晴れ男が呼ぶ大雨~三角山
今日も今日とて、ワンダーフォーゲル部はランニングである。
そして、ワンダーフォーゲル部と演劇部の競争も始まった。
授業が終わると、まるで待ち合わせたように二つの部活は玄関前に集まり、ほぼ同時にランニングを開始する。しかも同じコースを。
ワンダーフォーゲル部も演劇部も走ることが本分ではないのだから、そんなに急ぐ必要はないのだが、ゴールを手前にすると、どうしても闘争心に火が点いてしまうのだった。
特に晴はいつも同じくらいのタイムにゴールする、背が低い細見の男子生徒……元活彦と言うらしい……と速さを競っていた。お蔭で少しタイムが縮み五十分くらいかけて走っていたのが、今日は四十五分になっていた。
「やったあ!」
ゴールで待っていた花は心底嬉しそうな歓声を上げた。
晴の勝利を祝ってくれたのかと思いきや、自分の記録も五分短くなって三十分になったのだとか。
ちっとも闘争心がないのは勝利だった。校則で違反とされる音楽プレーヤーを片耳に掛けてどこか楽しそうに走っている。
花と晴、そして勝利は汗だくになった体を海から防風林を抜けて吹くまだどこか冷たい風に晒して、汗が少し収まってから校舎に入った。
部室では春香が待っていた。
「今日こそミーティングをするわよ」
染田先生も弱弱し気にやって来た。
「えー、皆さん、先日はご迷惑をお掛けして、すみませんでした……」
花の目は輝いた。
「さ、一年生は机と椅子を出して」
「どうして一年なんだよ」
勝利は面倒臭そうに言った。
「部の伝統なんです!」
花の笑顔は嬉しそうだった。
今日みたいな日は晴の気分は良好だ。こんな日がずっと続けば良いのに。晴は汚れで吐きそうになった時のことを思った。
晴と勝利が机を出しくっつけ、花は春香が持って来た計画書の、完成品のコピーを全員に配った。
「今日のミーティングは二つ話があります。ね、染田先生」
春香が言うと、染田先生は弱弱しく答えた。
「はい……山岳協会の支部から大会のお知らせが届きました……」
染田先生から全員に一枚ずつプリントが配られた。
『高校山岳競技大会・支部大会のお知らせ』
「大会の参加要項のようです……」
染田先生はプリントをまるで棒読みのような、抑揚のない声で読んだ
「『大会に参加する学校は生徒四人のチームをつくること……但し男女別チームとすること……チームをつくる人数に達しない学校は特別参加をすることが可能……特別参加の生徒は大会審査を受けない……詳しくは協会支部まで』」
花の顔は段々と固くなり、俯いて行った。
多分、花は大会に出たいのだろう。でも女子一人では大会に出ることは出来ない。男子二人も同じだった。
「今回は……大会に出られないということで……良いですね?」
暗い花の表情を見ながら、染田先生は言った。
「待ってください」
染田先生は春香をじろりと横目で見た。
花が顔を上げた。
「そうです、待ってください。今、大会に参加しなくては、部は活動目標を見失ってしまいます。それに、一年生の二人は、本格的に登山をしたことがありません。これから部を続けていくことを考えたら、特別参加をしなくてはならないと思います」
普段のおどおどした態度はどこへやら、花はきっぱりと自分の意見を述べた。
「そうですか……他の二人は?」
染田先生が男子を見る。
「面倒だなあ……」
勝利の言葉に、花は真剣な目で勝利を見つめ返した。何か言いたそうな顔だが、言葉にはしなかった。
「君は?」
染田先生に当てられて、晴は本格的な登山のことを考えた。
どれだけ本格的なのだろう。泥だらけになったり汗だらけになったりするのだろうか。ランニングよりもひどいとしたら、もしかしたらまた汚れに対するひどい恐怖心が起きるかもしれない。吐き気がして、動けなくなったら……誰が助けてくれるのだろう? 自衛隊? そんなことになるのは考えるだけでも嫌だ。
「すみません……考えさせてください」
春香は頷く。
「申し込みは来週までですよね、皆に考える時間をくれませんか」
「では月曜日に、結果を教えてください……では、これで……」
染田先生はよろよろと立ち上がった。春香が声を上げた。
「染田先生、まだ今週末の話があります」
「今週末? ああ、例の話ですか……外出許可の申請はしておきますから……」
「では……」と言うと染田先生は椅子を机の下にしまって、ふらふらと歩いて部室を出た。
カタン、とドアが鳴り、染田先生の姿が見えなくなると、春香がはきはきと話し始める。
「大会参加は重要よ、勉強になるし。何より山に詳しい先生がいない今、大会審査員の先生や、他校の生徒と登ることは、本格的に登山を勉強出来る、絶好のチャンスなの」
「来年、もし男子が二人入部したら、大会に出られるでしょう。その時、登山の経験が少しでもある方がいいと思うの」
花が言った。来年のこと……正直晴は実感が湧かなかった。でも、ここにはもう一人、未来のことを考えている人がいた。
「今回も、来年も、春香はいないしな」
勝利だった。
「私は部のOGとして、出来る範囲のお手伝いをしようと思っているわ」
春香は皆を励ますように言う。
「今何年?」
勝利が聞く。
「え?」
「今大学何年生?」
春香少し笑って「四年生よ」と言った。
「来年は教師になるんじゃないのか」
春香は寂しそうに「そうね」と言う。
「じゃあ、自分のことに集中しろよ! お前はそのうち実習も終わるんだしさ」
勝利は立ち上がった。少し涙目であるように晴には見えた。
「オレ、帰るわ」
「待って」
花が止めるが、勝利は素早く歩き、ドアが開いたと思うと、後ろ手で勢いよくドアを閉じた。
夜、晴は勝利に電話をした。
「あれはやり過ぎだよ」
「……」
「明日、三角山を登山だって。計画書、持ってるだろ?」
明日の登山に必要なことは全部計画書に書いてある。
三角山は円山と同じく手軽に楽しめる山だから、ミーティングに出ていなくても登山に参加することは可能らしい。
数時間前のことを思い出す晴。
「お願い、勝利君を説得してほしいの。せめて、明日の登山には出るように」
正直、晴も三角山は気乗りしない。おまけに天気予報では明日は曇りで、時々小雨が降るらしい。登山には雨具は絶対必要な装備らしいが、もし晴れの日に雨具はいらないと教えられても、明日は絶対に雨具を用意しなくてはならないだろう。
雨の中、山を登る……。
正直、晴は不安だった。何かあったらどうするのだろう。
「とにかく、荷物をちゃんとチェックして、明日集合時間に集まれ」
晴は他に言葉が思いつかず、それだけ言うと電話を切った。
集合時間の午後一時。既に小雨が降っていた。
花は正面玄関前で待っていた。
ザックと呼ばれる山専用のがっちりとしたリュックを背負った花は、合格発表の時とは大分イメージが違う。今は妖精というより山の女神だ。
花を見ていると目が合った。
「こんにちは」と花はにっこりする。
「こ……こんにちは」
晴は挨拶だけすると、その後の言葉に詰まった。毎日会っているのに未だに緊張してしまう。
二人は正面玄関前の、天井のある石段に座って雨を避けた。そこに春香と染田先生が職員玄関から近付いて来た。
「こんにちは」
晴と花は立ち上がって挨拶をした。
勝利はまだだったが、数分もすると遠くに凄い勢いで走る自転車が見えた。正面玄関前、急ブレーキと共に勝利は登場した。
「いやあ、昨日は熱くなってしまったよ。ごめんごめん」
ちょっとおかしな調子で勝利が言う。
「沢ノ宮君、大丈夫なの?」
春香が聞くと、満面の笑みで勝利は言った。
「オレ、どこまでも春香を追いかけるから大丈夫。だからどこに行ってもいいぜ、春香」
春香は頭に手を当て、首を振った。どうやら大丈夫ではないと思ったようだった。
「なんだか雨に濡れているわよ、沢ノ宮君」
春香が指摘する。確かに、勝利の服は濡れていた。しかし空を見ると小雨が治まり、雲の色も段々薄くなり、雨で服が濡れることもなさそうだ……そう晴が思った時だった。
ダーと、大粒の雨が降って来た。駐車場のコンクリートが瞬く間に濡れて真っ黒になった。
「これに降られて、逃げて来たんだよ……学校まで来て止んだと思ったら、また降って来た……」
晴と勝利は屋根の下から雨空を見上げた。今日の登山は中止だ、と晴は思った。
しかし花と春香は雨空に対し平然とした顔で「いい練習になりそう」と言い、少し笑った。
染田先生を含めた男子軍団はげっそりとした顔になった。
「あのー今日は止めた方がいいのでは」
染田先生の弱気な発言に、今日ばかりは晴と勝利も頷く。
「山を登っていると雨に降られることは、度々あります。難しい山で初めて雨に遭遇するより、低い山で雨を経験しておいた方が、後々の為になります」
春香が言った。
今日の天気予報は曇り時々小雨だったのに……どこかに大雨女か大雨男がいるのだろうか。
「お前が雨雲呼んだんじゃないの」
晴は勝利に声を掛ける。
「お前だろ、雨男。晴なのに雨なんだからさ」
適当なことを勝利が言う。実際雨男は勝利だろうと晴は思った。勝利が到着した途端雨が降ったのだから。
「否、お前が絶対雨男だ」と勝利。
他愛のない会話をしながら、二人共気持ちが落ち込んでいた。
「オレ、やっぱりこの部活続けるの無理かも……」
勝利の言葉に春香が突っ込みを入れた。
「はい、そこ弱気にならない」
染田先生はしぶしぶワゴン車を動かした。荷物を車の後ろに乗せて、全員素早く車内に避難した。晴は短い間に雨にビショビショに濡れて不機嫌になっていた。
雨は汚いという感じがする。汗よりも汚い時だってある。
ワゴン車は急スピードで駆け回ろうとしたので「先生、ぎっくり腰!」と春香が叫んで止めた。
「ああ、そうでした。すみません」
安全運転で山まで移動しながら、晴の気分は最悪に落ち込もうとしていた。コンディションが悪すぎる。ぎっくり腰の染田先生と一緒に車の中で休んでいたいくらいだ。
「はい、皆降りてね」
緑豊かな登山口に到着し、花が皆に登山準備を促す。雨の日に登山なんて……。晴は珍しくイライラしていた。
花と春香はいつの間にかレインウェアを上下に着ているが、勝利と晴はレインウェアではなく安物の透明カッパだった。晴のリュックサックは昔、小学校時代の遠足で活躍した代物で、勝利のリュックサックも似たような雰囲気の安物だった。
花と春香は登山用リュックサック、通称ザックに、専用の雨避けカバーを掛けている。雨対策が本格的だった。
「大変ですねえ」
雨に濡れて、ズボンがずぶ濡れになっていく勝利と晴を見て、車の中の染田先生が声を掛けた。
山靴に履き替える時、晴はいつものスニーカーを泥で汚してしまった。思わず溜息が零れた。
花が「これ、部室にあったんだけれど、使ってね」と言って差し出したのは、赤い手のひらサイズの袋で、長年の汚い汚れが染みついている年代物だった。
黙って受け取った汚い袋の中身は、花がスパッツと呼ぶ物で、山靴に防水の布を被せることで、山靴とズボンの裾を泥等の汚れから守ることが出来る、脚絆だった。
勝利は素直に花の指示に従いスパッツを装着した。装着方法は春香に教えてもらっていた。
晴はしばらくスパッツの袋に付いた紐をつまんで、考えていた。
雨や泥から体を守ることは重要だった。
同時に、誰かが使って手垢の付いた物から身を守ることも大事だった。
何をしても汚れてしまう。汚れたくない、そもそも、来なければ良かったんだ。
「どうしたの? 早く、スパッツ付けないと、出発するよ」
花が不思議そうに晴を注意した。
透明カッパのフードが取れて、山の必需品である帽子が濡れて行く。晴は立ち止まったままだった。
「スパッツ、付けてあげようか?」
花がスパッツの袋に手を伸ばした。
「いい!」
晴は袋の紐を離した。スパッツの袋は手を伸ばした花の、手のひらの上にポンと乗った。
「だめだよ……ただでさえ雨で濡れるのに」
だったら登山を止めて下さい、と晴は思ったが、それを口にすることも、顔に出すこともなかった。晴はもうどんな顔をすることも出来なかった。無表情のまま、動かなかった。
「仕方ないなあ……もう……」
花は俯いて言った。
「どうしたの?」
様子がおかしいと思ったのか、春香が声を掛けて来た。
「晴君、スパッツ付けたくないって」
春香は晴れをじっと覗き見たが、晴は春香のことを気にする余裕はなかった。無表情のままで、気付けば冷や汗も出て来た。
「車の中で休んでいる? 具合悪い?」
晴がもう駄目だと思い、ワゴン車のドアを開けると、中は汚れたシューズの臭いが充満していた。
「清田君? どうしたの?」
春香が聞いた。汚い車の中で皆を待ち続けるか、山に行くか。
晴はワゴン車のドアを閉めた。
「そろそろ、行こう?」
花が気遣わし気に言った。
出発前、各自、鞄の中から軍手を出した。計画書に書いた『装備』の一つだ。
花を先頭に木と泥の階段を登る。土が泥になっていて、足元が滑る。晴は新品の山靴が泥の中に埋もれて汚れていく感覚がした。
晴のジーパンに泥が掛かる。
雨と泥と汗でジーパンが汚れている。ジーパンは体にくっ付いてきて、動くのに邪魔だった。
カッパのフードが取れ、帽子からは雨水が頭皮に染み込んで来る。
ベンチのある広場に辿り着き、小休止した時、晴は悪寒がした。雨水、泥、そして心。
『お前は汚い』
自分で自分を責める声……心の中の声を振り切るように、晴れは急いでリュックサックからティッシュを取り出すと、素早くズボンの泥を払った。
ズボンが濡れているのは勝利も同じだったが、スパッツの装着により、裾は汚れから守られている。それにカッパの丈が長く、晴よりは雨を避けることが出来ている。体力的にも精神的にも、勝利は余裕がありそうに見えた。
春香は晴の足元を見て顔を歪めた。そして、何かを考える顔をしたが、何も言わなかった。
「秘密兵器を持って来ました」
花がザックの中を探って「じゃーん」と言い、取り出したのは折り畳み傘だった。
「これ、使って」
花が差し出した折り畳み傘を晴は黙って見ている。
「ね、使ってよ」
静かに息をしようと、晴は山の登りで乱れた呼吸を整えた。
「大丈夫」
そう、いつもなら大丈夫だった。花の物なら触れられただろう。今の晴は、限界に来ていた。
「大丈夫も何もないよ。風邪、引くから」
「この方が大丈夫なんだ」
晴は折り畳み傘から視線を逸らした。花の物だろうと、今は他人が触れた物に触れない。もう、駄目だと晴は思った。
「晴君?」
「放っときましょう」
春香が言う。春香は気遣わし気に晴を見た。
「だって……」
「今はちゃっちゃと進まないと駄目ね」
勝利が呑気そうに肩を上げ下げするストレッチをしながら言った。
花は悲しそうに折り畳み傘をザックにしまい、気を取り直したように「行きまーす」と明るく声を出した。
木々が雨を受け止める大きなザーという音を聞きながら、広場を抜けて、再び山道に入る。
穏やかな坂道が続き、雨で土がぬかるんでいなければ、さぞ歩きやすい道に違いなかった。三角山は、前回登った円山に比べて、石や木の根といった障害物が少ない。しかし雨の日の山は、晴天の日とは違う顔を見せていた。
先頭を行く花は元気そうだったが、円山登山の時よりも後ろが気になるらしく、頻繁に後ろを振り向いた。
晴は心配そうな花の顔を見た。すると視線が合ったので、晴は視線を外し、下を見た。今の花の顔は見たくない、と晴は思った。だって、花は汚れのない救世主だから。渋い顔の花など見たくない。
晴は足元に集中することにした。木や石は滑るからなるべく踏まないこと。春香の忠告に従い、晴は転ばないように、足元に集中力を使った。
雨と霧で揺らぐ景色の中、東屋が見えた時、晴はほっとした。
東屋に入ると、花は振り返り晴を見た。
「大丈夫?」
その顔に笑顔はなかった。
花は心から心配そうな顔をしていた。
その声が悪魔の声になったのは、晴の頭の中でのことだった。
『大丈夫? 晴君、汚れているんじゃない?』
そんなことを花が言うはずがない。でもこれは現実? 花の顔を見ても気持ち悪さが晴を襲う。僕が君を汚したんじゃない。笑顔の、汚れのない君に戻って。
晴はそんな思いに囚われ、後ずさりした。
「どうしたの?」
花の声が悪魔みたいに、晴の耳に届いた。
晴は首を振り、もう一歩後ろに下がった。その時晴は何かにぶつかった。
「うわっ」
勝利が悲鳴を上げ、バランスを崩し、前のめりに晴に倒れて来る。巻き込まれそうになり、晴は必死に体をねじり、避けようとした。足元が滑った。
「あっ」と思った時には晴は泥の中に倒れ、その上に何かが伸し掛かる。倒れた晴の上に、勝利が覆いかぶさるように倒れて来たのだった。
晴は顔に土が付くのを感じた。
「いてて……」
勝利が起き上がる声がした。晴は痛さと同時に、口の中に何かが入ったのを感じた。顔に手を当てた。泥だ。顔に、顔に当てた軍手にも泥が塗り手繰られている。
口の中で、泥を飲み込んだ感覚がした。
『体の中が泥まみれだ』、と晴は思った。
悪寒がする。晴は下を見て吐き出した。
喉元へ、腹の底から振動が次々と伝わって来た。
げほげほげほ、ぼこぼこぼこっ。
吐いた物を見て晴は更なる吐き気に襲われた。
げほげほげほ、ぼこぼこぼこっ。
それは、吐く物がなくなるまで続いた。暫くして何も吐けなくなると、うっう、という、吐き出そうとする体の高まりだけが音になって、森の中に響いた。
「さあ、降りましょう」
春香の言葉に、勝利は頷いた。花は茫然としていた。晴は、花の瞳ががらんどうみたいになって、晴の姿を映しているのを見た。
帰り道、晴はよく転んだ。軍手もズボンも泥だらけで、雨を吸って重くなっていた。
勝利も時々転んだが、よく晴に声を掛けた。
「あともう少しだ、頑張れ」
勝利も泥だらけになっていた。
花は静かにしていた。時々振り返る花の顔を、晴はもう見なかった。
翌日は日曜日だった。晴は三回風呂に入りながら、ワンダーフォーゲル部のことを考えた。
なんで花のことを汚いと思ってしまったのだろう。晴は自分が嫌になるのを、中学校時代と同じように感じた。
笑顔で妖精の花。どんな時も笑顔でいてほしい。
でも今はもう花に会う顔がなかった。花に会えないくらいなら、汚れていた方が良いと、今なら思える。なぜ、自分は『汚れ』に勝てないのだろう。
同じことを頭の中で繰り返し考えるうちに日曜日はだらだらと過ぎて行き、朝になった。
教室に行くと隣の席に勝利が座っていて、肘を付き、晴を見ている。
「お前さ、実は潔癖症だろ」
「どうして……?」
「お前がスパッツ断ったり、泥を一々気にしてティッシュで拭き取ったりしていた。そんで、わかった。その前にも、何だかおかしな行動が多かったしな」
晴は答えなかった。それでも勝利にはわかったようだった。
「お前、気付いてないだろうけどさ、花ちゃん泣いてたぜ。お前が体調崩したの、自分のせいだと思ったみたいだ」
「気付いたのか……?」
晴が花を汚いと思ってしまったことに。
「さあ? でも可哀想だったぜ」
授業のチャイムが鳴った。晴は花に会おうと決めた。
放課後、晴は部室に向かった。花に会う顔はない。ワンダーフォーゲル部だって辞めた方が良い。そう自分に言い聞かせても、晴は花に会わなくてはいけないと思う気持ちを止められなかった。
ドア窓から、花が座っているのを見た。くるくるした長い髪を何本か前に垂らして読書をしている。晴はドアを開けた。
何となく気まずくて「こんにちは」ではなく「失礼します」と言った。花が顔を上げた。不安そうな顔だった。
「あの……」
土曜日はごめんなさい、と言おうとしたら、花が駆け寄って来た。
「ごめんなさい!」
晴は思いがけず謝られて、驚いた。
「私が悪いの……低い山だからって、一年生にろくな装備をさせないで山に登るなんて……」
涙目の花を見て、晴は「座りましょう」と言って、花を座らせ、その向かいに自分も座った。机と椅子はミーティングの時に並べたままだった。
花は涙を流しながら、話し始めた。
「私、二年目だからって山を甘く見ていた。晴君達は何とかなるって思って、全然、何も考えてなかった。もっと早く、一から色んなことを準備しなくちゃいけなかったのに……あんな風になるなんて……ごめんね……ごめんなさい……先輩、失格だね」
晴は花に申し訳ない気持ちで一杯になった。自分のせいで花を傷つけてしまった。何も考えてなかったのは晴だって同じだったのに。花に会いたい一心でワンダーフォーゲル部に入部したのに、花が笑顔じゃなかったくらいで、そして雨が降ったくらいで、この有様だ。
「山を甘く見ていたのは、僕たって同じです……謝らないで下さい」
「私が悪いの……」
花はもう一度そう言うと、涙を流した。
「ね、風邪、大丈夫?」
花は泣きじゃくりながら言った。どうやら花は潔癖のことは気付いていないようだと、思いながら晴は口を開く。
「僕は大丈夫です。」
晴は決意した。
「もっと、真剣にやります、ワンダーフォーゲル部を。どうしたらあんな風にならないか、真剣に考えますから。だから、ワンダーフォーゲル部を続けさせて下さい」
晴は一礼して花に頼んだ。
花はぽかんとした声で「勿論だよ」と言った。
「こちらこそ、気が利かなくてごめんね。もっと、頑張ります」
晴が顔を上げると、花も座って一礼をしていた。そして、顔を上げると、晴と目が合った。花は泣きながら、少し笑った。
晴も笑った。
不謹慎だけれど、泣きながら笑う花も、可愛いと、晴は思った。
勝利と春香、染田先生が部室に来て、ミーティングが開かれた。
「先日の登山は皆さん大変でしたね……大会はもっと過酷になるはずです……大会の参加については……」
染田先生は皆を見た。
「不参加、ではなさそうですね」
生徒三人が大会へ出場する意欲があることは、それぞれの目を見ればわかった。
ミーティング前、唯一不安そうなのは春香だったが、晴に会って、晴がワンダーフォーゲル部を続ける意思が固まった様子を見て驚いた。
「ごめんね……頼りない教育実習生で……もっと安全な山行になるように気を付けるから……」
「大丈夫です、頼りない一年生ですけれど、一から努力することに決めましたから。もっと、努力しなくてはならないって、わかりました」
「オレも! オレも! もっと努力して春香を守って見せるぜ!」
勝利は一生懸命にアピールして見せたが、花は一笑して「はいはい」と言って済ませた。
「オレ達頑張ろうな! 立派なワンゲラーになろうぜ!」
「ワンゲラーって……。まあいいけれど」
しかし、晴と勝利が立派なワンダーフォーゲル部員になるのは、まだまだ先の話だった。