慄き
ピクリとも動かなくなったアシュを眺めながら、思い出したようにサモンは立ち上がった。
「……聖櫃」
フラリと流れるように身体を動かしシスが逃げた方角へ走り去った。
かろうじて意識のある闇魔法使いだったが、もはや1ミリたりとも身体は動かせない。自然治癒では、身体が動くようになるのに数日はかかるだろう。後は、サモンがシスたちと遭遇するまでに消滅するのを祈るのみ。
確率の低い賭けだが、やれるべきことはやった……全て。
もう……眠らせて……
その時、アシュの顔を両腕で包む柔らかな感触があった。
・・・
一方、シスはリリーをおぶりながら全力で走っていた。
「はぁ……はぁ……リリー。リリー……起きて」
時折そうやって声をかけながら、意識の覚醒を促すが一向に目を覚めない。魔力欠乏症はそれほど深刻な症状ではないが、異常な出来事に疲労を重ねているのかもしれない。早く、医者に見せてやりたい。シスは心からそう思った。
「はぁ……はぁ……待っててね」
そう言って、彼女は体勢を整えて再び走り出す。
その時、不意に後ろ髪を引かれるような感じがして後ろを振り返る。そこには、変わり果てたサモンが立っていた。
「……サモン大司教」
もはや、逃げられない。シスはキュッと唇を結び、リリーを地面に置く。
「聖櫃よ……もう、逃げられないぞ」
サモンはその瞳を見開いてゆっくりとシスに近づく。
「……リリーは助けてください」
シスは震える声で叫ぶ。
「わかった……だから、動くな。ひと思いに殺してやる」
サモンはそう言って、シスの前に立って腕を引く。もはや、入れ物を説得する時間は残されていない。中身だけを取り出して……後は託すしかない。
シスは、瞳を閉じてギュッと拳を握る。
「……すまない」
・・・
ドンッ
シスは、体勢を崩して地面に崩れ落ちたが、痛みはない。恐る恐る目を開けると、そこにはリリーが目の前にいた。
「なに……諦めてる……の」
苦悶の表情を浮かべながら、シスの前で崩れ落ちるリリー。彼女の下腹部越しに温かい感触がじわりじわりと染みていく。すぐに、シスはすぐに下を見ると彼女の脇腹から大量の血が吹き出ていた。
「いやああああああっ! リリー……リリー!?」
何度も何度もそう揺り動かすシス。
「……馬鹿な娘だ」
サモンはそう言って再び、シスの前に立つ。リリーは目一杯の力でシスを振り払って再び、大司教の前に立つ。
「……シスは……殺させない……絶対に……」
大きくその瞳を見開いて、リリーは手を広げる。
「……時間がないんだ」
そう言ってサモンはリリーに向かって――
『……緑色……なんだね』
その時、サモンの頭に低い声が鳴り響いた。それは、あの忌々しい闇魔法使いの声……なぜ。
『君の……瞳……さ』
ドクン……
サモンの鼓動が高鳴り始める。なぜ……今は一刻も早く聖櫃の始末をしなければいけないのに……しかし……頭の中に鳴り響く闇魔法使いの声をどうしても無視できない。
馬鹿な……そんなはずはない。そんなはずないんだ。
しかし、サモンはそう何度も何度も唱えながらも、リリーの瞳の色を確認した。
そこには……翠玉のような輝きを放つ深緑色が爛々と輝いていた。
『……娘……だろう?』
「違う……嘘だ……違う……」
サモンは何度も何度もそうつぶやく。
こんなところにいる筈はない。緑色の瞳など、どこにでもいる。
『ククク……アセルスの髪の色は?』
「……偶然だ!」
『彼女の魔法力を見たかい? 彼女は天才だよ。あなたの素質を受け継いだんだね』
「違う! 彼女はクローゼ家だからだ……」
『僕が手を下すまでもなかったね……ほら、見なよ……もう、助からない』
「違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う!」
サモンは頭を抱えて、何度も何度も狂ったようにそう言い続ける。
『認めなよ……彼女は……リリー=シュバルツは君の娘なんだ」
「うわあああああああああああああああああああああああああっ! うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい」
サモンはそう叫びながら首を至るところへ動かし、己の拳を振り続ける。そうして、幻影の闇魔法使いの姿を次々と振り払おうとする。
『……ククク……最後に言ってあげなよ。おお、我が娘よ、とでも』
「違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! この娘が……そんなはずはぁ!」
そう叫び、サモンは両手を広げているリリー、そして必死に血を止めようとしているシスに襲いかかった。
ザスッ
・・・
その音は人の身体に鋭利なモノが刺さった音。サモンは、自らの胸にその音を聞いた。下を見ると、後ろから胸から貫通している手があった。
「……さよなら……サモン大司教」
後ろを振り返ると、そこには、アシュ=ダールが立っていた。




