18話.「時戻し」
塔の最上階、神秘的な魔力が満ちた円形の部屋。
窓の外はいつも通りの空――けれど、今この空間には、時を動かそうとする魔女の“決意”が、しんと静かに満ちていた。
「さてと――」
エリナが腰に手を当て、ふぅっと息を吐く。
「王子も記憶を見終わったみたいだし……そろそろ、“最初”へ戻りましょうか」
その瞳には、決意の光が宿っている。
“最初”――それは、デールとアステナが初めて顔を合わせた、まだ8歳だった日のこと。
「リック。あなたに渡した宝石、返して」
そう言って、エリナが手を差し出すと――
リックはコートの内ポケットから、深紅に輝くルビーのような宝石をそっと取り出した。
だが、その手が途中で止まる。
「リック?」
不思議そうにエリナが顔を覗き込むと、リックは少し照れくさそうに目をそらしながら呟いた。
「いや……その。エリナからもらった、初めての贈り物だったから……」
その声には、まるで少年のような躊躇いと純粋さがあった。
エリナは思わずクスッと笑う。
「……仕方ないわね。あとで、ちゃんと返してあげる」
その言葉に、ようやくリックも小さく笑いながら宝石を手渡した。
そして、いよいよ別れの時が近づいてくる。
「じゃあ、戻します。リック――後でね。迎えにいくわ」
エリナの声は、どこか寂しげで、けれど強くあたたかかった。
「あぁ。待ってる」
リックは静かに頷くと、エリナをぐいっと力強く抱きしめた。
その腕はまるで、何があっても守り抜くという誓いそのもののように、温かく、頼もしい。
エリナも一瞬戸惑いながらも、そっと腕を回し、彼の背中を感じる。
だが、そこで思わぬ展開が。
リックはふいにグレイの方へ向き直り――
「……すまない」
言葉と同時に、その華奢な執事を、ぐいっと抱きしめた。
「えっ……?」
グレイの赤い瞳が、見開かれる。
あまりのことに目を瞬かせ、言葉も出てこない。
「本当に。君にも……礼を言わなければならない気がして」
リックの声は、どこか真剣で、どこか優しかった。
「……なんだか、ずっと……俺たち三人で一緒にいた気がしてならないんだ」
「……一生のお別れじゃないんだから」
エリナが、苦笑しながら呆れたように言う。
「……あぁ。そうだな。でも……ありがとう、グレイ」
その言葉に、グレイはふっと微笑み、リックの腕を優しく解いた。
「大丈夫ですよ。エリナ様の御心は……すでに、あなたのものですから」
「ちょっ……! グレイ、なに勝手に言ってるのよ!!」
慌ててエリナが顔を赤くしながらツッコむと、
「申し訳ございません」と、グレイはいたずらっぽく目を伏せて軽く頭を下げた。
そして――エリナは、目を閉じ、祈る。
哀れなアステナ・ヴィントラードのために。
そして、深い後悔の中にいたデール・ヴィストレイシアのために。
「……神よ。どうか……時間を戻して」
魔力が部屋いっぱいに満ちていく。
天井の魔法陣が青白く輝き、空間がゆっくりと反転しはじめる。
――運命の“やり直し”が、いま幕を開ける。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
リックヴォルグは、不思議な感覚の中にいた。
身体の芯が、静かに逆流していくような……そんな感覚。
まるで、生まれてから今までの記憶が、一本の道になって後ろへと巻き戻っていくようだった。
皮膚の感覚が変わる。
筋肉の張りが少しずつ抜けていき、節々の関節が柔らかく軽くなる。
それは――自身が、確かに“若返っている”証だった。
だが、不安や混乱の中でも、彼の意識は驚くほど澄んでいた。
(……エリナの魔法、か)
周囲の空間がぐるりと反転し、景色がゆっくりと逆再生されるように動いていく中で、
リックはひとり、変わりゆく自分の体を見下ろしていた。
視線の高さが徐々に低くなっていく。
手足は細く、幼いものへと変化していく。
――彼は今、かつての“少年”の姿へと戻っていっているのだ。
(あぁ……もう、すでに嫌になってきた)
小さな手を開閉してみる。
頼りなさすぎて、エリナの細い腰すら抱けない。
ふと、そんなことを真顔で考えてしまう自分に、思わず苦笑する。
(……鍛錬したというのに。全部やり直しか)
そう思った瞬間、胸の奥にぽつりと湧き上がった小さな熱があった。
懐かしさでも後悔でもなく――エリナの顔が浮かんだからだ。
(……この感覚、全部エリナに伝えてやるとしよう)
筋肉が消えたことも。視線が低くなったことも。
少年の体では全くもって物足りないと感じたことも。
彼女は、人の人生を観察し、まるで物語のように愛でる癖がある。
誰よりも鋭く、誰よりもやさしく、誰よりも愉快に――人間という生き物を愛していた。
(きっと面白がるだろうな)
そんな彼女の笑顔を思い浮かべただけで、自然と頬がゆるんだ。
(……あいつは、長い長い時間を、ずっとひとりで歩いてきたんだ)
だからこそ、今度は――
(これからは、俺も一緒に)
どこまでも続く、終わりのない人生を。
時間すら超えてしまう、その物語の先を。
ともに見て、感じて、笑って――そして、愛していきたい。
(……あぁ、きっと退屈なんてさせない)
幼い体の奥で、変わらぬ誓いが静かに芽吹いていた。




