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14話.「絶望の中の、唯一の魔法」

 ――ヴィストレイシア王宮。


 机に広げられた数枚の婚姻書類と、見慣れない女性の絵姿。

 鮮やかに描かれた微笑みの肖像を、デール・ヴィストレイシアは無言で見つめていた。


 その目は、まるで何も映していないように虚ろで――

 まるで、自分が誰だったのかも思い出せないかのようだった。


(好きでもない女性と、結婚しなければならない……)


 「王子」という立場が、彼に“選ぶ権利”すら許さない。


 愛していない相手との政略結婚。

 国を護るためとわかっていても――心が追いつかない。


(……なら、せめて――)


 彼が下した決断は、常識の外側にあった。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 ――リカーナスキッド塔、一階 応接室前。


「ど、どうしよう、グレイ!! 本当に王子来ちゃったわよ!!」


 塔の外を監視していた魔法水晶が“白の礼服姿の青年”を映した瞬間、

 エリナは悲鳴を上げるように叫んでいた。


「しかし、自動結界を通過してしまいましたし……もう、止められませんね」


 涼しげに言うグレイの声に、エリナは肩を抱えて震える。


 “自動結界”とは、彼女とグレイが共同で開発した特殊な防御魔法。

 侵入者の“顔面レベル”によって通過許可を判断するという、いささか趣味の入った結界だった。


 神に愛されし“元・聖女”エリナの膨大な魔力を持ってすれば、

 そんな顔面審査式の魔法すら造作もなかった。


「もう……覚悟を決めるしかないわね」


 エリナはぐっと胸元のリボンを締め直し、紫の魔女服の裾を払うと、

 扉をばんっと開いた。


 後ろには、なぜかきっちりメイド服を着た男たち数名が控えている。

 その中心には、当然グレイの姿もあった。


「――待たせたわね」


 応接室に入った瞬間、エリナの視線は真正面の王子に向けられる。


 そこには、以前のような“傲慢な王族”の気配は微塵もなかった。


 デール・ヴィストレイシアは、まるで一夜で十年老いたような顔をしていた。

 やつれた頬、沈んだ瞳、背筋すらわずかに曲がって見える。


 その姿に、エリナは思わず眉をひそめる。


「……あなたが、願いを叶える魔女。エリナ・リカーナスキッド辺境伯か」


 低く、擦れた声。


「えぇ、そうよ」


 エリナはゆっくりとソファに腰を下ろし、脚を組む。

 視線は鋭く、しかし表情にはどこか静かな興味が混ざっていた。


 しばしの沈黙の後――王子は、深く頭を下げた。


「……どうか、私の求婚を受けていただけないだろうか」


 その言葉に、部屋の空気がひやりと変わる。


「……それは、お受けできませんわ」


 エリナは静かに、しかしはっきりと断る。


「何せ、私とあなたでは――生きる時間が違いますから」


 言葉の重みを、王子は痛いほど感じていた。


「……そこをなんとか。……父王が死ぬまででいい。

 短くても、いいんです……」


 デールの声は、もう懇願に近かった。


 だが――


「……申し訳ございません。……ですが」


 エリナは一瞬だけ視線を落とし、それから微笑んだ。


「――“人生をやり直す”ことなら、できますわ」


「……やり直し?」


 信じられないといった表情で、デールが顔を上げる。


「あなたの“時間”を巻き戻すの。……ねえ、私ならできると思わない?」


 エリナがパチンと指を鳴らした。


 すると、扉が開き、礼服を纏った一人の男がゆっくりと入室する。


「この顔に、見覚えがあるのでは?」


 その男の整った顔立ちを見た瞬間――


「……そ、そんな……まさか……」


 デールはがたんと音を立てて立ち上がった。


「ご先祖様……!?」


 驚愕に満ちた声に、男――ジョナ・ヴィストレイシアが、ふっと笑う。


「そなたが、我が子孫か。時代の顔をしておるな」


「まさか……本当に……生きて……」


「この通りだ」


 ジョナは、静かに背を向け、ゆっくりと礼服の上着を脱ぎ始めた。


 デールが目を見開く――

 シャツを少しずつ引き下ろしたその背中には、見覚えのある“紋章”が焼き付けられていた。


 竜の尾と太陽の輪を模した紋様。

 ヴィストレイシア王家にのみ刻まれる、代々の証。


「……っ……!」


 言葉が、喉から出なかった。


「王家の男子にだけ焼きつけられる刻印だ。

 王位を継いだ者しか持たぬものだと聞いているだろう?」


 ジョナはそのまま、背を向けたまま振り返らずに言った。


「……まさか……本当に……神話ではなく、生きていた……」


 デールの声は震え、膝が自然と抜け落ちる。


 ――ジョナ・ヴィストレイシア。


 王国の歴史の始まりを支えた三代目の王。

 そして今、その神話が――“現実”として、目の前に存在していた。


「……はは、ははっ。もし不老不死が本当なら……あなたが王に戻れば……っ!」


 わずかに瞳を潤ませながら、デールは希望を見出そうとする。


 しかし――


「子孫よ。それは叶わぬ」


 ジョナの声は、静かに現実を告げた。


「私は、魔女に“対価”を支払っている。もはや、王に戻る資格も、願いも捨てた身だ」


「……そう、ですか……」


 ストン――

 そのままデールは、まるで糸の切れた人形のようにソファに腰を落とした。


 その顔には、絶望とも、諦めともつかぬ空虚さが浮かんでいた。


「……ジョナ。下がりなさい」


 エリナの声が静かに響くと、ジョナは短く頭を下げ、何も言わずに部屋を後にした。


 扉が閉まる。

 その余韻が落ち着くのを待つように、エリナはふと視線を戻す。


「――さて、これで信じていただけましたか?」


 柔らかく、しかしどこか底知れない声で問う。


「……はい。信じるしか、ありません」


 デールはゆっくりと頷いた。

 手のひらにはじんわりと汗が滲んでいるのが、自分でもわかる。


 魔女が見せた“現実”は、もはや否定できるものではなかった。


「……どうですか?」


 エリナが肘掛けに頬杖をつき、わずかに身を乗り出す。


「人生をやり直してみるのは」


 それは、まるでおとぎ話の中の誘惑。

 けれど、今のデールにとって、それは救いに他ならなかった。


 だが、すぐには頷けなかった。


「……俺は……何を“対価”にすればいいのですか……?」


 問いかける声は、どこか恐れているようにも聞こえる。


 エリナは、ふっと目を細めた。


「――アステナ・ヴィントラード」


 その名が告げられた瞬間。


「……っ」


 デールの肩が、びくりと震えた。


 顔を上げたその瞳は、一瞬だけ戸惑いと苦しみを浮かべていた。


「あのご令嬢の……生涯の記憶を、あなたに“見せる”こと。

 それが、今回の対価ですわ」


「……アステナの記憶を……俺が……?」


 しばし言葉を失い、口の中でゆっくりと反芻するように繰り返した。


「……そんなことが、本当に……可能なのか……?」


 声は低く、信じたいけれど信じきれないという揺れがにじむ。


「――えぇ。私なら可能ですわ」


 エリナは、微笑みを崩さず言い切った。


 その自信に、ようやく心が動いたのだろう。

 デールは両手を膝の上に置き、まっすぐに彼女を見据える。


「……そうか……それなら……頼む……。どうか……」


 その声は、かすれていた。


 背負ってきた責任、後悔、怒り、憎しみ、悔しさ――

 そのすべてが今、たったひとつの願いに変わる。


 エリナはゆっくりと頷いた。


「――では、まずは王城へお戻りなさい。数日は……普通にお過ごしください」


 そして、さらりと続ける。


「こことの関係が公になれば、王がうるさいでしょうから」


 あくまで冷静なその言葉に、デールは皮肉を返す気力もなく、ただ短く返した。


「……わかった」


 そうして彼は立ち上がり、少しだけ背筋を伸ばした。


 ほんのわずかだが――“希望”の色が、その背に戻っていた。

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