プロローグ
夜明け前の空はまだ深く、灰色の帳が屋敷をしんと包み込んでいた。
冬の足音が近い。吐いた息は白く、空に溶けて消える。
だが、その寒さの中にあっても、彼の背筋は凛と伸びていた。
まるで、迷いという感情などとうに捨てたかのように。
――リックヴォルグ・コーゼンラート。
かつて公爵家の当主として君臨していた男は、今、その肩に小さな荷を背負い、静かに馬の手綱を手繰っていた。
「……じゃあ、行ってくる」
振り返ることなく、低く落ち着いた声が漏れる。
それはまるで、この先にある運命を自分の手で選び取ろうとする者の、決意のようでもあった。
だが。
「兄さん……本当に行ってしまうんですね……」
屋敷の石畳に霜が浮く音のない朝。
その沈黙を破ったのは、弟・クラウドのかすれた声だった。
未練と、不安と、そしてそれでも止められない思いが入り混じったような、揺れる声。
リックは一歩、ゆっくりと足を止める。
そして――くしゃりと、笑った。
「……おいで、クラウド」
振り返りもしないままに名前を呼ぶ。
それでも、クラウドは自然と歩み寄っていた。兄の隣に立つ、それだけで安心できるように。
近づいた彼の頭に、リックはそっと手を伸ばす。そして、かつて泣き虫だった頃のように、静かに髪を撫でた。
「手紙を送れそうなら送る。……無理なら、諦めてくれ」
「そんな……っ。本当に、何もかも捨てる気で?」
クラウドの声が震える。
それは、この数日で何度も胸に湧いては、言葉にできなかった疑問。
リックはほんの少しだけ表情を曇らせる。
けれど、それを引きずることなく、すぐにまっすぐ前を見据えて――強く言い切った。
「ああ……すまないな。お前に、全部を背負わせて。だが……昔から夢だったんだ。だから、どうしても……行きたいんだ」
その言葉に、クラウドの肩がわずかに震えた。
悔しさでも、悲しさでもなく――兄の夢を知っていたからこそ、止めることができないという現実への、苦い震え。
「……わかりました。兄さんが、そう言うなら」
無理に笑って頷いたクラウドの目は、すでに涙を堪えていた。
きっと、これが最後の会話になる――そんな予感が、兄弟の胸に同時に過る。
だからこそ、リックはもう言葉を重ねなかった。
ただ、強く、弟を抱きしめた。
大きくて、温かいその腕に包まれて、クラウドの体が小さく見える。
――もう、少年ではないはずの彼が、それでも子供のように思えるほどに。
「この地の皆を……心から、愛している。……二番目にな」
ぽつりと落ちたその言葉に、クラウドは返す言葉を持たなかった。
けれど、涙をこぼすことだけはしなかった。
ただ、兄のぬくもりを心に刻むように、目を閉じた。
そして。
リックが歩き出したその足元で、ふわりと淡い光が立ちのぼる。
土の中に封じられた魔法が反応したのだ。
それは、彼の命と引き換えに張られた“絶対結界”。
どんな魔物も、この地を二度と汚すことはない。
「兄さん……ありがとう。けれど、願わくば――」
クラウドは祈るように胸元で手を重ね、そっと目を伏せた。
“夢の果てで、あなたが笑っていられますように”と。
そのとき。
夜の空が、ようやく白み始めていた。
――――――――――
―――――――
リカーナスキッド辺境地――
そこは、ヴィストレイシア王国の最東部、国境を広く抱える広大な領地だった。
豊かな森に囲まれた山々、見渡す限りの肥沃な平野、澄んだ湖に寄り添うように立ち並ぶ村々。
作物はよく育ち、風は穏やかに吹き、家畜は太り、子どもたちの笑い声が日々の空を彩る。
その土地の豊かさと規模は、もはや王国のひとつの州ではなく、
「もうひとつの王国」と揶揄されるほど。
だが、この地が存在するからこそ――
他国はヴィストレイシアに軽々しく牙を剥けない。
なぜなら、リカーナスキッド辺境地には、“絶対の守り”があるのだから。
それを統べるは、ただひとりの魔女。
その名は、エリナ・リカーナスキッド。
その名を聞いて眉をひそめぬ者はいない。
むしろ、王族ですら無意識に背筋を正してしまう。
――千年を超えて生き続ける、不老不死の魔女。
王都に住む人々にとっては、もはや神話の登場人物のような存在であり、
田舎の民にとっては“天から与えられた祝福”そのもの。
実際、エリナは“魔法”と“知識”を駆使して、この土地を守り続けていた。
村と村の間に結界を張り、獣や魔物の侵入を防ぎ、
寒冷な年には“陽の祝福”と呼ばれる温暖化の呪文で作物の発育を補助。
疫病が流行れば、自ら薬草を育て、配って歩いた。
魔女の支配とは程遠い、慈母のような統治。
だがその一方で――
異国の兵がこの地に足を踏み入れれば、容赦なく地が割れ、空が裂け、軍ごと消える。
誰ひとり、二度と帰ることはない。
「リカーナスキッドに戦を挑んではならない」
それは、王国における不文律のようなものであり、歴代王たちでさえ、
「エリナ様、お力添えを……」と頭を垂れることが常だった。
当然、何度も爵位を与えようという話が持ち上がった。
最も高貴な称号を、最も偉大な存在に捧げたいと、王族は真剣だった。
――だが、当の本人はというと。
「爵位? あー……あった方が、まぁ、いろいろ楽だし? 法律も使えた方が交渉がスムーズだしねぇ~」
そう、金色の髪を指先でくるくる遊ばせながら、ソファに寝転んで気だるげに言うだけだった。
名誉? 権力? そんなものには興味がない。
彼女が求めるのは、“退屈しのぎ”と“快楽”と――ほんの少しの“秩序”。
だからこそ、最低限の利便性のためだけに、“魔女辺境伯”の肩書だけは受け取った。
国は彼女を神格化しようとするが、エリナにとってそれすらも面倒くさい。
そう――彼女は、永く、生きすぎてしまっていたのだ。
どれだけ人が生まれては死に、王が代わり、時代が巡ろうとも、
エリナだけは、変わらずにこの塔で時を過ごす。
もはや、感動も悲しみも、恋も失望も、数えきれないほど経験した。
“永遠”を与えられた者の心は、常に退屈と隣り合わせだ。
だが、そんな彼女には――いつしか、“噂”がついてまわるようになる。
「あの魔女に頼めば、どんな願いも叶えてくれる」
死者を生き返らせたい者。
命を助け
あらゆる“願たい者。
富を、名誉を、愛を、時間を、忘れたい記憶を――
い”を背負った者たちが、今日も遥か辺境の地へと歩いてくる。
人々は彼女を、こう呼ぶようになった。
――願いを叶える魔女、と。