これが噂のワンダーフォーゲル部~部活動開始
少年晴……晴は、うなされていた。
「勉強しなさい」という誰かの声が晴の周りで響き渡る。
「わかっているよ……」と言い、晴は泣きながら布団の中に潜っていた。布団の外で聞こえるのは両親の会話。
「一人息子がまさか部屋に引きこもるなんて……受験勉強を境に部屋の掃除ばかりするようになって」と父の声。
「晴、お願いだからちゃんと受験勉強してちょうだい」これは母の声。
「周りが悪いんだ。汚いのが悪いんだ」泣きながら晴が言う。
「そんなに掃除をしても、もうキレイにはならないわ」と母。気が付けば、晴は両手にモップやら掃除機やら雑巾やらを大量に持っている。
「世の中は、そんなにキレイじゃないの。どこも汚いんだから……」
掃除を始めた晴は、両親の声を聞いてはっと気付く。
「どこも汚い……そうだ、僕が一番汚いんだ。洗っても洗ってもキレイにならないし、埃が広がって行く。僕がいたら、皆が汚くなって迷惑だ……皆、ごめん」晴は布団の中に再び潜った。
「ごめん」と口にし、晴は目を覚ます。どうやら夢を見ていたみたいだ。
晴は椅子の上にいた。椅子は二人掛けのタイプで隣が空いている。周りには誰もいない。ドアが開いたままの、空っぽのバスだった。
「そうだ、僕が一番汚い……皆、ごめん」
晴は自分が座っていた座席の埃をさっと掃った。
中学校に上がり、両親が受験勉強、受験勉強とうるさくなってから、晴は汚いものを気にするようになった。汚いものを気にして掃除をすればするほどどんどん汚いものが目に入るようになり、ついには汚いものを避けて部屋にこもるようになった。いわゆる引きこもりだ。引きこもりの最初のうちは、汚れを気にするあまり、掃除ばかりをしていたが、ある時を境に気付いた。
一番汚いとのは自分だ。
皆に汚れを振りまいている。頭の中で渦巻くその事実。晴は罪の意識に苛まれるようになった。
中学三年になり、殆んど学校に行かず、それでも布団の中で自分の汚れから逃れるように勉強した。受験できるのは地域で最低レベルの高校だけだった。
「野風高校」
きっと、同じ受験地域の中学生でさえ知らないだろう。晴も願書を出す段になって初めて高校の名前を知った。
何はともあれ、晴は野風高校に合格した。
周りの汚れと自分の汚れ、二つの恐怖心を持ちながらも、晴が高校に来ることが出来るようになったのは……。
合格発表の日、自分に笑顔を見せてくれた女の子の存在だった。
汚れのない、まるで妖精のような存在だと、晴に思わせてくれた。目を閉じると、何度も何度もあの笑顔が語り掛けて来る。こんなことは初めてだ。
野風高校に行けば、あの妖精のような女の子に出会えるかもしれない。あの笑顔はまるで女神のように晴の心を支え、弱気な晴の心を支えてくれた。
僕は変わりたい。
今までのことを思い返し、決意を新たにした晴はバスを降りた。校舎に向けて歩いて行く。大丈夫、受験の時もここに来たのだ。大丈夫だ、大丈夫だ。
「よ!」
晴の緊張で硬直した背中を後から誰かが叩く。その誰かが晴の正面にやって来て、にやり、笑った。
「久しぶりだな、晴」
晴は前のめりになりながらその顔を見上げた。あれ? 知らない顔だと思う。
「オレだよ。ショーリ」
同じ野風高校の詰襟の制服。自信に溢れた笑顔。晴は思い出した。
「あ、勝利君か……」
「あ、勝利君か……じゃないよ。小学校の同級生のオレを忘れるなよな」
晴は同じクラスだけれど、あまり親しくなかった勝利の顔を思い出した。
仲良くなかったけれどわかる、勝利は、勝つという意味合いの名前のせいか、根拠なく自信家で、いつも自信に満ち溢れた顔をしていた。
「ごめん。確か、小学校を卒業した後で転校したんだったね? どうしてここに?」
「どうしても何も、オレもこの学校、受験したんだ。遠い町から戻って来たんだよ」
ということは、これから三年間一緒の学校か……晴は心の中で溜息を付いた。勝利は晴が引きこもりをしていたことを知らない。だからまだ晴に中学校の同級生みたく、偏見を持たない。同じ高校になったことが、はたして良い方向に晴を導いてくれるかどうか。
「じゃあ、クラス分けがあるから。これで」
晴は手を振り、勝利から離れた。知り合いの態度がガラリと変わることを引きこもりで経験済みの晴は、クラス分けがあることにほっとした。取り敢えずあまり親しくなかった勝利とはそう関わりを持つまい。
「A組」
「清田晴」
「沢ノ宮勝利」
同じクラスの紙に自分と勝利の名前を見つけた晴は落胆した。なんで同じクラスなんだろう……。
「よ。晴、よろしくな」
しかも勝利の席は、晴の隣だった。
男同士の運命の再開……。人付き合いが久しぶりの晴はすっかり不安になった。
教室に入ったのが遅かったせいか、晴と勝利が会話する時間はほぼなかった。教室前方のドアが開き、教師らしい男の人が入って来たからだ。
担当教師が「佐藤です」という簡単な自己紹介と、本日のスケジュールの説明をした。すぐに生徒達は入学式に移動するため、廊下に出た。廊下は生徒達の落ち着きのない雰囲気と、揺れ動く埃で一杯になった。埃なんて誰も見ないかもしれないが、晴にはすぐ見えてしまうのだった。
晴はポケットからマスクを出した。これで埃から自分を守ろうという考えだ。
「風邪か?」と聞く勝利に、晴は頷く。面倒なことは言いたくない。
前方でドアが開く音がした。これ以上埃をまき散らす集団が増えないでほしいと思ったら、出て来たのは女の子が一人だった。
パジャマみたいな格子模様の長袖ワイシャツと、ズボン。長いふわふわした髪。女の子は急ぎ足で晴達A組の前を過ぎた。その姿が見えなくなるまでは一瞬の出来事だったから、おそらく晴は自分の心が持つ、ある特別なカメラで女の子のことを見たに違いない。
髪は艶やかに黒く輝いていた。目が大きくて、星が入っているかもしれないと思わせる、純真で素直そうな目。歩くごとに周りに花の香りを広げているような、優しい雰囲気。その場にいるだけで周りを幸せにする、えくぼ。
晴は必死で彼女のことを目で追いかけた。
あの子だ! 妖精のような女の子。
合格発表の日、晴に勇気をくれた笑顔の子。背が小さくて、えくぼが可愛い。
一瞬の出来事は、晴を幸せにするのに十分だった。埃なんて、そっちのけで晴は何回も女の子の姿を思い返した。そうしているうちに入学式をする体育館に着き、勝利が何度か「風邪大丈夫か? ぼーっとしてるぞおーい」と言っても口角を上げたまま妖精の女の子のことを思い返していた。
「これで入学式を終わります」
司会が閉会のアナウンスをして初めて、入場行進や校長先生の挨拶や新入生代表の挨拶や祝辞やらが終わっていることに気付いた。
晴は何事もなく入学式を終えたことに驚いた。なんだ、やれば出来るじゃないか。これから僕の高校生活が始まる……。
そう思った時、司会の上級生が次のアナウンスをした。
「これから新入生歓迎会と部活説明会を行います」
応援団の、息遣いの荒い男子生徒が何人もステージに上がり、男らしく荒々しい応援を上半身裸で始めた。
汗臭い雰囲気、団員が動く度に揺れ動く埃、新入生の騒々しい歓声……途端に晴は息苦しくなった。気持ちが悪い。
その後の部活は、挨拶程度の紹介だった。だが、晴の体調は徐々に悪くなり、演劇部の長い劇の発表が始まった時には、晴は、ひたすらマスクの上から手を当てて、気持ち悪さに耐えていた。だから演劇部の感動的なラストに皆が拍手をしても、晴は俯き口を押さえたままだった。
何も考えるな。否、考えるんだ。あの妖精のような女の子のことを。そうだ。きっとあの子は幸運の女神なんだ。
「えっと、部活紹介をします」
小鳥のような癒しの声で晴は顔を上げた。
あの子だった。幸運を振り撒く妖精。女の子は、ステージの上であっちを見たり、こっちを見たり、おどおどしながら手に持った紙を真っ直ぐ前に持つ。
「私は、ワンダーフォーゲル部の部長です。ワンダーフォーゲル部は、山に登る部活です。今まで色々な山に登って来ました。えと、山はとても楽しいです。自然が一杯で勉強の疲れが吹き飛びます……」
広いステージに一人で立つ女の子はとても頼りなく見えた。背が低いせいもあるだろう。おどおどした声は悪ガキ共を騒がせるのには十分だった。
「ちっちぇー。ワンダーフォーゲル部だってさ、可笑しいなハハハ」
後ろで勝利が笑い騒ぐ声が聞こえた。
「可愛いー付き合ってよ」
誰かがふざけて叫んだ。
晴はまるで父親か兄のように女の子をハラハラして見守った。もう、そこまでにしておくんだ、君は十分にがんばったよ。このまま大衆にからかわれる必要はないんだ。大衆は汚い。君が汚れるのを僕は見ていられない。
ふざけた声に交じって、コソコソとした話し声も聞こえてくる。
「ワンダーフォーゲル部って……あの事件の……」
「人が死んだやつ」
「大会がなくなるかもしれないって、ニュースで見たよ」
そのコソコソ話を聞いて、晴も少し思い出した。
高校山岳大会での遭難死事件。山岳大会と関わりのある誰か大人が、遭難死して、生徒がショックを受けているという地域ニュース。
あれはもう三、四年も前の話だっけ。晴は、詳しくは知らないが、一時期近所のおばさん達がこの噂で世間話に花を咲かせていたのを思い出した。まさかワンダーフォーゲル部が危険な山に登る部活だなんて……。
「ワンダーフォーゲル部サイコー!」
誰かがふざけて大声を出した。馬鹿みたいな奴がいるもんだと晴は思った。
「ワンダーフォーゲル部は伝統のある部活です。皆さん、見学に来てください……」
最後は蚊のように女の子の声は小さくなり、お辞儀をし、躓きながらステージを降りて行く。
「ホー!」
わざとらしい男子生徒の歓声の中、女の子は小さな背をますます小さくして上級生の席に戻った。
よりによって、ワンダーフォーゲル部なんて特殊そうな部活にたった一人でいるだなんて。部活なんて、辞めればいいのに。こんな嫌がらせの歓声を浴びたり、人が死ぬ部活だと噂されていたら、さすがの妖精みたいな女の子だって光を失い、傷ついてしまう。
しょんぼりした様子の、女の子が見えた。部活説明が全て終わり、新入生歓迎会は終了した。退場する晴は、妖精のようだと思う女の子のことを心配して、気が気でなく、時々廊下を曲がる時、壁に体をぶつけてしまった。
教室では自己紹介等が終わり、早速本日から日直に決まった人の号令で帰宅となった。
晴はトイレに行き、手を洗い、人が少なくなった校舎を歩いた。廊下の端、さっき女の子が出て来た教室のドア窓を何気なく覗いたら、いた。晴の、妖精の女の子が、一人椅子に座ってイチゴミルクを飲んでいる。
教室には他には誰もいない。沢山の机と椅子が、片付けられ、教室後方に追い遣られている。本当にこの女の子、一人で部活をしているんだな、と、晴は気の毒に思う。晴は今日の部活説明会を思い出し、あの様子では誰も入部希望者は出ないだろうと思った。妖精のような、可憐で小さな女の子が悲しむ姿は見たくない。でも晴にはどうすることも出来ない。体育館の嫌な空気、からかい声、死に関する噂。
このまま廃部になるのがいいんだ。妖精の女の子が汚れないように。傷は浅いまま、部活がなくなればいい。
晴は埃っぽい臭いを嗅ぎ取った。廊下の後ろの方で、担当教師、佐藤先生が窓を開き、黒板消しと黒板消しを合わせて、ぽんぽん叩いている。
黒板消しから漂うチョークの粉末から逃げるように、晴は校舎から外へ出た。
五月の初め、だらだらと憂鬱そうに、辛うじて晴は学校に通っていた。埃や人の言動が汚いと思うことがあって、晴は精神不安定だった。しかし時々、妖精の女の子の笑顔を思い出すと、なぜだか気持ちが落ち着き、自分が汚いという思いすらも消えて行く。妖精の女の子は最早、晴の安定剤だった。放課後、時々隣の教室をドア窓から覗く。口角が上がった可愛い女の子の姿は、何よりも良い。
「お前さ、あんま喋んなくなったよなー」
勝利の言葉を気にしないくらいぼーっとしている時、晴は妖精ワールドにいた。でも今日は、はっと意識を取り戻した。
「何だよ」
「小学生の時はもっと喋ってただろ。大人しくなっちゃってー」
「今日の帰りはコロッケ食べに行こうな」と言う勝利の言葉を聞き流しながら、晴は気を取り直し、鞄から机の棚に教科書類を移した。窓から見た外の景色は雨一色だった。コロッケなんてとんでもない。スーパー前の移動コロッケ屋は雨に濡れる。
雨音は雑音でうるさい教室でも聞き取れるほどだったが、その雨音を打ち消して、ガラガラとドアを開け、佐藤先生が入って来た。今日は後ろに若い女の人を連れている。
「うわ、誰だ、あの人。美人だー」
先頭を切って反応を示した勝利。その後、他の生徒達も喋り出し、一気に騒がしくなる。
「はいはい、皆さん静かに。今日から教育実習生が来ることになりました。春香君、挨拶を」
「はい」
佐藤先生に返事をした若い女の人は、痩せていた。それに、スーツ姿だが、スーツの上からでもわかるくらい、ナイスバディだった。
「K大学から来ました。教育実習生の定山春香です。私はこの野風高校の卒業生で、ワンダーフォーゲル部に入部していた、OGです。教育実習生として皆さんに会えてとても嬉しく、そしてわくわくしています。ワンダーフォーゲル部にも顔を出そうと思うので、皆さんも良かったら遊びに来てください」
はきはきとした物言いだった。ワンダーフォーゲル部という単語が出て来たことに晴は驚いた。ワンダーフォーゲル部がまるで禁句であるかのように、この一ヶ月近く晴はその名を聞いたことがない。
「美人だな、オレのタイプだ。晴、協力しろよ」
横から小声で話す奴がいる。確かに美人な先生だが。
「それでは、ワタシからも一言」
佐藤先生が話し始めた。
「定山春香先生は、ワンダーフォーゲル部に来て度々指導をして下さる大変後輩の指導に熱心な方です。皆さんも相談事があったらお話されると良いでしょう。皆さんと年が近いし、きっと力になってくれるに違いありません」
いえいえ、というふうに謙遜した風の教育実習生を見ていた晴は、横から伸びて来て、ガシッと肩をつかむものに抵抗出来なかった。
「今の話、聞いていたか、晴。あの女は、オレのタイプだ」
「な、何……」
肩に掛けられた手の力が強くなる。
「あいつはワンダーフォーゲル部にきっと行く。オレはワンダーフォーゲル部で教育実習生の定山春香を口説いて、モノにする」
なんて夢みたいなことを言う奴なんだ。晴は小学校時代の勝利がこんな性格だったか思い出そうとして、そうだったかもしれないと思い直した。
「お前も一緒に来るよな! 友達だもんな!」
にっこり、勝利は笑った。肩の手に力がこもった。痛みを抑えながら晴は「うん……」と返事をしていた。
教育実習生は号令が済むと、佐藤先生と共に、廊下に出て行く。
「トイレトイレ~」と言いながら勝利は廊下に出て、教育実習生の後を追いかけて行った。
晴は溜息を付きながら、片手で肩を払った。
放課後は早々に下校しようと思った晴を阻むものがあった。
掃除当番だ。
マスクをした晴だったが、縦横無尽に飛び回る埃に、晴は吐き気を催した。モップを持って、そのまま固まる。頭の中は、戦争だった。
『埃、汚い』、『気持ち悪い』、『お前の方だろ』、『何?』、『汚くて気持ち悪いもの、それは即ち、お前だ』。
晴はマスクの上から手を押さえ、蹲った。
「きゃあ」
上から悲鳴が降り注いだ。
「汚い!」
晴は口から床に降り注ぐものを押さえようと、必死に手を当てていた。
「もういいから早く帰りなさい」
佐藤先生が声をかけてくれなかったら、晴は非難を浴び続けていたかもしれない。
口に手を当てて、トイレに駆け込む。
もう自分は駄目だ。汚い存在で、この学校には必要ない。教室でも浮いている。薄ら涙が出て来た。
水道で顔を洗っていると、「お、晴じゃん。行こうぜ見学」と、勝利がやって来てお気楽な調子で言った。
勝利は晴の肩をつかみ、廊下を歩いて行く。
「オレ達は友達、行くぜ地獄の果てまでも~」
適当な歌を歌う勝利に、晴は肩を揺さぶられながら廊下の端にまで連れて行かれた。なんだか気分が大分楽になった。
ワンダーフォーゲル部。その部室のドアの前まで連れて行かれると、晴の目の前で勝利はガラガラとドアを開いた。
そこには驚いた顔の、あの妖精の女の子がいた。彼女は笑った。晴は凄まじい癒しの効果を得た。吐き気がすっかり治まった。
妖精の女の子……というか、すでに晴からみたら完全にヒーリング効果のある大天使のような存在である女の子は、小走りして、一枚の紙を持って来た。
「これ、書いてください」
見学者名簿と書いてある紙だった。
「おー書く書く」
勝利は真っ先に自分の名前を書いて、紙と鉛筆を晴に渡した。
晴は名前を書く時に、女の子が自分を見ていることに気付いて、手が震えた。晴は不恰好な文字で名前を書いた。
「えーと、沢ノ宮勝利君と、清田晴君。見学に来てくれてありがとうございます。私は、部長の野風花です」
野風花……。晴はゴミ一つない草原に風が吹き、可憐に揺れる一輪の花をイメージした。イメージは、女の子にぴったりだ。
「あれ?野風って……学校と同じ名前?」
「あ、それは偶然なんです」
「ふーん」
勝利は教室の後ろの方にあった椅子を持って来て、ドカッと座った。
「あ、ごめんなさい」
「いいえ、お構いなくー」
花という少女は椅子をもう一脚持って来て「どうぞ」と晴に言った。
「どうぞ」……可愛らしい声に晴はすっかり舞い上がった。
「ん?どうした?」
勝利に聞かれて、晴は首を振る。大事なものに触れるように、そっと椅子に座った。
「何か質問はありませんか」
花が聞いた。
「はいはい」
「どうぞ」
勝利が元気良く質問をした。
「教育実習生の定山春香先生はいつ来るんですか?」
「あの、今日は春香先輩、初日だから忙しくて来られないって……」
途端に勝利は不機嫌な顔になった。
「いつ来るんですか? 明日?」
「あの……私、わからなくて」
部活見学に来たはずなのに、教育実習生のことばかりを聞く勝利。「少し遠慮しろよ」と言う晴の忠告も通用しない。
「オレ、帰るわ」
飽きたのか、勝利は一人立ち上がるとドアを開けて「失礼しまーす」と言って姿を消した。
晴も慌てて立ち上がるが、うるっと悲しそうに光る、花の大きな目がその足を止めた。幸運の女神で、妖精として崇めて来た花の悲しむ顔を、晴は見たくない。
勝利の後に付いて帰ることを諦め、晴は、もう一度静かに椅子に座った。
花の目が今度は嬉しそうにうるっとした。
「えっとえっと、清田君は、ワンダーフォーゲル部について質問はありませんか」
何も考えていなかった晴は、十秒くらい考えて「いつも部活では何をしているんですか」と聞いた。
本当は知っている、いつも学校の自動販売機のイチゴミルクを飲んでいることを。そして、ぼーっとして過ごしていることを。
花は「えーっと」と少し考える顔をした。
質問、まずかったかなと晴は後悔した。
「書いていいですか?」
花は立ち上がって、口角のきれいに上がった笑顔で言った。
「は、はい」
晴は頷いた。
『腹筋、背筋、腕立て、スクワット、100。ランニング六キロメートル』
黒板に花が書いたトレーニングメニューに、晴はしばし唖然とした。
「こんなことをいつもしています」
笑顔で花は言う。晴は頑張って笑顔を作った。
「そうですか」
思っていたよりもスポーツをしていることに、晴は驚き、落ち込んだ。
自分にはとても出来そうにない。スポーツは正直そんなに好きじゃないんだ。
晴の落ち込んだ顔に気付いたのだろうか、花は「でも」と言うと、黒板にさらに文字を追加する。
『腹筋、背筋、腕立て、スクワット、30。ランニング三キロメートル』
「これくらいから始めようと思います」
一生懸命に花が話した。
「入部、しませんか」
唐突だった。花の真剣な顔に笑顔はない。けれど、可愛くて綺麗な顔立ちが際立つ。
「山に、登ろう?」
一歩、花が晴に近付いた。花の顔が近くにある。気付けば晴は頷いている。
「はい」
一瞬の沈黙の後「良かったあ」と花が笑う。それこそ花が咲き誇るような笑顔だった。
入部届を手渡された晴は、また不恰好な文字で名前を書く。入部届を戻すと、花は満面の笑みを返す。晴は花の笑顔を初めてズルイと思った。
「今日は掃除をしたら終わりなの」
花は言った。
箒を手にして細々と動き回る花を見ていた晴は、教室の掃除みたいに気持ち悪くなることもなく、むしろ和やかな気持ちになった。花が掃除をするだけで教室も自分の心もキレイになる気がした。何よりキレイなのは勿論、花だ。
「入部届を提出するから、ちょっと待ってね」
職員室の前で花を待ちながら晴は、こんな簡単に入部してしまって、これからどうしようと思った。笑顔の花が戻って来ると、その不安は吹き飛んでしまったのだが。
外は、雨が止んだが曇り空で、おまけに春だから寒い。もう辺りが暗い時間になっていた。バスの停留所で次の時刻を確認したが、三十分くらい時間があった。歩いたら最寄りの駅まで行ける時間だ。そんな訳で晴は花と一緒に駅まで歩くことにした。正直晴は歩くのは面倒だし寒いなと思ったのだが、花が歩く気満々だったし、沢山話しかけてくれたので、面倒も寒さもどこ吹く風だった。
春用コートを風になびかせながら、花は山の話をした。苦労をしてやっと山頂へ辿り着いた時の爽快感は「他では味わうことができない」ものだと言う。
「最近はずっと一人だったし、冬だったから、山に登ることが出来なくて。春になって嬉しいな。清田君、これから一緒に頑張ろうね」
花は終始笑顔で山の話をした。曇り空に星が一つぽつんと現れた時には、星を指さして「これからもっとすごい星空を見られるよ」と言った。この町の住宅街で育ち、遊びに行くと言ったら町の中心部であった晴には、もっとすごい星空がどんなものであるか想像がつかなかった。でもきっと山のことを話す花の目の輝きを見たら、今まで見たどの景色よりもキレイなんだろうと思うことが出来た。駅で別々の列車に乗るまで、晴は花の、山の話を聞いた。
翌日、化学の時間が終わると、理科教師でクラス担当の佐藤先生が話しかけて来た。
「聞きましたよ、君が、あのワンダーフォーゲル部に入部した話」
突然何事だろうと思う晴だったが、佐藤先生がにこにこしながら言った次の言葉に首を傾げた。
「ワンダーフォーゲル部と言えばもうすぐ廃部になる部ではないですか」
え? そうなの?
「僕が入部したら廃部はなくなるんじゃ?」
佐藤先生は首を振り、残念そうに「今年一杯までと決まっているようなんですよ」と言った。
ぼーっと話を聞いていた晴の頭に、昨日の花の嬉しそうな笑顔が蘇った。
晴はふと我に返った。廊下を走り、階段を下った。息をぜいぜいさせながら二年生の教室を見て回る。花の姿はすぐに見つけることが出来た。その妖精的な小さな背は同じ制服の群集の中でも目立った。
「あの、ワンダーフォーゲル部がなくなるって……」
晴は花を呼び出すと、それだけを言うことが出来た。こんなに山が大好きな花、春になってやっと山に登れると喜んでいるのに、ワンダーフォーゲル部がなくなってしまうなんて。
花は厳しい表情になった。花が険しい顔になるのは嫌だ、と晴は思う。
「そうなの、ワンダーフォーゲル部はなくなるの」
深刻そうに花は言った。「詳しく説明するね」と言って、花は晴を職員室へ連れて行った。
「顧問の染田先生が、今年度末で退職になるの」
花は付いて来るように言うと、職員室の右奥に座っている先生の所まで歩いた。もうお年寄りといった雰囲気の先生が、今にも倒れそうなオーラを放ち、パソコンと向き合っている。
「染田先生、新入部員の清田晴君です」
染田先生は虚ろな目で晴を見た。
「よろしくお願いします」
晴は、自分が新入部員だという事実に改めて驚きながら挨拶をした。
「ああ……」
染田先生は晴に今やっと気付いたのではないかという、ちょっと驚いた顔をして口を開いた。晴は染田先生が話すのを待った。
「私は顧問と言っても、山には登らないから……まあ、なるようになるんじゃないかと思いますが……」
染田先生のやる気のなさそうな、消え入りそうな態度に、晴は呆れ、驚いた。花が珍しくはっきりと言う。
「山の経験がないと大変だと思いますが、私も新入部員が慣れるようにがんばります! よろしくお願いします!」
「ああ……はい、それじゃ……」
花の挨拶を軽く受け流すと、染田先生はパソコンに向かい、死にそうなくらい暗い顔で指を動かし続けた。
「染田先生は登山経験がないからきっとワンダーフォーゲル部には向かないだろうけど」
職員室を退室し、花が言う。今まではもう一人顧問の先生がいて、何もかも部の面倒を見てくれていたらしいが、その先生は遠い学校へ転勤した。今のままでは部の活動自体が難しい。それでも染田先生が顧問である間はいいのだが、退職した後、顧問をする先生が見つかっていない。
「このままだと部はなくなってしまう。だけどもし次の先生が見つかったら……」
ワンダーフォーゲル部は存続するという訳だった。
今すぐにワンダーフォーゲル部がなくならないと知って、晴はほっとした。顧問があれで、部の活動自体が続くのかという疑問は浮かんだが。
花が好きな登山は出来ないかもしれない。いつまでも山に登れなかったら花は悲しむだろうな。自分としては山に行かない方が助かるのだけれど、と晴は思う。だって、晴はキレイでない所が本当に苦手だから。花の言うように、山がキレイな所ばかりだとは思えない。
お互いの教室に戻るため別れる時、花は自分に言い聞かせるように言った。
「だ、大丈夫。ワンダーフォーゲル部は、続けるから」
噛みながら大きな声で言う花に「はい」と返事をする晴。
「また放課後にね」
ぶんぶん手を振る花を見て、晴は気の毒な気持ちになった。何があっても花の側にいよう、と晴は思った。そしたら、部活は続くのだから。少なくとも今年度一杯は。
その日、後半の授業で、晴は何か良い案が思い浮かばないか、真剣な眼差しでぼーっとしていた。多分、外から見たら授業に集中しているように見えただろう。晴は前方をなんとなく眺め、ペンをつかみながら、どうしたら廃部を防げるのか、真剣に考えていた。
部活に必要なのは、部員と顧問だ。部員を増やす方法は晴には思い付かない。既に花は合格発表の時から部員勧誘をしているのだ。だとしたら、残りは顧問か。晴は授業中の先生方を初めてまともに見た。先生方一人一人を、顔に穴があくくらいしっかりと見る。この先生は、顧問になってくれそうかどうか……。
取っ付きやすい顔だと思った先生は、既にどこかの部活の顧問になっていた。帰りのミーティングで晴は俯き、溜息を付いた。ちなみに「では皆さん帰りましょうか」と言った担任の佐藤先生は美術部の顧問だ。
「こんにちは……」
放課後、部室のドアを消え入りそうな声で開けた。ドアの音もカラコロと寂しそうだ。
「声が小さい!」
張りのある大人の女の人の声が響いた。顔を上げると、嬉しそうな花の笑顔と、少し厳しそうな表情の、教育実習生、定山春香の顔があった。
「新入部員はまずは大きな声を出すこと!」
定山春香はきりっとした黒目を輝かせ、笑みを見せた。
「あなたが新入部員の清田晴君ね。よろしく」
教室でのおしとやかな雰囲気を一切排除したてきぱきとした態度。晴は「は、はい」と噛みながら答え「よろしくお願いします」を言った。
その日はジャージに着替え、準備体操から始まった。花と晴が体を動かし、交代で数を数える。
「いち、に、さん、し、ご、ろく……」
一通りの準備体操が終わった所で突然、勢いよくドアが開いた。
「こんにちは! 春香先生! 入部希望です!」
こいつは、全く単純なんだから……と、声を聞いて晴は思う。
「あら、あなたは……」
春香は既に声の主のことを知っているみたいだった。ま、あれからホームルームと化学の授業の度に話し掛けていたから当然の結果かもしれないが。
「沢ノ宮勝利。ショーリって呼んで下さい!」
「丁度良かった、これからランニングをする所なのよ……部員が増えるのなら山に行く必要が出てくるわね……」
話の後半は、ぼそり、自分に言い聞かせるかのように春香は言った。え? 山に行く?冗談ですよね。晴はまだ山に行く覚悟が出来ていなかった。
「ランニングー! 大好きです! 春香先生!」
勝利はランニングが好きなのか、春香が好きなのかよくわからない調子で言った。
「じゃ、頑張って走ってね」
「はい!」
晴にとって初めての三キロメートルのランニングは地獄の様相を呈した。汗だらけになり、息をぜいぜいさせ、なぜか意欲満々の勝利と全速力の競争をする。
ちなみに花は、はるか前方を走っていた。そんなのありか、と晴は思う。
ゴールには腰に手を当てて、まるで鬼顧問のような恰好をした春香がドンと待っていた。
二人がデットヒートを終え倒れ込むようにゴールすると、春香は満足そうに頷き、花は嬉しそうに拍手をした。
「凄い、凄い、初めてだとは思えないよ、二人共!」
花は飛び上がって喜んだ。
「よし、決めた」
春香は玄関前の階段を降りた。晴と花と勝利の目が、春香に集まる。
「このメンバーで山に登りましょう」
「おうっ!」
すぐに返事をしたのが勝利。瞳を輝かせて「春香先輩も一緒ですか」と聞くのが花。息をまだぜいぜいさせて汗を首のタオルで拭いているのが晴だった。
「私も一緒に行くわ」
寒くならないよう、早めに部室に切り上げながら、春香は言う。
「いきなり高い山に登るのは辛いと思うの。だから、まずはハイキングから始めましょう」
「行き先は?」
花が聞いた。
「春香せんせー、バナナはおやつに入りますか」
勝利はふざけている。
「そうね、おやつは必要だわ。出来れば高カロリーで腐らない物がいいわね。あと、リュックサックと飲み物。用意できる?」
「出来ます出来ます、楽勝です」
勝利は本当に山を登る気なのか、と、晴は憂鬱な気持ちになった。
「行き先は、円山」
「よっしゃ! 楽勝!」
勝利はガッツポーズになった。円山なら、晴は幼稚園や小学校の時に登ったことがある。緑豊かで、子どもも登れる市民の癒しの場。しかし、何年前の話だ? キレイなものが好きで、汚いものが嫌いな、今の自分に登れるのかと、晴は弱弱しく考えた。
ずっと無言の晴に気付いたのか、花は純真そのものの大きな目で晴を見た。
「清田君は大丈夫?」
「えっと……」
実は山は汚いから多分苦手なんです……そんなこと、今更、言える訳がない。
「晴は大丈夫さ、親友のオレが保障する」
いつから親友になったんだ。勝利の腕に押しつぶされそうになりながら晴は思った。
「お前、春香はオレのものだからな、応援しろよ」
勝利はこそっと言い、肩に回す腕に力を込めた。
「うん……」
晴は頷いていた。
『高カロリーのおやつ、リュックサック、飲み物』
春香の言う必要な物をメモしながら晴は不安な気持ちを隠し切れなくなり溜息を付いた。