16話.「眠れぬ罪人は、夢に裁かれる」
――何気ない日々の繰り返し。
ただ、何も変わらぬ朝を迎えては、虚ろな夜を迎えるだけ。
デール・ヴィストレイシアは、そんな日常をぼんやりと過ごしていた。
けれど、その何気ない日々の中でも、胸を締めつけるものは確かにあった。
後悔。
赦されない過去。
アステナ・ヴィントラードという少女に向けて、自分がどれほど冷たく、愚かだったのかを思い出すたび――
心のどこかが、じわりと痛んだ。
そんなある晩。
いつものように、疲れた体をベッドへ預け、静かに目を閉じたそのときだった。
――足元に、確かな感触。
気づけば彼は、淡くセピア色に染まる記憶の中に立っていた。
「……これは……」
目の前に広がっていたのは、まだ自分が八歳だった頃の光景。
王宮の離宮。
季節は春。
庭に咲き誇る白いライラックが、風に揺れていた。
そして、自分の向かいに座っていたのは――
「……アステナ……」
緊張した面持ちで紅茶を口にする、淡い銀髪の少女。
ああ、これは。
自分とアステナが、王命により“婚約者候補”として初めて顔を合わせた日の記憶だ。
(……そうか。これが、“対価”か)
眠りの中で過去を歩む感覚に、すぐに彼は察した。
願いの代償として“与えられた罰”――いや、チャンス。
デールは息をひとつ飲み、懐かしむようにその場面をじっと見つめた。
――そうだった。
このとき、初めてそなたを見た時。
八歳の自分は、幼心ながら“美しい”と思った。
年齢は同じはずなのに。
その佇まいも、言葉遣いも、背筋の伸び方すらも、すべてが自分よりも大人びていて。
それがどこか、悔しくもあり、羨ましくもあり――眩しかった。
だが、そのときの自分は。
紅茶を飲む手元で、カチャカチャと銀食器を鳴らしていた。
緊張のせいではない。
退屈していたのだ。
そして今、その様子を傍から眺める立場になった自分は、胸が苦しくなるのを感じていた。
(……俺は……なんて奴だ)
そんな幼い態度にすら、アステナは微笑んでくれていた。
曇りのない瞳で、優しく、まっすぐに。
そして不思議なことに――
アステナのその時の“気持ち”までもが、心に流れ込んでくるようだった。
(……あ……)
嫌がってなどいなかった。
むしろ――“自分の容姿を、褒めてくれていた”。
小さな心の中で、きれいな服を着てきた自分を見て、「すてき」と思ってくれていたことが、
なぜか、今の自分にははっきりとわかった。
(……アステナ……)
記憶の中のふたりは、そこからゆっくりと年月を重ね、
やがて王立学園へと進んでいった。
思えば――あれが“始まり”だった。
王立学園。
先代の王が掲げた「平民と貴族の垣根をなくす理想」のもと、創設された学び舎。
貴族も平民も、身分を問わず肩を並べて学ぶ空間。
正義の理想。
だが――あの学園こそが、すべての“間違いの入り口”だったのではないか。
デールは、記憶の中で立ち尽くしながら思う。
(……もし、人生をやり直すなら、この学園制度を廃止すべきか?)
いや、しかし――。
(貴族と平民を分けたところで、自制がなければ……結局は、また……)
脳裏に浮かぶのは、あの平民の少女――マリア。
彼女に惹かれたのは、自分の“身勝手な感情”だった。
自分には、すでにアステナがいたのに。
あれほど優しくて、賢くて、何もかもを理解してくれる婚約者が、隣にいたのに。
それでも、惹かれたのは――
(俺が……“自制”できなかったからだ)
胸がずしりと重くなった。
後悔は、思い出すたびに増していく。
けれど――この記憶を辿る旅が、
その先に“赦し”をくれるのだとしたら――。
彼は、ゆっくりと歩き始めた。
足元はどこか現実味に欠け、靄がかった道が左右に分岐し、時に引き返すように後ろへも繋がっていた。
――まるで、時系列の整合性すら失った“記憶の迷路”だった。
未来と過去が入り混じり、本人の意志とは無関係に、目の前の光景が次々と切り替わる。
そして、ある場面で、デールの歩みがぴたりと止まった。
「……これは……」
目の前には、まだあどけない少女の姿――アステナ。
だがその小さな体は、貴族の礼儀作法を教える教師たちに囲まれ、
怒号と矯正の連続の中で、泣くことも許されぬまま黙々と、ただ静かに訓練を受けていた。
扇の角度、背筋の伸ばし方、声の抑揚、呼吸ひとつに至るまで――
全てが“侯爵令嬢”として完璧であることを求められ、決して間違えることを許されない。
その厳しさは、かつて自分が受けた王族教育を遥かに凌駕していた。
寒い廊下の上に正座を強いられる。
間違えれば食事は抜き。
感情を乱せば、また一からやり直し――。
それでも、アステナは一言の弱音も吐かなかった。
「こんな……こんなに小さな女の子に……」
デールは思わず声を漏らした。
これが日々続いていたのだ。
毎日、毎日、彼女は完璧を強いられた。
そのうち、誇りが彼女の内側に静かに根を張り――
いつしかそれが彼女の“生き方”となっていった。
――そして。
彼女の人生の中には、“自分への恋愛感情”など、最初から一切なかったのだと……デールは気づいた。
それを知った瞬間、胸の奥が、ずしりと沈んだ。
「……そうだったのか……俺は……」
マリアをいじめていたわけでは、なかったのだ。
ただ。
あれも、これも――すべては、“国のため”だった。
自分は彼女を、“感情のない、面白みのない人間”だと思っていた。
けれど――違った。
彼女は“感情を殺された”のだ。
好きなものも、やりたいことも、望むものも……すべてを剥ぎ取られ。
ただ国家にとって都合の良い令嬢として、育て上げられてしまった。
その無垢さを失った瞳が、どれだけ冷たく感じられたことか。
でも、今なら分かる。
あれは“冷たい”のではなく、“守るために凍てつかせた”瞳だった。
「……なんだこれは……」
胸が、軋むように痛んだ。
息が詰まる。
その場に膝をついてしまいたくなるほどの罪悪感が、重くのしかかる。
けれど――歩かねば。
この夢からは覚めない。
これは、自分が望んだ対価。
願いを叶えてもらうために、自ら差し出した“罰”なのだから。
一歩。
また一歩。
まるで地に根を張るように、重くて鈍い足を、ゆっくりと前へ進める。
泣きたいくらいに苦しい。
けれどその苦しみを――“知る”ために、自分はここにいるのだ。




