第5話「兄様の寝顔と、弟様の密着指導」
影法師との戦いから数日が過ぎた、穏やかな春の休日。
帝都星蘭高等学校は休みとなり、私はいつも通り、ここ近衛家で女中としての務めに励んでいた。楓さんという友人ができ、双子の若様たちとも「協力者」として認められたことで、私の日常は以前よりも少しだけ色鮮やかになった気がする。
「白石さん、これを清継様の書斎へお願いできますか。少し、お疲れのご様子なので」
午後のお茶の時間。執事の田中さんからそう頼まれ、私は銀の盆に上等な茶器を乗せて、二階の書斎へと向かった。
静かに扉を三度ノックする。
「…入れ」
中から聞こえたのは、いつもより少しだけ掠れた、静かな声だった。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
書斎に入ると、清継様は窓際の大きな机に向かい、一人静かに物思いに耽っていた。彼の指先が弄んでいるのは、あの日、影法師が遺した小さな黒い水晶。その横顔には、執事さんの言う通り、普段の冷静さに隠された確かな疲労の色が見えた。
「ありがとう。そこに置いておいてくれ」
「はい」
私が彼の傍らでお茶を淹れていると、清継様がふと口を開いた。
「……君こそ、怖くはなかったか?あの夜のことだ」
思いがけない問いかけに、私は手を止める。 私の心配まで、してくださっていたなんて。
「いえ、皆様がご一緒でしたから。でも……少しだけ、足が竦みました」
「そうか……」
それきり会話は途切れ、静かな時間が流れる。茶器の触れ合う音だけが、やけに大きく響いた。
「お待たせいたしました」
私が淹れたお茶を机に置こうと、彼に身を寄せた、その瞬間だった。
それまで水晶を見つめていた清継様の体が、こくり、と静かに揺れた。異能を使った消耗がまだ残っているのだろう。彼の顔が、ゆっくりとこちらに傾いてくる。
吐息がかかるほどの距離。普段は決して見ることのない、無防備な彼の寝顔が、すぐ目の前にあった。
(長い睫毛…それに、鼻筋がすっとしていて、唇の形も綺麗……。こ、こんな間近で拝見できるなんて、女中の特権よね。眼福、眼福…)
時間が止まったみたいだった。古書と、墨の匂い。彼の匂いに、くらりとしそうになる。
「──っ!」
不意に、清継様の体がびくりと震え、彼はハッと目を開けた。 目の前に私の顔があることに気づき、彼の瞳が驚きに見開かれる。
「す、すまない……! 少し、考え事を……」
彼は慌てて体を起こすと、一つ咳払いをした。その耳が、ほんのりと赤くなっているのに気づいてしまう。その瞬間、私の心臓は、大きく、大きく跳ねた。
書斎での出来事に火照った頬を冷ますように、私は午後の仕事に没頭した。
掃き清められた中庭の渡り廊下を拭いていると、屋敷の奥にある弓道場の方から、 パンッ!と乾いた音が響いてくる。
「おい、白石! こっち来い!」
振り返ると、弓道着姿の清馬様が、道場の縁側から大きく手招きしていた。
「今、仕事中ですので」
私がそっけなく返すと、彼は不満そうに口を尖らせる。
「いいから来いって。……こないだの褒美だ。 特別に見学させてやるよ」
「褒美、ですか?」
「ああ。お前の度胸、気に入ったからな」
ぶっきらぼうに、けれどどこか照れくさそうにそう言うと、彼はすっと構えを取った。
先ほどまでの乱暴な雰囲気は消え、彼の全身から放てれる気迫に、私は息を呑む。 引き絞られた弓が、月のように美しい弧を描く。
放たれた矢は、風を切る鋭い音を立てて、遥か先の的の中心──星と呼ばれる一点に、吸い込まれるように突き刺さった。
(……すごい。普段はあんなに嵐みたいなのに、弓を引く姿は、別人のように凛々しい……)
思わず見惚れていると、満足そうな顔の清馬様が、手元にあったもう一つの弓を私に突きつけた。
「お前もやってみるか?」
「め、滅相もございません! わ、私のような者が、清馬様の弓に触れるなど!」
「いいから、やってみろよ。面白いぜ」
私の返事も聞かず、清馬様は私の背後に立つと、その逞しい腕で私を包み込むように弓を構えさせた。背中に彼の胸の熱を感じて、体が強張る。
「ちっ、力が入りすぎだ、もっとリラックスしろ」
耳元で囁かれる声に、ぶわっと顔に熱が集まった。 彼の手が、私の手に添えられ、弦の引き方を教えてくれる。
「こ、こうですか……?」
「そうそう。で、狙いを定めて……放て!」
言われるがままに指を離すと、矢はへなへなと力なく飛び、的の手前でぽとりと芝生に落ちた。
「ぶはっ! 下手すぎだろ、お前!」
背後で清馬様が腹を抱えて笑う。その振動が、直接体に伝わってきて、恥ずかしいやら、悔しいやらで、私は振り返って彼を睨みつけた。
「しょ、しょうがないでしょう!? 初めてなのですから! そ、それに……清馬様がそんなに近くにいらっしゃるから、集中できないんです!」
私の必死の反論に、清馬様は一瞬きょとんとした後、さらに楽しそうにニヤリと笑った。
「へえ? 俺のせいだって言うのかよ。……面白いじゃねえか、お前」
その意地悪な笑みに、私の顔はもう限界なくらい真っ赤になった。
その夜。
自室に戻った私は、布団の上に倒れ込むようにして、大きくため息をついた。
一日で、こんなに心をかき乱されるなんて。
(同じお顔なのに、全然違う魅力で、心を揺さぶってくるなんて……選べない、なんて。そもそも、私が選べるような立場じゃないのに。あの双子の若様たちは、雲の上の人。……私にとっては、決して手の届かない、高嶺の花、なのに)
理由もなく熱くなる頬を、私は布団にうずめることしかできなかった。




