6話.「筋肉に屈服する魔女」
――翌日。塔の寝室。
真紅のシーツが、くしゃりと音を立てて波打っていた。
濃い色の絹地に、昨夜の熱がまだわずかに残っているかのように、空気すら火照っている。
その中央で、エリナ・リカーナスキッドは仰向けに倒れ込んでいた。
ぐったりと両手を広げ、乱れた金髪をシーツに投げ出したまま。
ドレスのリボンは胸元でほどけ、肩からずり落ちかけた生地が彼女の疲労を物語っていた。
全身が鉛のように重くて、指一本動かすのも億劫だった。
息は荒く、かろうじて上がる胸が、まだ昨夜の余韻を引きずっている。
(……よ、よかった……)
心の中でぽつりとつぶやいた瞬間、唇の端がぴくりと震える。
(こ、こんな……こんな快感……初めて……っ!!)
まるで魂の奥底をぐるぐるにかき回されたような――
そんな余韻に、思考がまだ現実に戻ってこない。
(う、うそでしょ!? 私が、私が……っ。
筋肉に屈服させられるなんて……!!)
魔女として、女として、いや一人の人間として――何かが崩れた気がした。
けれどそのとき。
枕元からそっと覗き込む男がいた。
昨夜、彼女をとことんまで堕とした張本人――リックヴォルグ。
大きな手で彼女の髪を優しくすくい上げ、崩れた前髪をそっと耳にかける。
その仕草はとても優しく、そして余裕に満ちていた。
「……どうでしたか?」
柔らかな笑みを浮かべながら、彼は問うた。
まるで、“確信している者の問いかけ”だ。
エリナの全身がビクリと震える。
「ぐ、ぬ、ぬ、ぬ、ぬ、ぬぬぬぬぬ……!!」
悔しさと羞恥と、何より認めたくない敗北感が一気に襲いかかる。
歯をぎりぎりと噛みしめ、シーツの端をぐしゃりと掴みながら、エリナは天井を睨んだ。
(な、なんなのこの男……! なんでこんなに涼しい顔してるのよっ!!)
(私が……こんなに……くやしいのに……!!)
でも。
それでも、胸の奥には、あの言葉が――今も、ほんのりと灯りのように残っていた。
「今後は、俺だけにしてほしい」
口にしたその想いが、まるで心の奥に魔法の印を刻み込んだように、ずっと響いている。
エリナは顔を覆って、くしゃっと目を閉じる。
(うぅ……なにこれ……恋? 愛? え、えぇ!?)
(……はううううんっ……!!)
ベッドの上でシーツを握りしめ、エリナはもぞもぞと身をよじった。
顔は真っ赤、目の端には涙の名残。
体は昨夜の余韻をまだ引きずっており、全身がぽかぽかと火照っている。
「……わ、わかったわよ」
シーツに顔を埋めたまま、くぐもった声がもれた。
「今後は……あなただけに、するわ」
それは、魔女エリナ・リカーナスキッドの歴史上――千年ぶりの敗北宣言だった。
(……そう。そうよ……リックが飽きるまで……)
そう思おうとした。自分を納得させようとした。
(付き合ってあげればいいの。飽きたら、きっとまた元に戻る。
でも……)
瞼を閉じる。
昨夜の熱が、ありありと蘇る。
(……あれを……体験した私は……)
(もう他の誰かと寝られる気がしない……!!)
(な、なんなのよ……く、くそっ……!)
「ううううう……」
シーツを頭からかぶり、くるまりながら震えるエリナ。
その姿は、敗北した戦士のようでいて、どこか愛らしかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――数刻後、朝。
塔の食堂では、朝日が高窓から差し込み、長テーブルをやわらかに照らしていた。
紅茶の香りと、焼きたてのパンの湯気が漂う中、エリナは首にスカーフを巻いたまま静かに席につく。
今朝はいつもよりも数段落ち着きがなく、視線はちらちらとテーブルに泳いでいた。
そこへ、銀の盆を持ったグレイが静かに近づく。
「……エリナ様」
いつも通りの穏やかな口調で、しかし内容はとても穏やかではなかった。
「ヴィントラード侯爵令嬢が――亡くなりました」
フォークを持っていたエリナの指が、ぴくりと止まる。
「……そう。王子は?」
「ええ。やっと正式に婚約した平民娘の妃教育が始まったようで。
現在は、毎日泣いているその娘を、王子が心を痛めながら慰めているとのことです」
「……このまま……ハッピーエンドになったら、どうしよう」
思わず、溜息がこぼれた。
軽く額に指を添えながら、エリナはつぶやく。
するとグレイが、すかさず口をはさむ。
「妨害しますか?」
「いいえ……まだ様子を見るわ。
幸せのピークから突き落とすのが、一番効くのよ」
言葉の端に、僅かに冷たい笑みをにじませる。
だがそれは、感情のない残酷さではなく、何かを超えてきた者の“静かな復讐”だった。
深くひとつ息を吐いて、カップを持ち上げようとしたそのとき――
「時はいつ戻すんだ?」
リックの低く穏やかな声が、背後から届く。
振り向くと、彼は壁際に寄りかかりながら、カップ片手にこちらを見ていた。
「そうね……二十年後くらいかしら」
静かに返しながら、窓の外へ視線をやるエリナ。
「王子が、しっかり後悔してからでないと意味がないもの」
「……そうか。二十年、か」
リックはぽつりとそう呟き、少しだけ目を細める。
そして、ゆっくりと肩を回し――ごり、と軽く首筋を鳴らした。
「……二十年も、この体力を維持できるか、心配になってな」
その言葉と同時に、カップを持つ腕をわざとらしく曲げ、
袖の隙間から鍛え抜かれた筋肉が、ぴくりと動いた。
ぶわっと、エリナの顔が真っ赤に染まる。
「~~~~~~っっっ!!」
(な、なにその“意味ありげな筋肉の見せ方”っっ!!)
わざとじゃない。あれは絶対、確信犯!
「おお……エリナ様がそのような表情をされるとは。
……生まれて初めて見ました」
楽しげににっこりと微笑むグレイ。
それに反応したエリナは、手に持っていたパンをぐしゃっと握り潰し――
「ちょっ!! からかわないでッ!!!」
耳まで真っ赤に染めながら、椅子をガタッと立ち上がった。
けれどその怒鳴り声の裏にあるのは、確かに――照れと嬉しさの入り混じった、
“恋する女”の感情だった。