17話.「数千年の記憶に触れても、なお君が欲しい」
塔の最上階、寝室。
光の差し込まぬ厚いカーテンの奥、静寂が包む寝台の上で――
リックヴォルグは、ゆっくりとまぶたを開けた。
「……俺は……いったい……」
視界がぼやける。体は動くが、どこか遠くの記憶を旅して戻ってきたような、そんな感覚。
呼吸を整えようと体を起こしたその瞬間、耳に届いたのは――
「……あら、もう起きたの?」
塔の中とは思えぬほど明るい声。
振り返れば、深紅の寝間着に身を包んだ金髪の魔女――エリナが、ゆったりと椅子に腰かけていた。
膝に乗せた本を閉じ、彼女はにこりと微笑む。
「……どのくらい寝ていた?」
「10年よ」
「……10年……?」
一瞬言葉を失い、目を伏せて考える。
けれどすぐに――
「そうか」
と、静かに頷いた。
エリナはベッドに近づき、そっと彼の頬に手を添える。
その手は少しひんやりしていて、けれど、なぜだろう……心があたたかくなる。
「大丈夫? どこかおかしなとこはない?」
心配そうに眉を寄せるエリナ。
リックはその手を両手で包み込み、まるで宝物を扱うように頬へすり寄せた。
「あぁ……大丈夫だ」
「……全部、見てきたんじゃないの?」
囁くように問いかけた声には、ほんのわずかに不安がにじむ。
「……見てきた」
短く、だが確かな答え。
その声音には、重みと温もりがあった。
「……まだ好き?」
そう問いながらも、エリナ自身、心の中で答えを予感していた。
リックは、まっすぐに彼女を見つめ――
「好きだ」
ためらいも迷いもない。その一言が胸の奥に響く。
(……心が、喜んでる。どうしようもないくらいに)
エリナは思わず目を伏せた。
こんなに自分の鼓動を感じたのは、いつぶりだっただろう。
「変な人。普通は廃人になっちゃうわよ。数千年分の記憶をたった10年で見ちゃうなんて」
茶化すように口を尖らせてみせると――
「エリナ……」
リックがそっと彼女の腰に腕を回し、ぐいっと力強く引き寄せる。
「ちょ……何よ……」
胸元に顔を埋めるように抱きしめられて、エリナの頬がわずかに赤くなる。
(……魔法で体は保存してたけど、少し緩めて華奢な体にしておくべきだったかしら……)
心の中で苦笑しながらも、嫌じゃなかった。
むしろ、このぬくもりが、心の奥にじんわりと染みていく。
「ありがとう。……エリナを、知れた」
耳元で囁かれるその言葉に、胸の奥がきゅうっとなる。
「……あなた、本当に変わってるわ」
「そうか?」
「そうよ」
呆れたように言いながらも、エリナの目元はやわらかくほころんでいた。
その笑みは、これまで見せてきたどんな魔女の仮面とも、少し違っていた。
――ごく自然に、ただ一人の男に向けた、心からの微笑みだった。
そのあとは、寝台の上でぬくもりを分け合いながら、
エリナはリックに現状を説明した。
デール・ヴィストレイシア王子の“記憶の旅”が、今まさに終わりを迎えようとしていること。
その旅が終われば、すぐに“時戻し”が始まる予定であること。
「……彼は今も眠り続けてるのよ。まるで童話の“眠りの王子”みたいにね」
少し茶化すように言ったエリナに、リックは目を細めて頷いた。
そして、ふたりでリビングルームへ向かうと――
「……目覚められたのですね……しかも、普通に」
そこにいたグレイが、目を丸くして驚いていた。
その穏やかさに満ちた顔に、ここまで表情の変化が出るのは珍しいことだ。
「そうなのよ。すっごいでしょ?」
エリナは得意げに笑うが、リックはというと――
じっと、グレイを見つめていた。
「……えっと……何か?」
グレイが困ったように眉を寄せると、リックはふと苦笑しながら答えた。
「いや……あまりにも、エリナの記憶の中に君がいたものだからな。
何故か……俺もずっと、君と一緒に旅をしてきたような……そんな気がしてしまって」
「えぇ!?そんなことになるの!?」
エリナが目をぱちくりさせながら聞き返す。
「ははっ……確かに、私とエリナ様は行動を共にしている期間、かなり長いですからね」
グレイが肩をすくめるように言うと、リックはどこか虚をつかれたような目でふたりを見てから、
ぽつりと漏らした。
「……なんだろうな、この……寂しさと虚しさは。
まるで、本当に……ずっと3人で一緒にいたような、そんな錯覚すらあるんだ」
「貴重な意見だわ! すごく面白いデータよ!」
エリナがぱっと手を叩くと、リックは照れ隠しのように頬をかいた。
「ところで、エリナ様」
グレイが視線をエリナに向ける。
「デール王子の方も、最終局面に近いようですよ」
「……そう。ついに、あの子の“やり直し人生”をこの目で拝めるのね」
エリナはふぅ、とひとつ息をついた。
胸の奥が少しだけざわめく。
それは期待か、それとも――ほんの少しの、罪悪感か。
だがそのとき、不意に――背後からあたたかい腕が伸びて、エリナを包んだ。
「エリナ。……面白いことを考えたんだが」
「えっ……な、なに?」
耳元で囁かれて、体がびくりと震える。
「一緒に、貴族の人生を歩んでみないか?」
「は?」
「つまりだ。時戻しの後、そこらの貴族と変わらない生活をして、その二人――デールとアステナを、
直に、じっくりと……観察してみようと思ってな」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ!? まさか本当に潜入調査するつもり!?」
あまりに突飛な案に、エリナは思わずリックの胸を押し返した。
「なにそれ、面白すぎるじゃない……!」
エリナは笑いながらも、頬がほんのりと染まっていくのを自覚していた。
まるで、少女のように胸が高鳴るのが自分でもわかってしまって、少しだけ悔しい。
そんな二人のやりとりを少し離れた場所から静かに見つめながら――
黒髪の執事・グレイは、誰にも気づかれぬように、わずかに目を伏せた。
(……やっと、この方にも、“愛する人”が見つかったのですね)
声には出さず、顔にも出さない。
けれどその胸の奥で、確かに小さな“安堵”と“喜び”が灯っていた。




