12話目.「デール・ヴィストレイシアの災難」
――王宮・謁見の間。
昼を越えても、石造りの柱の隙間から射す陽光は冷たく、空気は重苦しかった。
「デール、お前は本当に“王になる者”の自覚があるのか!!」
父王デーンの怒声が、広間に鋭く響く。
玉座に座したまま拳を叩きつけるその姿に、家臣たちすら息を潜めていた。
王子――デール・ヴィストレイシアは、正装の肩口を固く握りしめたまま、一歩も動かず頭を下げる。
「私は……ただ、彼女を守りたくて……!」
そう言い切る声には、かつての傲慢さがまだ残っていた。
けれどその中に、“焦り”のようなものが確かに混ざっていた。
「守る? 王族としての義務も果たせぬ者が、何を守ると言うのだ。
妃教育ひとつ満足に受けられぬ平民の娘を、“王妃”として選んだのは誰だ?」
返す言葉はなかった。
「貴様の軽率な選択が、貴族社会にどれほどの波紋を呼んでいるか――
お前は本当に、理解しているのか!」
「……私は、理解しているつもりです」
ぎり、と奥歯を噛みしめる音が自分にも聞こえるほどだった。
マリアを庇うことが正しいと信じていた。
彼女を選んだのは自分だ。それを否定することは、彼女を否定することと同義だった。
だから――
誰に何を言われても、彼女の隣に立ち続けなければならない。
「妃教育で涙を流していたのか?」
「……はい。昨晩もまた、“皆に笑われた”と泣いておりました」
「そして、それを慰めていたと?」
「当然です。私は……彼女の夫ですから」
そう答える声には、もはや“恋”の温度は残っていなかった。
代わりにあったのは、“責任”と、“諦め”のような何か。
――だが、そこに少しだけ、“自分の選択が間違っていたのではないか”という疑念が、ゆっくりと生まれ始めていた。
毎晩泣くマリアの顔を見るたびに思う。
(……本当に、彼女を幸せにできているのだろうか)
朝は政務。
昼は貴族との謁見。
夜はマリアの気持ちを支え続ける。
すべてが重く、すべてが空虚だ。
“アステナ・ヴィントラード侯爵令嬢”の顔を、彼は思い出さないようにしていた。
冷静で、よく笑い、そして何より――絶対に、泣かない人だった。
(……泣かない人、だった、はずなのに……)
死の報せを聞いたあの日から、夜になると――
必ず夢に現れるようになった。
アステナ・ヴィントラード侯爵令嬢。
真っ直ぐな瞳で、何も言わずに微笑み、そして静かに背を向けていく。
(……なぜだ。どうして、お前が俺の夢に……)
目が覚めるたび、息が詰まりそうになる。
けれど答えは、いつも夢の中にしか残されていなかった。
現実に戻れば――問題は山積みだった。
(……どういうことだ)
王宮に戻り、マリアの妃教育を巡って数十人の教師を雇った。
言葉遣いから礼儀作法、舞踏会での立ち居振る舞い――
だが、どれだけ教えても彼女は身につけられない。
時には泣きながら稽古を投げ出し、自分を責め、また泣く。
デールは、自ら手本となり、隣に立って教えようともした。
それでも、彼女の目はだんだんと光を失っていった。
(愛があれば……愛さえあれば、乗り越えられると思っていた)
マリアを救うことが、自分の“正しさ”の証明だと思っていた。
それが、かつてアステナを傷つけてまで選んだ、自分なりの覚悟だった。
しかし――
その日の午後。
謁見を終え、足取り重く廊下を歩いていたデールは、ある部屋の前でふと立ち止まる。
(……この部屋、空き部屋だったはずだ)
けれど、扉の向こうから――
聞き慣れぬ艶めいた笑い声が漏れていた。
甘く、そして妙に“楽しそう”な声色。
その声が、あまりにも生き生きとしていたから。
王子は、まるで夢にでも引き込まれるように、
そっと扉に手をかけ、隙間をわずかに開いた。
中を覗いたその瞬間――
目に飛び込んできたのは、
笑顔を浮かべたマリアと、彼女に寄り添う見知らぬ男の姿だった。
血の気が、足先からすうっと引いていくのがわかる。
その距離、明らかにただの談笑ではない。
指先が触れていた。笑顔が近すぎた。
咄嗟に、デールは扉を乱暴に開いた。
「マリア……ッ!! どういうことだ!!」
自分でも、どこか遠くから怒鳴り声を聞いているようだった。
「ひゃっ!? こ、これは違うの!! 本当にっ、これは……!」
狼狽えるマリアの声。
振り向きざま、男は王子の顔を見ようともせず、窓際へと走る。
そして、勢いのままに身を翻し――窓枠から闇の中へ飛び降りた。
バサリと風を切る音とともに、姿が消える。
「……チッ、逃がしたか」
呆然とその窓を見つめながら、王子はポツリと呟いた。
そして、目を伏せ、ゆっくりとマリアへと向き直る。
「マリア……お前は、もう……俺の妻ではない」
「違うんです!! 誤解です、デール様! お願い、信じて!」
必死に訴えるマリア。
それは、かつて見た“泣きながら努力する妃”ではなく――
“追い詰められた女”の表情だった。
「……何が、誤解だ」
デールの声は、驚くほど冷たかった。
心の奥で、なにかがぽたりと音を立てて崩れたような気がした。
――ああ、もう俺は限界だったんだ。
教えても、支えても、届かなくて。
正しいと思っていたことが、すべて間違いだったのかもしれないと気づいても、認めたくなくて。
その結果が、これだった。
言葉を失ったマリアの前で、デールはただひとつ息を吐いた。
もう、誰を責める気にもなれなかった。
自分自身の、すべての選択が――今、静かにのしかかっていた。




