第8話「倒れし双雷と、癒しの巫女の覚醒」
銀座での一件から数日。私の日常は、表面的には何も変わらない。
けれど、水面下では何かが静かに、そして確実に動き出しているのを肌で感じていた。
屋敷の周りを漂う妖の気配が、日増しに濃くなっているのだ。それはまるで、獲物を品定めするかのように、じっとりと屋敷を、そして私自身を舐め回すような、陰湿な視線だった。
「近衛が隠している『切り札』……面白い。俺のモノにすれば、近衛を超える力となる」
屋敷を見下ろす丘の上で、九条暁人が獰猛な笑みを浮かべてそう呟いていることなど、知る由もなかった。
その夜は、月が厚い雲に隠れ、帝都全体が深い闇に沈んでいた。
夕餉の片付けを終え、少しだけ夜風に当たろうと縁側に出る。ふと、庭の木々の影が、風もないのに不自然に長く伸び、蠢いているのに気づいた。
「……嫌な感じがする」
胸のざわつきが、最高潮に達した、その時だった。
キィィィィン──!
突如、屋敷全体を震わせるような甲高い不協和音が鳴り響いた。近衛家を守る結界が、外から破られたのだ。けたたましい警鐘が、屋敷中の静寂を切り裂いた。
「来るぞ!」
清継様の鋭い声が響く。庭に飛び出すと、そこにいたのは、磨き上げられた黒曜石のように、全身が滑らかな鏡面のようになった異形の妖だった。
周囲の景色をぐにゃりと歪めて映し込むその体は、見るだけで眩暈がしそうだった。
(この感じ……間違いない。あの黒い水晶と同じ、人の手で無理やり練り上げられた、歪な気の流れ……! この妖も、あの水晶と同じ手で…!?)
「琴葉!」
事前に術式を共有していたのだろう、楓も既に駆けつけてくれていた。
「ちぇっ、面倒なのが出やがったな!」
一番に動いたのは、やはり清馬様だった。
彼の瞳が金色に閃き、その右腕に青白い雷を収束させる。
「まずは一発! 雷穿!」
槍のように鋭く練り上げられた雷が、妖めがけて迸る。
しかし、雷の槍は妖の鏡面の体に吸い込まれるように消え、一瞬の間を置いて、
さらに増幅された雷となって清馬様自身に撃ち返された。
庭の隅にあった桜の木にその余波が直撃し、一瞬で幹を黒焦げにする。
「ぐあっ!」
避けきれなかった一撃が肩を掠め、激しい衝撃に清馬様が体勢を崩す。
「清馬!」
清継様が咄嗟に彼の前に立ち、雷の糸を編み上げて盾とする。
天網の結界が、辛うじて追撃を防いだ。
「そういうことか…! 異能を吸収し、増幅して撃ち返す能力…。厄介な、まるで山彦だな…!」
「……まどろっこしい」
凍てつくような低い声が響いたかと思うと、屋敷の塀を飛び越えて、紅蓮の炎を纏った人影が舞い降りた。
「獲物を横取りされてはかなわんな。そいつは俺がいただく」
九条暁人だった。彼は不遜な笑みを浮かべると、強力な炎を妖に叩きつける。
しかし、その炎すらも妖に吸い込まれ、倍になった威力で返ってきた。
攻撃すればするほど、敵は強大になっていく。完全に手詰まりだった。
増幅された攻撃が、清継様の結界を徐々に削っていく。
「くそっ、どうすりゃいいんだ!」
清馬様の焦燥に満ちた声が響いた。
その時、妖の歪んだ視線が、異能を持たない私を捉えた。
弱点だと気づかれたのだ。巨大な腕が、私めがけて振り下ろされる。
「──っ!」
声にならない悲鳴を上げた私の前に、一つの大きな背中が立ちはだかった。
「させるかよっ……! こいつに指一本、触れさせてたまるか……!」
清馬様だった。
防御も間に合わず、彼はその一撃を背中にもろに受け、ごふっ、と大量の血を吐きながら私の目の前で崩れ落ちた。
「清馬!」
清継様が激昂し、残る全ての力を極小の一点に収束させる。
「よくも弟を…! 金剛針!」
しかし、渾身の精密な一撃すらも吸収され、増幅された光が彼の体を無慈悲に貫いた。
「あ……」
清継様もまた、私に手を伸ばしながら、糸が切れたように崩れ落ちる。
「清継様! 清馬様!」
妖が、倒れた双子にとどめを刺そうと、その腕を振り上げる。
その前に、楓が立ちはだかった。
「させるものですか!」
彼女の瞳が瑠璃色に輝き、「水鏡」の防御壁が展開される。
しかし、増幅された妖の攻撃の前に、その壁はあっけなく砕け散った。
(まただ……また、私は何もできない)
(お父さんとお母さんの影が、陽炎のように薄くなって消えていった、あの時と同じ…。今、目の前で、清継様と清馬様の影が、あの時の両親の影に重なって……薄れていく…!)
絶望が、私の心を塗りつぶしていく。
(いやだ…! もう、失わない!)
過去の無力感を振り払う、魂からの叫び。
その瞬間、私の視界が真っ白な光に包まれた。
瞳が、まばゆい真珠色に輝き、私の体から温かく、柔らかな光の粒子が溢れ出す。
真珠色の光が、血の海に沈む双子を優しく包み込む。双子の深い傷口から、失われた血が逆流するかのように光が溢れ出し、裂かれた肌を内側から編み上げていく。
「これは……」
暁人が、目の前の奇跡に息を呑む。
完全に回復した清継と清馬が、驚きながらも立ち上がった。
清継が冷静に叫ぶ。
「清馬、九条! 奴は異能を吸収するが、許容量には限界があるはずだ! 同時に最大火力を叩き込む! 楓は援護を!」
「おう!」
「……近衛に手柄を横取りされるのは癪だが……ちっ、今回は貸してやる!」
三つの異なる力が、一つの目的のために集束する。
「天に満ちよ、百雷の叢!」
清馬様の叫びに呼応し、天から無数の雷の矢が降り注ぐ。
「貫け、金剛針!」
清継様の指先から、全てを穿つ一筋の光が放たれる。
「滅せよ、九頭竜・紅蓮!」
暁人様の体から、九つの竜の形をした業火が迸る。
三つの必殺の力が、同時に、寸分の狂いもなく妖の核を直撃した。
許容量を超えたエネルギーに「反響」は耐えきれず、甲高い断末魔を上げると、
内部から砕け散り、消滅した。
戦いが終わった静寂の中、力を使い果たした私は、その場に崩れ落ちた。
(……嫌な感じ。闇の残り香が、幼い頃に患った結核の咳のように、肺にまとわりついて胸を締め付ける)
薄れゆく意識の中で、私が見たのは、四者四様の姿だった。
誰よりも先に駆け寄り、
「琴葉!しっかりして!」
と私の体を支えてくれる、楓。
その隣で、私の体を乱暴なくらいに強く抱きしめ、
「馬鹿野郎…! 無茶しやがって…!」
と声を震わせる、清馬様。
そして、そんな清馬様の腕の隙間から、そっと私の手首を取り、静かに脈を確かめる、清継様。
彼はただ未知の力に驚愕しているように見えたけれど、その指先が、ほんの僅かに震えていることには、誰も気づかなかった。
(薄れゆく意識の中で、最後に聞こえたのは、いつも冷静なはずの、あの人の声だった)
「…琴葉。君という光は、決して失ってはならない存在だ……」
(そんな声が、聞こえた気がした──)
そして、その全てを、獰猛な笑みを浮かべて見下ろす、九条暁人。
「見つけたぞ…。癒しの力を持つ巫女…。やはり貴様は、俺が手に入れるべき女だ」
私が、ただ妖が見えるだけの少女ではないことを、その場にいた全員が知ることになった。
私を巡る本当の争奪戦が、幕を開けた瞬間だった。




