2 メイトランド家の夜
空に、月が高く昇っている。大忙しの一日が終わろうとしていた。
魔法によって光が灯された街灯を頼りに、マチルダは校門(城門)を出て旧市街に降りた。
ほどなく、彼女の暮らす一軒家が視界に現れる。ブルーグレイの壁に白い窓枠、ダークグレイの瓦屋根の二階建てだ。
アプローチを通って段を上ると、木製のドアには真鍮のプレートが取り付けられていて、小さく『メイトランド』と家名が刻まれている。
そーっと扉を開け、マチルダはささやくように言った。
「ただいま帰りました」
中に入り、扉が閉まると、勝手に魔法が発動して鍵がかかる。
絨毯の敷かれた小さな玄関ホールの奥には階段、そして両脇に扉があって、右の扉が開け放たれていた。
階段に向かうと、自然と部屋の中が目に入る。
食堂の大きなテーブルで本を読んでいた男性が、顔を上げた。
「おう」
黒髪、紫の瞳。ヒューゴだ。
マチルダはぎこちなく微笑んだ。
「た、ただいまっ! あれ、あの、校長先生は?」
「親父は、今日は校舎に泊まり」
ヒューゴは短く言って立ち上がった。夕食は彼の当番で、温めなおしてくれるらしい。
「ローブ置いてくる!」
マチルダは言って、階段を駆け上がった。自室に飛び込むと、後ろ手に閉めた扉にもたれかかる。
(うわ、今日は二人きりか……緊張)
ここは、校長トロイラス・メイトランドの家だ。息子のヒューゴも一緒に暮らしている。
今日は新入生が入って初日ということで、校長は何かあった時のために校舎に泊まるらしい。
トロイラスは、マチルダの恩師であり身元引受人だ。騎士爵という一代限りの爵位を持っているので、本物の『騎士』である。
三年前のある出来事をきっかけに、マチルダには魔法使いの監視がつくことになった。
名乗りを上げてくれたのが、母校・ガーデール魔法学校の校長だったのである。
『アンタ、うちに来なさい。ガーデールで六年間暮らしたコだもの、すでに家族みたいなもんよ。アンタだって、知ってる場所の方が落ち着くでしょ? はい決まり』
そんな感じでさっさと当局に申請を出し、決めてしまった。
初めてこの家に来た日、トロイラスは目を細めて笑い、こう言った。
『名乗る名前がないと困るでしょ。マチルダ・メイトランドを名乗りなさい。ウッド辺境伯にはずいぶん見劣りするけど』
『そんなこと! 私……私は元々、辺境伯の養女ですし、しかも見捨てられた身です。それなのにメイトランドを名乗らせていただけるなんて、もったいないくらいです』
『ならよかったわ。もし、他に名乗る名前ができて必要なくなったら、返してくれればいいから』
ローブを脱いでコート掛けにかけ、再び部屋を出ながら、マチルダはいつもの思考に入り込んでいく。
(今の名前は恐れ多いけど、正直、ウッド辺境伯令嬢って言われるより、ずっといい。……でも、私を引き取るように校長先生に言ってくれたのが、ヒューゴらしいんだよね……本人はそんなこと一言も言わないけど)
食堂に入ると、ちょうどテーブルの上にいくつかの食器が舞い降りるところだった。ふわり、と湯気が後を引く。
厨房の方からやってきたヒューゴの手には、短くしたマジックスタッフが握られていた。
(魔法学校の同期で、男子寮の『団長』だったヒューゴと、女子寮の『団長』だった私は、ライバル同士だった)
騎士団にちなんで、ガーデール魔法学校では寮長のことを『団長』と呼ぶ。マチルダとヒューゴは、最高学年になった際にそれぞれの団長を務め、寮生たちを監督していた。
(ヒューゴは卒業後、魔法インフラを整える仕事をしていたのよね。そして今は、魔法構築学の先生……)
「早く食え」
向かいに座ったヒューゴに淡々と言われ、マチルダはあわててスプーンを握った。
「あっ、うん! いただきます!」
ヒューゴは料理が趣味で、得意だ。今日も、ポットシチューとフルーツソースのかかったチキン、そしてカラフルなサラダが食欲を刺激してくる。
「美味しい!」
ほっぺが落ちそうな味に、ついモリモリ食べてしまいながら、マチルダは内心、とても困っていた。
(何が困るって、この、共働き夫婦みたいな生活ー!)
一つ屋根の下で暮らしている、ということは、学生たちには秘密にしている。
さらに、普段は必要ないけれどフルネームで名乗らなくてはならない時、現在のマチルダは身元引受人である校長の姓・メイトランドを名乗る。つまり、ヒューゴとも同じ姓なのだ。
(学生たちにバレたらからかわれる。絶対に隠しておかなきゃ)
目の前のヒューゴは、少し斜めに椅子に腰掛け、長い足を組んで読書を再開させている。
(いつも無表情だし、学校で会っても全然話しかけてこないけど、家では少し話すんだよね。まあそれでも、話しかけにくいけど)
どうして、彼女を学校に呼んだのか。しかも、家に引き取ることまで。
マチルダは未だに、その理由を聞けないでいた。