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9話.「涙の味は、トマトとチーズの温もり」

まさか隣に座っていたこの男が、“復讐の演出”を手伝えと言い出すなんて――

 想像していなかったのだ。


「どうせ時を戻すなら、早いほうがいい」


 リックは肩肘をついたまま、淡々とした声で言う。

 その声音には、私情も同情もない。ただ合理的な判断としての冷静さがあった。


「……まぁ、そうね」


 エリナはふっと小さく笑って、目を伏せた。


 リックの隣に座っていると、いつの間にかこちらの“遊び心”にさえ火がついてしまうのだから――

 本当に、罪な男だ。


「――お願いしちゃおうかしら」


 小さくため息をつきながら、エリナはソファから立ち上がり、

 向かいに座るエンファルトへと歩み寄った。


 緊張の面持ちで立ち上がった彼に向けて、ゆっくりと話し始める。


「事情を簡単に話しておくわね。

 “ヴィントラード侯爵令嬢”って知ってるかしら?」


「……はい。王都で評判の……とても優秀な令嬢と聞いています」


「そのとおりよ。知性も家柄も文句なし。

 王族の妃としても非の打ち所がなかったわ」


 エリナの声が、わずかに低くなる。


「でも……王子が平民の娘に恋をした。

 そのせいで、令嬢を“追い出す”ために、ありとあらゆる策を講じたの。

 婚約破棄は当然のように。さらに――国外追放まで」


 エンファルトの表情が凍りつく。


「そして、その令嬢は……間もなく、亡くなった」


 エリナの瞳が、静かにエンファルトを射抜く。

 その視線は、まるで「この事実に対して、あなたはどう思うのか」と問いかけているかのようだった。


 しんと静まり返った応接室の中で、エンファルトは真剣な眼差しでエリナを見つめ返し、ゆっくりと頭を下げた。


「……畏まりました。

 人間に戻れるのなら――王子が一日でも早く後悔なさるよう、尽力いたします」


 声が震えていたのは、感情か、それとも緊張か。

 けれどその言葉には、しっかりと“覚悟”があった。


 ――エリナはその様子をじっと見つめたまま、

 ひとつ、無言で頷いた。


(……まぁ、伯爵家の次男ごときが、何かすごいことを成し遂げられるとは思ってないわ。

 でも、ないよりはマシ。道具としては、合格ってところかしら)


エリナは静かに右手を持ち上げた。


 その小さな合図ひとつで、背後から影のように現れたのはグレイだった。

 彼の手には、銀のトレイ。その上には澄んだ液体が注がれた透明なグラスがひとつ、静かに揺れている。


 その場に跪いたグレイが、グラスの上にそっと小瓶を傾けた。

 ぽたり――と、紫色の雫が一滴落ちる。


 瞬間、液体が淡く光り、表面に魔法の波紋が広がる。

 それはまるで、生まれ変わる準備を告げる、合図のようだった。


「……これを飲んで」


 エリナの指先がグラスを差し出すと、エンファルトはゆっくりと顔を上げた。


 その瞳にはわずかに怯えがにじむ。

 でも、それ以上に強く光っていたのは――“希望”だった。


「……はい」


 グラスを受け取った手はかすかに震えていたが、

 彼は一呼吸置いて、決意するように――ごくり、と一気に飲み干した。


 直後。


「……っ!」


 体の奥から何かが弾けるような感覚とともに、

 じゅうぅ……という音とともに白い煙が立ちのぼる。


 それは熱でも苦痛でもない、けれど“異物が剥がれ落ちていくような”奇妙な感覚だった。


 煙の中、彼の口元から伸びていた吸血鬼の牙が――すっ……と静かに引っ込んでいく。


「……あ……あぁ……」


 震える手が唇に触れ、信じられないというように瞳が潤む。


 そのとき。


「グレイ、何か簡単な食事を」


 エリナがそう言うと、グレイは音もなく一礼し、

 すぐに奥の部屋へと姿を消した。


 そして数十秒も経たないうちに、彼はまるで用意していたかのような完璧なタイミングで戻ってくる。


 銀のトレイの上には、温かい白磁の皿。


 中には、香ばしいパンにトマトとチーズをのせたシンプルな軽食。

 焼きたての匂いがふわりと空気に溶ける。


 グレイは一歩前に出て、まるで音すら拒むような静かな動作で、エンファルトの前にその皿をそっと置いた。


「――食べてみて?」


 エリナの声は、今だけは柔らかく、まるで母のような響きを持っていた。


 エンファルトは、呼吸を整えるように一度目を閉じてから、

 そっとパンに手を伸ばす。


 (……もし、味がしなかったら? もし、戻れていなかったら?)


 そんな不安が一瞬脳裏をよぎる。


 でも、それでも――もう一度、“人間”を感じたくて。


 彼は、パンを口元に運び、ゆっくりとひと口かじった。


 ――カリッ。


 噛んだ瞬間、歯ごたえとともに、

 トマトの酸味、チーズの塩気、パンの香ばしさが――舌の上で爆ぜた。


 「……っ……」


 それはただの味ではない。


 記憶だった。


 生きていた頃に確かに感じていた、温かくて、当たり前だった“日常の味”。


「……味が……する……っ」


 その声はかすれていて、震えていて、

 それでも、はっきりと“歓び”に満ちていた。


 ぽろぽろと、涙が零れ落ちた。


 美しい顔立ちの青年が、

 まるで子供のように、あたたかな食べ物を前に泣いていた。


 エリナは黙ってその姿を見つめ、

 やがて――ゆっくりと、口元に笑みを浮かべた。


 けして嘲るものではなく、

 どこか安らぎを感じる、穏やかな微笑みだった。


 それを見たエンファルトは、胸に湧き上がる想いを堪えきれず、

 立ち上がると拳を握りしめ、声を震わせて言った。


「……必ずや……必ずや、やり遂げてみせます!!」


 その姿はもう、ただの依頼者ではなかった。

 目の奥には、確かな決意と感謝が宿っていた。


 エリナはその気迫に、ふふっと笑って、ひらひらと手を振った。


「はーい。期待してるわよ~」


 彼女の気まぐれなようでどこか優しい声に背を押され、

 エンファルトは深く一礼し、足取り軽く部屋を後にした。


 扉が閉まる。


 その瞬間、張りつめていた空気がふっと緩み、

 エリナはソファにどさりと身を沈めた。


「ふぅ~~……終わった……」


 今日の騒がしさと感情の揺れを思えば、当然の疲労だった。


 するとそのとき、隣に立っていたリックが、ぽつりと口を開いた。


「……お疲れだな」


 その言葉と同時に、大きくてあたたかな手が、そっとエリナの頭に添えられる。

 優しく撫でてくる、その手の感触に――エリナは思わず、目を細めた。

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