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離縁は承知しました

離縁まで三年、一文も渡されず魚代は講から出ていました——板を裏返せば、お宅の身だけ端がむしれます

作者: 真神 慧
掲載日:2026/08/13

「一文も、でございますか」


 富喜は、膝に置いた手を崩さなかった。崩さなかったが、今朝の擂り鉢を思い出してしまった。あの乾いた手なら百二十で止まる。いや、九十。権助さんは機嫌がよいほど早く飽きるから、九十でございますわね。


「銭を稼がぬ嫁に一文も渡さぬ。食わせてもらっている身で、何が要る」


「承知いたしました。——ところで今朝は、九十でお止めになりましたのね」


 権助さんの顎が上がった。舅も家の者も、板の間に並んだ蒲鉾のほうを見ている。表には照りがあり、丸く盛った白身は、なるほど家の名に恥じぬ顔をしていた。顔だけなら。


「数えていたのか」


「手が止まりましたので」


「細かい女だ。百だろうが九十だろうが、蒸せば同じだ」


 同じなら、十回ぶんの手間は毎朝どこへ消えるのでございましょう。味噌汁へ落ちるなら椀を持って待ちますけれど、十回どころか三十回、五十回、放っておけば百回。手間というものは足が速い。銭よりよほど素早く、しかも逃げた先から戻ってこない。


 富喜は一枚を持ち上げた。表を覗き込む舅の鼻先から、くるりと板を返す。板の裏、白身のはみ出した端が、乾いた指で引きちぎったようにむしれていた。


「裏など誰が見る」


「お滝さんはご覧になります」


「河岸の女が何を見ようと、うちの蒲鉾はうちの蒲鉾だ」


 家の者が小さく頷いた。一人が頷けば十回、三人なら三十回。三十回も首を振る力があるなら、擂り鉢へ回していただきたい。今朝足りなかったぶんが、ほとんど埋まる。


 富喜は板を元へ戻した。むしれたところを下にすれば、誰にも見えない。見えないものは無いものになる家で、富喜は三年、裏ばかり見ていた。


    *    *    *


 三年は、擂り粉木なら何回でございましょう。富喜は考えかけて、やめた。数が大きすぎると、立派なものに聞こえて腹が立つ。


 嫁入り前から積んでいた講の掛け金は、小さな紙包みになって箪笥の底へ入っていた。魚が上がれば一包み、板の払いが先ならもう一包み。店の帳面には家が払ったように書き、自分の紙には減った掛け金だけを書く。二つ並べれば、まあ見事。片方は太り、片方は痩せる。夫婦とは帳面まで釣り合いを取るものらしい。


 権助さんは、魚を選ぶ目は悪くなかった。けれど擂り鉢へ向かえば、百五十で肩を回し、二百で水を飲み、三百で外を見た。四百になる頃には用事を思い出す。用事の多いお方でございますこと。毎日、四百回のあたりにだけ用事が生える。


 そこから先を富喜が引き受けた。塩を入れたところで粘りが変わり、八百を越えると粉木へ返る重さが揃う。千二百まで擂れば、板へ盛った身の縁がすっと立った。


 千二百は多い。けれど、権助さんが新しく買った帯なら三千回、舅が客へ振る舞う酒なら二千五百回、家の者が昼下がりに交わす噂話なら一刻で六百回。そう考えれば安いものだ。人は、自分が擂らぬ回数ならいくらでも使える。


 富喜の櫛は、欠けた歯を磨いて使っていた。家から渡された艶のよい櫛を見たときは、つい千二百回と値踏みした。その櫛で千二百回。千二百回ぶんを髪へ挿して、板の裏は一度もご覧にならないのですから、手間とは不思議なものでございます。


 時化の後は、魚の値が三日だけ跳ねた。三日。朝夕二度で六度、千二百を掛ければ七千二百回。値上がりを回数へ直してみても銭は湧かなかったが、少なくとも腹は立てやすい。腹の立ち先がきちんと整頓される。たいへん便利。


 河岸では久次さんが板の束と秤を前に、声を張らずに数字を読んだ。


「三十六枚」


「三十六枚でございます」


「白身、十八斤」


「十八貫」


「欠け、二枚」


「次で替えます」


 それで終わりだった。久次さんは富喜の顔色も、家の都合も訊かなかった。三十六は三十六、十八貫は十八貫。数字は人を慰めない代わりに、勝手に見下しもしない。その無愛想さを、富喜はたいそう買っていた。銭を払ってでも買いたいくらいだが、数字にまで銭を取られては掛け金がもたない。


 お滝さんは納められた板を一枚ずつ受け取り、まず裏へ指をかけた。


「今日は」


「千二百でございます」


「塩は」


「昨日よりひとつまみ少なく」


「三十六」


「はい」


 短い。富喜が心の中で千二百回も喋っている間に、お滝さんは三つで商いを終える。その三つが、権助さんの長広舌より重かった。河岸は、口数ではなく重さで払う場所なのである。


    *    *    *


 空く手は、仕事をしない手より軽い。権助さんは、その軽さを富喜への褒美だと思ったらしい。


「明日から擂りへ入らなくてよい」


 富喜は粉木を洗っていた手を止めた。水を切り、布で一度、二度、柄を拭く。まだ魚の脂が残っていたので、もう一度。三度で十分。権助さんなら一度で放り出すところだが、今日はその一度すら触れていない。


「新しい手を入れるのでございますか」


「家の者で足りる。擂りなんぞ、手さえ動けば同じだ」


「左様でございますか」


「お前は口を挟むばかりで銭を稼がぬ。離縁する。荷をまとめろ」


 舅は咳払いをした。止める咳ではない。道を空けるための咳である。家の者は戸口から退き、きれいに一本の道を作った。富喜が通る幅だけ。三年住んだ女を出すには、ずいぶん手際がよろしい。擂りにもその手際を分ければよろしいのに。


「承知いたしました」


「何だ、その言い方は」


「ほかの言い方を存じませんので」


 富喜は帳場へ座った。家の帳面には、魚代、塩、薪、板、納めた枚数を日ごとに揃えてある。時化の印も、払いを延ばしてもらった日も、板を一束多く入れた日も残した。誰が銭を出したかだけは書かなかった。家の帳面なのだから、家の者が知っているはずでございましょう。まさか知らないなどと、そんな愉快なことがあるものですか。


 自分の紙には、掛け金の残りだけを書き足した。残った包みと数字を合わせ、筆を洗う。立て替えの控えは、帳面の脇へきちんと重ねた。隠しもしない。持ち出しもしない。見ようとする者が一人いれば、そこで三年が見える。


 富喜は櫛と着物を風呂敷へ包み、擂り粉木だけを台へ残した。あれは河岸から家へ貸された道具だ。千二百回動かした手は富喜のものでも、木まで自分のものになるわけではない。そこを混ぜると、権助さんと同じになってしまう。冗談ではない。


 空いた擂り台の前を通ると、誰も立っていなかった。明朝には誰かが立つのだろう。二百で肩を回すか、四百で用事を思い出すか。人の手を見る楽しみが増えましたわ、と富喜は思った。


 家の者は、最後まで道を空けたままだった。戸が閉まる寸前、舅が帳面の山へ目をやった。手は伸びなかった。


    *    *    *


 艶は、たいへん働き者である。中がどれほど足りなくても、表へ塗れば一晩くらいは商いの顔をしてくれる。


 富喜が河岸へ寄った朝、権助さんの家から届いた蒲鉾は、見た目だけなら昨日までと同じだった。丸く、白く、つやつやしている。化粧のうまい蒲鉾。板の上で澄ましている姿は、権助さんによく似ていた。


 お滝さんは一つを切り、口へ入れた。二度噛んで、残りを皿へ戻す。


「何回」


 権助さんが先に答えた。


「魚が悪い。時化の後の魚は水っぽくていけねえ」


「何回」


「だから魚が——」


「六百四十」


 家の者が、聞かれてもいないのに白状した。権助さんがそちらを睨む。声は舅へ向けるときより二回り大きかった。


「なぜ止めた!」


「権助さんが、これでよいと」


「人のせいにするな。手を動かせと言っただろう」


 なるほど。富喜へは手さえ動けば同じ、家の者へは足りなければ人のせいにするな。言葉も蒲鉾と同じで、表へ艶を塗れば中身は問わないらしい。富喜なら、その艶に八十回と値をつける。二度目は買わない。


 久次さんが魚の払いを書いた紙を持ってきた。


「時化明け、三日分」


「十八貫ずつでございますか」


「十八、十七、十八」


「合わせて五十三貫」


「今日まで」


 権助さんは紙を見て、鼻を鳴らした。


「この品では払えん。魚のせいで納めを返されたんだ。値を引け」


 お滝さんは紙を権助さんから取り、富喜へ向けた。


「注文の名は」


「わたくしでございます」


 離縁を告げられる前、富喜が入れた注文だった。五十三貫。掛け金の残りを思い浮かべる。包みなら二つと半分。擂りなら——。


 富喜は懐から包みを出した。数えず、お滝さんの前へ置く。


「こちらで足りますか」


「足りる」


「では、お納めくださいませ」


 権助さんが眉を寄せた。


「お前が出すことはない。もううちの者ではないんだぞ」


「注文した者が払っただけでございます」


「なら品を持っていけ」


「要りませんわ」


 それ以上は告げず、富喜は河岸を出た。なぜ最後の魚代まで払うのか、自分でも数えなかった。数えれば答えが出そうで、出たところで五十三貫は戻らない。戻らないものを何度も勘定するほど、暇ではない。


 後から久次さんが追いついたのは、道具を返すためだった。両手に抱えていたのは、家へ残したはずの擂り粉木である。


「帳場の脇にあった。借り物の印」


「お滝さんのでございましたか」


「一本」


「お返しいたします」


「受け取り済み」


 久次さんは富喜が借りている土間の台へ粉木を置いた。柄から手を離し、数も確かめず帰っていく。富喜も礼を二度重ねなかった。借りた一本が戻った。それだけでよい。それだけで済むやり取りは、千二百回より気持ちが軽かった。


    *    *    *


 板の裏は、口より先に三年を喋った。


 河岸の帳場へ呼ばれたとき、富喜の前には古い板が一枚、裏を上にして置かれていた。縁に沿って、白身を切った細い跡が揃っている。富喜が納めを始めた頃のものだという。板の尻には家の印があるだけで、擂った者の名はない。


 権助さんと舅、家の者も向かいへ座った。権助さんは、帳場へ入るなり膝を広げた。


「払いなら、魚の値を引いてから話せ。悪い品を寄越したのはそっちだ」


「悪い品」


「うちの納めが止まったのは魚のせいだ」


「三度、返した」


「だから、その三度分を——」


 お滝さんは手を上げた。声を荒らげる必要もない。短い手は、長い言い訳をよく切る。


「裏を見せてごらん」


 久次さんが、新しく届いた束から一枚だけ抜いた。お滝さんはそれを裏返し、古い板の隣へ置く。


 古い板の跡は、髪ほど細く揃っていた。新しい板は、角ごとに白身が食い込み、引き剥がした木肌がけば立っている。あの日、富喜が見つけたむしれより深い。回数を落とすたび、板まで腹を立てたのだろう。板とは正直なものだ。人と違って、家の名に遠慮をしない。


「見た目は同じだろう」


 権助さんが言った。


 お滝さんは答えず、帳面を開いた。古い板へ一本、新しい板へ一本、指を置く。


「前。千二百」


「誰がそんなことを証す」


「富喜」


「うちの嫁だった女だ。家の仕事をしただけだ」


「後。六百四十」


「それは家の者が勝手に——」


「家の仕事だろう」


 舅の膝が狭くなった。家の者が横目で権助さんを見る。離縁の日には富喜のために空けられた道が、今度は権助さんの周りにできていく。人は道を空けるのが好きだ。責めを負いそうな者の隣ほど、よく空く。


 お滝さんは別の帳面を開いた。そこには魚を渡した日と、受け取った銭、差を埋めた者の名が書かれていた。


「三年」


 権助さんの鼻先へ帳面が向く。


「払った名は、富喜だよ」


「何を言っている。うちの払いだ」


「受け取った包みは富喜。延ばした分を埋めたのも富喜。時化明け三日、五十三貫も富喜」


「そんなはずはない。あいつに銭など——」


 そこまで言って、権助さんの口が止まった。


 銭を稼がぬ嫁に一文も渡さぬ。お滝さんの太い指の下には、養われた三年だけがきれいに揃っている。


 家の者の一人が、舅へ何か言いかけた。舅は帳面を引き寄せ、富喜が家へ残した控えと見比べる。紙の端まで同じ日付だった。ようやく手が伸びたのでございますね。三年と少々、お待ちいたしました。


 まあ、顔というものは面白い。養っていた方のお顔から、養われていた方のお顔へ。擂り粉木なら一回も要らない。板一枚で、くるり。


 富喜は膝の上で指を組んだ。回数は、浮かばなかった。


「わたくしは、三年、掛け金を崩してまいりました」


 それだけ言った。包みの数も、減った銭も、夜ごとの千二百回も口へは出さなかった。出してしまえば、返せるもののように聞こえる。


 お滝さんが古い板の尻を叩いた。


「誰の仕事だ」


「家の蒲鉾だ」


 権助さんの声は、帳場へ入ったときの半分になっていた。


「名を訊いた」


 誰も答えなかった。富喜は、名のない板を見た。


 身代は、どなたが回しておりましたかしら。


 答えは、帳面より先に板へ残っていた。


    *    *    *


 空いた擂り台には、家の名を置いても粉木は動かなかった。


 翌朝、お滝さんと富喜が店へ行くと、家の者が二人、鉢の前に立っていた。一人が擂り、もう一人が数える。三百を越えたところで数える声が遅れ、五百で合わなくなり、六百でどちらが間違えたかを言い争い始めた。二人いて六百。富喜一人の半分。人手とは、足せば増えるとは限らないらしい。


「今日は千までやる!」


 権助さんが粉木を奪った。百までは速い。二百で袖をまくり、三百で歯を食いしばり、四百で家の者を睨む。


(擂りなんぞ、手さえ動かせば誰でも——)


 五百に届く前、粉木が鉢の縁へ当たった。鈍い音がして、白身が片側へ寄る。権助さんは空いた台を見た。そこに立つ者はいない。


 お滝さんが久次さんへ顎を向けた。


「明日」


「零枚」


「明後日」


「零枚」


「扱いを外す」


 権助さんが粉木を置いた。


「待て。これまで何年も納めてきた筋がある」


「筋を擂っていた手がない」


「富喜を戻せば済む」


「ここで決める話じゃない」


 お滝さんは古い取引札を外し、権助さんへ渡した。札は受け取られず、台の上へ落ちた。木の音が一つ。三年続いた扱いが外れるには、それで足りた。


 富喜は手を出さなかった。札も、粉木も、空いた台も、元の家のものだ。わたくしの手だけが、あそこには無い。なんと整った勘定でしょう。


 それから半年、店の納めは減った。艶だけ整えた蒲鉾は二度目を買われず、古い得意先も一軒ずつ注文を外した。家の者は入れ替わりで擂り台へ立ったが、長くても三日、早ければ半日。肩を痛めた、腰がつらい、ほかの仕事がある。用事は相変わらず四百回のあたりによく生えた。


 舅と家の者が富喜の借りた土間へ来たのは、暑さの名残が消えた頃だった。三人は戸口に並び、離縁の日とは反対に、富喜の道を塞いだ。


「権助の顔を立てると思って、戻ってはくれまいか」


「店が立ち行かんのだ」


「お前も三年いた家だろう」


 富喜は板へ白身を盛る手を止めなかった。ひとすくい、ふたすくい、包丁の腹で山を整える。戸口の三人を擂りに換算すれば、せいぜい七十回。立っているだけでは一回にもならないので、だいぶ色をつけた。


「聞いているのか」


「聞いております」


「なら——」


「こちらは仕込みの最中でございます」


 お滝さんが三人の間から手を差し入れ、戸を閉めた。慰めも説教もない。戸口は出入りする者のためにある。仕事を戻せと頼むだけの者を置く場所ではない。


    *    *    *


 自分の名は、擂るより短い手間で板へ入った。それでも富喜は、その一文字ずつを急がなかった。


 お滝さんが空いていた土間の使用料と、納める枚数を紙へ書いた。久次さんが板の束を運び、十枚ずつに分ける。富喜は粉木、鉢、包丁、蒸し上げる道具を一つずつ確かめた。借りたものには印をつけ、買ったものは自分の控えへ書く。誰のものか分からなくなると、三年くらい平気で消える。もう十分でございます。


「あんたの擂りに、河岸は月いくら払えばいい?」


 お滝さんは、事情ではなく代価を訊いた。かわいそうだからでも、元の家を見返せるからでもない。擂りにいくら。千二百回にいくら。板の裏を揃える手にいくら。


 富喜は口の中で、魚代と塩、薪、板、土間の使用料を足した。そこへ自分の手間を足す。いつもの癖で一度安く置きかけ、消した。自分の手だけ値を引く理由が、もう見当たらない。


「月二分。魚代と板代は別でございます」


「二分」


「はい」


「魚と板は別」


「はい」


「百二十枚」


「承ります」


 お滝さんはその場で紙へ書き、富喜へ渡した。富喜の名で、月の代価が決まった。三年ぶんを褒める言葉はなく、これからの一月ぶんを買う数字だけがあった。それでよい。褒め言葉は腹を満たさないし、板も買えない。二分なら買える。なんと頼もしい。


 最初の百二十枚を納める朝、富喜は板の尻を炭火へ近づけた。細い焼き鏝の先が赤くなる。試し板を裏返し、端のむしれがないことを確かめてから、尻へ鏝を当てた。


 富。


 焦げた木の匂いが立つ。もう一度、先を熱する。


 喜。


 家の印ではない。誰かの妻とだけ記される名でもない。擂った者、払う者、納める者の名が、板の尻へ黒く残った。


 富喜は焼き鏝を置き、裏を撫でた。揃った細い跡が指の腹へ触れる。千二百回。久しぶりに数が戻ってきた。けれど今度は腹が立たない。千二百回ぶん、きちんと月二分の中へ入っている。手間というものは、買われる場所を得ると逃げ足が鈍るらしい。


「富喜」


 門前に権助さんが立っていた。半年で肩が落ち、帯だけが以前と同じ幅をきかせている。富喜は板を積む手を止めず、十枚目へ縄を回した。


「何のご用でございますか、権助さん」


「家の納めがなくなった」


「存じております」


「お前が意地を張るからだ」


「左様でございますか」


「河岸へうちの品を入れろ。お前が擂れば済む」


「こちらの納めがございますので」


「なら、戻れば済む。銭のことなら考えてやる」


 考える。便利な言葉だ。払うとは言わず、戻せとは言える。権助さんの考える一回は、富喜の千二百回よりよほど値が張るらしい。ぜひ一生、大事に抱えていていただきたい。


 富喜は、名を焼いた一枚を持ち上げた。表には白い蒲鉾、裏には揃った跡、尻には富喜。全部が一枚に収まっている。


「銭を稼がぬ嫁に一文も渡さぬと、仰いましたわね」


「昔の話だ。夫婦なら——」


「身代は、どなたが回しておりましたかしら」


 権助さんの口が開いた。答えは出なかった。


 富喜は板を返し、自分の名を上にした。門前へ背を向け、百二十枚目の縄を結ぶ。元の家へ渡す板は一枚もない。擂りの回数も、魚代も、富喜の名も。


 久次さんが帳面を持って土間へ入った。


「百二十枚」


「揃っております」


「次の白身は霜月の十日から入ります」


「はい」

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。


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