13話.「魔女の慈悲は、ただの気まぐれ」
日が傾きかけた午後。
リカーナスキッドの塔、その一階にある応接室には、静かに紅茶の香りが漂っていた。
「――いかがでしょうか?」
少し緊張した声で尋ねたのは、エンファルト・ボルド。
前回訪れた時とは印象ががらりと変わっていた。
かつては、背中まで伸ばしたブロンドの長髪をひとつに結い、優雅さと貴族らしさを纏っていた彼。
だが今は、その髪をばっさりと切り落とし、まるで兵士のような短髪のスポーツ刈りになっていた。
顔立ちは相変わらず端整だったが、どこか決意を秘めた瞳には、覚悟のようなものが宿っていた。
「――上出来ですわ!」
ソファに肘をかけていたエリナは、ぱちんと手を鳴らしながら満足げに笑う。
ゆるくウェーブのかかった金の髪が揺れ、まるで舞台の女王のようだった。
「対価は――確かに、いただきましたわ」
その言葉に、エンファルトの肩がふっと緩む。
「では――」
控えていたメイド服姿のグレイが、
いつもの無感情な口調で、卓上の分厚いノートを静かに開いた。
「確かに記録させていただきます。“マリアの信頼を裏切り、王子の覚醒を誘導した”――
ボルド家次男、エンファルト・ボルド。任務完了。と」
さらさらとペンが走る音だけが、室内に響く。
エンファルトは小さく頷いたが――その表情には、どこか影が差していた。
「……あの、もし可能でしたら。しばらく、こちらに御厄介になることはできませんか?」
そう言った時には、声がほんの少し震えていた。
「なんだか……やっぱり、少し怖くなってしまって」
自分でもわかっているのだ。
王家に牙を剥いたのだ。結果がどうであれ、“穏やかな日常”など、もう戻らない。
「……そうよねぇ。これだけのことをしたんだもの。不安になるのは当然よね」
エリナは、彼の表情を見ながら、ふっと優しい声色に変える。
「でも安心なさい。うちの領地はね――もともと、訳アリの人たちで溢れてるのよ」
にっこりと笑いながら、卓上の紙にさらさらと何かを書き始めた。
「ほら、これ。お抱えの宿屋にあてた紹介状よ。何かあれば、私の名を出しなさい」
エンファルトは、まるで水中から引き上げられたように、ほっと安堵の息を吐いた。
「……ありがとうございます、エリナ様。あの夜、救ってくださって、本当に」
「ふふ。救ってはいないわ。少しだけ――面白がっただけよ?」
くすっと笑うその姿は、まさに“魔女”だった。
だがエンファルトはその笑顔に、妙に救われたような気がしていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
エンファルトが帰っていった後の、静かな夕刻。
塔の上階。
いつもの水晶の間で、エリナはゆったりと足を組み、淡く光を放つ水晶玉を覗き込んでいた。
映し出されているのは――王子、デール・ヴィストレイシア。
王宮の私室で、頭を抱えたまま何も言わず、ただ膝に顔をうずめている。
「……予想以上の働きをしてくれたわね。彼」
水晶越しにぼそりと呟く声は、どこか感嘆のようでもあり、少しだけ寂しげだった。
「はい。完璧な動きだったかと」
背後で控えていたグレイが、やはり涼しげな声で答える。
エリナは、水晶から目を離し、窓際へと歩み寄った。
ほんの少しだけ、空が茜色に染まりはじめていた。
「……でも、いくら髪型を変えたとはいえ。
デールの執念は侮れないわ。今後、エンファルトに辿り着く可能性もある」
軽く手を動かし、宙に浮かべた別の水晶に触れると、王宮内の別室が映った。
王子が荒れた机を前に、何かを殴るようにして書き殴っている。
彼女は小さく息を吐く。
「……様子を、もう少し見ましょう」
「承知しました。では――時戻しの後も、彼を助けるおつもりで?」
グレイの問いに、エリナはくるりと振り返り、にこりと微笑んだ。
「もちろんよ。可哀想じゃない。罪のために動いた子って、
一番、“生きたくて仕方ない”目をしてるんだから」
「……人の心が残っていらっしゃったようで、安心致しました」
皮肉のようで、それでいて少しだけ優しさのある声音だった。
エリナは肩をすくめて、軽く頬を膨らませる。
「もう、何言ってるのよ。私、いつだって優しいじゃない。
旦那になりたいなんて、突拍子もないことを言ってきたマッチョの願いすら叶えてあげたんだから!」
「……確かに。意外でしたね」
グレイはさらりと返しながらも、目元にかすかな笑みの影。
「ですが――本当に、全ての記憶を渡して良かったのですか?
リック様、廃人になってしまうかもしれませんよ」
その言葉に、エリナはぴたりと動きを止めた。
水晶に映るリックの寝顔を、ゆっくりと見つめる。
「……なったら、彼ごと“時戻し”して、ポイよ。記憶ごと、ね」
そう言いながらも、唇の端は――わずかに、ふるえていた。
「起きた時の反応を見て……そのとき、決めるわ」
水晶を見下ろしながら、エリナは静かに言い放つ。
だが、その言葉の奥には――彼女自身も気づかぬほどの、微かな期待が滲んでいた。
そんな彼女の背後で、グレイがふと思い出したように口を開く。
「……そういえば、近ごろ――夜のお遊びも、なさっておりませんね」
その問いに、エリナはふいっと目を逸らし、
窓辺に手をかけながら小さく頷いた。
「うん。リックと約束しちゃったからね」
声はいつもの調子だったが、どこか照れくさそうにも聞こえる。
「……これから十年――もしないおつもりで?」
グレイの声はあくまで穏やか。
しかし、問いの意味は明白だった。
「えぇ。そのつもりよ」
ためらいなく返したエリナの表情は、どこか清々しささえ帯びていた。
長く生きすぎた彼女にとって、“誰か一人に縛られる”ことは、それほど重い意味を持つ。
だが、彼のためならば。
そう自然に思ってしまうのが、もう何よりの証拠だった。
「左様でございますか」
そう言って、グレイはすっと目を伏せた。
決して、言葉にはしない。
けれどその声には――
まるで「もう、捨てられないということですね」と言外に理解しているかのような、
深い静けさが宿っていた。
エリナは何も言わなかったが、そっとティーカップを口元に運び、
ごくりと一口、冷めかけた茶を飲んだ。
その横顔を見ながら、グレイはただ静かに見守り続けていた。




