第89話『猶予、破滅の始まり』
薫子様の 「……取り返しのつかない場所まで、導いてしまったの……」 という、後悔と甘美な記憶に満ちた呟きが、サロンに重く響いていた。 清顕様は、震える指で、冷めきった紅茶のカップを置いた。
「(息を呑み)取り返しのつかない、場所……?なあ、母上、それって……!」
「(清顕を真っ直ぐに見据え)……父上。いえ、清顕様。 あなたが『処分』という言葉を使ったからです。 あなたが、母上を『毒』と断じ、弟(清影)を『弱さ』と切り捨てたからです」
清継様の静かな糾弾が、父に突き刺さる。
「……それが、当主としての『理』だ」
「では、その『理』が、何を招いたのか。その続きを、お聞かせください」
清顕様は、何も答えず、ただ、再び目を閉じた。 その沈黙が、回想の続きへの「扉」となる。
(――場面が、白くフェードアウトし、二十数年前の、近衛家の庭園へと切り替わる――)
月明かりの下、二人の顔が、ゆっくりと近づいていく。 清影が、薫子様に、そっと口づけを落とした。
その、瞬間。
「――そこまでだ」
闇の奥から、若き清顕が、全てを見ていたかのように、姿を現した。 その瞳は、昨日までの「冷徹」ではなく、明確な「殺意」と、全てが崩れ落ちたかのような「絶望」に染まっていた。
「(舌打ちし、薫子を背後に庇い)兄上……。あんた、やっぱり、つけてやがったのか!」
「(もはや弟を見ていない。薫子だけを、憎悪を込めて睨みつけ) ……女。……貴様か。弟を、ここまで『狂わせた』のは」
「(清影に向き直り)……清影。今すぐ、その女から離れろ。 お前は、近衛家の『秩序』を、その女と『共鳴』することで、根本から破壊した。 万死に値する」
「(激昂し、本気の『雷』をその身に纏い)……黙れ!『秩序』だ『理』だ、うんざりだ!」
「(薫子の手を強く握り)……俺は、薫子を愛してる! あんたが、父が、家が、こいつを『処分』するってんなら……!」
「(兄に向かって、宣戦布告する)……俺が、あんたら全てを、この力で、ぶっ潰す!」
清顕もまた、自らの「理」の化身である「氷」のような霊力を解放し、二人の兄弟が、今まさに、一族を破滅させかねない激突を迎えようとした――
「――そこまでにしろ、二人とも!」
屋敷の奥から、当時の当主(二人の父)の、厳格な声が響き渡った。
「……父上」
「ちっ……!」
「清顕。お前は、当主代理として、家の『理』を乱した弟を罰する義務がある。 ……だが、今ではない」
「……清影。お前は、一週間の『猶予』を与えよう。 その女(薫子)を捨て、近衛の血に戻るか。 ……あるいは、その女と共に、一族から『追放』され、全てを失うか。 ……選べ」
「……!」
若き清顕は、父の裁定に、無言で、しかし屈辱に耐えるように拳を握りしめた。
その唇が、血が滲むほど強く噛み締められているのを、誰も知らなかった。
(……秩序を乱す『毒』と『感情』に、猶予、だと? 父上まで、あの女に惑わされたか…!)
彼は、無言のまま踵を返し、その場を去っていった。
(――回想が途切れ、私たちの意識が現在のサロンに戻る――)
「一週間の……猶予……」
清馬様が、呆然と呟く。
「……(清顕を見据え)……つまり、その一週間が、彼ら(清影と薫子)に与えられた、最後の時間だった、と」
清継様が、事の重大さを理解し、息を詰める。
清顕様は、息子たちの問いには答えず、ただ、あの日の屈辱を思い出すように、目を閉じていた。
「そうだ。……そして、その『猶予』こそが、本当の『地獄』の始まりだった」
「その一週間で、何があったんだよ……!?」
清馬様の叫びに、清顕様は答えず、ただ、静かに薫子様へと視線を移した。 薫子様は、その視線を受けると、あの「蔵」での出来事を思い出すかのように、そっと目を伏せた。




