平衡感覚
「ね、殺していい?」
拉致アンド監禁、プラス床の上に押し倒された状態で。
至極真面目な表情のそいつはそうのたまった。
僕の喉を奴の人差し指が軽く押さえていて、その指は冷たいはずなのに、なぜか押されている部分からじとりとした熱を感じた。熱は奴の指先から僕の喉、肩へと広がり、指先まで流れていく。動きたがらなかった手の指が動かせそうな気がした。その必要は無いので動かそうとは思わないが。
僕は目の前にある奴の顔をじっと見つめた。奴もじっと僕を見つめている。
とりあえず、僕は死ぬ気はさらさらない。まだ二十年も生きちゃいないし、やりたいことだって無くは無い。まあだからつまり。
「だめです」
はっきり言ってやると、奴は目を細め、悔しそうにちぇ、と呟いた。僕の喉の上の人差し指が、何かを探すようにゆっくりと上から下へ滑っていく。
「……俺は、君になら殺されてもいいんだけどな」
「残念。僕は君を殺したいとは思っていません」
奴はもう一度ちぇ、と呟くと、続いて不公平だと言った。
「俺は君を殺したいような気がするのに君は殺させてくれなくって。俺は君に殺されたいような気がするのに君は俺を殺そうとしてくれない」
「うん、なかなか厄介だ」
どうでもいいけどね。
言外にそう言うと、奴は己の顔を急に僕の顔へと近付けてきた。鼻先と鼻先がぶつかりそうなくらい。僕の後ろは床な訳で、つまりは逃げられない訳で。
近いんだよっ!!
心の中で叫ぶが、奴には僕の心の声は聞こえないらしい。聞こえたら気持ち悪いけど。
奴の人差し指がまた僕の喉の上を滑り始める。
「……ねぇ」
「何さ」
「何で殺そうと思わないの」
「そりゃあ……僕にそんな趣味はないからね。君に対して殺したいと思う程の激情も持ってないし」
君にも無いと思うんだけれども。
小さくそう付け加えたら、奴の目が細くなった。まぶたの隙間から僕を見ている。
「それが俺にはあるんだよ。だから不公平だって言ってんの」
「そうなの」
「そうなのよ」
投げやりに言って、奴は僕の喉仏を親指で軽く押した。小さな圧迫感。痛くは無い。
奴の視線は僕から外れない。僕の視線も奴から外れない。
「……それで僕にどうしろと?」
考えている最中なのか、奴の返事は無かった。いつものことだ。考え始めると何も聞いちゃいない。
仕方なく、奴の顔を凝視してやる。奴の目は鏡みたいで、そこに映る僕と目が合った。こっちが睨めばあっちも睨む。面白い。
しばらくそうやって遊んでいると、ようやく奴は口を開いた。
「……ねぇ」
「うん?」
さあ、一体どんな言葉が飛び出すのか。僕は軽く首を傾げた。
「君ってさ、サディストかマゾヒストかどっち?」
……今のシンキングタイムは一体何をシンキングする時間だったんだろう。はなはだ疑問だ。
「君の思考回路は理解不能だ」
「理解不能じゃなかったら俺の思考じゃない」
あれを言えばこれを言うとはこのことだ。僕はわざと大きくため息をついて見せた。
「世の中はそれを開き直りと言う」
「ふーん」
奴は気の無い声でそう言ってから、どうでもいいと呟いた。
「それでどっちなの。サディスト?マゾヒスト?」
「知らないよ、そんなの」
「それじゃあさ、」
再び奴は僕に顔を近付け、それでもって僕の首を片手で掴んだ。力は少ししか入れられてないがやっぱり軽く圧迫感がある。
「君をマゾヒストにしてあげるから、俺専用のマゾヒストになってよ」
妙に熱のある息がかかった。冗談みたいな言い方だけど、どこか懇願の響きがあるのは気のせいか。
「それで僕らは不公平じゃなくなるのかね?」
聞けば、奴は首を傾げた。
「さあ?」
くそが。
「……それじゃあ質問を変えよう。君は僕をマゾヒストにできる自信があるのかい?」
「あるよ」
今度ははっきりと答えやがった。何だこいつ。
今までは跨いでいただけだったのに、いきなり奴は僕の上に馬乗りになった。人間一人分の体重が僕の腹にかかる。奴が細いせいか重くは無い。
「……俺は君をマゾヒストにできる自信がある。俺しか見えないようにして、俺でしか満たされないような、しかも毎日俺に犯されなきゃ満たされないような体にして、俺が与える身体的苦痛を享楽に感じるような。そんな風に君をする自信がある」
何てことだ。言葉によるセクシュアルハラスメントにしても激しすぎやしないか。
「君のその自信に乾杯」
言うに事欠いて仕方なくそう言う。けれど奴はふ、と口元に弱々しい笑みを浮かべた。
「嘘だよ」
「……はい?」
耳を疑った。
「嘘」
「何だって?」
「だから嘘。そんな自信、どこにも無い」
「あら、そうなの」
「うん、そうなの」
奴は僕の体の上に覆いかぶさってきた。仰向けになっている僕の顔の、横の床に奴のうつ伏せの顔がある。
「そんな自信があったらいっつか実行してる」
「……そうかね」
奴の言葉はいつになく、か細かった。
「そんな自信が無いから、俺以外の誰かを君の目に映らせたくないのよ」
「拉致監禁した君がそれを言うのかい」
「拉致監禁した俺だからそれを言えるの」
締まった奴の腕が僕の首に絡められる。
「君の目に俺が映らなくなるのが怖い。そんな日が来るなら、来る前に君を殺したいと思ったの」
つまりそれは。簡単に言うと。
僕は奴に、殺したい程愛されてると?……ハハハ、笑えねぇ。
「同じ理由で君が俺を殺そうとするなら、俺は喜んで殺されるよ」
初めて聞く奴の弱った声。つまり奴は不安な訳だ。僕も奴と同じように弱った。
「僕は君を殺したいとは思わないっすよ」
「……やっぱり?」
「うん」
至極残念そうな声に、僕はでも、と返した。恥ずかしいが、ここは恥を捨てて言ってやろうじゃないか。
「僕は君に」
止まってしまった。
言葉の続きが恥ずかしくて出てこない。臭い台詞には慣れてないのだ、僕は。
言えーっと心の中で自分を叱咤する。
「僕は君に傷一つ付けたくないし誰かが君を傷つけたらその時はそいつを殺すかもしれない」
一息で言い切ったら、直後に顔の熱を感じた。あがっている。どうしようもなくあがっている。あがっていたけれど、僕はそっと床の上に投げ出されていた手の指を動かした。傍らにある奴の頭を抱え込み、目を閉じて、きょとんとした表情の奴の唇に、とても軽く、本当に軽く、どこまでも軽く、自分の唇を重ねて即、離した。慣れないことはするもんじゃないから。
目を開くと、そこにはさっきまでの弱った声はどこへやら、とてつもなく嬉しそうな表情の奴の顔があった。そう言えば、僕の方からするのは初めてだ。奴のきらきらした目に不安を覚えた。
「……抑えきれない衝動が俺を襲った」
「いや、意味分かんないから」
僕の制止も聞く耳持たず、がばりと起き上がった奴は僕の腕を引っ掴んでずるずると寝台へと引きずっていこうとする。
「離せえっ、離すんだ、早まるな、止まれっておい、止まってっつってんだろ!」
「うるさい」
ぽい、と僕の体は寝台の上に投げ捨てられた。そこに奴の体が覆いかぶさってくる。
僕の頬を撫で、綺麗に笑った奴は、今度はこうのたまった。
「あっちの世界、見せてあげるから」
僕が奴を思い切り殴ったのは言うまでも無い。
世の中、例外があるのは当たり前だ。