人生(初)登山!?~円山
日曜日、午後一時きっかりに円山の最寄りにある地下鉄駅集合というのは、円山登山計画を教育実習生、春香が発案した時からの決定事項だった。
駅に着いてみたら誰もいないので、晴は右往左往していたが、まだ誰もいないことが確認出来ると、晴は溜息を付いた。
一番乗りか……。皆、時間にルーズなんだな。
腕時計を覗き込みながら、教育実習生の春香さえまだ来ていないことに落胆した。そもそも、顧問のいない状態で山に登って大丈夫なんだろうか。
不安になり始めた晴に、後ろから声を掛けて来たのが他でもない、発案者の教育実習生、春香だった。
「清田君。あら、なんだ、まだ清田君だけなの」
山シャツに山スカート、帽子に山靴が決まっている。
長い髪を後ろで纏めた春香の山スタイルは、なるほど、勝利が一目ぼれしてしまうくらいの美人だった。
昨夜の勝利の電話を晴は思い出して、大きな溜息を付いた。
『オレ、絶対あいつを振り向かせてやる。弱っているあいつの荷物を持ち上げて男らしい所を見せるんだな~。待ってろよ~春香!!』
教育実習生をあいつ呼ばわりし、さらには呼び捨て。勝利は少し、テレビドラマの見過ぎ、漫画の読み過ぎなんじゃないだろうか。自分の世界でだけ、教育実習生、春香との関係が親密になっているようだ。教育実習生に恋をするなんて無謀だし精神力の無駄遣いだ。面倒なことにはなってほしくない。
「清田君、ベンチに座りましょう」
勝利の思い人、春香はベンチに座り、晴にも隣に座るように呼びかけた。
全く、勝利が時間を守らないうちに、晴が春香と二人きりになってしまった。勝利も、春香を好きなら集合時間くらい守るべきだ。勝利はまだか。
教育実習生と二人きりというのは、別に相手を勝利みたいに好きでなくても緊張する。だから晴は水色の水筒で飲み物を飲む春香をちらりと見たり、行き交う人を眺めているふりをしたりした。晴はずっと無言で時が過ぎるのを待った。
午後一時を十数分経過して勝利が改札口を通ってやって来た。勝利の目は春香しか見ていなかった。晴の座るベンチへ通行人にぶつかりながらやって来る。そして荷物を降ろし、晴と春香の間の小さな隙間にドカッと座った。
「何があっても大丈夫なように色々持って来た」
勝利の足元にある荷物は、勝利の足の上に乗り上げるくらい荷物が入っているようだ。ゴチャゴチャした感じがする。荷物の形が定まらないのはショルダーバックだからだろうか。
「この荷物……どうしたの? それに、リュックサックは?」
春香が切れ長の目を細くして厳しそうな顔をする。
「小さいリュックサックしかなかったので、ショルダーバックにしました! 大丈夫。男だからこれくらいへっちゃらです」
勝利はショルダーバックの蓋を開けて、中身を取り出していく。飯ごうが三つ。ホームセンターで買ったような板が何枚も入っている。植物図鑑。分厚い道路地図。太く長いロープ。そしてトランプ。
「これは……」
「遭難した時のことを考えて、食事の準備が出来るようにして来ました! 植物図鑑は食べる野草を見分ける為。そして地図。ロープは命綱です! トランプは遭難しても暇つぶしが出来るように持って来ました」
春香は一つ、溜息を付いた。晴は唖然とした。板は薪のつもりだろうか。
「遭難しても大丈夫!」
勝利は楽天的に笑った。
「取り敢えず、今回は必要ない物が多いわね……」
春香の声は、高笑いする勝利に聞こえていない。
「いざとなったらオレが春香先生を助けますから!」
勝利が片手を春香の肩に伸ばしたのを晴は見た。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
花が妖精の発する光みたいに微笑みを振り撒き、改札口を通った。
「遅い! 先輩が後輩を待たせてどうする!」
春香が立ち上がり、勝利の手は宙をつかんだ。晴はほっとした。
花は山シャツとピンクのショートパンツ、レギンスを可愛く着こなしていた。晴は山の妖精が現れた、と思った。笑顔の花と目が合って、思わず俯いた晴は、自分の恰好を見て溜息が出そうになった。上下灰色のジャージ姿。動きやすさを重視したつもりだし、服は清潔な洗いたて。でも、花や春香のオシャレな着こなしを見た後だと、もう少しファッションを気にするべきなのかと思う。ちなみに、勝利はジーパンにティーシャツ姿だ。無難な服装だと勝利を見て晴は思った。
「すみません。乗る列車を間違えちゃって……」
花は微笑みながら言い訳をする。
「次遅れたら、置いてくわよ」
「はい」
花は、舌をちょっと出して謝った。
「皆ごめんね、次から気を付けるね」
「大丈夫です!」
勝利が即答した。花がこれ以上遅れなくて良かったと晴は思う。あと少しでも遅れたら大問題だった。しかし謝る姿も花は可愛いらしいと晴は妖精パワーを眩しく思った。
「じゃ、行きましょうか」
春香の声で、晴と勝利は荷物を持ち、立ち上がった。
登山口は公園の中にあった。確か、公園の奥の方。そんな不確かな記憶ではどこに山があるかなんてわかる訳がなく、晴達は先を行く春香の後を付いて歩いた。薄暗い森の中にお堂があり、そこに近付いて行く。なんだか人を寄せ付けない雰囲気の場所たなと晴は思い、背筋がぴんと伸びる思いがした。
「さ、登るわよ」と春香が言ったので、お堂から先が山なのだろうと晴は理解した。
「緊張するなあ」
花はふふ、と笑う。少し余裕そうな雰囲気だ。
「大丈夫です、花さんや春香さんがピンチの時は、このショーリにお任せを」
適当なことを言う奴だなあと晴は思ったが、花が「じゃあ、ピンチの時はよろしくね」と笑いながら勝利を見たので、少し晴は苛立った。あれ? なんでだ? 晴は花が笑顔ならそれだけで幸せだったはず。晴は自分の気持ちに疑問を持った。
「こら、先輩や先生をさん付けは止めなさい」
春香は言うが、勝利には効き目がない。
「いいじゃないですか。先輩や先生よりさん付けの方が親しみが湧いて、チームワークも完璧です」
勝利は独自の考えを言ったが、要するに、春香とより親しくなりたいだけだろう。
「うん、いいね。私のことは花でいいよ」
ニコニコと花が言う。
「よっしゃ!」
勝利がガッツポーズを作り、早速「ありがとう、花さん」と言った。なんだか勝利と花が親しくなっている気がした晴は、今度花を呼ぶ時は自分も名前で呼ぼうと心に決めた。晴は決意の目で花を見た。
こほん、と一つ咳をして「じゃ、進むわよ」と春香が言う。
「はーい!」
花が返事をしてお堂の横にある暗い道を歩き始めた。
晴は慌てて花の後ろを歩いた。
勝利はなかなか歩かないので「先に行きなさい」と春香に注意されているのが聞こえた。
すぐ階段を登り、急な坂道に入る。小さな観音像が幾体も並び、神聖な力を感じて晴は身震いした。
山の中は新緑で気持ちが良い。五月の始めにしては温かい気候。土がむき出しの地面はしっかり乾いている。
花は時々立ち止まり、後ろの様子を見て、晴と目が合ってはニッコリ笑い掛ける。晴は花の後ろで良かった、としみじみ思った。
初めのうち、花の笑顔に笑い返す余裕のあった晴だが、観音像を幾体も通り過ぎて、次第に顔の表情筋を動かすのが辛くなって来た。背中に薄っすら汗が出ているのを感じる。リュックサックの重みで背中は汗の感覚を敏感に感じ取り、不快感に苛まれる。
後ろの方から聞こえる声も、晴を愉快な気分にはさせない原因の一つだった。
「春香さん。趣味は」、「春香さん。彼氏はいないんですか」、「春香さんの高校時代の制服姿、見たかったなあー」。
どうやら勝利は「春香さん」と呼べることが嬉しくてたまらないらしい。始めは「先生と呼びなさい」と言っていた春香も、面倒臭くなったのか、後ろばかりを振り向いている勝利が危ないと思ったのか「前を見なさい」とか「お喋りばかりしないの」という注意だけするようになった。
少し進んで道がなだらかな所に入ると、勝利は春香の横を歩こうとするようになった。
「一列に並びなさい! 危険なのよ!」
「いやあ、もう僕疲れちゃって先生の横がいいです」
春香の怒った声と、わざとらしい憔悴した勝利の声が後ろから聞こえた。
花は立ち止まって、後ろを見て溜息を付いた。
「ああいう人は痛い目に合うから心配……」
痛い目に合った方が良いんじゃないかと晴は思った。
まるで押し合いをしているように見える勝利と春香が、少し後ろに見える。二人が近付くと、花は「一列に並んでください!」と叫んだ。
「はーい」
勝利は、返事はするが、なかなか言うことを聞こうとしない。
坂道がまた急になり、皆が静かになった。花は細目に後ろを確認していたが、暫く進むと眉根を寄せて、立ち止まった。
「距離が出来てしまったみたい」
花が言う。後方の登山道、曲がり角の手前でぎりぎり見える所に、ゆっくり進む勝利と春香がいた。
「ちょっと待とう」
花が言い、晴は「はい」と答えて頷いた。
勝利と春香が追い付くのは想像していたよりも時間がかかった。ぜいぜい息をするのは勝利だ。汗が滴り、地面に落ちる。膝を抱え、猫背になり、立ち止まると不恰好な形のショルダーバックが重力に引っ張られてガタンと音を立てて着地した。
「さ、先に行ってくれ……」
先ほどの元気はどこに行ったのか、勝利は苦しそうにぜいぜい喘ぎながら言う。
「水は? 水を飲みましょう」
春香が声をかけるが、勝利は首を振る。
ショルダーバックから取り出したペットボトルはミニサイズで、緑茶が底の方に僅かにあるだけだ。
「他には? 飲み物はないの?」
「すまん、春香、これだけだー……」
「一先ず全部飲んでしまいなさい」
春香は呼び捨てにされたことなどお構いなしで言う。
「皆、先に行って良いわよ」
春香が言って、花は頷いた。
「大丈夫か?」
晴は心配になって聞く。
「大丈夫だ……」
勝利は言葉とは裏腹に大丈夫でなさそうだった。汗の量が多く、恰好良く整えられた髪も濡れて崩れてしまっている。
「春香先輩に任せて、進みましょう」
花が言い、後ろを振り返りながら二人は進んだ。
後ろの二人がいなくなると、花の坂道を登るスピードは途端に上がった。花はまるで重力を感じていないかのようにぽんぽんと足を運ぶ。すぐに晴は自分の足元を見ることで精一杯になった。一歩一歩を重く感じる。背中の汗は冷たく、全身からも汗が滴り落ちる。汗が地面に落ちる、と、土の色が濃くなる。汗が落ちるのが土で良かった、土ならば汗を汚いなんて感じることはないだろう。
花が遥か先に行き、角を曲がった時、晴はなんでここにいるんだろうと思った。足が速く動かない。全身が汗で汚く染まっていく。前も後ろも木々に囲まれていて、微かに風が吹くだけだ。
晴は立ち止まり、俯いた。汚い、という思いが頭の中にいて回り続けている。早く解放されたい。帰りたい。来なければ良かった。
喉の奥がぐっと鳴る。ああ。これは、吐き気だ。
ぐるぐると晴の視界が揺れ、ぼんやりとした。
「がんば!」
上から声が掛かる。花が大きく口を開けて叫んだ。
「がんば! 晴君!」
花が戻って来たのだ。花の体は汗だくで、ニコリと笑う顔も光っている。そしてまた背中を見せ、少し進むと振り返る。心配しているようでもあるし、晴ががんばることを期待しているようでもあった。
「晴君!」
名前を呼ばれて力が漲る気がした。
晴は立ち止まった足に力を込めて、一歩を踏み出した。
花はニッコリ笑顔を少し見せると、また先へ進む。花の笑顔は晴の力の源だ。がんばれ、晴。晴は心の中で自分にエールを送り、今度は花から離れないように、心を落ち着けて、一歩一歩、着実に足を運んで行く。
時々花が振り返る。その時長い髪から汗が吹き飛び、キラリと輝く。情けなく思えた自分が吹き飛び、吐き気も治まった。視界が明瞭になって、花の後ろ姿が良く見える。花の汗は汚くない。まるで朝露のようにキレイだ。
「山頂だよ!」
花の声に肩の力が抜ける。
坂を登りきると道がなだらかになり、やがて石碑と、その向こうに広い場所が見える。岩が積み重なって、山を作っていた。小さくなった町の景色がその向こうにあった。山頂だった。
足を止めるとぜいぜいしていた息も治まり、遠くの景色を良く見ることが出来た。ミニチュアみたいな家や道路、ビルや車。そして時々吹く風。汗で濡れた体は微風をとても心地良く感じた。
「学校はあっちだよ」
花が指さした方向はとても遠くて小さい。全然見えない。けれど、風に吹かれながら花と見る景色は悪くない。どこまでも続く景色が色んなことをちっぽけに感じさせてくれる。
花は笑顔で、晴も自然と笑顔が零れる。目を合わせ笑い合ったのは一瞬で、花は遠い景色を見ている。輝く黒い目は、なんだかどこまでも遠くを見ている気がして、晴はそんな花の姿を見るのも嬉しいと思った。
景色にも慣れ、感動が落ち着いてくると、山頂の周りの光景も目に入るようになった。積み重なった岩の端の方に高校生くらいの団体が休憩している。体の大きな大人が一人いて、先生のようだった。他にも何人かの登山客がいて、飲み物を飲んだり、お菓子を食べたりしている。
「これ、食べて」
花が晴を山頂の端の方に手招きし、タッパーを差し出した。干し葡萄が入っている。それを晴は一つまみし、美味しく咀嚼しながら喋る。
「春香先生と勝利、まだかな……結構時間が経ったけれど」
「春香先輩がいるから大丈夫」
そう言いながら、花は少し心配そうな顔をした。
登山道の方を二人で見ていると、山頂の下の広場で休んでいた男子生徒と、晴の目が合った。
雪のように白い顔だ。まるで見下したような、冷たい目をしている。その男子生徒と目を合わせるのを不愉快に感じた晴は、すぐに視線を逸らす。気持ちはすぐ、後ろに残して来た二人に移った。
「あ! あれ!」
花が指さす。向こう側から勝利と、その後ろから春香がやって来る。勝利はさっきよりも、足元がしっかりしていて、元気そうだった。
「お待たせー……」
勝利がバンザイをしながら山頂の岩の上に登った。
「良かった、無事に着いて」
花が笑顔で言い、二人を出迎えた。
春香はふう、と荷物を岩の上に置いた。勝利もショルダーバックを置く。ショルダーバックはさっきよりもしぼんでいて、まるで中身が空のようだ。
「お前、荷物は?」
晴は勝利に聞いた。まさか、あの大量の荷物を捨てて来たのだろうか。
「春香が持ってる」
ブスッと勝利が呟いた。春香のリュックサックはさっきよりもパンパンになっていた。春香は少し汗をかいたくらいで、涼しそうな顔をしていた。おまけに、勝利がショルダーバックから取り出した水色の水筒は、確か駅で春香が自分のリュックサックから取り出していた水筒だ。
「ぐはあ」
飲み物を飲んだ勝利は気持ち良さそうに声を上げた。
「写真を撮ったら下山するわよ」
春香は小さなカメラを取り出した。勝利の横に晴と花が近付いた。春香がカメラを構えると、後ろから声を掛ける人がいた。
「撮りますよ」
高校生らしき集団を引率している、先生と思しき人だった。大柄な人で、頼りがいがありそうだ。生徒達は立ち上がり、荷物を背負っている。丁度出発する所だったのだろう。
「すみません、ありがとうございます」
春香は一礼すると素早く花の隣に入る。花が横にずれて、肩が晴に当たる。晴はびっくりして目を大きくした。きっと、写真には素っ頓狂な顔の晴が写っていることだろう。
「ありがとうございましたー」
皆でお礼を言うと、先生らしき人は一礼し、その間に生徒達は下山して行く。 先生らしき人が姿を消してから「さて、私達も行きましょうか」と春香が言う。
下山も登る時と同じ順番で降りたが、行き道と違うのは、勝利がちゃんと皆に付いて来たことだった。
木の枝や石がごろごろしている山道を、花はまたぽんぽん歩いて行く。下が見える状態で足を速く動かすのは正直怖いが、晴は花に怖がりだとは思われたくない。歯を食いしばって花に付いて行った。
一切休憩をしないで登山口のお堂に辿り着いくと、後ろを歩いていた勝利が横に来てポツリと言った。
「オレ、絶対に春香を振り向かせるから」
行き道よりも元気がない勝利だが、そのせいだろうか、さっきよりも本気でそう思って言っているという感じがした。晴は少し不安になった。
「どうだった?」
前にいた花が振り返って、目を輝かせる。
「うん……」
正直、晴は辛かった。しかし、山頂での景色を思い出す。花の目に映し出された景色を。
晴は少し考えて、感想を言った。
「気持ち良いね、登山って」
「そうでしょう」
嬉しそうに花は言う。花が笑顔を見せると、自動的に「うん」と頷くばかりの晴だった。
花の生き生きとした笑顔を見ながら、晴は花にこれからも、もっと山に登ってほしいと思った。山に登ると、きっと花の笑顔は輝くから。