第3話「麦ご飯と梅干しと、若様からの卵焼き」
近衛家の朝は、陽光よりも先に、澄んだ緊張感で満たされる。
女中としての勤めも数日が経ち、私はすっかりその空気に慣れていた。
「清継様、清馬様。朝餉の御用意ができました」
学生服に身を包んだ双子の前に、湯気の立つ白米と焼き魚、そして豪勢な出汁巻き卵を並べる。 私はその傍らで、給仕のために静かに控えた。 この食卓を囲むことが許されない距離が、今の私の立場だ。
「そういや、白石はいくつなんだ? 俺たちと同じで、十五か?」
清馬様が不意に尋ねる。
「はい、清馬様。数えで十六……皆様と同学年になります」
眼鏡の奥の瞳を瞬かせながら答えると、清継様が静かに口を開いた。
「そうか。では、学内ではあまり立場を気にしすぎるな。級友として接すればいい」
その心遣いが、有り難かった。
やがて双子は、お抱え運転手が待つ黒塗りの高級車に乗り込み、優雅に屋敷を後にしていく。 私はその姿を玄関で見送った後、急いで自室へと戻った。
鏡の前で、奉公用の着物を脱ぎ、真新しい学生服に袖を通す。 腰まである長い髪をきつく引き結び、いつものポニーテールを作った。
最後に、朝の給仕で少し曇った丸眼鏡を外し、 丁寧に拭いてからかけ直す。 これで『女学生・白石琴葉』への切り替えは完了だ。
よし、と小さく気合を入れる。
屋敷の裏口からそっと出て停留所へ。 ガタンゴトンと音を立てる路面電車に乗り込むと、帝都の活気ある街並みが窓の外を流れていった。
この時間だけが、唯一の「ただの女学生」でいられる、私の宝物だった。
帝都星蘭高等学校。
元は五摂家の子弟教育のための私塾だったというその学び舎は、まるで西洋の城のように壮麗だった。 特待生としてこの門をくぐれたのは奇跡に近い。
けれど、その奇跡は時として、孤独の色を帯びる。
幸か不幸か、私は双子と同じクラスに配属された。 教室では、既に二人は級友たちに囲まれ、その中心で輝いている。
私は目立たぬよう、そっと自分の席に着いた。
「──白石琴葉です。どうぞ、よしなに」
自己紹介でそう名乗ると、教室が微かにざわついた。
「五摂家縁故の特待生らしいわ」 「孤児院出だとか」
──そんな囁きが、肌を刺す。
孤児院では、貧しくても皆が同じだった。 けれど、ここでは私だけが違う。
その当たり前の事実が、ずしりと重かった。
休み時間、居心地の悪さから窓の外を眺めていると、不意に声をかけられた。
「私、一条楓。よろしく。あなた、度胸あるわね」
振り返ると、そこにいたのはショートカットが似合う、凛とした雰囲気の美少女。 五摂家の一角・一条家の息女、楓だった。
彼女は教室の向こうにいる双子へちらりと視線を送り、やれやれと肩をすくめる。
「あら、清継と清馬も同じクラスだったのね。全く腐れ縁というか……。 まぁ、このクラスは成績優秀者を集めた特進学級だから当然といえば当然か。白石さんも特待生だしね」
特進学級……?
初耳の言葉に驚いていると、楓は悪戯っぽく笑った。
「だから、あなたも胸を張っていなさい。ここは家柄じゃなくて、頭脳で席が決まる場所よ」
昼休み。
私と楓は中庭の隅で、二人でお弁当を広げていた。 ひらひらと舞う桜の花びら。
孤児院の庭では、ただ風に揺れる無骨な枝を眺めるだけだったのに……。
私のお弁当は、麦ご飯に梅干し、菜っ葉のおひたし。 朝、双子の朝食の準備で残った野菜で作った、質素なものだ。
「楓様は、教室でお召し上がりにならないのですか?」
「様付けなんて堅苦しいわ。楓でどう?」
私は一瞬驚いた後、嬉しそうに微笑んだ。
「……はい。では、私のことも琴葉とお呼びください、楓さん」
楓は満足そうに頷き、少し声を潜める。
「そういえば最近、帝都で妙な人さらいの噂があるの。妖の仕業じゃないかって、うちの者たちが話していたわ。少し、物騒でしょう?」
私はお弁当を食べる手を止めた。
「あの……妖、というのは?」
「ひとならざるもの、とでも言うのかしら。古くからこの地にいて、時に人に害をなす、異界との境界にいる存在よ」
意を決して、胸の内にあった疑問を口にする。
「事故などで……成仏出来ずにいる者も、妖の一種なのでしょうか」
「まぁ大雑把に言えばそうなるわね。……どうして、そんなことを聞くの?」
楓さんのまっすぐな視線に、私は観念した。
「……私も、見えるんです。そういうものが。幼い頃に結核を患って生死を彷徨ってから……両親は、その病で亡くなりましたが、私は奇跡的に助かって」
楓は息を呑み、その美しい瞳を驚きに見開いた。
「本当に……!? そういった類が見えるのは、古来より妖から都を守ってきた異能を有する、私たち五摂家と、ごく限られた血筋の者だけだと思っていたのに……」
彼女は真剣な顔つきになると、私の手をぐっと握った。
「琴葉、あなたが見えるということは、“相手”も“あなた”を認識しているということよ。 害をなす類はそう多くはないけれど、絶対に気を付けて。……私から清継と清馬には伝えておくわ。何かあっても、私とあの二人で必ずあなたを守ってあげるから」
その時だった。
「うおっ、ここなら静かだ!」
真剣な空気を突き破るように、清馬様が隣にドカッと座り込む。 続いて、やれやれと肩をすくめながら清継様も姿を現した。
二人の前には、豪華な漆塗りの重箱弁当が広げられる。
「なんだそれ、逆に美味そうだな! 梅干し一個くれよ!」
清馬様は自分の弁当には目もくれず、私の質素なお弁当を興味深そうに覗き込む。
「はしたないぞ、清馬」
清継様はそう窘めると、自分たちの重箱から黄金色に輝く分厚い卵焼きを一切れ、箸でつまんだ。 そして、それを私の弁当箱の中に、そっと置いてくださる。
「弟の非礼のお詫びだ。ここの料理人の卵焼きは絶品だから」
「えっ、あ、卵焼き……! よ、よろしいのですか、こ、こんな貴重なものを……!」
黄金色に輝くそれは、ふるふると出汁を含んでいて、信じられないくらい美味しそうだった。
私の大袈裟な反応に、清継様は穏やかに目を細める。
「ふふ、大袈裟だな。ただの卵焼きだ。だが、それほど喜んでくれると、あげた甲斐があるというものだ」
そのやり取りを見ていた清馬様が、むっとした顔で割り込んできた。
「ちぇっ、兄上だけずるいぞ! おい、白石! 俺のも食え!」
そう言うと、清馬様も自分のお重から大きな卵焼きを一切れ、私の弁当箱に少し乱暴に乗せた。
麦ご飯と梅干し、菜っ葉のおひたしだけだった質素なお弁当箱が、今や二つの黄金色に輝く卵焼きによって、信じられないほど豪華になっている。
私はきらきらと瞳を輝かせ、ごくりと喉を鳴らした。
そのあまりに純粋な反応に、清馬様は「ぶはっ」と声をあげて笑い、清継様は仕方ないなというように微笑み、楓はくすくすと喉を鳴らした。
先ほどの楓の力強い言葉と、双子の優しさが胸の中で混ざり合って、心臓が大きく、温かく跳ねた。
「あなた、本当に面白いわ。双子に気に入られたみたいね」
教室から校門まで、楓と並んで歩きながら話す。 初めての友人の言葉に、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
校門に着くと、そこには楓を待つ一台の黒塗りの高級車が停まっていた。 運転手がお辞儀をする。
「じゃあ、私はこれで。琴葉、また明日ね」
「はい、楓さん」
優雅に車に乗り込む楓を見送りながら、私は改めて、世界の違う友人ができたのだと実感した。
一人、路面電車の停留所へと歩き出す。 近衛家の屋敷の明かりが見えてくると、私の心は自然と「女学生」から「女中」へと切り替わっていた。
屋敷に戻り、すぐにエプロンを締め直して厨房へ向かう。 夕餉の準備を手伝っていると、弓の稽古を終えた清馬様が通りかかった。
「お、白石。腹減ったー! 今日の晩飯、なんだ?」
「今、準備しております。清馬様、汗を拭いてお召し替えなさいませ」
そんな何気ないやり取りが、私のもう一つの日常だった。
自分の部屋に戻る前、少しだけ夜風に当たろうと縁側に出た、その瞬間だった。
ふと、庭の向こう──塀の外の電信柱の影が、一瞬だけ濃く、不自然に揺れたような気がした。
気のせいか、と首を傾げる。
初めての友人ができ、心弾む一日だった。 けれど、昼間に聞いた妖の噂と、今の微かな悪寒だけが、この輝かしい日々にも、すぐ傍らに得体の知れない闇が潜んでいることを、私に予感させていた。




