罠
その頃、アシュたちは馬車に揺られていた。シスは魔法で眠らせているので、車内にはアシュ、ロイドの2人、そして人形であるミラが1体。
さて、これからどうしようか。アシュは考える。ホグナー魔法学校で戦うことは避けられた。できることなら、生徒たちを危険にさらしたくないという想いはアシュに芽生えていた教師魂というところか。
生徒たちを無価値と切り捨てることによって防衛対象を減らす。今、現実に自身を敵本拠に晒すことになったが、防衛対象はシスだけでよい。それは、アシュと心優しきミラにとっては都合が良かった。
「まあ……あの少女には悪いことをしたがな」
思わずリリーのことが頭に浮かび、笑みが漏れる。
「……なんだ?」
「いや、こちらの話だ」
あの真っ直ぐな瞳は、レイアにそっくりだ。外見だけではなく、その内面までも。
聖賢者と呼ばれる彼女と、闇喰いと呼ばれるアシュ。互いに、結ばれるはずもない間柄。事実、2人は何度も死闘を繰り広げていた。
ねえ、アシュ。私たちが結婚していると知ったら、世界はどう思うのかな。
そう悪戯っぽく問うたのは、レイア。彼女がアシュの命を滅さんと極大光魔法を食らわせた時だった。その時は、さすがに死ぬかと思った……いや、現に100回ぐらいは死んでいたとはアシュの体感だ。
真面目でせっかちな性格のレイアに、ルーズでからかい好きなアシュ。大嫌い、殺してやる、最低、死ね、気持ち悪い。そんな罵詈雑言を吐かれたと思ったら、アシュの贈った指輪に顔を真っ赤にしてプロポーズも涙を流しながら頷いてしまう。そんな女がレイアという女性だった。
それでも……彼女は、命を愛する女性だったから。最期まで命を大切にする女性だったから。アシュはそれを知っていたから、渡せなかった。彼女のことを愛していたから。自分の未来永劫の孤独なんかよりずっと。
あなたが、それを渡せなかったことは私を愛してくれていたから。私はあなたが悩んでくれていたのを知っていた。でも、私はそれでも……少しだけ寂しかった。……どうせ断っただろうけどね。彼女が死ぬ3日前、アシュに快活に笑ってそう言った。
口惜しいけれど。あなたの処分はヘーゼン先生に任せるわ。もし、生まれ変わったら……私がもし何に生まれ変わっても……アシュ=ダール、私は――
「……おい。何を考えている」
ロイドは呆然としているアシュに声を掛ける。
「なに……僕は君の数倍も生きているのでね。思い出すことも君たちの数倍も多いのさ」
「のんきだな。これから、敵の本拠に乗り込もうというのに」
「だから言っただろう? 僕は君たちを敵だと思ってはいない。聖櫃を……シスを使ってなにをするかが見たいのさ」
アシュの言ったことは本心だった。アリスト教大司教であるサモンがなにを行うか。彼の興味が注ぐことであったら、彼は躊躇なくシスを差し出すだろう。しかし……彼女はこの闇魔法使いにとって大事な存在だ。彼女に釣り合うほどの興味深いことを彼が提供できるとは思っていない。
「……おっと。そろそろだな。さあ、降りてもらおうか」
馬車が止まり、アシュとミラは外へ出た。そこは、確かにサン・リザベス聖堂であったが、その敷地内に入ったばかりの場所。その建物から20分ほど歩かねば辿り着けない。
「ふむ……歩くのは好きだが。目的地がわかっているなら最短時間で向かいたいのだがね」
「お前にはここで降りてもらおうか、アシュ」
「……ミラとシスは?」
「このままついて来てもらうよ。貴様もアレを見れば、それでいいと言うだろうよ」
ロイドはニヤリと笑って、視線を森の方へと向けた。アシュもそれにつられて森の方に向けた。
……
「ミラ。シスを頼んだよ」
「よろしいのですか?」
「他に選択肢はないさ。それより……早くここを離れなさい」
アシュの額からは一筋の汗が流れた。ミラもまたアシュの視線を追うと、1人の男が立っていた。黒髪の若い男だったが、生気はない。
「わかってもらって嬉しいよ」
ロイドはそう言って再び馬車の中に入り、シスを担いだミラがそれに続いた。
「……そうか。ロイド、君だったんだな」
去っていく馬車の方を振り返らずに、アシュは一瞬たりともその視線を外さない。その一瞬で、すでに動作不能にされる危険性がある。目の前にいるのは、かつて世界で一番恐れた相手。かつて世界で一番尊敬した相手。
「お久しぶりです……ご機嫌はどうですか?」
アシュは、極力平静を装って歩いてくるヘーゼン=ハイムに向かって挨拶した。




