第72話「鎌倉の別荘と、紅(くれない)の試練」
梅雨が明け、夏休みに入った最初の日。 私は、これから始まる一週間の「実地研修」と銘打たれた、一つ屋根の下での生活を前に、緊張で昨夜から一睡もできていなかった。
玄関には、私たち三人と、見送りの薫子様がいた。
「よっしゃー!海だー!」
一人だけ、遠足気分で浮かれている清馬様。
「清馬、はしゃぎすぎるな。これは、母上から課された『試練』だということを忘れるなよ」
「わーってるよ、兄上!」
(試練……。一つ屋根の下で、一週間……)
私の心臓は、早鐘のように鳴っていた。
「琴葉さん」
出発の直前、薫子様が、笑顔で私に一つの美しい化粧箱を差し出した。
「あなたに、私からの『餞別』よ」
「えっ?わ、私にですか……?」
「ええ。せっかくの海辺の別荘ですもの。 これを着なければ、始まらないでしょう? 巴里で、今、一番流行っている、最新の『水着』ですわ」
「「み、水着!?」」
双子の声が、見事に重なった。
薫子様は、私の耳元で囁く。
「中身は、別荘に着いてからのお楽しみよ。 ……ふふっ、あなたがそれを着る『勇気』があるかどうかも、私の『採点項目』ですからね?」
「ひっ……!」
(この箱、とんでもない『爆弾』だ……!)
私は、その開けるのが怖い箱を、落とさないよう、恐る恐る受け取った。
鎌倉・由比ガ浜へと向かう車の中。 私は、膝の上に置かれた「化粧箱」のせいで、生きた心地がしなかった。 両隣に座る若様たちが、明らかにその箱を意識しているのが、視線で伝わってくる。
「(ちらっ……ちらっ……)……お、おい、琴葉。 その……母上が言ってた『水着』って……」
清馬様が、ついに我慢できなくなったように、声をかけてきた。
「(顔を真っ赤にして)み、見てません! それに、薫子様の意地悪に付き合う気はありませんから!私は、絶対に着ません!」
「えっ!?なんでだよ!?」
「(咳払いをして)……ああ。それが賢明だ、琴葉さん」
清継様が、冷静を装って助け舟を出してくれた。
「母上のことだ、我々の常識では計り知れない、破廉恥なデザインである可能性が高い。 近衛家の人間として、風紀を乱すわけにはいかない」
「で、でもよ、兄上!『巴里で流行り』って……。 いや、別に、俺は見たかねえけど!気になるっていうか……!」
「清馬様の、えっち!」
(うぅ……。楓がいてくれたら、この空気をどうにかしてくれるのに……! 『今回は、あなたたち三人の『試練』だから』なんて、楽しそうに笑って、見送られてしまった……!)
言い争いをしているうちに、車は由比ガ浜の海を一望できる、高台に建てられた、美しい洋館(別荘)に到着した。
「わあ、素敵な……!あ、あの、お手伝いの方々は……?」
「……清馬」
薫子様からの手紙を読んでいた清継様が、青ざめた顔で弟を呼んだ。
「なんだよ、兄上」
「……母上からの伝言だ。 『お食事の準備や、お洗濯、お掃除は、全て、『女中兼巫女』である、琴葉さんにお任せします』と」
「「えええええええっ!?」」
私と清馬様の悲鳴が、広い玄関ホールに響き渡った。
「母上、ふざけやがって! 琴葉に、一週間、俺たちの飯の支度を全部やらせる気か!」
「……いや、違う」
清継様は、苦々しく首を振った。
「彼女は『女中』だ。それは、彼女の『仕事』であり、『誇り』だ。 ……母上は、私たちに、その『日常』を突きつけているんだ」
(『三人恋人』だのと浮かれているが、あなたたちは、この子に『妻』でもないのに、『妻』のようなこと(家事全般)を、この一つ屋根の下で、させる『覚悟』がおあり?と…!)
双子がその意味の重さに言葉を失う中、私は、覚悟を決めた。
「……やらせて、いただきます」
「琴葉さん!?」
「これは、薫子様が私に与えてくださった、『巫女の手記』の、次の『修行』なんです。 ……『破滅』を迎えるか、『答え』を見つけられるか。 ……私は、逃げません!」
私は、真っ直ぐに二人を見つめ返した。
双子の若様たちは、そんな私を「女中」としてこき使うのではなく、「恋人」として、その「家事」を手伝う、という答えを選んでくれた。
「……おい、琴葉。荷物、運ぶの手伝うぜ。 それと、飯の支度とか、俺も手伝うからな!俺、火起こしくらいならできるし!」
「……琴葉さん。夕食の買い出しが必要だろう。私も同行しよう。 鎌倉の市場は、私が詳しい」
「(笑顔で)はい!ありがとうございます、お二人とも!」
双子が買い出し(清継)や、別荘の点検(清馬)に出て行き、私は、割り当てられた一階の女中部屋で、荷解きを始めた。
トランクの底から、あの、不吉な化粧箱が出てきた。
(着る、着ないは別として……。中身を、確認だけは、しておかないと……)
私は、ゴクリと喉を鳴らし、意を決して、その箱のリボンを解いた。
箱を開けた私は、絶句した。 中に入っていたのは、体にぴったりと張り付くような薄い生地の、しかも、当時の日本ではありえないほど鮮やかな紅色をした、腕も脚も大胆に肌を晒す、ワンピース型の水着だった。
(こ、こんな、破廉恥なものを、私が……!? ていうか、これ、肌着じゃなくて!?)
私が、そのあまりに刺激的な布切れを、震える手で持ち上げた、その瞬間。
ガラッ
「おーい、琴葉!さっき、母上から、追加の荷物が……」
無遠慮に部屋の扉を開けて入ってきた清馬様と、目が合った。
彼の視線が、私と、私の手にある、あの『紅い水着』の間を行き来する。
「……………………」
「……………………あ」
そこへ、清馬様が立ち往生しているのを不審に思った清継様が、後ろからやってきた。
「清馬?何を呆けているんだ。荷物を運ぶぞ。……琴葉さん?」
清継様もまた、部屋の中の光景―― 呆然と立つ弟と、顔を真っ真っ赤にして、例の『紅い布切れ』を掲げるように持ったまま固まっている私―― を見て、全てを理解し、固まった。
「……………………」
「(絶叫)いやあああああああああああっ!! 見ないでくださいお二人ともぉぉぉっ!!」
波乱に満ちた「夏休みの宿題」が、最悪の形で、今、始まってしまった。




