7話.「平然と、とんでもないこと言わないで!」
――何気ない昼下がり。
塔の高窓から、優しい陽光が差し込む午後の静けさの中。
エリナの部屋では、魔法陣がかすかに輝きを放ち、空気に甘い魔素の余韻が揺れていた。
「……できたわ!!」
机の上で両手を広げ、エリナが満面の笑みを浮かべた。
その手のひらの中で、ひときわ強い輝きを放っていたのは――
赤くキラキラと輝く、小さな宝石。
見た目は飴玉のようにも見えるが、そこに込められた魔力は尋常ではない。
(よし……これで、ついに……)
エリナはわくわくと胸を弾ませながら、宝石を大事に包み、部屋の扉を勢いよく開けた。
「リックー!!」
塔の廊下に声が響く。
その瞬間、扉のすぐ隣――壁にゆったりと肩を預けて立っていた男が顔を向けた。
「どうした?」
いつも通りの低く落ち着いた声。
けれどエリナは、一瞬、目を見開いた。
「……何してるのよ、こんなところで」
「エリナを待っていた」
「――よ、呼べばいいじゃない!」
驚きとともに、声がわずかに裏返る。
「用事はなかった。ただ……会いたくて、待っていただけだ」
「ぐっ……!!」
言葉を失って口をぱくぱくとさせるエリナ。
その頬がじわりと朱に染まり、目元まで熱を帯びていく。
(こ、この男……平然と、なんてことを……!!)
完全に不意打ちをくらい、心臓が痛いほど跳ねていた。
「……それより、何か用事か?」
リックが穏やかに問うと、エリナは「あっ」と我に返り、手にした布包みを差し出した。
「これ!」
リックがそれを受け取ると、中から現れたのは――深紅の小さな宝石。
光にかざすと、中に星のようなきらめきが揺れている。
「これは?」
「……持っていれば、刻印と同じ力があるの。
これで、あなたも……歳を取らなくなるわ」
「……いいのか?」
真剣な声に、エリナは一拍の間を置いて、ややそっぽを向いたまま答えた。
「い、いいに決まってるじゃない。そのために作ったんだから……」
少し早口になる。頬がまた熱くなる。
そのときだった。
リックがすっと近づき、エリナの顎に指を添えて、顔を軽く持ち上げた。
「――よほど、俺をお気に召してくれたようだな」
低く囁いたその言葉とともに、リックはエリナの唇にチュッと短いキスを落とした。
「んっ……!!」
目を見開いたまま固まるエリナ。
熱い何かが体中を駆け巡り、言葉が喉に詰まる。
それでも彼は、ニコリと笑って言った。
「ははっ。――エリナのために、これからも鍛え続けるよ」
その言葉と笑顔が、まぶしすぎた。
(ううう……この私が……筋肉なんかに……屈服させられるなんて……!!)
(くっ……!! これは恋とかじゃない、ただの敗北感!!……たぶん!!)
顔を真っ赤にしたまま唇を噛んでいると、廊下の奥から軽やかな足音が響いてきた。
すらりとした美青年が、執事服を整えながら歩いてくる。
灰色がかった滑らかな髪に、優しげな顔立ち。
「あ、エリナ様」
その声にエリナが振り返る。
「ん? ジョナじゃない。どうしたの?」
自然と声が柔らかくなる。が、その拍子に――
「邪魔だってば」とばかりに、リックをグイッと脇に押しやる。
押されたリックは微笑しつつ、よろけたふりで壁にもたれた。
(……やれやれ)
「……あの、エリナ様。ご相談がありまして……」
ジョナは視線を少し泳がせながら、エリナに向き直った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
応接室―――
高い天窓から光が差し込み、クラシックな赤い絨毯の上に影が伸びている。
柔らかなクッションが並ぶソファに、リックはゆったりと腰を下ろし――
その膝の上には、当然のようにエリナが座っていた。
その姿はすでに日常になりつつあるが、エリナの頬はほんのりと赤く染まったままだ。
斜め後ろにはグレイが控え、無言で紅茶をサーブしている。
そして、正面のソファには、端正な顔立ちの灰色髪の青年――ジョナが姿勢よく座っていた。
「で、どうしたの?」と、エリナが口を開く。
「……あ、はい」
ジョナは一呼吸置いてから、視線をエリナへと向けた。
「――ここを、去ろうと思います」
その言葉に、エリナのまつげが微かに震えた。
(とうとう……決心がついたのね)
内心で呟きながらも、顔には穏やかな微笑みを乗せて返す。
「そう……。寂しくなるわね」
言葉とは裏腹に、胸の奥が少しだけ冷たくなった気がした。
けれどすぐに、エリナは表情を引き締め、手を軽く上げて言う。
「でも――待って頂戴」
その声にジョナは、すでに察していたように微笑んだ。
「はい。グレイ様から聞いています。
――“時戻し”をされるんですよね」
「えぇ。せっかく決心できたのに、水を差すようでごめんなさい」
ほんの少しだけ申し訳なさそうに眉を下げる。だが、ジョナは首を横に振った。
「いえ、むしろ良かったと思っています」
そこまで言って――彼は、どこか言いにくそうに目を逸らした。
「正直……ここにいると、いろんな意味で人間らしさが麻痺してしまいそうで」
少し笑ってみせるが、声は曇っていた。
「……毎晩の、エリナ様の……あの、えっと……お幸せそうな声を聞いているうちに、
自分もまた“人間”に戻って……普通の恋を、もう一度してみたいと思ったんです」
「ぐっ……!!?」
エリナは瞬間的に身体をビクンと跳ねさせ、
リックの膝の上で姿勢を崩しそうになった。
顔が、じわじわと赤くなっていく。
耳まで熱い。視線も合わせられない。
(う、嘘でしょ……!? なにこの、人生最大級の羞恥プレイ!!)
ああもう、“何も感じない魔女”だったはずなのに……
これは……屈辱っ!!
だが、顔を両手で隠すようにして悶えていると、
ジョナはやわらかく、静かに頭を下げた。
「……お許しいただけるなら、“時戻し”が終わるまで、短い期間だけこちらに残らせてください」
「……えぇ。もちろんよ。
終わったら、声をかけるわ」
恥ずかしさをごまかすように、エリナは小さく咳払いしながら、顔を背けて答えた。
「ありがとうございます。それまで、よろしくお願いします」
丁寧に一礼したジョナは、静かに立ち上がり、扉のほうへ向かう。
部屋を出て行く足音が遠ざかり――
応接室は、しんと静まり返った。
穏やかな午後の空気のなか、リックがふとエリナに視線を向けた。
「……あれは、どういった経緯で?」
エリナは膝の上で指を組みながら、懐かしむような目で答える。
「ジョナはね、ああ見えて――ヴィストレイシアの三代目の王なのよ」
リックの眉がわずかに動いた。
「……あの王が?」
「ええ。色んな国に攻められて、国がもうどうしようもないってときにね、
“国を救ってほしい”って、ここに来たの。
だから、願いを叶えてあげたのよ」
「で、対価を作ったのか?」
静かな問いに、エリナはふっと笑った。
「そう。“何をくれるの?”って訊いたらね――
“この命”って言うのよ。だから、刻印を刻んでしばらく様子を見てたの。
でも、何百年も経った頃にバラしちゃった。
“本当は、対価なんてないわよ”って」
「……なるほど。そしたら?」
「“死ぬのは怖いから、このままここにいさせてくれ”って言うから、
じゃあ働いてもらおうかなって。そのまま今に至るわ」
エリナの言葉に、リックは少し黙り込んでいたが、やがてふっと息をついた。
「そうか。――俺としては、男が一人減るのは、喜ばしいことだ」
……その瞬間。
エリナは彼の顔を見て、心臓がドクンと跳ねた。
嫉妬ではなく、ただ静かに“自分の女”に対する所有感を滲ませたその言葉。
その表情が、また。
(ま、またよ……!! この男は……!!
なんで、ああいう顔を……っ!!)
エリナは唇を噛みしめ、リックの胸元を小さく小突いた。
「……な、なんなの、その顔は!!」
リックは、穏やかに微笑んだまま――何も言わなかった。