誰?」

 活彦が聞いた。

「オレらの先輩、花ちゃん」

「花さん、これには事情があって……というよりも成り行きで……」

 晴が言い訳しようとすると「怒ったんだからー」と言って、花はぷんすか可愛らしく怒って見せた。

「さ、部室に戻るよ」

 花がぷりぷり怒ったまま部室に戻って行くと、演劇部員は「俺達も戻ろうか」と言って、戻って行った。

「これからミーティングだって」

 ドアを引っぱりながら花が言う。

「はー疲れた」

 晴と勝利がドザリと椅子に座る。

「ランニング、さぼったのに!」

「お腹空いたなあ」

 勝利の言葉に花はウキウキした様子で鞄から可愛らしい模様の入った袋を取り出した。

「あ。良かったら……」

 紐をほどき、中からクッキーが出てくる。

 ほお、と男二人は思わず声を上げた。

 うさぎや鳥の形をしたクッキーは香ばしい焼きたての匂いがする。

「手作りクッキー! いいなあ。こういうのを待っていたんだ、オレ達は」

 晴は思わず何度も頷いた。

「どうぞ」

 晴は花にはこういう女の子らしい物が似合うと思った。

「いただきます」

「ラッキー」

 晴は大切そうに、勝利はヒョイとクッキーをつまんだ。

 二人の笑顔が強張るのにはそれほど時間はかからなかった。

 沈黙が訪れ、晴と勝利の顔が次第に青ざめていく。瞳を輝かせて見守っていた花の表情が曇った。

「どう?」

「なんというか……すごく個性的な味がする……珍味っていうか……」

「適当なこと言うなよ。花ちゃん何これ? オレ達を殺す気ですか?」

 花は不安そうにクッキーを一枚かじった。

「うわあ、なんか、クッキーなのにクッキーでない味がするような……」

「自分で言うなよ」

 勝利が突っ込みを入れた。

「ごめんなさい……」

 そういえば、花は家庭科の補修に出ていたのだっけ、と思った晴は「人には苦手なこともありますよ」と言って花を慰めた。

「練習すれば、きっと上達するよ」

「練習っていうか、そういうレベルかな、これ」

 勝利の言葉は厳しい。晴は、勝利を睨み付けながら「何事も練習すれば上手くなるって」と言う。

「お前、本当に何事も練習すれば解決すると思うのかよ」

 晴は自分の潔癖のことを思い、悩んだ。しかし一瞬で気持ちを切り替え「いつかは信じれば良くなるものだよ」と言った。いつの間にか自分に言い聞かせるように言っていた。

 「ふーん」と勝利。

「ごめんなさい……ごめんね」

 花は恥ずかしそうに、クッキーの袋を閉じた。

 そこに、染田先生がやって来た。ドア窓に顔を出した染田先生は、音楽室の肖像画のように不気味だった。

 がらがらがら……。ドアをゆっくり開ける音がなぜだか不吉の前触れのように響いた。

「皆さん、ミーティングですよ……」

「あ、染田先生、今机を出します」

 不味いクッキーのショックが大きかったのか、ぽーっとしている花が我を取り戻す前に、晴が答えた。

 机と椅子が五脚ずつ並び、染田先生の隣の席が空いた。春香がまだ来ない。

「春香の奴、まだかよ」

 教育実習生を奴呼ばわりし、勝利は不満を言う。

「春香君は、用事で今日は来られないでしょう……」

 染田先生が呟くように言う。勝利はあからさまにやる気のない顔になった。一方、花はどこか放心した顔のままだ。

「えー、今日の話ですが……、大会の参加申し込みを明日提出することをお知らせに来ました……大会は六月の初め、平日です……それと」

 染田先生が吐くいつもの溜息が大きくなる。

「大会ではテントで宿泊するため、テントで宿泊する練習をする必要があるというのが、春香君の見解です」

 溜息がより一層大きくなった。染田先生は練習をしたくないようだった。

 放心の花に代わって、晴は皆が知りたいことを聞いた。

「いつ、テントで宿泊する練習をするんですか」

 染田先生は一息置くと「明後日の放課後です」と言った。

 晴と勝利は一瞬で固まった。急すぎる計画だった。しかもテント練習の日は普通に授業がある金曜日だった。

「どこで泊まるんですか」

「ここです」

「はい?」

 思わず晴は聞き返した。

「ですから……学校でキャンプをします」

 学校でキャンプ……放課後とは言え、部活動の生徒達の注目を集めることは間違いないだろう。

「ていうか、まだオレら何の準備もしていないんだけれど」

「ですから、部長を中心に明後日の準備をして下さい」

「マジ!?」

 染田先生は勝利の溜口を無視し「他にも大会までに準備が必要であれば、皆さんお願いしますね」と言葉を続けた。

 花はゆっくりと頷いたが、まるで機械仕掛けの人形のようだった。

 晴と勝利があっけに取られたまま、染田先生は一人ふらふら立ち上がり、のそのそと静かにドアを開閉して去った。部室の中がしんとした。

 沈黙を破ったのは勝利だ。

「で、どうするんだ」

 花はまるでまだ半分、眠りの世界にいる人のように「えーと、どうしよう……」と曖昧に呟いた。

「おいおい、大丈夫かよ、部長さん」

「すみません……まず、装備を何とかしないと……はあっ!」

 花は立ち上がって歩こうとして、椅子につまずき、椅子ごと倒れた。

「花さん⁉」

「大丈夫……テントで宿泊する練習の準備。そして、大会の準備も一緒にしないと」

「大会の準備って? どんな準備なんですか?」

 晴が聞いた。花が床から立ち上がる。椅子を引っぱった。

「大会では山に登るだけでなく、色々な採点基準があるんです。大会用の計画書とか、テントを設営するスピードとか、筆記試験とか、色々なことに点数を付けられて、総合得点で優勝が決まります」

 ただ登る速さで順位を決める訳ではないのが意外だと晴は思った。

「オレ達は大会の審査対象にはならないんだよな?」

「来年のための訓練だから……ちゃんとやらないと」

 思ったより準備が大変そうだ。円山、三角山と、地元のハイキングコースでさえ準備不足が目立った晴達にそれが出来るかどうか、晴は不安になった。

「えーとえーと」

 花は今目覚めたばかりの子供のように何をしようか困っているようだった。山道具の入ったダンボール箱の間を躓きながら歩いている。

 勝利は何を思ったのか、窓際へ行き、過去の計画書や諸々の資料が無造作に入れられた引き出しを開けたり、閉めたりしている。

 晴はタオルで先程の鬼ごっこの汗を拭き取った。

「お、これを見たらいいんじゃないか」

 勝利が引っぱり出したそれは、一冊の古びたノートだった。

マジックで「大会やることノート」と書いてある。

「お」

 晴と勝利は1ページ目を開いた。


〈常にやること〉

 体力をつける

 天気図を書く

 山の知識を習得する

 道具の整備

 道具の使い方を知る


〈大会前にやること〉

 大会の山や周辺地理について調べる

 大会の山に登って練習する

 必要な道具を揃える

 計画書を書く

 テスト勉強

 テントの設営練習


 体力をつけること以外、殆んどやっていない。

 花はふらふらしながらノートを覗き込み、そして、手をグーにした。

「まず、ここにかいてあることの前に明後日のキャンプの準備をしましょう。そうすれば、ここに書いてあることの幾つかも自然にチャレンジすることが出来ます」

「準備といえば計画書だよな……」

 勝利の言葉に、晴も頷く。円山と三角山の登山を思い出した。いつも、計画が足りなくて山で誰かが嫌な思いをしている。今回は山には登らないとはいえ、キャンプだし、それなりに準備は必要だろう。しかし何か考えているのだろうか、肝心の花はぼーっとしていた。

「花さん……?」

 花のうるうるっとして焦点の定まらない目が、はっきり晴と合う。花は顔を赤くして驚いて、晴がいることに今気付いたような顔をした。水浴びをした犬みたいに花は何度も首を振った。

「そうだね、計画書は皆で作りましょう」

「じゃ、やるか」

「うん、そうしよう」

 三人が机に向かった。

 引き出しの中にあったレポート用紙に、前回同様、花が定規で線を入れていく。線で作った囲みの中に題名を書き、参加者の名前を書き、連絡先を書き、装備する道具を書いていく。書きながら、装備は今ある物で足りるかどうか、ダンボール箱を開けて確認しなくてはならなかった。晴が過去の計画書を読み上げて手伝ってはいるものの、事実上、殆んどのことを花が一人でやらなくてはならなった。

 晴はワンダーフォーゲル部のことを勉強しようと、過去の計画書を手に、時々花に質問をした。

「行動食って何?」

「おやつのこと……山で食べて、元気を出して、さあまた登りましょうっていう、エネルギーの源になるの」

「コッヘルって何?」

「調理する時に使う鍋みたいな物……」

「非常用品って何が必要なの?」

「救急セット。薬とか体温計とか消毒とか包帯とか……あとは緊急用のロープとか裁縫セットとか靴紐とかもいるかな」

「非常食も必要ですね」

「非常食は腐らない、長持ちする物がいいの……非常食は『個人装備』の方に書いておくね」

 花は晴が読み上げたことを参考に、下書きを書いていく。勝利はいつの間にか机から離れて引き出しの横に座り、本を読んだり冊子を読んだりしている。

「これでいいのかな……」と言い、花は晴に下書きの紙を渡した。

「一応、今回必要な物は書いたので……大丈夫なんじゃ」

「清書しないと」

 花は筆箱からペンを取り出した。晴は花に紙を返す時、気付いた。花は何だかぼーっとして、顔が火照っている」

「大丈夫ですか? さっきから様子が変ですよ」

「うん……大丈夫なの……多分」

 風邪だろうか。晴は立ち上がり、ダンボール箱の間に立った。

「体温計どこですか、あるんですよね」

「どこかにあったんだけれど……」

 ダンボール箱を開ける度に、舞い上がる埃に晴は難儀した。ポケットからマスクを取り出す。

「勝利、体温計を一緒に探してほしい、んだけれど……」

 ふと見ると、勝利は鞄を肩に掛けて帰ろうとしていた。

「おい、計画書はまだ終わっていないぞ」

 勝利はどこか呆れた顔をした。

「この調子じゃあ印刷するのは明日だろ。オレは図書館に行かないと」

 一瞬、何のことを言ったかわからなかった。図書館だって?

「嘘つけ」

「中央図書館に行くんだよ、あそこなら広いし、勉強にはサイコー」

 中央図書館は学校からかなり離れた所にある大きな図書館だ。

「なんで図書館なんか……」

「こう見えても努力家なんです、オレは」

 今最優先するべきことは何だ。晴は少しイラッとした。

「さよならー」

 能天気にドアを開けて出て行く勝利を、晴は追いかける。

「おい! 勝利!」

 階段の途中で晴は勝利に追いついた。

「大会近いんだから、こんな時くらい手伝ってくれたって……それに花さんが」

「オレは、大会が近いから勉強をするの。お前、テストいつだか知っている?」

 テストと言われて、晴の頭はポカンとした。テストなんて気にもしていなかった。そうか、テスト、あるんだったな。

「知らない」

 勝利は溜息をついた。

「大会の五日後だってさ」

 晴は頭が真っ白になった。テスト週間が始まっている時に大会がある。

 勝利はじゃあねと言うと、靴を履き替え、引き戸を開けて行ってしまった。引き戸を開けた瞬間入り込んだ風はまだ春らしさを残し、冷たかった。

 その日、晴は何とか埃と戦いながら体温計のはいったタッパーケースを発見し、花に渡した。体温計は平熱を表示しただけだった。花は計画書を書くと、ふらふらして自転車に乗り帰って行った。


 翌日の放課後、部室には花も勝利もいなかった。いくら待っても誰も来ない。そこで晴は鞄から教科書を取り出した。大会の五日後にテストがあるのなら、大会の準備が本格化する前に、少しでも勉強をしておかなくてはならない。だが、おもむろに開いたページはちっとも頭に入って来なかった。眠気がする。もう少しで、うとうとする……もう少しで寝てしまう……。

 晴を起こしたのは滑舌の良い、はっきりとした声だった。

「晴、よ! 元気?」

 振り向くとドアがひらいていて、演劇部の活彦が立っていた。片手をドア枠に、もう片方の手を腰に当てたその姿は、なかなか決まっていた。背が低いとはいえ、顔が良い。流石は演劇部といった所か。晴は、はっきりと目覚めた。

「今日は走らないのか?」

 活彦が日頃の発声練習で鍛えた声で言う。

「あ、君は走るの? それともまた鬼ごっこ?」

「今日は晴れだからなあ、面倒臭いけど走ることにするよ」

 活彦の苦笑いは、高校生なのにニヒルで恰好良い。でもその恰好良さも一瞬で、すぐに同級生らしい人懐っこい顔に戻る。

「晴は走らないのか? なんだか相手がいないとやる気出なくて」

 テスト勉強があり、キャンプや大会の諸々の準備がある。走る暇などないと思い焦るが、誰もいない部屋では寂しいし、むしゃくしゃするし、何よりやる気が出ない。ランニングをしたらそんな思いを振り切ることが出来るかもしれない。

「今、行くよ。待ってて」

 ジャージに着替えた晴と、活彦は二人で玄関に向かう。

「他の人達は?」

「先に行ったよ。今日のランニングも一年だけだから。結構自由なんだ」

 校舎前からいつものように競争を始める。

 畑を走り、林の横を走り、住宅街に入り、川を越え、工業地帯を走り、隣町を走り、また学校に戻って来る。

 校門から校舎までは競争で、まるで短距離みたいに二人共速くなった。今日の勝者は活彦だった。活彦はばんざいをした。晴は階段に座り込んだ。

「今日、なんか元気ないなと思ったけど、やっぱり俺が勝ったな」

 焦りをなくそう、むしゃくしゃする気持ちを吹っ切ろうとすればするほど、そんな気持ちを振り切れない自分を意識してしまい、呼吸が乱れた。

 息を切らし、汗を流しながら、晴は最後の走りで体力を消耗していた。

 負けた悔しさを慰めるように、そよ風が吹く。顔にそよ風が当たり、気持ちよかった。

「今日はまだ部室に誰も来ていなかったし、何か、少し寂しかったのかも……」

「そっち、三人しかいないもんな……」

 活彦がわかる、と頷く。

「大会の準備、結構大変なんだけれど、大変な思いしても人数足りなくて正式には参加出来ないんだ。記念参加みたいな」

「記念参加……それはキツイな」

「まあ、僕はいいんだけれど、先輩は大会にちゃんと参加したいみたいで」

 晴はいつの間にか愚痴を言う自分に気付かなかった。活彦は頷いたり、返事をしたり、熱心に話しを聞いてくれた。とても話しを聞くのが上手なのだ。

「あーあ、テストがあるし、大会は記念参加だし、なんだかすっきりしないなあ。ワンダーフォーゲル部は、来年にはなくなるかもって話もあるし」

「うん。晴はどうなの? ワンダーフォーゲル部を続けたいのかい?」

「続いた方が良いと思うけれど……」

 先生達がワンダーフォーゲル部を良く思っていないことを知っている今、部の存続は難しいことだと晴は気付き始めている。ひょっとしたら、これが、晴にとって、花にとっても、最後の大会になるかもしれないのだ。

「続くのは、難しいことだって思う。先輩のために、本当は正式に大会に参加出来た方が良いんだろうな……」

 晴は、花のことを思った。花は実は結構不器用だけれど、花なりにワンダーフォーゲル部を存続させようと必死だった。

 活彦は少し黙り込んだ。晴は暗いことを話してしまったと思った。話さなくて良いことまで話してしまっただろうか。

「ごめん、こんな話して」

 晴は謝った。

「あのさ、ひょっとして」

「え?」

 視線を上げ、活彦の顔を見た。

「その大会、俺が出たらいいんじゃない?」

「え?」

 突然のことで晴は驚いた。何を言うんだ?活彦は……。

 だって、いくらいつも一緒に走っているとはいえ……。

 晴は固まった。そう、走っている。一緒に、訓練をしているんだ。

「でも、演劇部は」

「勿論続けるけど、助っ人ってことで大丈夫だと思うんだ」

 晴は首を振った。

「大会は、男子は四人必要なんだ」

「友太にやらせればいいよ」

 鬼ごっこでいつも鬼をしていた、体の大きな生徒のことだ。

「それ、マジ?」

「真剣。マジな話。演劇部はまだ大会ないし」

 頭の中が真っ白になり、次にぐるぐると色んな考えが廻った。

 大会に出るのは大変なことだ。正式参加出来たら、花は喜ぶだろう。けれど……自分達の負担は増える。活彦達にも負担を負わせてしまう。何とかすると決めたけれど、もし、また三角山で起きたようなことになってしまったら。

 晴は悩んだ。ワンダーフォーゲル部に入部してから、今までの出来事を思い出し、考える。

 決め手は、自分の頭の中で微笑む、花の姿だった。

「今、話してくる」

 晴は後ろを向いて、走り出した。

 職員室は二階だ。

「失礼します」

 入室し、いつもの椅子が、空なのを見て、晴は職員室の中にある小さな事務室に入った。

「待って下さい!」

 コピー機の前で、晴は染田先生の手を止めた。

「え?」

 染田先生は石のように固まった。丁度、染田先生は人差し指でFAXボタンを押す所だった。

「申し込むコースを変えました!」

 職員室の横であるに関わらず、晴はさけんだ。

「特別参加ではなく、大会に正式参加しましょう!」


「これは驚いたわねえ」

 春香は大会の参加申込書をまじまじと見つめた。


 〈野風高校ワンダーフォーゲル部男子A隊〉

  清田晴

  沢ノ宮勝利

  元活彦

  遠井友太

 〈特別参加〉

  野風花


 活彦が助っ人を申し出てくれた日の、翌日のミーティングだった。今日は学校で、テントで宿泊する日でもある。

 大会の参加申込書に名前を書くことを、本人達と演劇部から了承を得た。

 演劇部部長は、活彦と友太が助っ人になることを快諾してくれた。

「演劇では、色々な経験を糧にする必要がある。演劇部のために、勉強させてもらって来い」

 その言葉に感動したのは花だった。瞳がキレイに輝いている。

「演劇部の部長さんて、凄い良い人」

 晴は花の言葉に同調しながら、なんだか今まで味わったことのない思いをした。花が喜んで嬉しいんだけれど、嬉しくない。なんだか変だぞ。テスト勉強が進まないせいかな。

 晴のもやもやした気持ちを打ち切ったのは、春香の質問だった。

「この二人……元君と遠井君は、今日のキャンプには参加するの?」

 晴は昨日の夜、二人から電話をもらっていた。

「親の了解を得たと言っていました。寝袋は家にあるそうです。諸々の道具は物置にあるみたいだし、後は雨具と山靴だけです」

「雨具と山靴は、部費で購入するよう染田先生に頼んでみましょう。正式に許可が降りたら、FAXを送信しないと」

 申込書の期限は今日だった。まさに、ぎりぎりで起きた奇跡。

「さて、では今日のキャンプについて」

 春香が話しを区切った。

 昨日完成した計画書を、皆に配る。

「計画書に共同装備が書いてあるけれど……肝心な物を忘れているわ」

 計画書を指さしながら春香が言った。

「え……」

「何ですか?」

 晴と花はきょとんとした。計画書は見直しをして、自分達なりに完璧に作ったつもりだったのに。

「ご飯はどうするつもり?」

 春香は真剣に、でもどこか可笑しそうに笑う。

「あ!」

 花が口に手を当てた。

 晴は首を傾げた。

「コッヘルとガスとストーブがあれば……あ」

 晴も気付いた。食事を作る材料がない。

「今日、何を作るか考えていた?」

「考えていませんでした」

 晴は落ち込んだ。

「それから。花、装備の点検はした?」

「装備はあるかどうか点検したつもりです……」

 自信なさそうに花が答える。

「うん、そうね。だけどね、道具の使い方をちゃんと後輩に教えた? テントはちゃんと防水をしてある? 古い道具は使えそう?」

 目をうるめて、花は俯いてしまった。

「すみません、ちゃんと点検していません……」

 花は力が抜けたように落ち込んでいる。それでもはっきりと、春香は言う。

「そうね、まだまだ点検することが一杯あるわね。食事については染田先生に相談してあるから、誰か職員室に行って部費をもらって来てね」

 俯いたままの花に、春香は声を掛ける。

「気付いたのが学校のキャンプで良かったわ。山に行ってからでは間に合わないことがあるからね」

「はい」

 少し涙目で花が頷く。

 今回はやることが一杯あるようだ。どうしようかと思っていると、部室のドアを開けて、登場した人物を見て、晴はほっとした。

「おい。今日、お前は助っ人を連れて買い物な」

「へ?」

 いきなり声を掛けられて素っ頓狂な顔をした勝利だった。


 勝利は買い物に助っ人を連れて行くため、演劇部の部室へ向かった。

 勝利達が買い物をしている間、晴と花は装備を点検しなくてはならない。

「テントを立てましょう」と花が言い、二人は荷物を持ち、裏庭に行った。

 裏庭は芝生のある小さな空間で、片隅にワンダーフォーゲル部の物置がポツンと立っている。

 芝生の上に、持ち物が無造作に置かれる。丸い布製の袋が二つ、そして細長い袋が二つ、ハンマーと中身がじゃらじゃら音がする小さな袋が二つだった。

 晴と花は軍手を装着して、丸い布製の袋を一つ開けて、中の物を取り出した。

大きな布が二つ、波打って出て来た。それを広げるだけで晴は大変だった。外だからまだ大丈夫だが、晴はマスクをしていれば良かったと、年代物の大きな布を広げながら思う。

 埃を飛ばしながら袋から出て来た物は、テント本体と、テントの上に被せる防水用のテントカバーだった。

 テント本体の通しに、ポールと言うテントの骨を組み立て、通す。小さな穴にポールの片方を引っ掛けて、反対側の穴のある所を持ち、引っ張る。テント本体とポールが一体になり立ち上がった。立ち上がったテントは四角錐の側面が丸みを帯びたような形をしている。

 二人でテントカバーの両端を持ち、テント本体の上に被せる。留め金をテント本体の、留め金用の穴に通す。

 テントが風で飛ばされないように、ハンマーでペグという大きな釘みたいな物を地面に打ち付けながら、二人だけでテントを立てるのは大変だと晴は思った。晴は汗をハンカチで拭った。

 晴と花は、二張りのテントを張った。

 完成したテントの中は、四人が横になれば一杯になるくらいの広さしかなかった。

「どこかに不備はないかなあ……」

 テントの中を覗いている晴の周りで、花はあちこちを点検していた。

 晴は入口のチャックを開けたり、閉めたりした。入口に問題はなさそうだ。

 最後に二人で防水スプレーをかけた。古いテントだから防水をしなくては大変なことになるらしい。

 時刻は夕方の五時近く。晴と花はテント泊に必要な物を部室や物置からテントに移した。

「テントの中はキレイにしてね。使わない物はザックの中に入れておきましょう」

 晴は自分の新しいザックに、古い荷物を入れること自体、抵抗を感じた。が、大会本番では『共同装備』を分担し持たなくてはならない。晴にとっては、古い荷物をザックに入れなくてはならないのだ。

 どうせザックは山でしか使わないんだ、エイッと決意して、古い荷物を新しい自分のザックに放り込んだ。晴個人の荷物は厳重に袋に二重にして入れてあるから、幾らか気分はマシだった。

「料理の準備をしましょうか」

 花は荷物の中から調理器具を取り出した。

 晴がガスとストーブの使い方を教わっている時。

「やっと着いたー」

 両手に買い物袋を提げた勝利と、助っ人の二人……体が大きい方、友太は肩に米袋を背負っている……が登場した。


「あー、やっぱキャンプと言えばカレーだよなあー」

「味見ばっかりしていないで、少しはあく取るの手伝ってよ」

 リラックス全開の勝利に、晴れは苦言を呈する。

「味見って……まだ火が通ってないんじゃあ……」

 活彦は恐る恐る勝利を見ている。

「うん、うまい」

 もう一人が鍋を囲み、箸でつついている。

「友太も食べ過ぎなんだよ! しかも、ジャガイモばっかり! ジャガイモなくなったら友太のせいだからな!」

 活彦が友太に叫ぶ。活彦と友太は仲良しだった。

 ガスと、ストーブと呼ばれる着火装置を連結させ、火を起こしたのは数十分前。コッヘルと呼ばれる鍋の中の水はとっくに煮立ち、ストーブの火は弱火だ。そろそろジャガイモに火が通り始める頃か。

 ところで、カレーになる予定のコッヘルに群がっているのは、もっぱら男子だった。唯一の女子である花は……と言うと、別のガスとストーブを連結させ、火を点けている。ご飯の入った鍋がぐつぐつ言うのを、一人、見守っていた。

 最初、調理を始めた時にリーダーシップを取ってガスストーブの使い方を教えていた花だったが、今は友太にリーダーを取られてしまっている。

 一年生男子が調理器具の使い方を学んでからは、友太の器用さが花の不器用さより頼りになることは明白だった。野菜の皮を剥く時、剥いた後の皮が薄く細くなる友太と、どっちが皮だか実だかわからないくらい分厚く皮を剥く花。玉ねぎを切る時、均等の大きさになる友太と、涙で目をつぶり、指を切り落としかねない花。火を点けた後、水入りの鍋にすぐさまルーを入れようとする花に皆が仰天し、必死の形相で止めた。

 花は一人、友太が手際良く研いだ米の鍋を、じっとしゃがんで見ていた。いじけた花の様子に、晴は何か言うべきか、言わないべきか、ちらちら様子を窺がって思案していた。

 すると、花が何か決意の表情で、塩の瓶を持ってこちらを振り向く。真剣な目をしている花の表情を見て、晴の勘が働いた。花を止めなければならない。

 その時「えーっと、野風さんだよね」と、活彦が立ち上がり、花に声を掛けた。

「は、はい」

 突然声を掛けられた花は身構える。

「花さんでいい?」

「え、うん……」

 花は気の抜けた顔をした。

「先輩なのに皆名前で呼んでるから、俺もそう呼びたいなって思ってね。花さん、優しいね」

「いえ、そんな……私は、春香先輩みたいに頼りになる先輩じゃないし……」

 照れたように両手をぶんぶん振る花。塩の瓶もいつの間にか手から離している。

「そんなことありませんよ。そうだ、いつも図書室にいますよね、本、好きなの?」

 背は低いがイケメンな活彦と、可愛らしい花。二人が近くにいるのを見ると、美男美女で絵になる。晴はキレイなものが好きだけれど、これは駄目だ、と思った。

「そろそろルウを入れてほしいな、活彦君」

 晴は我ながら低い声が出たと思ったが、活彦は気にも留めずひょうひょうと笑う。

「料理は友太に任せておけよ、コックみたいなもんだもんな、あいつ」

「え、でもそんなの悪いよ。私、やっぱり手伝う」

 花は何か言う隙を与えず、友太と勝利が残るコッヘルにとことこ近付き、ルウをどばどば入れ始めた。

 友太は目を大きくして、遠慮がちに圧倒されている。

 勝利も目を丸くし、続いて爆笑した。

「花ちゃん、ワハハ、ひでえ、アハハハ」

 コッヘルの傍でルウの空箱が二個転がっていた。確か、一箱十人分。五人分のお湯に、二十人分のルウ……。

「誰だよ、ルウ、二箱も買ったの……て、オレかあ。一箱お持ち帰りしようと思ってたんだ」

 アハハと笑う勝利を無視して、晴は小さいコッヘルに水を汲んで来た。そしてカレーのコッヘルの淵、ぎりぎりまで水を入れた。友太にコッヘルを抑えてもらい、ストーブの火をさらに弱くした。

 ぬるくて凄まじく濃いカレーが出来上がった。

 誰も何も言わず、ただ胃の中に入れる為にカレーを口にしているようだった。

 辺りは薄暗くなり、校舎の窓明りだけが明るく裏庭を照らしていた。各自、頭に装着する懐中電灯……ヘッドランプを取り出しスイッチを入れる。ぼんやりした灯りの中、食器やコッヘルを洗いに職員玄関へと向かった。もうすぐ夕暮れの、ピンクの残りかすもなくなる。生徒の姿は他に見掛けることがなかった。

 暗く静かな校舎の中で、蛇口から出る水の音と、トン、トン、という音が響いた。スポンジで洗い物をする時、コッヘルがシンクにぶつかって鳴る音だ。食器とコッヘルを洗い終わり、皆が帰ろうとするその時、カツン、カツン、カツンという音が遠くから響いた。

 「ん?」と勝利。だんだん近づいて来る。

「うーらーめーしーやー」

「うきゃっ」

 小動物みたいな声を花が上げる。何てことはない、後ろから花の肩に手を当てた春香であった。

「うふ。皆、ご飯は美味しく作れたかな?」

 昼間よりも無邪気そうに春香が言った。誰も返事をしないし、花は俯いたが、春香は何も疑問を口に出さずに言いたい言葉を続けた。

「さっき、大会の申込用紙を染田先生がFAXで送信しました」

 花は顔を上げた、虚ろな表情がなくなり、真剣な目が光る。男子も皆真面目な顔になった。

 「これで戻れないわよー」春香がウインクした。

 春香は晴達と共に廊下を歩き、外へ向かう。

「染田先生は?」

 花は疑問に思ったのだろう、少し遠慮がちに聞く。

「染田先生は、今日は用事で帰られたので、特別に私が皆の監督をすることになったのよ」

 勝利がガッツポーズをしたのを晴は見逃さなかった。何か変なことをやらかさないと良いのだが。

「職員室には教頭先生がいるけどね」

 勝利はチッと舌打ちをした。教頭先生がいるといないでは何が違うのだろう。 晴は勝利の考えていることがわからず不安な気持ちになった。

 男女は各テントに分かれて就寝の支度をすることになった。テントの中は狭く、暗く、動きにくい。やっとのことで取り出した寝袋を、テントの底に敷いた、マットの上に並べた。他の荷物を置く場所がない。荷物を両脇に寄せても、寝る時、足を延ばす場所がない。試しに全員で横になると、足を体育座りのように立てて寝るしかなかった。皆、無言で諦めの空気になる。四人用テントは狭い。

 テントの中でそれぞれのヘッドランプの灯りが動く。そこに外からヘッドランプの灯りが届き、テントの壁が明るく照らされる。

「ランタンを忘れて来ちゃった。晴君、一緒に来てくれない?」

 花だった。活彦が「花さん?」と聞き返している。晴はすぐさまテントの外へ出た。なぜか勝利も後から付いて来る。

「一人で学校の中に入るの、怖くて……ごめんね」

 どこか引きつった笑顔だった。


 校舎の中はさっきより更に暗い。怖さにそれほど強くない晴は一人だったら廊下を走り出してしまいそうだった。特別教室の電気が所々で点いている。晴は怖い骸骨や笑う肖像画を想像して背筋が寒くなった。そんな晴とは対照的で、呑気そうにふらふら歩いていた勝利は「じゃ」と言って、突然廊下の分かれ道を曲がった。

「どこ行くんだよ?」

「オレにはオレの用事があるの」

 真夜中の学校に何の用事があるんだ。だが勝利は呑気に足音も立てずにいなくなってしまった。

 晴と花は階段を上がった。自分達の足音が響き、周りのちょっとした灯りや音にも耳を澄ます。自然と背筋がきりっと伸びた。花の手が晴の肩をつかんだので、どきっとしたが、怖さが先立ち、そのままにした。そうして誰もいない校舎を進むと、花がいることに安心感を覚えた。

 階段を登り切ると真っ暗な部室に突き当たる。ドアを開けて、晴は部室のスイッチを押した。部室がいつもの明るさを取り戻し、二人共安心した表情になった。

「ランタンってどんな物ですか」

「緑の箱に入っているの」

 花が答える。二人で、床に広がっているダンボール箱を一つ一つ覗き込んでランタンを探した。緑の箱はなかった。

 ダンボール箱から古い道具の埃が飛び出していたので、晴は換気をしようと思い、窓を開けた。窓からは冷たい夜風が入って来て、晴は鳥肌が立った。風は強く、寒いけれど、ランタン探しで動いた後の体には心地良い。ポツポツと遠くの街灯りが見える。すぐ下で揺れ動くヘッドランプの灯りの他は暗く静かな景色だった。

 そんな殆んど動かぬ景色を見た後に視線を横にずらすと、白く動く物が目に入る。勿論、お化けではない。引き出しがある棚の上に開きっぱなしの本が置いてある。写真の入った本だった。

 誰だ、こんな所に開きっぱなしでアルバムなんか置いたのは。

 晴がアルバムを閉じようとして、手が止まった。風に揺れるページは四枚分の広さがあったが、一枚しか貼っていない。

 その一枚に見覚えがあった。

「何しているの?」

 後ろから花が声を掛ける。

「あ! アルバム! 昔のだー」

 それから「えっ」とすっとんきょうな声を上げる。晴も驚き「これって……」と言うので暫く精一杯だった。

 長くて黒い髪をポニーテールにして後ろに纏めている少女。意志の強そうな目は紛れもなく春香だった。今よりも若い。そして、可愛い。絶世の美少女という言葉が似合う。

「春香先輩……可愛い」

 春香がうっとりするように溜息を吐く。

「昔は先輩も私達みたいだったのかな」

 くすっと花が笑い、晴は花に釘付けになった。そのままの笑顔でいて下さいと、晴が思うくらいだった。今の花の笑顔はリラックスしていてた。最近見掛けることの少なくなっていた笑顔。それも自然体の笑顔であった。

「もっと見ちゃおうっと」

 花がアルバムを捲った。「あれ?」と花が呟く。晴も異変にすぐ気付いた。アルバムはいつも一ページにつき一枚だったり、二枚だったりしている。おかしな貼られ方をしているページがずっと続いていた。それも、最後まで。

「これ……何だろ」

「古い写真だから、紛失したのかな」

 そう言いながらおかしさを晴は拭えなかった。なぜ、写真がないのだろう。

「おーい! ランタンまだー?」

 下から声がする。春香だ。

「あ! そうそうランタン」

 晴はアルバムを閉じた。二人でダンボール箱の中を探し、重い物を出したり戻したりしていたが、突如、花は思い出したように教室に据え付けられた棚からまだ新しそうな袋を取り出した。

「これだ! これが、ランタンのケースでーす」

 自慢げに緑のランタンケースを見せる花はくるくるした髪があちこちに行って、少し汗ばんでいる。晴は、すっかり花の汗には慣れていたし、それどころかキレイだとすら思っていた。この調子で、潔癖も治るのではないかと晴は自信を取り戻していた。

 部室を出て、階段を降りる時、さっきよりも心なしか暗くなっている校舎に晴は気付いたが、ちっとも気にならない。それよりも、さっきより強く肩をつかむ花に晴は可愛さを感じていた。少しは気張らなければ。男が女の子を守っているという感じがした。気分は悪くない。職員玄関に来て花がやっと晴から手を離したが、肩が軽くなったのを少し寂しく思うくらいだった。

 外に出て、職員室の灯りの下、裏庭の方に回りながら、晴と花は他愛もない話しをした。

 角を曲がると職員室の灯りが届かず真っ暗だった。

「私ね……」

 花の言葉に耳を傾ける。暗がりの中、花の気配と声がはっきりと際立つように晴は感じた。

「いつも昼休みに友達がいなくて図書室にいるの。放課後も、誰もいなくて一人で部室にいて、それはちょっとだけ寂しかった。今は、ワンダーフォーゲル部に晴君と勝利君が入ってくれて、色んな人が助けてくれる。いつもとても楽しい」

 その言葉は晴に花の意外な一面を教えてくれた。そして、自分と花との共通点を見つけることも出来た。晴も中学校で、学校に通えなくなるまでは図書室に通っていた。図書室に行くと色んな学校の現実から逃げることが出来た。晴も、上手く人間関係を築けていた方ではないので、図書室に通う花の気持ちが分かる気がした。

「晴君ありがとう」

 花が言った。

「いいえ、僕は、そんな……花さんとワンダーフォーゲル部で活動出来て、良かったと思っています。山で辛い思いをする時もあるけれど」

 晴が苦笑すると、花の笑い声が聞こえた。まるでオルゴールのように優しくて心地よい音色だった。

「それにしても……」

 花がヘッドランプを頭から外して手に持った。裏庭のあちこちを照らし、テントをすぐに見つけた。

「とっても暗くなったみたい。ランタンが見つかってよかった」

 校舎の裏側は窓灯り一つない。テントの前、勝利が得意げな顔で立っていた。

「おい、やっと来たか。ふふん、見ろよ」

「は!?」

 晴は上を指さされて、空を見上げた。幾つか、星がボタンみたいに空に縫い付けられて光るのが見える。

 野風高校は、町から少し離れた所にあるからか、明るい星だけでなく小さな星明りも見ることが出来た。

「へえ」

「キレイ」

 晴と花が夜空を見上げる。その間にテントからヘッドランプを付けた活彦と友太も出て来た。

「何を見ているのかな?」

「星空だよ、見てごらん活彦」

「ここからでも結構星が見えるものね」

 気付けば春香も外にいた。

「灯りを消すともっと星がくっきり見えるわよ」と、春香。

 全員、ヘッドランプの灯りを消す。窓明り一つない中、星空が静かに瞬いて見えた。感嘆の声が他に誰もいない校舎の裏庭に響く。星を指先で辿れば絵が描けるくらいの星空だった。

「でもね」と言って春香が言葉を継ぎ足した。

「特別教室の電気まで消してしまうのはいかがなものかしら。まだ部活で残っている人が、いたかもしれないわ」

「やべ」

 春香が動く気配がした。晴がヘッドランプの灯りを再び点けると、勝利が春香の肩に手を伸ばして、それを春香が両手で遮っている所だった。

 いつかやると思っていたけれど……晴は頭に手を当て、はーと溜息を付く。

 春香は勝利の手を避けて、校舎へと戻って行く。

「校舎に生徒がいないか確かめに行くわ」

「すみませーん、春香ちゃーん」

 職員室以外の部屋の電気を勝手に消したのだろう。勝利は「許してー」と叫びながら春香の背中を追いかけて行く。調子の良い奴だと晴は思った。

 晴と花の顔が合った。お互い、思わず溜息をこぼす。

「ランタン、点けよっか」

 晴は頷いた。

 ランタンと、さっきカレーで使ったのと同じタイプのガス缶を結合させ、ライターで火を点ける。ランタンに初めから設置していた布に火が広まり、やがてその灯りは消えることなく灯り続けた。

 軍手でガラスの筒を取り付け、ランタンの蓋を閉じる。

 優しい灯りが辺りに広がった。

「熱いから軍手で持って。気を付けてね」

 晴は軍手を履き、ランタンにある鎖の持ち手を受け取った。

 男子テントにランタンを運ぼうとした時だった。足元に何か紙が落ちているのが目に入った。

 何だろう? 何の気なしに足で紙を蹴ると、紙が裏返った。

「あ」

 晴は思わず声を出した。花も紙を見て思わず足を止める。

 ランタンの灯りにぼんやりと照らされたその紙は、写真だった。春香が写っている。それも、まだ今よりも若い春香が。

「これって……」

 花が写真を拾った。写真の春香は、さっきアルバムで見た春香と同じだ。

「さっきのアルバムから、勝利が取ったのか?」

 晴は、勝利ならやりかねないと思った。でも……と疑問が頭を過る。

 写真の春香の隣には男の人の姿があった。男女が二人きりで写った写真……。男の人は親しみやすい目をしていて、痩せているが筋肉質な印象を受ける。茶色い髪が乱れ、日に焼けたその顔はまるでライオンみたいだと晴は思った。

 花はもう一つ、ランタンに火を点ける。はっきりと、写真の二人が目に映る。

「明日、アルバムに戻すよ」

「うん」

 花は頷く。

「お休み」

「お休みなさい」

 男子テントに戻った晴は、テントの天井にある紐に取り付けられたカラビナと呼ばれる歪な形の輪っかを開く。輪っかにランタンの鎖を取り付けた。ランタンは天井に吊らされて、テント内を温かく照らした。

 活彦と友太はトランプを出して遊んでいた。トランプに加わりながら、晴はザックのポケットに写真を仕舞った。

 写真は、勝利が盗んだものではないと、晴は思った。男女が二人きりで写った写真。勝利が手元に置くなら別の写真を選ぶだろうという気がした。

 でも、だとしたらなぜ写真が落ちていたのだろう。なぜあれほどアルバムのページに写真がなかったのだろう。晴は気になって、疑問が頭から離れなかった。

 しかし、テントに勝利が戻って来ると、トランプ大会は過熱し、気付けば写真のことは忘れ果て、寝袋の上でそれぞれが自由な格好で眠っていた。

 夜は更けて、時々名前も知らない鳥が奇妙な鳴き声を上げた。

 晴はいつの間にか自分が「汚い」環境にいることも、自分が「汚い」と思うことも忘れて眠り、長い時間を過ごした。

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