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11話目.「待っている時間も、確かに愛だった」

 「ゼェ……ゼェ……ッ……」


 額に汗をにじませ、髪もどこか乱れたまま、

 エリナはよろよろと塔のリビングルームへと現れた。


 豪奢なカーペットを踏みしめながら、まるで戦場から帰還した兵士のような足取り。


「おや。エリナ様、ようやく寝室からお出ましになられたのですね」


 ソファで読書をしていたグレイが、

 目を離すことなく平然とした声で迎えた。


 その顔には相変わらずの涼しげな微笑み――というか、明らかに確信犯的な含み笑いすらある。


「ようやくじゃないわよ……っ!!」


 ソファにどかっと倒れ込むように座り、息を整えるエリナ。


「あなた、食事を運んでくる時にでも助けなさいよ!!」


 怒りというより、“恥と疲れのミックス”で顔がやや赤い。


 グレイはそれに首をすくめながら、まったく悪びれずに返した。


「そんな、そんな。

 男女の仲睦まじいご様子を、どうして私ごときが裂けましょうか」


「……この、野郎……」


 エリナはソファのクッションを一つ掴んでグレイに投げかけようとするが、

 筋肉痛がひどすぎて途中で手が止まる。ぐぬぬぬ……。


 その様子すら、グレイは微笑を絶やさず見守っていた。


「それより、リック様はどうされたのですか?」


「……あんまりしつこいもんだから、記憶を見せてるの」


「記憶? まさか……エリナ様の、ですか?」


「えぇ、全部よ。最初から最後まで、私が歩いてきた千年分。

 軽く10年は寝たきりになるはずだから」


 そう言って、エリナは氷水の入ったグラスを一口飲み、

 口元を拭うついでに、満足げに笑った。


「お可哀想に……」


 心配するようでいて、どこか楽しそうな口調のグレイ。

 だがその目には、ほんの一瞬、深い共感のような色がよぎった。


「でも、ちょうどいいのよ」


 エリナはソファにごろんと横になりながら、天井を見上げてぽつりと続ける。


「どうせ時戻しするんだし、

 この先、あなた――グレイが不在のときにリックが対応してくれなきゃ困るもの。

 今のうちに“私”のすべてを刻み込んでおけば、最強の“予備”になるわ」


「……それも、そうですね」


「……それも、そうですね」


 グレイは、いつもと変わらぬ穏やかな声で応じた。

 けれどその音の端に、ほんの僅か――寂しさのような響きが混じっていた気がして、エリナはそっと視線を落とした。


(……グレイの恋人は、“不老不死”を嫌ったのよね)


 終わりのない時間の中で、

 ふたりの関係すら“惰性”に変わってしまうのではないかと――彼女は本気で恐れていた。


(マンネリ化して、グレイを飽きさせたら怖い……)


 だからこそ、彼女は自ら“転生”を選んだのだ。

 姿も声も、名前さえも変えて、

 それでも、いつかまた彼の前に現れるために。


 記憶を失うリスクも、名前が変わる痛みも――すべてを背負って、それでも彼を愛し続けることを選んだ。


(……そういう恋愛の形もあるんだって、初めて知ったときは、本当に驚いた)


 何度か、グレイのそんな“待つ日々”を見てきた。

 あまりにも静かで、あまりにも寂しげで――

 その背中を見ているだけで、胸が締めつけられそうになることがあった。


(……こんなふうに、何百年も誰かを待ち続けるなんて、つらくないの?)


 思わずそんな感情が溢れた私は、あるときついにそれを口にしてしまった。


 ――グレイの恋人に。


 転生した“彼女”に、偶然再会したのは、まったく予期していないときだった。

 前世の面影はほとんど感じられず、ごく普通の少女の姿をしていた。


 けれど、私の問いに――彼女はまるで“すべてを思い出していたかのように”微笑んで、言ったのだ。


 「グレイが、私を待ってくれている間の時間すら……私には、愛なの」


 その声は、まっすぐで、静かで――けれど、胸の奥に深く響いた。


 その瞬間、私は思った。


(……この人……素敵すぎる)


 失うことを恐れながら、それでも何度でも彼を愛そうとする勇気。

 記憶が失われても、名前が変わっても、また出逢えると信じる強さ。

 そして、待たせている時間さえ“愛”として受け取る、あまりにも深い想い。


(……このふたりの絆って、きっと――とんでもない次元にあるんだ)


 だから私は、そっと心に決めた。


 このふたりのことを、ずっと応援しようって。


 口にすることはないけれど。

 無粋に茶化したり、割り込もうとしたりはしない。

 ただ――あの、どこか浮世離れしたような愛の形を、心から“尊い”と思っている。


(きっとまた出会える。何百年かかったって、きっと)


 グレイがときどき浮かべる、淡い微笑みの奥には――

 時を超えてでも愛せる誰かが、ちゃんと、今もいる。


 それが、ほんの少しだけ、羨ましくて。

 それでいて、どうしようもなく素敵だと感じてしまう自分がいる。


 エリナは小さく、ひとつ、深呼吸をした。


 胸の奥に、まだほんのりと残る温かい感情。

 それを空気に溶かすように、目を閉じて、そっと吐き出す。


(……私とリックも、そんなふうに――

 次元を越えたような、壮大で永遠な愛になったりして……)


 ふいに浮かんだその想像に、自分で思わず顔をしかめる。


(って……私は少女か!)


 そうして視線を外に逸らしながら、小さく苦笑する。


(何千年も生きてて、こんな妄想しちゃうなんて……)


 そう思いながらも、どこか胸がくすぐったくて――。

 赤くなる頬を隠すように、わざとらしく咳払いをした。


 すると、ほどよい香りがふわりと鼻先をくすぐる。


「どうぞ、エリナ様。今日はリラックス効果の高いハーブをお淹れしました」


 すでに気配を消していたかのように、

 グレイが気品に満ちた動きでそっとトレイを差し出してきた。


 繊細な湯気が立ちのぼるティーカップには、淡い金色のハーブティー。

 その色は、まるで夕暮れ時の空のように柔らかで――どこか優しい。


「……ありがと」


 そう言って、エリナはそのカップを両手で包み込むように持ち、

 少しだけ目を細めながら、ひとくち――こくり、と飲んだ。


 ほのかに甘く、鼻に抜ける香りに、思わず肩の力が抜けていく。


 ゆっくりとカップをソーサーに戻すと、

 エリナはふと、塔の大きな窓の方へ顔を向けた。


 カーテン越しに差し込むやわらかな光と、空に浮かぶ流れる雲。


 (……ま、こんなのも、たまには悪くないわね)


 どこか満ち足りた気持ちで、エリナは静かに空を見上げていた。

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