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逃げ水

 私、手紙を書くのはこれが初めてではありませんけど、文章に自分の本心を嘘偽りなく綴るのはこれが初めてです。わざわざ文字に自分を起こすなんて馬鹿馬鹿しいことだと思っていたのですけど、最近はどうも考えが変わったようです。どうしても何か形あるものであなたへの思いを残さねばならぬ気がしてならず、今日は筆をとりました。たどたどしく不慣れな文章をお許しください。気持ちだけは本当です。


 初めは酷い話だと思っていました。親元から久しぶりに手紙が届いたかと思えば、その内容は結婚の催促と近々行われることが既に決まった見合いの話で、どうしてそうなったのか、肝心の理由や行きさつなどは全く記されておらず、その文章のほとんどは、身も固めずにふらふらし続けるのはいい加減にしたらどうだ、などの説教の数々でした。見合い相手のあなたのことは名前と年齢くらいしか記述がなく、申し訳程度に白いワンピースを着たあなたの写真が添えられているのみの随分強引なお話だったのです。

 手紙が届いてしばらくは私、いくらなんでもこんな強引なやり方はないだろうとこの見合いを断るつもりだったのですが、時間と共にどうにも断るのも面倒になってきていよいよ見合いに行くこととなりました。一つは親の催促がいよいよ激しくなってきたことが関係しておりましたが、もう一つは白いワンピースを着たあなたの写真を見る度に何だか魔力じみたものが感じられてきて、しかもそれが日に日に強くなるようで、あなたに対して何か一種の運命めいたようなものを感じ始めていたことも関係していたのかも知れません。けれどもそんなことはどうでもよかったのです。とにかく私はあなたに会いたい気持ちが強まるばかりでいよいよその日を迎えることになりました。


 見合いの日は初夏にしてはやけに肌寒くて、長袖を上から一枚羽織ってもなお身体が冷えるようでした。曇り空が見合いの不穏を暗示しているような気がしてならず、嫌な気持ちになりましたが、タクシーに乗り込むとそんなことはすぐに露ほども気にならなくなりました。見合いの場所は花王ホテルのラウンジで、私は約束の三十分前には着きました。我ながら随分早い到着だなと思ったのですけれど、ホテルの玄関では嫌に笑みを浮かべた両親の姿と奥の方にあなたの姿が見えました。顔はよく見えませんでしたが、窓から差してくる光がカーテン越しに振袖をゆらゆらと光らせて雅やかでありました。それからすぐに私達は予約していた個室に案内させられ、両家が向かい合って軽い挨拶が交わされると、いよいよ私達の見合いの本題について話されました。

 見合いの構造はいたって簡単でした。有り体に言えば、成金一家で家としての泊が欲しかった我が家と、名門一家でありながら経済力が著しく落ちていたあなたの家との双方の利害の一致からの話だったようです。私達の両親はもう見合いが決まったかのような口ぶりで、住む家は両家の実家からほど近い所にするべきだとか、長男の跡取りが欲しいだとか好き勝手に話すので、私はなんだかこの場から逃げ出したくなってきて、顔を赤くして適当な相槌を打っていたのですけれど、あなたの方はというと、緊張や含羞もなく淡々と言葉を返し、それが決してぶっきらぼうな感じもないので、私は赤い顔のまま瞠目しました。

 あなたはやっぱり写真通りの不思議な魔力を持っていたのです。あなたはステーキの切り方からフキンの使い方まで、どれも全然正しい作法ではなかったのですけれど、それが妙に堂に入った動作でとても品がありました。私などが習ったテーブル作法が馬鹿らしくなるくらいでしたから。それから、会話の最中にあなたが笑うことが度々あります。あなたは目と声が先に綻んで、後から遅れてくるように口角が上がるのですけど、それが今にも消散しそうで、あなたの笑いは何だか泡沫のようでした。ゆっくりと消えていきそうで、けれども儚いとは思いませんでした。

 また、私が「近頃は見合いの場でも和服の人は大分減ったように思うんですが和服はお好きなんですか」と尋ねたら、あなたは「あまり好きではありませんね、でもお母様が着ろって言うから、お洋服の方が気楽ですものね」と苦々しい顔を必死に押さえるあなたの両親を余所に、あなたはあっけらかんと繕いもせずに微笑交じりにいうものですから、私はますますあなたに魅入られたのです。

 しばらく談笑して一通り料理が済みはじめたときでした。私はふと世の中こんな人間ばっかりだったら戦争も飢餓もみんな消えてなくってしまうのだ、など馬鹿げたことを考えて一人なんだか楽しくなって、けたけたと笑いました。傍から見たら随分おかしな様相だったのでしょう。母親がテーブルの下で私の足をぐりぐりと踏みつけました。ハッとしてあなたの方を見ると、あなたはくつくつと笑った後、私と目を合わせて言いました。

「世の中の人間が皆あなたみたいな無邪気な笑いを出来たらいいんですよね」

 私はいよいよこの出会いを運命なのだと確信したのです。


 見合いは結局つつがなく終わって、また次の食事会もあるというので、私はもう一度あなたにお会いするのを心待ちにするようになりました。あなたと会ってから、私の中では当初は全く考えていなかった身を固めるという考えがどんどんと強くなって、もうこちらでは見合いの返事はほとんど決まっているようなものでした。それはあなたの方でも同じだったようで、私達は度々二人で両家には内緒で出会うようになりました。買い物へ行ったり、散歩をしたり、私の家へお呼びしたこともございましたね。あれは見合いから数ヶ月を経た秋の日の一日だったでしょうか、記憶に鮮明なのは二人して誰も来ないような森の中の公園にお弁当片手に出かけて、歩きながら、座りながら、シートを広げて寝転びながら、本当にどうでも良いようなことをおしゃべりしていたときのことです。私が秋は夕方が良いと言うとあなたの方では快適な日中が1番だと言ってそのまま論争に発展したり、ある時は間食の善し悪しについて互いの意見に納得させられたり、好きな花についての見解が一致したりと、本当にとりとめのない、取るに足らぬお話ばかりだったのですけど、あなたの考えに触れるのがいちいち楽しくて、お互いを知るというのはなんという素敵なことかをつくづく痛感させられました。


 それから何ヶ月経ったでしょうか。

 いよいよ結婚の話がまとまる前、あなたに我が家をいっぺんは見ておいてもらおうと私があなたを家に招いた時に、あなたが玄関に飾ってある片目の潰れた狸の置物を見て固まったのを見て、あっ、と思いました。急に夢から覚めたようで、どうせこの女も今までと同じでお金目当てなのだ、全ては私の思い違いで、金持ちの家に安物の陳腐なものなんかが置いてあったら、こっちの気なんて知りもせずにやたらめったら言いやがるんだと思って、あなたを連れてきたことを後悔し始めたのです。だけれどもあなたは居間に飾ってあるボロボロの写真立てや、親友の形見の安物の腕時計のことを無意味に高いテーブルや絵なんかよりもむしろ気に入った様子で、ニコニコとそれらの説明を私に求めて、仕方なしに私が語ると、これまた興味津々にその話を聞くので、私はなんだか虚をつかれたような気分で拍子抜けし、あなたを疑った己の見る目の無さにつくづく絶望させられたのですけど、あなたの至純の魂に敬服し、きっとあなたは清貧の心をお持ちなのだとひとり舞い上がってしまいました。世の中も捨てたもんじゃない、私は他人を家へ呼んで初めて心底良かったなぁと思いました。


 事件はそれから間もなく起こりました。

 私の両親もあなたの御両親も見合いを勧めておきながら、今度は勝手に辞めておきなさい等というのです。理由を尋ねると、私の両親はあなたの所作、立ち振る舞いがおよそ名家に似つかわしくなく、また私の兄の方で京都の名門の橘家との縁談が決まったので、無理に落ちぶれた名家と関係を持って金を使うことはない、ということなのでした。あなたの方でも話を聞くと、あなたの両親は私の画商という職業が気に入らないのに加え、食事会で突然笑いだしたりして、白痴の疑いがあるとまでは言えないものの精神に何らかの異常がありそうに思えること、祖父の家計に癌での死亡者が多くて癌家系の疑いがあることなどが挙げられているようでした。もっともな理由をつけてはいますが、どうしてここまできて別れねばならぬのか、いつもならハイハイと何でも追従して、事を荒立てぬように親の顔を立てる私でも今度ばかりは別でした。こんな出会いは人生に二度とはない。親と離縁してでも叶えたい願いのあることを知って、私は覚悟を決めました。それはあなたの方でも同じらしくて示し合わせたかのように私達、駆け落ちの話を同時に切り出しましたよね。あれには本当びっくりしました。見くびっていた訳ではありませんけどあなたの決断力と覚悟があまりに凄まじかったのです。だってこの時代、親と離縁した女があまつさえ離婚歴があるようものなら世間を渡り歩くことは並大抵のことではありません。ですから私、万が一も有り得ませんでしょうが、もしあなたと離婚した際には財産のほとんど、家を含めてあなたに全てを差し上げる旨の紙にあらかじめ署名をしてもらうつもりで、その他にもあらん限りの手段を使って、有り体に言えば姑息にあなたを説得しようとしていたのです。けれども、あなたがあまりに簡単に駆け落ちを了承するどころか、その話を切り出すので、私は自分自身の狡猾さに嫌気が差してきて、自分のしようとしていた全てのことを洗いざらいあなたに白状して「私はこのような猜疑心を持つずるい人間です。嫌になったらいつでも断りをいれて下さい」と言いました。するとあなたは勝ち誇ったようにも子供を安心させるようにも見える不思議な笑顔で「あなたは確かに狡猾な所もありますね、けれどもそれは疑う力が必要だったからでしょう、商売人で他の人と戦わないといけなかったから。本心から疑いの目で染まっていたら私に謝ることなど出来ません。どうぞお気になさらずに。それでも気になるようでしたなら、そんな心は私と暮らしていくうちにきっとどこかへ飛んでいきますよ。それで貧乏になったって構いませんわ」などと自信満々に言うのでした。そしてそれは実際にその通りだったのです。私は人を疑うことをいつの間にか辞めました。貧乏になるということは今の所ありませんけれど、私の方もなったって全然平気です。


 私たちはそれからすぐに駆け落ちをして、二人の生活は始まりましたね。私の方で持ち家があったのでそこにあなたが移り住んで来るという形でした。もちろん両家とも大反対の非難轟々の嵐でしたが、絶縁するとなって行動を起こしてからはそれもなくなり、私の持ち家なんかも把握しているはずなのですが、何の音沙汰もなくてかえって不気味なくらいでした。これは後で人づてに聞いた話なのですが、ちょうどその時私の方の家では祖父が亡くなり、遺産の話で持ち切りでそれどころではなかったようです。亡くなった祖父は私が最も苦手としていた身内の人間でした。ほとんど無一文から今の白崎家の地位を築きあげた自負もあり、他人に大変峻厳だったからです。私なんかも「お前には金も時間も十二分に与えて教育してきたのにどうしてここまで劣等なんだ」とよく詰られたものでした。けれどもこの話を聞いた時ばかりは祖父が私たちの駆け落ちを後押ししてくれたように勝手に感じて、不謹慎ながらも有難く思いました。祖父が私たちの結婚を祝福する姿まで脳裏に浮かんできて。そんなはずはあるわけないのにおかしなものです。白崎家の墓の場所は知っているので、今度墓参りにでも行ってみようと思いましたが、結局行かずじまいに終わっています。この辺りはやっぱりまだまだ祖父を苦手としているのかもしれませんね。


 紆余曲折あり、様々な事件もありましたが、とにかく私たちの生活は平穏を迎えました。私は当初、自分から望んだ二人の共同生活ではあったのですが、同棲を始めると相手の短所や悪目が嫌でも目に付くから、変なところで神経質なお前などには到底向いていないだろうから心配だ、と他人から随分と脅かされていたので内心穏やかでありませんでした。何よりも私自身の悪癖が露見して冴え冴えとしたあなたの顔に一点の陰りでも落とそうものなら、それはもう私の人生の意味が無くなることと同義です。想像するだに恐ろしいことでした。だけれども迷いなく決断が出来たのは、ある種の確信めいたあなたのお力への信頼があったからです。あなたの真っ白な魂は、たとえ黒いインクが落とされようとも、頓着なんてまるでしないで、気がつけば落とされたインクをも真っ白に染めてしまうのだとちゃんと分かっていたのです。

 余計な心配はどこかに飛び去り、生活は楽しく、精神的に豊かな日々が過ぎていきました。私たちは、やいやいとふざけ合いながら言い合いをすることはあっても喧嘩はなく、互いの生活行動にも寛容で、価値観の相違を認めたときなんかは却って新鮮で嬉しかったくらいでした。料理の味付けの好みなどは互いが互いに寄せあってちょうど良い塩梅を見つけ出しましたし、あなたが普段、まだ日が跨がないうちに寝るので私がそれを惜しがって共に酒を飲むこともあれば、普段は昼前まで寝ている私が早朝あなたに起こされて、朝の散歩に興じることもありましたね。朝の散歩では近所の野良猫とカラスが睨み合っている様子を発見したり、普段、私一人で見かけても会釈程度の近所の夫人があなたには楽しそうに笑いかけるのを発見したりと色々あって良いものでした。もちろん互いの共通項を見つけるのまた楽しいものでした。どっちだって良かったのです。大切なのは互いを知ることで、あなたとの時間を過ごすことだったのです。


 私はあなたの前ではいつも変におちゃらけていましたね。舞い上がっている自分を見られるのが恥ずかしくて、照れ隠しに道化を演じたり、キザに振舞ったりしましたけれど、あなたには全部見透かされていたように思います。どれだけ自分を取り繕ってもあなたのいたずらっぽい含みのある笑顔を前にすると私はもう敵いません。思えば私達の間には様々な慈しみからの駆け引きがありましたが、私が勝ったということはほとんどありませんでしたね。私が変な取り繕いを行う横でくつくつと笑うあなたの顔が、今もはっきりと頭に浮かぶようです。

 少し悔しいですけれど、私が唯一あなたに駆け引きで勝ったのは確かあのときだけですね。二人で観桜道を歩いているとあなたが突然、いたずらっぽい笑顔で「私はあなたの普段はふざけてお道化を演じるのに、変な所で真面目に紳士らしく振る舞うところが好きだわ、あなたは私のどこが好きなの」とゆらゆらと詰め寄ってくるので、私があなたの料理が大変に上手なところ、たわいもない話に耳を傾けて楽しそうに笑ってくれるところ、控えめな優しさと確固とした勇気を持っているところ、何気ない仕草に品があるところなどが好きだと捲し立てるように伝えて、そうして最後にあなたとの出会いが私の人生を如何に素敵なものに変えたのかを大いに語ると、あなたは柄にもなく顔を真っ赤にして「もういいわ」と日傘を広げてこちらを見なくなってそれきりでした。

 私はこのとき、得意になって満足を装っていましたが、内心は少々複雑でした。本来ならこんなことは常日頃から思っていることで、普段からあなたに伝えるべきものなのに、こんな駆け引きのときだけ口から出てきて、なんだか自分が嫌になったのです。そうして私があなたに褒められて動じなかったのも普段からあなたが私を褒めてくれるからだと心づきました。

 次の日、私はあなたに無性に謝りたくなって昨日の自分を詫びました。あなたは笑って言いました。「たまにだから嬉しいこともあるし、口に出さなくても分かることだってあるわ」と少し恥ずかしそうでした。普段から言われたいこともあるでしょうに、私はあなたの魂に再び敬服をいたしました。私には過ぎた人だと思いました。

 駆け落ちから数年が過ぎました。万事は全て上手くいっていました。私たちは幸せにすっかり慣れてしまっていたのでしょう。私はあなたと出会って忘れていたのです。幸せばかりが続いて、良いことばかりが目の前で起こり、世の中には不幸せな出来事や神様からの悪意としか思えぬような理不尽な嫌なことが溢れていることを見落としていました。私だけならまだしもあなたに不幸が振り落ちるのは想像が出来なかったのです。私はその知らせを聞いて愕然としてしばらく動けませんでした。いつの間にか涙が出てきて、あなたのことを思うと悲しみもひとしおでした。どうして今なのか、どうしてこんな辛い目に遭わなければいけないのか、考えても分からぬことを一晩中考えながら、このことをあなたに伝えるべきか迷っていました。頭の片隅にはかつてあなたが語っていた夢がありました。

 お互いがしわしわになって、人生に満足したら一緒に死ぬこと、無念の心中ではなく、二人での安らかな老衰のような心中で、あの世まで手を繋いで旅をすること。確かにそれは素敵だけれども私たちはまだ二十代で、互いのことでも知らないことが沢山あります。やりたいことだってたくさんあるのです。私は一晩中考えぬいてあなたに話すことに決めました。けれども、まぁ、話すことに決めたといっても、こんなことはずっと黙っていられるわけがありません。言わなくともすぐにばれます。私は単にこの事をあなたに話すのが恐ろしかっただけなのです。ですがどうしても私の口から言わねばならぬことだったのです。


 悲しい秋の日のことでした。ああ今でも辛い。私はあなたを居間に呼んで大事な話があると切り出したのです。御両親に縁を切られようと、未曾有の台風で家がガタガタといおうと、どんなにつらい事があっても涙一つ見せずに気丈に振舞っていたあなたが、私が癌を告白したとき、それももう手遅れの状態まで進んでいるのだと知らせたときに、全く持って微動だにせぬまま両の目から涙を一すじぽろりと流して「イヤ......」と一言、消えいるような、か細い声で言いました。それを見て私はこの世の中に救いというものが有り得ないことを突きつけられ、ひどい絶望に襲われたと同時に、私のことをここまで思ってくれていたあなたのことが愛おしくて仕方がなく、あなたの頬に垂れた一すじの涙が目に焼きついて離れませんでした。私は何だか自分だけが救いのない世の中で蜘蛛の糸を掴まされたような気がして、あなたのことが本当に気がかりで気の毒に思われました。けれども何も出来ず、何か言おうとしても、それら全てがあなたを余計に傷つけそうで結局何も言えませんでした。重たい沈黙が続いて、私はとうとういたたまれなくなってあなたをひしと抱きしめました。あなたは力なく私に身を預けるばかりでした。何かが好転したということはなかったようです。


 月日が少し経ちました。あなたが凪越の方に出かけるという日のことです。私が、死後あなたに変な面倒をかけないようにと遺書をしたためているときのことでした。

 あなたは突然玄関の扉を開けて、私の部屋に一直線に入ってきて、それを見つけるやいなや顔色を真っ青にしながらぐちゃぐちゃに引き裂いて言いました。

「そんなケチな優しさはいらないわ、死ぬのなら私を先に殺してください。一人で現世を生きるよりも二人であの世へ行く方が私はよっぽど幸せだわ、あなたはそう思ってくださらないの」

 今までに聞いたことのない乱暴な口調でした。頬にはまた涙が一筋つたっていて、私は不甲斐なさと無力感、それから少しおかしくなって控えめに笑いました。するとあなたの方でも同じように笑うので、私たち顔を見合わせて、どちらともなくもう一度くつくつと笑いはじめて二人してなんだかおかしな気分だったのですね。地獄の内のほんの小さな幸せでした。

 ひとしきり笑った後、あなたは涙に濡れた顔のまま、右手で軽く私の頬を打ちました。私が「ごめんなさい」と言って、自分でも不思議なくらい屈託のない笑顔を向けると、あなたは初めて私の前で声を上げて泣きました。あなたの涙が私の右の手の甲に垂れて、私はこのときにある決意をしました。あなたの方でも何かが変わったようでした。

 この日以来、あなたはよく泣くようになりました。「どうしてあなたが死ななきゃならないの」と私の布団に入ってきて、泣きつくように弱音を吐くこともありました。私にはあなたの涙を止める術がありません。

 私はどうしてもあなたにだけは幸せになって欲しくて、色々と手を尽くしたのですが、あなたの幸せの中にはどうしても私も一緒に居なければならなかったのですね。儚くて悲しいですけれど、何だかここまで思われていると人間冥利に尽きるものですね。

 あなたに初めて怒鳴られたあの日以来、色々と考えることがあります。


 お昼も過ぎ、縁側に腰を下ろして菊の花をなんとなしに眺めているときでした。横でそれを一緒に眺めていたあなたが、突然頭を私の膝上に預けてきました。腕をだらんと伸ばして何も言わずにじっとしています。しばらくすると微かな寝息が聞こえてきて私はあなたの黒い髪をゆっくりと撫でました。涼しい風が吹いて、秋の匂いがするようです。沈みかかる太陽を見ながら「死にたくないなぁ」という言葉が自分の口からポロリと零れてびっくりしました。あなたと出会うまでは、殺人の被害者が新聞に出る度に自分が代わりに殺されれば良かったのに、と本気で考えていた私なのでしたから。その考えはちっぽけな義侠心や同情からではなく、単に自分で死ぬ勇気がない私と殺されたくないはずであろう被害者を思うとそれが最も収まりが良いように感じられるから以外にないのでしたが、ともかくそれくらい以前の私は自分がどうでもよかったのでした。けれども、今となってよもや自分の口からそんな言葉が出てくるとは。急に目頭が熱くなってきて、ゆっくりと涙が頬をつたいました。「死にたくないなぁ」と今度はハッキリと自分の意思で口にしました。するといつの間にか目を覚ましていたあなたが徐に私の膝から頭を上げてこちらを見つめました。ほんの少しだけ口を開けて、瞳が微かに揺れています。あなたはゆっくりとした動作で着物の袖からハンカチを取り出し、私の涙を拭きました。そうして今度はあなたの方が私の頭を抱えるようにしてぎゅっと私を抱きしめました。沈みゆく太陽を他所に私たちの時は永久に止まったようでした。


 それからの日々は決して愉快とは言えず、和気あいあいとした騒がしさというものが私たちの生活から失われました。病気が進むにつれ、私の身体は痩せ細っていき、声を張り上げることも出来なくなっていきました。身体は弱っていく一方で、あなたの白い腕よりも私の腕の白くて細いのを認めたときにはいよいよだと感じました。ですが不思議と頭の方は冴えていくばかりで、幸か不幸か、仕事もきっぱりと辞めてあなたとの会話の時間が増えました。その時間は愉快ではありませんけれど静かで心地が良くて私は好きです。互いの弱みを慈しむ新しい生活が始まったようでした。ある日なんかは、あなたが手縫いの猫のぬいぐるみを手に取って私の枕元に運んで「お身体の具合はどうですか」と囁くように言うので私の方でも手縫いの人形を手に持って「身体の具合は大丈夫です。それよりも猫さん、どうかここに居て下さい。病身の人間には温もりが必要なのです」なんてやり取りがあって、私などは変なところで頭の古い質ですから、こんな形でしかあなたに甘えられないのですけど、猫さんは「はい、はい」とゆっくりと了承していつまでも傍に居てくれたのでした。


 ついこの前、私が見るであろう最後の桜が庭先に咲きました。この桜が散る頃には私の命はもうないものだと直感しております。ぼんやりと桜を眺める中、最後に写真を撮りたいとあなたが言うので私は近所の千代おばさんに写真を撮ってもらうように頼みました。桜の木の下に二人立って並びました。おばさんにお礼を言って、まだフィルムが残っていたので私たちは互いに写真を撮り始めました。思えば、私たちはこれまであまり写真を撮りませんでしたね。旅先でも普段の生活でも目の前のことに忙しくて、楽しくて。あの頃は未来があって、世界が永遠に見えていたから、私たちはそれを残そうとはあまり躍起にならなかったのですね。その証拠に今では考えが違っています。最後のフィルムがなくなって私たちは互いに顔を見合わせました。そうして、これまでになかったくらい私たちはじっと互いの顔を見つめました。穏やかな風が吹き、桜がちらちらと舞うようです。私たちはどちらからともなく接吻しました。桜はまだ風でちらちらと舞っていて、私がこの記憶を忘れることは決してありません。あなたもそうだと嬉しいです。


 昨日のことです。私の死後のあなたのことを考えたくて、私は友人の家へなんとかお邪魔しました。あなたと居るとどうしても考えが揺れるからでした。色々と考えて、しかし大してまとまらず、そのまま夕方に家へ帰ってきて、あなたの右目の下にほんの小さなシミができているのを見て、私は心の底から家を空けたことを後悔しました。やつれた顔でも健気な声調で私を出迎えるおかえりなさいの一言が、今までになく心に染み入りました。あなたの髪の毛一本でさえ愛おしくて仕方がなくなって、幸福というもののつくづく貴重と儚さとを感じました。この世に無限はなく、時間もまた有限であるのだという至極当然の事実が頭の中に浮き出してきて、今までそれを忘れていたというわけでは決してないのですけれど、何だか不思議なくらい、私は本当にハッと目が覚めたようでした。それから私はすぐに行動に移してこの手紙を書いています。私はとうとうあなたを殺せませんでした。心中なんてのはやっぱり出来ません。幸せの道は閉ざされたように思いますけれど、それでも私はあなたには生きていて欲しい。これは私の我儘で、勝手な願いで、こんなことを言う資格が私にはないのは十分承知しています。無視して下さっても構いません。それであなたを恨むなどは絶対にありませんから。どっちにしたって私はきっと満足です。

 そして最後にどうしてもあなたに伝えたいことがあるのです。これだけは心して聞いてください。

 けれども、複雑なあれこれを言うつもりはなくて、私が何を言いたいのかというとまぁ単純で「私はあなたを愛しています。片一時さえ離れることができぬくらいです」本当にこれだけなのです。女々しいことは百も承知です。長い付き合いですからそんな事、あなたはとっくに知っていらっしゃるでしょうけれど。

 なにせ今もこれだけのことを言うのにも大変な数の言葉を要してしまいました。男らしくズバッと心中の思いをとうとう直接ぶつけられませんでした。変にきざに振舞ってあなたを苦笑いさせたことも沢山あります。それでも何一つの恨み言も言わず、あなたは私についてきてくれました。

 そろそろ夜が明けます。あなたがもうすぐ起きる頃です。筆を握る腕に力が入らなくなってきました。もう書けることはあまりありません。

 何かお別れの挨拶や辞世の句を最後に添えて、この手紙の締めくくりとしようと考えていたのですが、何やらどうも違うようです。言い残したことが確かにあって、胸のつかえが下りません。照れくさくて、どうしても言えませんでしたけれど、私の本心からあなたに言わねばならぬのです。最後に伝えたいことと先ほどは銘打っておきながらすみません。やっぱりもう一つ言わせてください。

「ありがとう」

 今日はこれだけを言いたかったのです。長々と文章をすみません。



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[良い点] 本作が手紙の形を取っていることで深刻な状況でありながらも感情的にならず、それでいて『私』がどれほど『あなた』を思っているのかが切々と感じられて、胸が痛くなりました。 読んでいるだけで二人の…
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