第十六話 果実水
二つ目の鐘が鳴ったあと、セバスチャンとコーエンさんが宿屋ハングリーベアーに来た。
目的は化粧品の受け渡しだ。
銀次郎は用意していた基礎化粧品のセットと、赤いボトルが有名なシャンプーとコンデショナーを渡す。
メイド長のコーエンさんの髪がサラサラになった感じがするが、藪蛇になりそうなのでそのままスルー。
「ハングリーベアーの宿代をこれから自分で払おうと思うのですが」
銀次郎はマインツ家から、たくさんのお金をもらっている。
そうセバスチャンに提案したが、ソフィア様の指示ですのでと断られた。
今思い出したがマインツ家で宿代を出してくれているのではなく、ソフィアが出してくれているのだった。
何かソフィアにはお返しをしないとな。
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今まで働きっぱなしだったので、やる事が無いと不安になる。
この世界に来て知り合いも増え、スキルのネットショップのおかげでお金も手に入れる事が出来たが、心の中に生まれた不安を消し去る事ができない。
部屋でじっとしているのが耐えきれなくなり、銀次郎は散歩する事にした。
しかし行く当てもなければ、土地勘もない。
結局いつもの大通りを歩き、噴水広場のエルヴィスの店に行く。
お店は忙しそうだったが、エルヴィスから連れだせの合図が来る。
銀次郎も一人で居たくなかったので、お母さんに老舗の高級羊羹を渡しエルヴィスを連れ出す。
「なぁエルヴィス。仕事してないのが不安なんだよね」
エルヴィスに不安を打ち明けると
「そんな不安、好きな女が出来れば吹っ飛ぶさ」
相談する相手を間違えたのかもしれない。
「エルヴィスは何か不安は無いの?」
「実は好きな女がいっぱいで一人に絞れない」
うん、やっぱり相談する相手間違えた。
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「じゃあ今度の夏祭りで、屋台を出すんだな」
エルヴィスと街を歩いていると、今度行われる夏祭りの話になった。
この街は昔から夏になると、マインツ伯爵家主導で夏祭りが開催されるらしい。
どうやらこの時期になると夏バテを起こす人が多かった為、夏祭りは仕事を休みにしてお祭りを開催する様になったのだ。
もともと娯楽が少ない世界である。
祭りへの情熱は凄まじく、せっかくの夏祭りで夏バテしてたら楽しめないので、人々は体調管理に気をつける様になった。
体調が良ければ仕事も捗り、お祭りではトコトン楽しんで、未来への生きる糧とする。
この良サイクルが、この街を成長させてきたらしい。
今では他の街からたくさんの観光客が訪れる程、大きな夏祭りとなっている。
夏祭りの日に屋台を出す人は多く、面白そうだったので銀次郎も屋台をやってみようと思った。
「ここが大聖堂前広場で、マインツで一番の朝市が開催されている場所だよ」
エルヴィスに教えてもらった広場には、屋台が多く並んでいる。
もう昼過ぎなので撤収している屋台も多いみたいだが、食べ物の屋台はまだ営業している。
喉が渇いたので、果実水を売っている屋台に立ち寄った。
無愛想な店主から、果実水の入ったカップを受け取り銅貨一枚を払う。
果実水はかすかに柑橘系の香りがするが、生温くてほぼ水だった。
「なんかあんまり美味しくなかった」
エルヴィスに感想を伝えると
「あの屋台は観光客用だからな」
大声で笑うエルヴィス。
あそこは観光客用のぼったくり屋台だったらしい。
「なんで教えてくれなかったんだよ」
エルヴィスに文句を言うと
「悪かったよ。でも銅貨1枚で勉強出来たなら安いもんだろ」
その通りかもしれないが、騙された事に腹が立つ。
自分が怒っている姿を見てエルヴィスはまた笑っていたが、結局エルヴィスが美味しい果実水の店を紹介してくれる事になった。
広場を離れしばらく歩くと、店というか問屋みたいなのがたくさん並ぶ通りに出る。
「エルヴィスちょっと待って。面白そうな店がたくさんあるから見てみたい」
「いいよ。美味い果実水の店はこの通りの裏にあるから見てから行こう」
エルヴィスからOKをもらったので、まずは食器屋に入る。
木の皿やカップが多く銅貨1枚からと安かったが、陶器で出来た食器は銀貨1枚からで少しお高めだ。
ちなみにガラスで出来たグラスは無かった。
異世界の食器には興味あったが、食器はネットショップで買った方が良さそうだった。
次に肉屋に入る。
大きな肉の塊が並ぶ店内は、銀次郎には異様な世界に見えた。
鳥や豚、牛など見慣れた肉もあれば、見た事のない魔獣の肉も扱っている。
オーガの頭を売っているのはグロテスクだったが、異世界にいるんだなと改めて実感。
「すみません。この牛の肉いくらですか?」
肉屋の店主に聞くと、この大きな塊で小金貨1枚と銀貨5枚。
主に飲食店や肉屋さんに卸している商会なので、切り分けて個人に販売はしていないらしい。
本来ならこんな大量の肉は買えないが、今の銀次郎にはアイテムボックスがある。
「この肉下さい。あとこれって牛タンですか?」
「あ? 牛タンが何だか分からんが、これは牛の舌の部分だな。あんまり人気ないけど買うなら安くしとくぞ」
衝撃だったが、この世界で牛タンは人気がないらしい。
立派な牛タンが一本銅貨5枚と激安だった。
「それなら全部下さい」
日本人なら、この値段で牛タンが売ってたら買うでしょ。
ちなみに魔獣の舌は、なんか怖いので遠慮しておいた。
その後何件か商会を見てから、エルヴィスおすすめの店に行く。
「ここの果実水は美味いぞ」
エルヴィスに案内された店は、異世界の喫茶店みたいな感じだった。
立ち飲みスタイルで、カウンターとスタンドテーブルが置かれている。
「エルヴィス久しぶりね。どうしたの?」
何となく訳ありで怪しい関係のこの女性。
ただその事を聞くのは野暮だ。
「あぁ、友人に美味い果実水をご馳走したくてね」
「あらそうなの? 初めまして。私はヴェリーヌよ。あなたのお名前は?」
少し年上だと思われるヴェリーヌさんに、名前はギンジローだと伝える。
エルヴィスとの距離感が近いが、そこは何も言わない。
エルヴィスが軽くヴェリーヌさんといちゃついてから、果実水を二杯注文してくれた。
屋台と同じ一杯銅貨1枚だが、こっちの果実水は甘い匂いがする。
「今日の果実水はモモを入れてるの。甘くて美味しいわよ」
このお店の果実水は、ほのかに甘く爽やかで暑い夏にはピッタリだった。
井戸水を一度沸かして、冷ませた水に果物を何種類も漬け込み作っているという果実水。
「この果実水とってもおいしいですね。他にどんなメニューあるんですか?」
異世界の喫茶店に興味がある銀次郎。
「果実水の他にワインと紅茶があるけど、お客さんは殆ど果実水ね。夜はワインが少し売れて、紅茶は半年に一度くらいかな? この辺の商会がたまにうちの店で商談をする時に出るくらいよ」
そう言われても興味がある銀次郎は、紅茶を注文する。
一杯銀貨1枚と高額だが仕方ない。
エルヴィスの分も一緒に頼んだ。
しばらく待つと陶器のカップに入った紅茶が出てきた。
見た感じは紅茶だが、マインツ家で出てきた紅茶より色が薄い。
香りも弱く、正直おいしいと言えるものではなかった。
エルヴィスは美味いと言っているが、やっぱり異世界の紅茶は物足りない。
「ヴェリーヌさん。私の故郷の紅茶差し上げますので、よかったらこれ使ってみてください」
そう言ってアイテムボックスから喫茶店で使っていた、紅茶の葉とシュガースティックを渡す。
ヴェリーヌさんはそんな高価なもの受け取れないと言っているが、銀次郎は純粋に応援したかった。
強引に受け取ってもらい、またおいしい果実水飲みに来ますと伝えエルヴィスと店を出る。
喫茶店もいつかまたやりたいな。
そんな事を考えながら、結局最後はエルヴィスとハングリーベアーでお酒を呑むのであった。