手がかり01.覚えのない婚約者と記憶喪失
「カトレア、婚約を破棄させてほしい」
「……はぁ、婚約破棄ですか」
カトレアは首を傾げながら、婚約破棄を告げてきた男にそう返した。彼女のピンク色にも見える薄紫の透き通った髪がさらりと揺れる。
(とっても綺麗な顔の男の人だわ……)
カトレアの部屋に予告も無しに押しかけてきたのは、栗色の髪をした男だった。
引き締まった顔立ちは鋭さと柔らかさの両方を兼ね備えており、澄んだ紫色の瞳はまるで宝石のように美しい。
きっと世の令嬢たちは、うっとりと眺めてしまうだろう。
しかしながら、季節感を全く無視したベロア生地のジャケットのせいで、その美しさも台無しである。
(今、7月でしょ……? 暑くないのかしら)
カトレアの部屋は、日差しは入って来ないため多少涼しいものの、きっと外は暑いだろう。おしゃれは我慢というが、季節感を無視した装いは果たしておしゃれといえるのだろうか。
カトレアは、まじまじと目の前の男のことを眺めながら、先ほど自分に告げられた言葉を心の中で繰り返してみる。
(婚約破棄、婚約破棄ねぇ……)
いまいち実感が湧かずに、ぼんやりしていると、男は話を一方的に進めていく。
「……好きな人から、君との婚約を破棄しろと言われたんだ」
「はぁ、まあ、それはどうでもいいんですが……」
好きな人、つまり浮気相手に本気になったから、婚約を白紙にしてくれという話なのだろうか。何とも一方的で勝手な言い分だが、カトレアからすれば、全く興味もなく、どうでもいいことだった。
そんなことよりも。
「―――はじめまして。失礼ですが、どなたですか?」
再び首を傾げながら、目の前の綺麗な男を見つめた。
そうして、カトレアはここ数日の出来事をぼんやりと思い返していた。
彼女の名前は、カトレア・アンジューという。
アンジュー伯爵家の長女として生まれた彼女は、魔法の才能にこそ恵まれなかったものの、至って普通の令嬢だった。
アンジュー伯爵領は、王都からは多少離れてはいるが、貿易の要所として領地経営もそこそこ上手くいっている。カトレアは、両親との仲はあまり良くないものの、友人も多く、楽しく毎日を過ごしていたはずだ。
(きっと、恐らく、数日前までは……)
ある日、カトレアが自室で目を覚ますと、とてつもない頭痛と共に、何とも形容しがたい違和感が襲ってきたのだ。
明らかに自分の自室であるのに、他人の部屋に来たような感覚。
幼い頃からのお気に入りのクマのぬいぐるみも、ずっと書いていた趣味の日記帳も全部自分のものであると理解できるのに、なんだか借り物のような気がしてしまうのだ。
そうして、カトレアは起き上がる。
(あれれ、私って、どうしてベッドで寝ていたんだっけ……?)
思えば、昨日の記憶も、一昨日の記憶も、その前の記憶も、思い返せば、ところどころ記憶がすっぽりと抜けてしまっている気がする。自分が、どこで何をしていたのか、モヤがかかったように薄ぼんやりとしているのだ。
(お酒、飲み過ぎちゃったとか……?)
にしては、記憶が飛びすぎだろう。浴びるように毎日ワインパーティーでもしていたというのだろうか、そんな馬鹿な。
カトレアが頭を抱えていると、部屋の外から使用人と思われる30代くらいの丸眼鏡をかけた男―――ダイアンというらしい―――が入ってきた。
そして、彼に症状を伝えると、慌てた様子で医者を呼びにいった。そして、医者からこう告げられたのだ。
『カトレア様は、階段から落ちたショックで記憶喪失になってしまったようなのです』
『記憶喪失……』
医者曰く、カトレアは、すべての記憶を無くしてしまったわけではないとのことだった。逆行性健忘と呼ばれるその症状は、頭をぶつけたショックにより過去の一部の記憶が抜け落ちてしまうものらしい。
(確かに、私は一般常識も家族のことも覚えてるもの。日常生活を送る上で、大きな支障はなさそうだけれど……)
ただ、記憶に虫食いのように所々穴が開いている。
というわけで、カトレアは、唐突に婚約破棄を告げてきた男のことを知らないのだ。
「ああ、ごめんなさい。私どうやら記憶喪失みたいなのです。ところどころ、記憶がなくって、貴方のことも忘れてしまっているようでして……」
「……はぁ」
「階段から落ちて頭を打ったみたいで、17歳にもなって情けないですよね……なんて」
カトレアは苦笑いしながら、なぜか目の前のソファで苦虫を噛み潰したような顔をしている男に視線を向ける。
いくら婚約破棄をする相手だと言っても、自分のことを忘れられると悲しい気持ちになるのだろうか。
彼は、その綺麗な顔を少し歪めながら言葉を紡ぐ。
「そう、か。うん、あらかじめ使用人のダイアンから聞いていたけど……そうか。記憶、喪失か」
彼は、はあ、と長い溜息をついて唇を強く噛みしめた。
そうして、しばらく下を向いていた彼だが、何かを決意したように顔を上げる。
「……俺は、ルイス・アストリアンだ。君の婚約者だった」
「アストリアン?」
カトレアは、驚いて目を丸くした。
アストリアン家といえば、魔法省の官僚を多数輩出する歴史ある侯爵家だ。
アンジュー伯爵家とは、全く家の格が違う。カトレアの記憶の範囲内では婚約はおろか交流さえなかったと思う。
(ルイス・アストリアンって、『天才』って呼ばれてて、将来は宰相だとも噂されてる凄まじい美形さんでしょ……?)
カトレアも名前くらいは聞いたことがある。
何をやらせても期待値以上の成果を出す天才肌。次男でありながらも、魔法学校を卒業しているエリートのルイスは、なんとかして婚約に漕ぎ付きたい令嬢が沢山いる社交界の有名人だ。
(もっとも、家の格が違いすぎて、一緒の夜会に出たことすらもないんだけど……)
一体どこをどうしたらアストリアン家の令息と婚約するに至ったのか単純に興味が湧いてくるが、ついさっき、彼が「婚約破棄して欲しい」と言ったことを思い出し、カトレアは口を噤んだ。
(婚約破棄する相手との馴れ初めを聞いても、ねぇ……)
そんな凄い相手との婚約だったのだ。
カトレアに記憶があれば、泣いて縋ったのかもしれない。けれども、今のカトレアにとって彼は初対面の顔が良いだけの男性だ。
「それでは、ごきげんよう」
「…………」
すくり、と立ち上がってカトレアがそう言えば、ルイスの顔はますます曇っていく。
「君は……本当に、俺のことを忘れてしまったんだな」
ルイスはそう言うと、淡い紫色の目を伏せた。
そして、今にも泣きだしそうな表情のまま、黙り込んでしまったのだ。
「ええと……では、婚約破棄は成立ということですかね。私の両親に話は――――」
「もうしている。大丈夫だ、本人の意思に任せると、そう言っておられた」
しぼみそうな声で、ルイスは言いながら立ち上がった。なんだか、先ほどよりもげっそりしているように見える。
(そんなに、私が記憶喪失になったことがショックだったのかしら)
あまりに淡々と話を進め過ぎただろうか、とカトレアは心配になってくるものの、婚約破棄を持ち掛けてきた張本人は、目の前のルイスである。
「じゃあな、カトレア。……またな」
「ええ、ああ、ごきげんよう?」
ルイスは弱々しい笑みを浮かべると、名残惜しそうに部屋から去っていった。ぱたん、と閉まった扉を見つめながら、カトレアは思う。
(なんだか、変な人だった。私と婚約破棄したいと言いながら、記憶喪失を告げたら、ショックを受けるなんて)
ふと、『男の人は、いつまでも元カノのことが自分のことが好きだって思い込んでるのよ!』と豪語していた令嬢たちを思い出して、カトレアは苦笑いを浮かべた。彼女らの話は、どうやら本当なのかもしれない。
カトレアが泣いて縋るところを見られなかったことに対するショックだと思えば、幾分納得がいった。
(まあ、でも良かったのかしら。浮気をずるずる続けるよりも、きっぱりと婚約破棄してくれた方が潔いじゃない!)
カトレアは、ほっと一息つきながらソファに横になった。
ルイスのことなんて、記憶にないから悲しくないし、むしろ、婚約破棄してくれてありがたいとすら、そう思うのに。
(それなら、この胸の痛みは、なんなのかしら)
カトレアは、ずきり、と痛んだ左胸を押さえた。そして、ふと彼の別れ際の言葉を思い出す。
(あれ、そういえば、ルイスは『またな』って言っていたような――――)
全11話完結予定の中編になります!(最後まで執筆済み)
ちょっとずつ不穏になりますが、ハッピーエンド確約(大事!)です。
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