第14話「夜明けの素顔と、乱れる心」
黒椿の一件から一夜明けても、私の心は鉛のように重かった。あの邪悪な気配は、眠っている間も私を苛み、結局、私はほとんど一睡もできずに夜明けを迎えてしまった。
それは、近衛の若様たちも同じだったようだ。
清馬様は、苛立ちと不安からじっとしていられずに部屋を抜け出し、水を飲みに廊下を歩いていた。
清継様は、書斎で黒椿について考え事をしていたが埒が明かず、気分転換に明け方の冷たい空気にでも当たろうと、廊下に出てきたところだったという。
そして、運命は、時として残酷な悪戯をする。
いつも通り誰よりも早く起き、顔を洗い、身支度を整えるため、自室から共同の洗面所へと向かっていた私は、まだ眼鏡をかけておらず、寝起きのままの長い黒髪を下ろしていた。
まだ薄暗い廊下の角を曲がった、その瞬間だった。
「きゃっ!」
私は、二つの大きな人影と鉢合わせした。
眼鏡がないため視界がぼやけており、
誰だかわからない。侵入者かもしれないという恐怖に、心臓が凍りつく。
人影の一人が「うおっ! 誰だ!?」と低い声をあげ、咄嗟に私の腕を掴んだ。
(ぼやけた視界に映るのは、逞しい誰かの胸板……いや、違う、今はそんなことを考えている場合じゃ!)
その時だった。
「……白石、さん?」
もう一つの人影から聞こえたのは、聞き慣れた、静かな声。
その声で、私は初めて、自分が双子の若様と鉢合わせしてしまったことに気づいた。恐怖は一瞬で消え去り、次の瞬間、自分の無防備な姿を見られたことに対する、灼けるような羞恥心が全身を駆け巡った。
「み、見ないでください!」
私は半ば悲鳴のように叫ぶと、腕を振りほどき、
顔を隠して自室へと逃げ帰ってしまった。
薄暗い廊下に、二人きりで取り残される双子。
先に口を開いたのは、清馬様だった。
「……兄上。今の、見たか?」
「ああ。……白石さん、だったな」
静かな肯定に、清馬は言葉を失う。
(……誰だよ、あれ。いや、白石……なのか? いや、でも……俺が知ってる『琴葉』とは、全然、違うじゃねえか……)
自分の心臓が、ありえないくらい速く脈打っているのに戸惑う。
清継もまた、冷静さを装いながら、脳裏に焼き付いた光景を振り払うことができずにいた。
(……危険だ。あれは、あまりにも……)
その日の朝、私は双子とまともに顔を合わせることができなかった。
そして、双子の若様たちの過保護ぶりは、屋敷を出る前から始まっていた。
「今日から、君は我々と一緒に車で通学してもらう。父上のご命令だ」
玄関で、清継様が静かにそう告げる。
「当たり前だ! お前みてえな奴を、一人でガタガタ揺れる路面電車なんかに乗せてたまるか!」
清馬様が、私の返事も聞かずに付け加えた。
こうして、私は初めて、双子の若様たちと同じ車に乗って、登校することになった。
そして、学校の門をくぐってからも、二人の過保護は続く。
「おい、ちゃんと前見て歩けよ! 転ぶぞ!」
「人混みは危ない。私の後ろにいなさい」
左右を固めるようにして、私から片時も目を離そうとしない二人に、私はもう、どうしていいかわからなかった。
教室に着くと、楓がすぐに私たちの異変に気づき、私の耳元でこっそり囁いた。
「あなた、顔が真っ赤よ。それに、あの二人……今日はやけにあなたにべったりじゃない? 何かあったのでしょう?」
「な、ななな、何もありません! きの、気のせいですわ!」
私が必死に首を横に振ると、楓は全てを見透かしたような顔で、楽しそうにニヤリと笑った。
「ふぅん? まあ、そういうことにしておいてあげるわ」
授業中も、私は双子の視線を背中に感じて、全く集中できなかった。
そんな中、ふと教室全体に意識を向けると、
私は息を呑んだ。
何人かのクラスメイトの足元の影が、ほんの僅かに、しかし確実に淀んでいる。
まるで、あの黒椿の花弁のように、ねじ曲がって蠢いているように見えた。
(まさか……鈴木さんだけじゃなかったの…?)
昼休み、楓に相談しようと廊下を歩いていると、向かいから九条暁人様が現れた。
彼は私を一瞥すると、挑発するように鼻で笑う。
「つまらん顔をしているな。近衛の連中はお前を退屈させることしかできんのか」
私が睨み返すと、暁人様はふと、何かを値踏みするように私の全身に視線を走らせた後、こう言い放った。
(あの紅蓮の瞳が、まるで私の光を貪るように、じっとりと見ている……怖い)
「まあいい。せいぜい、枯れぬことだな。……近衛の庭に咲く、借り物の花よ」
中庭で、私は楓に全てを打ち明けた。
黒椿のこと、そして、クラスメイトたちの影にも異変が起き始めていることを。
楓は真剣な顔で頷くと、
「……そう。なら、試してみましょうか。私の『水鏡』で、その影を映してみるの。何か分かるかもしれないわ」
と提案してくれた。
楓の言葉に、私は唇を噛む。
(私が、もっと強くならなきゃ。この力を、ちゃんと使いこなせるようにならなきゃ……!)
放課後。屋敷に戻れば、また清継様との巫女修行が始まる。
けれど、その前に、私は双子に、
「少しだけ、寄り道してもよろしいですか?」
とお願いした。
連れて行ったのは、学校の帰り道にある、小さな甘味処だった。
「いつも心配ばかりおかけしているので……。
その、お礼です」
三人で、一つのテーブルであんみつを囲む。
透明な寒天に浮かぶ、つやつやとした小豆の赤が、皆の火照った頬のように愛らしく見えた。
清馬様は子供のようにはしゃぎ、清継様は穏やかに微笑んでいる。
けれど、二人の視線が時折、気まずそうに交錯しては、すぐに逸らされる。
清馬様の熱い視線が、清継様の穏やかな微笑みにぶつかって、また逸れる。
あの朝の出来事を、まだお互いどう処理していいか、分からずにいるのだ。
「……悪くないな、こういうのも」
清継様が、ぽつりと呟いた。
その言葉に、私も、清馬様も、頷く。
見えない脅威が日常を侵食する中で、それでも確かに存在する、この温かくて、少しだけ気まずい時間を守りたい。
三人の心が、改めて一つになった瞬間だった。




