8話.「真夜中の訪問者」
――真夜中。塔の最上階、寝室。
窓の外では濃い藍色の夜空が広がり、星たちがちらちらと瞬いている。
部屋の中は、燭台の火も落とされ、ほんのりと暖炉の余熱が漂っていた。
その静けさの中――
もぞり、とシーツがわずかに揺れる。
ベッドの中には、絡まり合うように寄り添う二人の姿があった。
エリナはリックの胸に腕をまわし、リックはエリナの腰を抱くように、ぴったりと重なっている。
甘い吐息と、まだ抜けきらない熱の名残を感じる空気。
そこに――
ドアの外から、扉越しに声が響いた。
「エリナ様! お客様です!!」
「……は?」
うっすら目を開けたエリナは、思わず聞き返した。
でもその声は確かに――グレイだった。
「こんな時間に!? うそでしょ……!?」
ガバッと跳ね起きるエリナ。
「全員、起きて! 着替えを!!」
エリナの怒鳴り声が塔に響いた瞬間――
どこかで転ぶ音、布団を引き剥がす音、使用人たちのドタドタした足音がいっせいに起こる。
「おいおい……何事だ?」
シーツをずらして起き上がったリックが、まだ寝ぼけ眼で問う。
エリナは髪をまとめながら、すでに部屋の隅に置いていた黒と金のドレスに手を伸ばしていた。
「“おかしな魔女”だと思わせるためよ!」
「は?」
「そうすれば、相手は警戒しつつも、妙な遠慮をするの。
魔女っていうのは、常識外れで、不可解で、気まぐれでなきゃダメなのよ!」
手早くドレスに袖を通し、鏡の前で乱れた髪を一瞬で魔力で整える。
一方リックはというと、まだ上半身裸のまま、平然とした顔でエリナの背後に回り、
腰紐を手伝い始めていた。
しゅるり、とリボンを結びながら。
「……着替えを手伝うのに、慣れてきたな」
「慣れなくていいわよ!///」
ちらっと後ろを振り返るも、あまりに真剣な顔で結んでくれるので、何も言えなくなる。
「……俺も、着替えた方がいいか?」
そう言われて、エリナの脳内に一瞬――
マッチョメイドの幻覚が、ドンッと現れた。
(くっ……ゴリゴリの筋肉に、フリルとレースのメイド服……!!)
「ッッッ!!」
エリナはぶんぶんと首を振って幻を振り払う。
「あなたは、まだ“元”コーゼンラート公爵でしょう!? 正装でいいわ!」
「そうか」
素直に頷きながら、クローゼットの中から自分の礼服を引っ張り出すリック。
そんな彼がふと、手を止めて口を開いた。
「ところで……あのメイド服は、エリナの趣味なのか?」
「ち、違うわよ!! あれはグレイが考えたの!」
食い気味に即答するエリナ。
頬を染めて、額に浮かぶ小さな青筋が微かに震える。
「……そうか」
リックは至って冷静に頷き、まるで“納得した”と言わんばかりの顔で再び着替えを始めた。
(くっ……なんであんな落ち着いた顔できるのよ、この人……)
そんなやりとりをしている間にも、塔は深夜の混乱に包まれていた。
執事たちやメイドたちが走り回り、着替えに飛び起き、髪を整え、急ピッチで対応に追われる。
――そして数分後。
塔の一階、応接室。
部屋の中心には、完全に整った状態のエリナとリックが並んで座っていた。
エリナは艶やかな黒のドレスに金糸の刺繍が施され、まさに“魔女らしい威厳”を纏っている。
その隣には、かつて公爵家の嫡男として王都を圧倒した男――リックヴォルグが、礼服姿で堂々と構えていた。
ソファの後ろには、エリナのお気に入りの華奢な青年たち数人が――
なぜか全員メイド服で無表情に並んでいる。もちろんグレイも例外ではない。
(完璧な演出ね……)
エリナはふふっと満足げに微笑みながら、応接室の扉へと視線をやった。
そこから、ひとりの男が案内されて入ってくる。
――長いブロンドを後ろでゆるくまとめ、白いマントを揺らしながら入室してきたのは、
誰が見ても「選ばれし貴族」と思わせる、華奢なイケメンだった。
そして彼は、リックの顔を見るなり、わずかに目を見開いた。
「えっ……!? コーゼンラート公爵様……!?」
「今は違う。――エリナの“夫”だ」
堂々と、ためらいなく言い放つリックの声に、男の肩がびくんと揺れる。
「そ、そ、それは……失礼しました……!」
まさか自分の憧れていた名家の当主が、“願いを叶える魔女の夫”として現れるとは思いもしなかったのだろう。
男はひとつ深く頭を下げると、すぐに背筋を伸ばし、端正な礼儀で口を開いた。
「……私、ボルド伯爵家の次男、エンファルト・ボルドと申します。
今宵は急な訪問、深くお詫び申し上げます」
上品な所作で一礼するその姿に、エリナはどこか満足げに目を細めた。
(……うん。顔は通ってるわね)
心の中で顔面採用スタンプを押しながら、優雅に名乗り返す。
「――エリナ・リカーナスキッドよ。
それで、願いは何かしら?」
少し身を乗り出しながら問うと、エンファルトは深く息を吸い――
「はい……実は……」
口を開けたその瞬間、白く整った歯列の奥に、鋭い牙が見えた。
エリナの目が一瞬だけ細くなる。
「あら、まぁ……上位層の魔物に噛まれたの?」
「……はい。数年前の辺境任務中に……
以来、何を食べても味を感じず、動物の……生肉でしのいでいましたが、もう……限界で……」
その声音はかすれており、彼の頬はこけ、目の下には酷いクマが滲んでいた。
貴族然とした気品の奥に、痛ましい疲労が滲んでいる。
体も心も、もう限界。
「……で、どうしてほしいの?」
静かに問うエリナに、エンファルトは震える声で訴えた。
「……私を……人間に戻してください……!」
「――ふぅん。で、対価は?」
「な、なんでも……なんでもします!!」
机に手をつき、額を下げるその姿に――エリナは片眉を上げた。
(なんでも、ね……。本当なら“金か家宝”でも要求して、さっさと終わらせたいとこだけど)
ちらりと隣を見ると、リックが少し前のめりになり、ふっと口を開いた。
「なら――王子を後悔させる手伝いをしてもらったらどうだ? エリナ」
「……え?」
リックの不意の提案に、エリナは驚いたように目を丸くした。
(この人、たまに本当に……核心を突くわよね)