19話「過ちの先に、希望は咲くか」
――ヴィストレイシア王国、第一王子、デール・ヴィストレイシアは、長い長い後悔の旅路の果てに、ようやく“目を覚ました”。
ぼんやりと瞼を開いた彼が見たのは、信じがたい光景だった。
紅茶の香りがふんわりと漂う、華やかなガーデンテーブル。白と銀の陶器に並べられた菓子たち、そして――
その向かいには、小さな少女が、にこりと微笑んでこちらを見つめていた。
「……アステナ……?」
反射的に名を呼んだ自分の声が、妙に高く、軽い。思わず手を見下ろせば、その手は、自分の記憶よりもあまりに小さく、華奢だった。
(……戻っている……“あの時”に……)
目の前の少女、アステナ・ヴィントラード。将来、婚約を破棄し、彼が自らの愚かさゆえに傷つけてしまった、あの気高くも脆い令嬢。
そして今、この時代のアステナは――まだ、たった八歳。けれど、もうすでに。
(……彼女はヴィントラード侯爵家の中で、“王太子妃”として育つための、過酷な鍛錬を強いられている……)
彼女が纏うドレスは年齢に見合わず重たく、その表情もまた、どこか年齢以上の気高さを帯びていた。
無邪気に見えるその笑顔も、目だけは笑っていない。
「アス……テナ……」
喉の奥から、絞り出すような声で、名を呼んだ。
「はい?」
アステナは微笑みながらも、心の奥を見せようとはしなかった。瞳の奥にある影は、幼い彼女にあってはいけないものだと、デールは知っていた。
「アステナは……将来、何になりたい?」
彼女は少し首をかしげてから、答えた。
「将来……? もちろん、この国を支える“国母”ですわ」
その声に、一瞬、デールの胸が苦しく締めつけられた。
(……それは、お前の“本心”ではないのか……?)
「……それは、本心か?」
「え……?」
わずかに戸惑うように、アステナの眉が動いた。
「すまない……。そうか……すでに“刷り込まれて”いるのだったな……」
「はい……?」
彼女は完全に意味を理解できずにいる。無理もない。たった八歳の少女が、自分の立場を“義務”としてしか捉えられないような環境にいたということ――それが、どれほど歪で、残酷なことか。
「……そなたの意見を、私は尊重しよう」
言いながら、デールは手を軽く振り、控えていた侍従に合図を送る。
呼び出されたのは、宮廷大臣。その人物が目を丸くして近づいてくると、デールはまっすぐ彼を見据えて言った。
「私は、アステナ・ヴィントラード嬢との正式な婚約を希望する。そして……できる限り、彼女と同じ学びをともにしたい」
大臣は目を剥いた。
「で、ですが殿下……それは、今この段階ではあまりにも……」
「王族命令だ。父上には私から許可をとる」
その声音は、かつてのデールとは思えぬほど、真っ直ぐで揺るぎがなかった。
ぽかんと口を開けたまま、アステナが小さく呟く。
「あ……あの……わたくし、何か……気に障るようなことを……いたしましたか……?」
その怯えたような反応に、デールは胸の奥が締めつけられるような思いがした。
(……これが八歳の彼女の“反応”か……)
たった今決意したばかりの未来のために、彼はそっと微笑んだ。
「いや、違う。……これから共に歩むためだ。王城に移ってもらうが、構わぬか?」
その言葉に、アステナは小さく目を見開いた。
揺れるまなざしが、戸惑いと不安を隠しきれずに揺れる。
「……はい……」
ぽつりと返されたその返事は、小鳥のさえずりにも似た、かすかな声だった。
けれど、その声音の奥には、怯えが滲んでいた。
当然だ。まだ幼い彼女にとって、突然の婚約話、王城への移住、そして“共に歩む”という言葉の意味など、すぐには飲み込めるものではない。
それでも、彼女は礼儀正しく、断らなかった。
その姿勢すらも、“令嬢”として刷り込まれた従順さなのだと、デールは痛いほど感じていた。
「……大丈夫だ」
デールはそっと腰を落とし、アステナと同じ目線に立つ。
そして、小さな彼女の手を包み込むように、やさしく握った。
「もう、そなたを脅かすものなど……一切あってはならぬのだから」
その言葉は、かつての己自身への誓いでもあった。
彼は、二度と過ちを繰り返さぬように――この幼い少女の心を、ただ“守るために”手を取った。
アステナは、最初は驚いたように目を見開いていたが、しばらくして、ほんの少しだけ、指を返すように握り返してきた。
その手は冷たく、小さく、頼りないほどに細かった。
だが――確かに、そこには希望があった。
デールはその手をしっかりと引き寄せると、並んで歩き出す。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
塔の最上階――
丸く切り取られた天窓から差し込む柔らかな光の中、エリナ・リカーナスキッドは、足を組んで優雅にソファに腰掛けていた。
彼女の前には、浮かび上がる淡い蒼光の水晶球。
その中では、幼い王子と令嬢が、手を繋ぎながら王城へと歩いていく姿が映し出されていた。
「わぁ~~!とっても素敵!理想通りの展開だわ!」
エリナはぱぁっと表情を輝かせ、まるで恋愛ドラマの視聴者のように両手を頬に添える。
「うん、やっぱりこの二人には“こう”であってほしかったのよねぇ~。あの表情、最高だわ。デール、良い顔するようになったじゃない」
そんな彼女の背後に、いつの間にかグレイが静かに立っていた。
「そうですね。エリナ様」
低く穏やかな声とともに、水晶を一瞥しながら、グレイはそっと微笑んだ。
「想像以上に、あの王子も変わりました。……やはり、エリナ様の魔法は、願いを叶えるに相応しい」
「ふふ。そう言ってもらえると照れちゃう」
エリナは軽く肩をすくめると、深くひと息ついた。
「はぁー……これからが楽しみね」
水晶の中の二人が遠ざかっていくのを眺めながら、彼女の瞳はきらきらと希望に満ちていた。
グレイが静かに進み出て、ささやく。
「――エリナ様も、そろそろ迎えに行かれては?」
「……そうね。不安がってるかもしれないものね。あの子」
そう呟いてから、エリナはほんのわずか、表情を曇らせた。
「……でも、その前に」
エリナはふっと立ち上がる。裾の長い魔女服がふわりと揺れた。
「ジョナと、お別れしなくちゃ」
塔の一階、重厚な木の扉を開けたその先――
応接室では、元国王ジョナ・ヴィストレイシアが、すでに旅支度を整えて静かに待っていた。
灰色の髪に陽が差し込み、落ち着いた瞳がまっすぐにエリナを見つめている。
彼の姿には、威厳ではなく、穏やかな感謝の気配があった。
「エリナ様、今まで……お世話になりました」
ジョナは丁寧に頭を下げ、感謝の言葉を口にした。
エリナは扉を閉めながら微笑み、ゆっくりと近づく。
「ううん。此方こそ、ありがとう。……ずいぶん待たせちゃったわね」
目の前まで歩み寄ると、エリナは優しく手を差し出した。
「腕を出して」
ジョナは無言で袖をまくり、差し出した前腕には、かつて“契約”の証として刻まれた魔術の紋様が淡く光を放っていた。
エリナはその刻印に指先を添えると、静かに呪文を紡ぐ。
光がゆらりと揺れ、まるで霧が晴れるように、刻印は跡形もなく消えていった。
「……良い人生を」
エリナは微笑みながら、言葉にそっと想いを込めた。
ジョナもまた、目を細めて頷く。
「はい。エリナ様も……もし、僕の助けが必要になったら、いつでも呼び戻してください」
「……あら、そんなこと言っていいの?」
くすっと笑うエリナの顔に、少女のような茶目っ気がのぞいた。
「はい」
ジョナの返事は、ただひとこと。けれど、どこまでもまっすぐで、迷いはなかった。
「ふふふ。……心に止めておくわ。じゃあね」
「……はい」
エリナがゆっくりと背を向けると、ジョナはその後ろ姿に小さく一礼した。
そして、誰にも見られぬように――その目元を、そっと手で覆った。




